今 東光の青春小説を読んでいて、こんな部分にぶつかった。若い頃に、二つの系統の友人があった、という。
一つの系統は名門富豪の子弟で、学費はもとより小遣いも潤沢で、おっとりと成長する。もう一つの系統は貧賤に育ち、苦学力行し、あるいは自暴自棄になって反抗ばかりし、泥沼の中を這いずり廻りながらくたばりもしないで生き抜いている奴等だ。
私はごく普通の勤め人の家庭でそだったので、友人関係といっても、これほどはっきりわけられない。私の周囲には名門富豪の子弟などひとりもいなかったし、泥沼の中を這いずり廻っているようなひどい貧乏人もいなかった。
敗戦後、苦学力行していた友人はいたし、特攻帰りでヤクザの仲間に入って、肩で風を切っていたが、ヤクザどうしの抗争で片腕を斬られて死んだやつもいる。共産党に入ってしょっちゅう刑事が尾行していたやつもいたし、一念発起して医学を勉強しなおして医者を開業しながら無理がたたってすぐに死んでしまったやつもいる。
青春時代にいい友人に恵まれた人はしあわせだと思う。
自分の過ごしてきた青春とひどくかけ離れている今 東光の連作『吉原哀歓』や、「青春図譜」といった短編が好きで、今でもときどき読み返す。
167
「SAYURI」の章 子怡(チャン・ツーイー)が、ゴールデン・グローヴの最優秀主演女優賞の候補にノミネートされた。昨年、世界の美女100名にも選ばれているので、章 子怡(チャン・ツーイー)のファンとしてはうれしい。
女優としてのチャン・ツーイーは、初期の出演作からすぐれた映画監督と仕事をしてきた。そのため、少女期から「娘役」(ジュヌ・プルミエール)として、のびやかな才能を見せてきた。どういう役にもたくみに適応してきた。なによりもすぐれているのは、どういう作品でも、どこかでかならず輝いている瞬間がある。
ふつう、「娘役」(ジュヌ・プルミエール)の女優は--監督がかならずそういう演出をするからだが--いつも「比類ない彼女」(uncomparable SHE)としてあらわれる。しかし、ほとんどのスターたちはこの「輝き」をもっていない。(ジョーン・クローフォード。ロザリンド・ラッセル。)
どんな美女であっても、この「輝き」をもたないか、それがあらわれる時期は比較的、短い場合が多い。(ブリジット・バルドー。最近の孫 燕姿。少し前の折原 啓子。それよりも前なら原 節子。)もとより美貌や若さにもかかわりはあるが、平凡な顔でも高齢でもどこかでかならず輝いている瞬間、女優としての香気(flagrance)を出す女優がいる。(キャサリン・ヘップバーン。ジェシカ・タンデイ、フローラ・ロブソン。日本では、浪花 千栄子、中年過ぎてからの田中 絹代。)
つまり、ある種の女優にとってはこの「輝き」は生まれつき(スポンタネ)なものであることが多い。
章 子怡(チャン・ツーイー)をそういう女優のひとりと私は見ている。
166
呉 倩蓮(ウー・シンレン)が、テレビドラマで、一代影星、阮 玲玉、を演じた。05年11月27日、上海で放送されたらしい。むろん、私は見ていない。
短袖、長旗袍の呉 倩蓮(ウー・シンレン)が、女優「阮 玲玉」をどう演じているのか私としてはぜひ見ておきたいのだが、日本のテレビで放送されないだろうか。
やはり最近、「阮 玲玉」が映画化されている。こちらは、当時の映像の記録もまぜながら、張 曼玉(マギー・チャン)が16歳から25歳までの阮 玲玉を演じているという。張 曼玉もすばらしい女優さんなので、こちらもぜひ見たいと思っている。
165
最近の子どもたちはジャンケンをするのだろうか。
小学校に通う生徒たちをときどき見かけるのだが、ジャンケンをしている子どもを見かけない。
ジャンケンポン ジャラケツポン 紙 石 ジャンよ ハサミなし ジャンよ
おイモのジャンよ ハサミあり ジャンよ 石 紙 くっつきジャンよ チッ チッ チッ
ソウ ニュッ パッ グウ チョキ パッ
子どもの頃、そんなかけ声でジャンケンポンをしたと思う。かけ声は、いろいろと変化する。ジャンケン ポックリ 日和下駄、というふうに。
今の女の子がポックリを知らないのは当然だが、私のように、日和下駄の連想で、荷風の『日和下駄』の記述をなつかしむ人もいないだろう。
さて、今の子どもたちはカクレンボもしないのではないだろうか。
オニさん こちら 手のなるほうへ
オニのいない間に 洗濯しましょ
オニのいない間に 洗濯 ジャブジャブ
今の子どもたちが、双六、おてだま遊びをするはずがない。洗濯はオート、遊ぶのはテレビゲームだから。しかし、ジャンケンをしなくなっているとすれば少しさびしい。
庄屋、鉄砲、キツネの遊びは知らないのだが、子どもだった頃を思い出すと、明治の子どもたちの遊びがまだたくさん残っていたような気がする。
164
お酒がおいしい季節になった。
「一度でいいから、お酒を酌みかわしたい歴史上の人物は」というアンケートが雑誌に出ていた。
1位、坂本 龍馬(13.1%)、2位、織田 信長(11.4%)、3位、聖徳太子(7.6%)、以下、徳川 家康、クレオパトラ、豊臣秀吉、紫式部、西郷隆盛、小野小町、9位に卑弥呼(1.7%)とつづく。(アサヒビール、お客様生活文化研究所)
このリストを見たら悪酔いしそうだなあ。
第一、織田 信長、豊臣秀吉、徳川 家康づれといっしょに酒を飲んだら、酒の味がしねぇだろう。それに、何を訊こうっていうんだ?
