清水 宰 (北海道)

 その旅は一九九三年四月二十四日、法政大学学生ホールでのハンフリー・ボガードの吹替え無し、字幕無し(!)映画鑑賞会から始まった…。
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 いつのことだったろう?
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「ピカソに”さん付け”はしない。芸術家を呼ぶ時には、そうしないものだ。」
 時に遠足だったり、小さな美術館巡りだったり、勉強会(?)後の飲み会で、この言葉を聞いた。酒宴で各々の会話に耽っている筈なのに、中田先生の声がスッと場の空気を支配する。
「ちびまる子ちゃんみたいに顔がサァーッと青醒めて…」
 額から下向きに五指を滑らせ、アニメの陰影の縦線を再現する赤ら顔の中田先生。教え子の誰かが狼狽する姿を模した冗談に自身がツボだったらしく、吹き出しながらオシボリのフチで目を拭っている…。こんなお茶目な場面には座席が近くないと遭遇できないのだけれど、重要な言葉は離れていても不思議と耳に入ってくる。
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 一九九一年、明治大学御茶ノ水校舎。
 文学部「文芸」学科と云う曖昧な括りをイイことに、一九八六年のアイドル歌手自殺事件「騒動」の批評・分析を試みる腹づもりでいた卒論テーマ。準備期間に三年近く費やしたものの、担当教授との顔合わせで一蹴。どうにか一週間の猶予は得たが、絶望的状況をいかに覆せるか…。悶々としながら通りに出たところで、講義を終えて帰る先生に出くわした。この題材に取り組んでいることを書面で何度か相談したことがあり、顔を覚えていてくれたらしい。
 誘われるまま地下鉄小川駅近くの喫茶店へ入る。一対一の状況にホットコーヒーの味などよく分からない。あっと言う間にたいらげたケーキのアルミ箔と、飲み終えようとしているアイスコーヒーのグラスは先生の前でうっすら汗をかいている。
「キミはまだ分かっていない。例えばホットとアイスで器が違うように、文章の内容に相応しい長さ、つまり美しさがあることを。」
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 一九八九年、大学二年になると、夕方からの授業をサボらないよう、日中は大学に近い神田神保町の書店で働いていた。当時、百軒以上がひしめき合う古書店街の中にあった個人経営の新刊書店だ。古物商免許を活用し、取次から仕入れた新刊本を一割ほど値引き販売していた。既に出版業界は斜陽の気配が色濃く漂い始めていた時代だったが、それなりに忙しく、読書週間の古本街の祭の時は一日の売上げが百万円を超えることも珍しくなかった。
 おっ、中田耕治だ!
 店番をしていると、本の詰まった紙袋を両手から下ろし、店先の新古本や特価本を手にする姿を何度か見かけた。
 いいぞ。来い、来い!
 その店で四年程働いていたが、結局、中へおびき寄せるには到らなかった。書店員時代の心残りの一つである。
 別のある日。盛んに話しかけるスーツ姿の中年男性を伴い店先を素通りして行く。昼休みや、仕入れで古書店街を歩いていて何度も目にした光景だ。今にして思えば、編集者と作家と云う間柄だったのだろう。
「何でもいい。一日、最低でも三冊は本を読む。」
「すべてが批評の対象となり得る。」
 何度か耳にした中田先生の言葉。
 卒論の資料収集に名を借りて、ほぼ毎日古書店巡りをしていたが、文学部の教授や講師を見かけることは無かった。対して、常にアンテナを張りめぐらせているのが中田耕治と云う人だった。知に飽くことを識らず、本の海を自由に泳ぎ回る魚だ。古書店街を気ままに巡り歩く姿が格好良かった。いつも憧れの眼差しで追っていた。大学で講義を受けていた一、二年時は有象無象の一人でしかなかったが、まんま実践とはならずとも多分に影響を受けていた。
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 若くして自死した評論家・服部逹のスタイルを援用してアイドル自殺事件騒動の卒論テーマは認められた。日本武道館での卒業式後に訪ねた担当教授の研究室で、「面白かった。もう少し練り直せば書籍化できるだろう」との社交辞令を貰った。後日、ほんの少しだけ中田先生にホメられたのが救いだった。
