森山 茂里

「作家が亡くなることを、白玉楼中の人となる、と言います。 わたしが死んだら、白玉楼中の人となります」
 二〇〇四年から約十年続いた文学講座の講義の中で、ある時、中田先生がおっしゃった。
 中国の唐の時代に文人の李賀{りが}の臨終の際、枕元に天帝の使いが来て、「天帝の白玉楼成る、君を召してその記を作らしむ」と告げたという故事から、文人墨客が死ぬことを「白玉楼中の人となる」と言うのだそうだ。
 白玉楼――何ともいえない美しい文字と響きだ。
 では、わたしも先生のおかげで物書きの端くれになれたのだから、死んだら、白玉楼中の人となれるのか。天帝の造られた白玉楼の中は無理でも、楼の建物の周辺をうろちょろするくらいはできるかも知れない。
 先生の言葉から、ふとこんなことを夢想した。
 二〇〇〇年に渾身の大作「ルイ・ジュヴェとその時代」を刊行した後、先生は「中田耕治・現代文学を語る」という講座を始められた。
 受講生のほとんどはバベル翻訳学校での教え子で、翻訳家や作家として活躍されている人たちだった。わたしもその一人だ。
 文学講座は七〇回余り続いた。江戸末期から始まって、明治、大正、昭和と、毎回、一人の作家に焦点をあて、先生が独自の視点で講義をなさる。「中田耕治の語る文学史」だった。
 その時代に生きた作家とその時代との関わり合い、生き方、作品とその才能について資料とともに語られた。それは文学史であるとともに、翻訳や創作を目指す人たちへの教えや助言でもあった。
 この文学講座と同じ時期、わたしは時代小説を書くのに悪戦苦闘していた。
「小説が書けないんです」と弱音を吐くわたしを、先生は叱咤激励された。「とにかく書きなさい。何でもいい、一行でもいいから書け」
 文学講座の後の食事会や茶話会で、このやり取りを何度繰り返したことか。今も、先生の言葉が耳の奥に響いている。
 明らかにわたしに向けてと思える助言も、講義の中でしばしばあった。
 さらに、文学講座の中で取り上げた作家の生涯や死を考察する中で、先生は自分の老いと死に向かい合っていたように思う。そして、いずれ老いて死ぬ教え子たちに講義を通して、何らかの生きるヒントを与えたかったのではないか。
 人はいつか必ず死ぬ。
 ソーントン・ワイルダーの「わが町」を引き合いに出すまでもなく、死の淵から見た生の輝きは何と眩しいことか。
 老いてくると、死が身近なものと感じられる。文学講座は、老いの中にある先生と人生の後半を迎えつつある教え子たちにとって、まさに生の輝きを感じるひと時だった。
 昔、先生はおっしゃった。「君たちは講義の内容は忘れるだろうが、こうして喫茶店で楽しく過ごしたことは覚えているだろう」
 時の流れの中で、人の命ははかない。
 年齢を重ねれば重ねるほど、この世とあの世の境を流れる川の川幅が細くなり、ひょいとひと跳びで向こう岸に行けるような気がする。
 先生は今は彼岸に建つ白玉楼の中で、親しい方たちと再会して、歓談しておられる。いつかわたしもその輪に加われる。
 そう信じている。 

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