坂本 龍馬と酒を飲むより、どうせなら勝 麟太郎や河井 継之助と飲みたいね。西郷 隆盛よりも、会津の西郷 頼母のほうがいい。明治の人なら石光 真清。
ほかにも酒を酌みかわしたい歴史上の人物は、いくらでもいる。たくさんいすぎて、誰を選んでいいかわからない。
まず、オマール・ハイアムだね。いっしょに酒を飲んで、これほど楽しい相手がいるだろうか。こういう相手なら人生の機微についていろいろと教えてもらえるだろう。
マルコ・ポーロもいいなあ。できれば、コカチン姫の護衛として、やっと帰国が許されたときのマルコ・ポーロと飲んでみたい。
第二に、クレオパトラ、紫式部、小野小町などという女性と酒を飲んだら、眼がまわっちまわぁ。酒の味なんざわかるはずもない。クレオパトラと飲むくらいならテオドラか楊貴妃のほうがずっといい。
杜甫と飲んだら、こっちまで沈痛な気分になりそうだから、やはり李白先生のほうがいい。いっしょにへべれけになるほど酔ってみたい。もっとも、こっちが先にダウンするだろうけれど。
しんみり飲むなら紺屋高尾か、樋口 一葉さん。なんてったって美人だからねえ。
ようするに私は織田 信長から小野小町、卑弥呼まで、このアンケートに出てきた方々とは、いっしょに飲みたいとは思わない。
第三に、私はもともとこういうアンケートが大嫌いなのだ。だいいち酒がまずくなる。
163
泉 鏡花が、芸者、桃太郎に会ったのは明治23年であった。
恩師の尾崎 紅葉の主催する硯友社の新年宴会に出席した彼の前に、神楽坂の芸妓がいた。清元と花柳流の踊りをよくしたが、名取りではなかった。
性格も、たたずまいも、それほど魅力があったわけではない。むしろおとなしい、むっつりしたほうで、目立たない女だった。
本名、伊藤 すず。
鏡花は、その名を聞いて驚く。母とおなじ名前だった。鏡花は、この少女に、亡き母のおもかげを見たといってよい。
すずの母は、京都の商人の娘で、土佐浪人と江戸に出て、すずを生んだ。やがて、夫と死別する。やむなく、芸妓になって、商人の妾となったが、旦那が破産したため、すずを芸妓屋に預けて行方をくらました。すずは、一本立ちするまで芸を仕込まれたが、いうまでもなく血のにじむようなものであったという。
三島 由紀夫は、「死にいたるまで鏡花が世間に吹聴してゐた亡き母への渝らぬ熱烈なアフェクション」は、いささか眉唾物に思われる、として、これを江戸っ子の特性というよりも、江戸趣味に耽溺した金沢出身の鏡花の「マニヤックな北方的な性格」と見ている。これに対して、小島 信夫がおもしろい意見を述べている。
「名前なんかそれほどのことがあるものか、と思うとしたら、それは間違っている。名前は人間の入口である。偶然の名が同じであるということほどありがたいことはない。しかも年齢を聞けば十八歳。母が父のところに輿入れしたのとだいたい同じ年齢だ。次第にこの芸妓の過去をきき出すと、そこに涙をそそられるような哀れな話がひそんでいた。おそらくきき出すまでもなく分っていた、と彼は思ったのかも知れない。」という。
私は小島 信夫に賛成する。
鏡花には江戸趣味に耽溺した金沢出身の「マニヤックな北方的な性格」があったに違いない。しかし、すずという芸妓をはじめて見たとき、驚きに打たれた鏡花を信じる。こういう愛の coup d’esprit を疑う理由はないからである。
母とおなじような不幸な女が眼の前にいる。そのときの亡き母が現前しているという思いが、たまたま同名と知ったという驚きに重なったに違いない。女の境遇もまた母に近いものであれば、鏡花にとっては運命と思われたに違いない。そんな程度の話なら江戸情話にいくらでもころがっている。しかし、それを動かしがたい運命と思うかどうか。そこにこそ、作家としての鏡花独特の心性がひそんでいた。
三島 由紀夫という天才的な作家が、明治という時代の人情の機微を知らなかったはずはない。しかし、おそらく鏡花ほど下情に通じなかったと見ていいだろう。すくなくとも、鏡花の情に「マニヤックな北方的な性格」を見たあたりに、作家、三島 由紀夫 の無意識の倨傲を見ていいような気がする。
162
アメリカ、ウィスコンシンの地方都市で行方不明になったネコが、なんとフランスのナンシーで見つかって、無事に飼い主のもとに戻った。(05.12.3.)
