山登りに熱中した時期がある。中年過ぎての山歩きだったから、大きな顔はできないのだが、平均して10日に1度、多いときで、月に5、6回、山を歩いていた。
アメリカ軍放出の戦闘用のザック、磁石、軍手にナタ、飯盒、水筒。網シャツ、黒いカッターシャツ。靴だけはスウェーデン製のものを愛用していた。
ある日、仕事を終わって夜中から歩き出して、夜中じゅう歩いて、翌日の昼過ぎに知らない麓に下りた。村人は私を営林署の人と間違えたらしい。
はじめの数年はひとりで歩いていたが、やがて「日経」の記者だった吉沢 正英といっしょに登るようになり、さらに安東 つとむ、石井 秀明たちと登るようになって、山男らしくなってきた。ハイキング・コース程度の低い山でも、わざとコースをそれて、ケモノ道や、杣人(そまびと)の道をたどって歩くと、ずいぶん苦労するし、ときには思いがけない難所にぶつかる。そういうとき、信頼できる仲間がいてくれるのは心強い。
この山登りが私を変えた。どういう事態にぶつかっても機敏に対処する姿勢がいくらか身についたような気がする。
127
串田 孫一さんが亡くなられた。(05.7.8)
戦時中の串田さんの「日記」に、わずか一か所だが、私の父親が出てくる。串田さんは慶応でフランス語を教えていた。私の父、昌夫は、そのクラスでフランス語を勉強していた。串田さんよりもずっと年長だった。父は、串田さんに心服していた。
昌夫は、若い頃フランス系の貿易会社に勤めたことがあったが、もともと英語が専門で、長年「ロイヤル・ダッチ・シェル」に勤務していた。戦時中に、旧仏領インドシナに行く予定で、フランス語のブラッシアップに串田さんのクラスに通ったらしい。
父は、串田さんの授業のすばらしさを私に話してくれた。そのせいで、串田 孫一さんの名は私にとって、ひどく身近なものになった。のちに私は文学者としての串田 孫一さんの著作を知ったが、いつも父のことばを思い出していた。
後年の私が登山に熱中したのも、語学を教えるようになったのも、串田 孫一という、自分では会うことのなかったひとにあやかりたいという思いがあったのかも知れない。
126
オノト・ワタンナを読みたいと思った。アメリカン・ジャポニズムの女流作家である。
読みたかった理由は、若き日の永井 荷風がオノト・ワタンナの『ヒヤシンスの心』を読み、「文章清楚にして情趣まま掬すべきものあり」と批評しているからだった。
二十年探しつづけたが、神田でやっと一冊、手に入れた。実際に読んでみると、どうにもあまったるいお話で失望した。それっきりこの女流作家のことは忘れた。
去年から、私は「文学史」めいた講座をはじめた。当然、永井 荷風もとりあげたが、このとき、もう少しオノト・ワタンナを勉強してみようと思った。それを知った井上 篤夫がわざわざ『おウメさん』を探してくれた。十九世紀末の作品で、永井 荷風はおそらくこの作品も読んだのではないだろうか。
最近、アメリカのジャポニズム小説について羽田 美也子のすぐれた研究が出た(彩流社/05.2)。ほかにも少数ながら、研究者があらわれているという。そうした研究者たちの努力に敬服している。
125
野津 智子は翻訳家。『仕事は楽しいかね?』の翻訳で知られている。最近、つぎつぎに本を出している。どれも、いい訳だった。
『マジック・ストーリー』(フレデリック・ヴァン・レンスラー・ダイ)は成功するために知っておくべき6つの「教訓」を教えてくれる。〈ソフトバンク〉。
『笑って仕事をしてますか?』(デイル・ドーテン)は、『仕事は楽しいかね?』の著者の新作。壁をブチ破るには笑顔がいちばん。〈小学館〉。
『スピリチュアルな力がつく本』(アンドレイ・リッジウェイ)は、私たちの内部に、予言者、共感者、戦士、シャーマンが存在するという。〈PHP〉。