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「きみの”本”うまく行きますように。」
 三日前の奥多摩遠足での写真数葉に添えられ、一九九三年五月二十五日付け封書の結びには、こう記されていた。
 この出版を真剣に目指していた時期もあった。が、気紛れで始めた現地取材の回数を重ねる中、自死した少女の小学校時代の恩師との面談で、自分が見たかった結論に辿り着いた。そう感じて熱は急に冷めてしまった。秘密の暴露が、少女の遺族を傷付ける以上の社会貢献をもたらすとは考え難かったからだ。
「僕があとがきを書いてあげるから頑張りなさい。」
 小旅行の移動中だったろうか。励ましてくれたコト忘れません。そして、ごめんなさい…。
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「きみはどうしているだろうか。これから冬を迎えると北海道は寒いだろうなあ。雪はどのくらい降るのか。
 私は仙台で少年時代を過ごしたので、自分でも我慢づよい性格になったと思う。毎日、雪が降って霜やけの手をこすりながら小学校に通った。靴下もはかなかったので、小学校のフロアは冷たかった。それでも毎日が楽しくて、遊び暮らしていた。そんなところが、今の私にも残っているような気がする。」
 一九九八年十月二十七日付けの封書の一節。
 後日いただいた葉書の一節には「待つだけは辛いのだよ」とあった。約束を守れそうもないと自覚した時でもあり、正直、コレは叱られるより堪えた。
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 死者があがめられ神話化してしまう。時にその人生が都合良く、あからさまな脚色を施される。起きたコト=事実は歪められ、信ずるに足るかのような物語=真実に書き換えられる歴史修正が横行している。
 アイドル歌手もそうであるし、服部逹もそうであったろう(当時発売の雑誌に掲載されていた服部逹の遺書を読むと、挑発的な評論家の表面に、どこかチャラい一面が透けて見える。今で言うテレビ露出の多い文化人タレント的な存在ではなかったか)。中田先生は服部逹とも会ったことがあるとのことだったが、ついぞ詳しく聞くことは叶わなかった。
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 あぁ、中田耕治が現役ではなくなった…。
 擱筆宣言を知った瞬間、嘆息した。
 ずっと、いつまでも全力で走り抜けるとの思い込み、期待に今更ながら気付かされた。激しく動揺もした。故に、二○二一年末の中田先生の訃報に接した際にも、この時ほど寂しくはなかった。
 ”時”は万人に等しく流れ、戻ることもない。中田先生の素顔を知る人々もやがてはいなくなる。が、知的好奇心に溢れた本読みが居なくならない限り、”中田耕治”が埋もれることはないだろう。直接・間接に恩恵をこうむっていることに驚く読者のさまをイタズラっぽく微笑しながら見ている気がしてならない。
 恐らく、中田耕治作品の多くは読者を選ぶ。本当に楽しみたいのなら、コレくらいの教養は身に付けておきなさい、とばかりに。読者は試されているとも換言できようか。この文筆家に追い付くことすらかなわないのだと云う絶望は……羨望と嫉妬の裏返しなのだけれど……その作品を衒学的なモノに見せる。
 一九九三年十二月十六日、明治大学御茶ノ水校舎で行われた最終講義「作家は何を描いてきたか」の文字起こしをしていて思い知らされたことだ。その現場に居合わせ、ただ聞き流していただけではなかったのか?……と。
 少しの間だけ、”NEXUS”の小さな旅に加えてもらった。幸福な修行時代だ。
 鋭い眼光。その実、瞳の奥に満ちているのはおおらかな”信じる心”だったり、こよなくユーモアを愛する精神である。ビールジョッキ一杯分ぐらいで、その表面張力はいともたやすく破られるのだけれど。
 無教養や粗暴さを隠そうともしない輩が跋扈していたとしても、世の中から知性の光が失われない限り、中田耕治は揺るがない。
 学びの道は、いつも中田耕治に繋がっている。

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