ウィスコンシンはアメリカの中西部。ミシガン湖の西側だが、あいにく私は行ったことがない。この州のアプルトンに住む一家が飼っていたメスのエミリーは、9月下旬にいなくなった。家族は、当然、心配したに違いない。
ところが、10月24日、フランスの北東部、ナンシー郊外の工場の隅っこで、やせ細った姿で見つかった。
首輪につけた認識票で、身もとがわかったという。
どうして、アメリカから遠いフランスまで漂泊の旅に出たのか。自宅近くの製紙会社の配送センターのコンテナーにもぐり込んだらしい。そのまま出られなくなった。ニューヨーク港から、はるばる大西洋を横断して、フランスの港に着いた。どこの港だったのか。
発見されたネコのエミリーは、すぐに元気になって、一ヵ月の検疫期間をすごしたあと、航空会社が提供したビジネスクラスにおさまって空路帰国。12月1日、無事に飼い主のもとに戻った。
こういうニューズを読むのは楽しい。
これだけの記事から、いろいろなことを考えるし、いろいろ想像できる。こんなストーリーはどんな作家でも考えつかない。ネコの好きな作家だったら、たちまち短編の一つふたつは書けるだろう。
161
年賀状を出さないことにしている。そのくせ年賀状が一枚もこない正月はさびしいと思う。身勝手な思いとは知っているのだが。
ジャン・ジロドーの訃報を知ったときのルイ・ジュヴェについて、私は書いた。(『ルイ・ジュヴェ』第五部・第七章)
「面識のあった人々や、ゆかりのあった人々が亡くなっている。死亡通知がきたり、共通の知人から電話で知らせてきたりする。長いあいだ入院して、苦しんで死んだ友人のことを思うと、むしろ、亡くなってよかった、と祝福してやりたい。
自分の周囲に友人、知人が、一人ひとりと、クシの歯が抜けるように去ってゆく。つまりは、自分の番が近づいてくるわけで、死は確実に眼の前に現前するようだった。」と。 こう書いたときこの思いは私の実感でもあった。
歳末になると、知人から年賀欠礼の知らせが届いてくる。
それぞれの肉親を失った人たちの悲しみ。しかし、そんなとき、悲しみに沈んでいる人にこそ新しい年の始めを寿(ことほ)いであげたいとも思う。不謹慎だろうか。
ある年、亡くなった方から賀状が届いた。私は驚いた。その人はこの賀状を書いて郵便局に届けたとき、まさかご自分が死ぬなど予想もしなかったに違いない。
私はその賀状を手にしながらありし日のその人を偲んでひとり杯を傾けた。その人を思うことが楽しかった。
賀状をくださったのは、植草 甚一さんだった。
160
新しい年を迎えて。
Forsam et Haec olim meminesse invabit
いつの日か かかることども すべてみな こころたのしき 思い出にせむ
羅丁格言 中田 耕治訳
159
安東 つとむ著『街を吹く風』(揺籃社/05.12月刊)を読む。
著者はフリー・ジャーナリスト。桶川のストーカー事件、薬害エイズ、小樽運河保存運動や、阪神大震災ではヴォランティア活動をつづけた。
ジャーナリストとしての活動に一貫して流れているものは、弱い立場の人々、しいたげられている人々に対する共感であり、その位置から、なかなか見えにくい支配や搾取にたいする果敢な反撃といっていいだろう。そして、対象に寄り添って歩いている。
チェチェン、チベット、イラク、アフガニスタン、中国などの人権や政治犯にたいするまなざしにも、それははっきり見ることができる。
色川 大吉先生のセミナーで学んだ。
第二部は、「街風通信」というコラムで、これも、街を吹き過ぎる風のようにさまざまな話題をとりあげている。
「あとがき」に、私の名をあげて、
「『きみには好奇心がない!」と常にショックを与えられ、なんとかものかきに育てていただいた作家・中田耕治先生に、感謝の言葉をおくりたい」
とあった。おいおい。わるい冗談だなあ。
好奇心のかたまりだった安東君にむかって、きみには好奇心がない! などといったことがあるだろうか。少なくともビックリ・マークのつくような、いいかたはしなかったと思う。
私がきみをものかきに育てたわけではない。きみは私といっしょに山に登ったり、街を歩いてきただけなのだ。私を見ているうちに、ひとりでにもの書きになってしまった、というのがいちばん自然ないいかたではないだろうか。