『出世する人の仕事術』(ステファニー・ウィンストン)は、きみの能力をひき出す極意を教えてくれる。〈英治出版〉。
私なども、若いときにこういう本を読んでいたら、もう少し楽しい仕事ができたに違いない。
124
いつか私は書いたのだった。ひとはときとして愛するひとのなかに永遠をもとめる、と。(「フリッツィ・シェッフ」)愛はある情緒(エモーシォン・パルティキュリエール)のなかに永遠をかいま見ることにほかならない。だから、ほんとうの愛がいつまでもつづくことを心のどこかで、ほんのわずか信じたとしても無理からぬことだろう。
だが、そうした愛がつづくことはない。男と女の関係が終わったとき、彼や彼女は――長くつづく真実の感情がもてないのかもしれないと思わなかったのだろうか。そんな疑問が胸をかすめる。
つまり、自分の無能力になぜか罪の意識をおぼえてしまうようなことはないのだろうか。そこからもう少し先には、相手がほんとうに自分を愛してくれていたのか、という疑いが待ちうけていることにならないのだろうか。
123
内村 直也の「えり子とともに」の放送開始は、1949年10月だった。主演者は、小沢 栄(のちに栄太郎)、阿里 道子。音楽は芥川 也寸志、のちに中田 喜直。2年7ヶ月、127回。
当時、こういう連続放送劇ははじめての試みで、四十代だった内村さんはライターとして、五十代の伊賀山 精三、三十代の梅田 晴夫、二十代の私を起用した。ほんとうは矢代 静一に打診したのだが、矢代が断ったため私を起用したのだった。
私は放送劇を書いた経験もなかった。原稿の注文もなかったし、前途暗澹たる状況だった。内村さんは、そういう私を憐れんで、勉強の機会をあたえようと思ったのだろう。実際に放送の現場に立ち会ったことは得難い経験になった。
内村さんの援助で、私は大学に戻った。ある日、講師の加藤 道夫が驚いた顔で、
「きみ、大学に戻ってるんだってね」といった。
このときから文学落伍者(リテ・ラテ)として生きようと思った。
122
ムッシーナは投げる姿勢に特徴がある。野茂 英雄のトルネードもめずらしいスタイルだが、ムッシーナのピッチングには独特なポーズとリズムがある。マウンドに立つと横にかまえてバッターを見る。眼をほそめる。ちょっと悲しそうな顔になる。胸元にグラヴを押しつけると、いきなり上半身を下に折りまげる。ヒョイッとかがめるのではない。腰のまがったおばあさんのような姿勢になる。MLBでもめずらしい投球姿勢。
ヤンキースには、ランディ・ジョンスン(05年は不調だが)からリベラまで、名だたる投手がそろっている。ランディ・ジョンスンはいつも自分の投球に絶対の自信をもっている。あの禿鷹のような顔つきが、獲物を見据えるような感じになる。
リベラはクローザーだが、シーソーゲームの最終回に出てくると、大向こうをうならせる千両役者のようで、見ていてワクワクする。ピンチのリベラは、むずかしいことを考える哲学者のような顔になる。
マイク・ムッシーナは今年(05年)も好調で、ヤンキースも地区優勝した。
私はムッシーナのファンだが、ヤンキースのファンではない。
121
ラジオをはじめて小説に出したのは菊池 寛だそうな。
はじめてテレビを小説に出したのは誰か。これはわかっている。
中田 耕治だった。本人がいうのだから間違いない。「三田文学」に書いた短編『闘う理由 希望の理由』のなかで、TVカメラの砲列がリングをとり囲むシーンを書いておいた。まだ民間放送も存在せず、公共放送の試験放送も出ていなかった。
私はラジオの現場で仕事をしていた。
それだけに、あと数年でテレビが確実に出現すると思っていた。そうなれば、かならずスポーツの実況放送が流れる。そう思っていたずらをした。
編集を担当していた山川 方夫は、さすがに気がついて、
「こんなの出して大丈夫ですか」
といった。
120
「夏は来ぬ」。小学校唱歌。
(1)うのはなの匂う垣根に
時鳥はやもきなきて
しのびねもらす
夏は来ぬ
(2)五月雨のそそぐ山田に
賤の女が裳ぬらして
玉苗ううる
夏は来ぬ
歌ったことはおぼえているのだが、メロディは忘れてしまった。誰の作詞だったのか。こんな歌詞から、佐々木 信綱、島崎 藤村、有本 芳水などを連想する。
いや、伊藤 彦造、高畠 華宵、蕗谷 こうじの描く美少女たちの姿までも眼にうかんでくる。
時鳥はホトトギス。賤の女はしずのめ。裳はもすそ。
今の小学生に読めるはずがない。いや、女子大生でも読めないし、イメージできないだろう。それでいいのだ。
119
ネットワーク。おおげさなものを考えているわけではない。
「コージートーク」を読んでくれるみなさんに感謝している、と同時に、ちょっと驚いてもいる。
「コージートーク」の内容はごく限られたもので、それも自分に関心のあるジャンル、テーマばかり。あくまでコージーなものに過ぎない。
インターネットのおかげで私などが情報を発信できるというのはありがたいのだが、私がとりあげないものがある。メディア・リテラシーの前提になる知識が、あまりに違っているもの。たとえば、アクチュアリティーに関して、ネットに見られるトークのほとんどが、そのときどきのテレビや新聞ジャーナリズムの影響によるものと見ていい。
私は、そんなものを書くつもりはない。
これは、私のつぶやきだが、いつかおなじような魂をもった書き手の小さなネットワークとして機能するようになればいい。ささやかな期待がある。
118
つまらない本を読んで、ああ、つまらなかったとぼやくのが私の趣味である。
いい本を読んで、ああ、よかったと思うほうが、精神衛生上、いいことはわかっている。しかし、そうそう、いい本にぶつかるはずもない。
つまらない本を読んで、つまらなかったなあ、と思ったとき、すぐに考える。
何故、つまらなかったのか。作者は、きっと自分ではいい本だと思って書いているのではないか。もし、そうだとすれば、ほんとうはいい本なのに、ひょっとして私だけがつまらないと思ったのではないか。
私の体調がよくないのかも知れない。睡眠不足。いや、食欲不振のせいか。このところ何か悩みはなかったか。ひょっとして鬱病かも。これはもう、はっきりと認知障害のあらわれではないか。
つまらない本ばかり読んでいて、思いがけずいい本に出会ったときのほうが喜びも大きい。そうでなくとも、つまらない本を読むと、つぎからつぎに考えることが出てきて、けっこう楽しい。だから、つまらない本を読むことは、どうにもやめられない悪徳の一つ。
117
これっきり。これっきりですか。
山口 百恵のポップスの歌詞にあった。それきり。それまで。それだけ。それかぎり。
徳富 蘆花の小説を読んでいたら、
「敬二が最後の手紙のことを云ひ出すと、寿代さんは、
『わたしびっくりしたわ、何にも書いてない方のを一番にあけて見たさかい』
と唯それっ切りのあどけない顔をした。」(「黒い眼と茶色の目」其六)
とあった。
それっきりのあどけない顔。いい表現だが、もう誰も使わないだろう。
『柳樽』にこんな川柳がある。
十三夜おぼえていなは それっきり。
こんな風俗から、昔の男と女の姿が見えてくる。いまの女だって、似たような気分はあるだろう。ただ、それっきりの、罪深さ
116
「レンガ」は、戦後すぐに有楽町で息を吹きかえした喫茶店だった。
日比谷、有楽町界隈の映画館のすぐ近く。階下は映画を見に行くカップルたちの待ち合わせの場所だったが、階段をあがって、二階は客種もちがってなんとなく雰囲気が変わっていた。戦後すぐに、私は「時事」の椎野 英之に渡す原稿をいつもここで書いた。椎野は、この喫茶店で、しばらく雑談をしたり、いろいろな人に紹介してくれた。
二十年近く「レンガ」に通いつづけた。私が立ち寄る時間はだいたいきまっているので、友人たちや編集者たちも「レンガ」で私を待っているのだった。
その後、有楽町界隈にもいろいろな喫茶店ができて、「レンガ」は「ジャーマン・ベーカリー」に変わった。「ジャーマン・ベーカリー」にも十年以上通った。
きまった店にしか行かないので、ひどくcompulsiveな性格に思われそうだが、別の店に入って自分の気に入るかどうかわからない。だいいち、めんどうくさい。
いまは、「ジャーマン・ベーカリー」もなくなってしまったので、有楽町にも行かなくなった。
115
エキム・タミロフ。アメリカの映画俳優。もう誰もおぼえていないだろう。もともと有名なスターではない。1898年、ロシアのバクー生まれ。1923年、「モスクワ芸術座」の一員として巡業。そのままアメリカに亡命。英語がまったくしゃべれなかった。映画はまだトーキーになっていない。
ハリウッド・デビューは「愛の悪魔」。「ベンガルの槍騎兵」(1935年)で、ようやく注目された。私などが彼を知ったのは、戦後最初に公開されたディアナ・ダービンの「春の序曲」や、イングリッド・バーグマン、ゲーリー・クーパーの「誰が為に鐘は鳴る」あたりから。
なにしろ背が低く、ずんぐりして、風采があがらない。ひどいロシア訛り。卑怯で、気が弱いくせに押しのふとい、こずるい役が得意だった。
60年代、クロード・シャブロル、オーソン・ウェルズの映画で、大きくバケた。人生、何が起きるかわからない。1972年、パームビーチで亡くなったとき、彼を偲んでワインをあけた。こんなファンもいるのである。
114
吉永 珠子は女子美の芸術科の助手だった。
女子美は相模原市の郊外に移転したばかりで、遠くに低い山系がつらなり、冬になると、大気が凍って、叩けば音がするような自然がひろがっている。
大学の近辺にレストランも喫茶店もない環境だった。研究室にいてもすることがないので、もっぱら原稿を書いたり、翻訳をしていた。仕事にあきると、近くの木立や、遠い路線のバス停まで散歩をするのだった。
少し疲れて研究室に戻った。一階下の芸術科の研究室に私などが立ち寄ることはないのだが、助手の吉永 珠子が気がるに声をかけてくれるので、ときどきコーヒーをご馳走になった。彼女はマリリン・モンローが好きで、私をマリリンの伝記作家と知って、いつもマリリンのことが話題になった。楽しい時間だった。
吉永 珠子はいま作曲家になっている。この「中田 耕治ドットコム」の基本を作ってくれたのは、吉永 珠子、田栗 美奈子だった。
113
神田の古書店で、「宮城県治一斑」という小冊子を見つけた。100円。宮城県総務部統計課・編。昭和15年版。いまどきこんな冊子を読む人はないだろう。
私が仙台市荒町尋常小学校の小学生だった頃、宮城県の学齢児童数は26万9058人。就学のパーセンテージは99.77。
1939年の児童数は24万5299人。性別で見ると、男の子が12万5962人。女の子が11万9337人。1学級あたり、尋常科の生徒数は平均55人。高等小学校の生徒数は51人。私の学年では、男子クラスが三つ、女子のクラスがふたつ。
尋常科卒で、丁稚奉公にやられたり、少年工になるものも多かった。高等小学校を出てすぐに少年航空兵になった二人の同級生が戦死している。まだ15歳か16歳で。
こんなつまらない小冊子にも、愚劣な戦争にかりたてられて行った小国民の姿があぶり出しのように見えてくる。
112
若城 希伊子は、ほんとうのお嬢さん育ちで、おだやかで上品な女性だった。いつも華やぎのある微笑を見せて、気品があって、すきッとしていた。
岡田 八千代に師事したほか、川口 松太郎、内村 直也、吉屋 信子に師事した。戦後の混乱のさなかに父君の事業が挫折したため、ずいぶん苦労したらしい。
戦後すぐに劇作家として登場した。新派の『想い川』などが代表作だと思う。私は八百屋お七ひとりのモノローグ芝居『お七』を演出したことがある。
若城女史は途中から小説を書きはじめて、『小さな島の明治維新』(82年)で「新田次郎文学賞」、『政宗の娘』(87年)などがある。残念なことに、晩年の彼女が心血を注いだ、井伊家の歴史を描いた大作はついに未完成のままに終わった。晩年は、折口 信夫の教えをまもって「源氏」の講義をつづけた。私の『ルイ・ジュヴェ』の完成を喜んでくれたが、出版を見ずに亡くなった。私としては、ほんとうに残念なことだった。
若城女史が亡くなってときどき彼女の作品を読み返す。
たとえば、『空よりの声』は川口 松太郎とのかかわりを描いた作品だが、芝居や小説の世界を知るうえで、若い人の必読の芸談、芸評、作家論だろう。
111
尾上 菊五郎(六代目)、市村 羽左衛門(十五世)を見ている。
羽左衛門なら、「助六」、「切られ与三」、「直侍」、「石切梶原」。六代目なら「八重垣姫」がまっさきに眼に浮かんでくる。
私の祖母は小芝居の「寿座」がご贔屓だった。あまり都心に出ることもなくなっていたが、六代目を見ちゃあ、ほかの芝居は見られないねえ、といっていた。そのかわり羽左衛門が好きではなかった。
あんな細っこいのが、甲高い声を出して、のたくりつんで出てきて、どうなろうってンだい、と悪口をいう。
ふだんは仲がいいくせに、芝居話になると、母はやけにムキになって、
そんな棚おろしのほうは、もう大概にしてちょうだい、と反論する。
1945年、羽左衛門が亡くなって、戦後の私は歌舞伎にかわって新劇ばかり見るようになった。六代目が亡くなってからまた見るようになったのだが。
110
ジャン・ルノワールの最後の作品、「ジャン・ルノワール小劇場」(1969年/日本未公開)を見た人は少ないだろう。
フィルム・ア・スケッチ(オムニバス)というか、三つのエピソードを集めたもの。それぞれの冒頭、狂言まわしのようにルノワール自身が解説している。途中で中幕のように、ジャンヌ・モローが世紀末の小唄をご披露する。
芸術家の描く軌跡はそれぞれユニークなものだが、とくに劇作家、映画監督の仕事は、高いピークに達したあと、どうしようもなく低いほうに流れることが多い。「小劇場」は、ルノワールという芸術家、半世紀におよぶ大監督の最後の仕事としては、無残なほど演出力が衰えていると思う。
映画を見て胸を衝かれた。いたましい思いがあった。
なぜかしきりに芸術家の運命を考える。芸術家であることの運命を考える。
109
ヌードに関心のない男はいないだろう。
ひきしまった乳房を光(照明)に向かって、惜しみなくさらしている女ほど美しいものがあるだろうか。クロード・アネのことば。
たとえば、「プレイボーイ」の美しい女たち。肉体的に非の打ちどころがない。美貌で、みごとに張りつめた乳房。ひきしまった腰。性器は見せていないが、綺麗に手入れされた性毛。
はっきりいおう。彼女たちのヌードは、いつも男の欲望をそそるためにしか存在していない。彼女たちの美しさは、ほんのわずかな時間、その雑誌の出まわっているときしかつづかない。
美しい女は世にもまれなものだと思う。だが、女のもっとも美しい瞬間は、もっとわずかな時間で描かれるデッサンやクロッキーに見られる。どんなにへたなデッサンやクロッキーでも、女がほんとうに美しい瞬間をとらえようとしているからだ。