ほんとうの俳優は「役」になるのではない。「役」が向こうからやってくるのだ。
158
歳末、私の「文学講座」で石川 啄木について講義をした。
これまで啄木について語ったことは一度もない。関心がなかった。もともと無縁といっていい。しかし、こうして読み返してみて、あらためていろいろ考えることができた。
東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川
ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな
誰でも知っている名歌に、私はほとんど関心がない。それよりも、
さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき
頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず
うすみどり飲めば身体が水のごとく透きとほるてふ薬はなきか
といった歌に胸を打たれた。
『一握の砂』という歌集は、現在の私には平凡な歌の羅列に見える。しかし、その二、三十首は、明治という時代をつきぬけて、実存の不幸と格闘しなければならなかった詩人の声が響いていると思う。
157
7時少し前、思いがけないひとから電話があった。遅 芳だった。いつも思いがけないときに電話をくれるのだった。今、深せんにいるという。仕事は、政府系の会社で、中小企業の財政コンサルティング。多忙。母は長春に戻った。自分は長姉のところにいるという。なつかしい遅 芳。
今日が私の誕生日と教えてやると、歓声をあげて、よろこんでくれた。さっそくお祝いの品を送るという。いいよ、そんなこと。遅 芳はうれしそうにハシャイでいた。
電話を切って、しばらく遅 芳のことを考えた。私の人生に少しでも喜びがあったとすれば、そのなかに遅 芳を知ったことも含まれるだろう。
(2005年11月)
156
女優のアン・バンクロフトが亡くなったときの記事。
「メル・ブルックス夫人。享年、73歳。演劇学校などで学んだ後、ハリウッドで映画デビューしたが、役に恵まれず、ニューヨークのブロードウェイに移って、舞台『奇跡の人』に出演」とあった。
おやおや、可哀そうに。ハリウッドでも数々の名作に出演しているのに。
BS11の追悼番組で彼女の代表作、「奇跡の人」を見た。
アンは、世間の人が「卒業」の「ミセス・ロビンソン」ばかり称賛して、ほかの作品の演技を誰もとりあげてくれない、と不満だったらしい。世間の評判とか人気なんて、そんなものなのだ。
たまに、「役」に自分自身をぴったり重ねることに満足する女優がいる。そういう女優は、自分が「役」を愛している動機や自信を、観客に要求するようなところがある。アンはいつも自分の役に自分で満足しているようなところがあった。
私が舞台演出家だったら、『後妻のタンカレー夫人』や『ヘッダ・ガブラー』をアンにやってもらうだろう。
『奇跡の人』に出た子役のパティ・デュークは、もう少し伸びるかと思ったが、それこそ役に恵まれなかった。子役がおとなになっても成功しなかった例。シャーリー・テンプル、マーガレット・オブライエン、リンダ・ブレア。パティもその例にもれなかった。
155
小酒井 不木を読む。大正末期から昭和初年にかけてのエッセイ。当時は、この程度の知識でも通用したのだろう。隔世の感がある。今は、犯罪学、性科学、すべての分野で、欧米のレベルに比較して遜色のない研究がおこなわれている。
たまたま「血と薔薇 2」(河出文庫)が届いた。ざっと読み返してみた。小酒井 不木を読んでいたせいか、今でも60年代の性をめぐっての熱気のようなものが渦巻いていて、当時のことがいきいきと思い出された。内容もほとんどが古びていない。
澁澤 龍彦、種村 季弘、松山 俊太郎、みんな凄い文学者だった。一時的にせよ、そういう人たちの近くにいた幸運を思う。
この「血と薔薇」に、私は「ポーノグラフィー論」めいたものを書いている。これは少し勉強不足。ほんとうはもっともっと深く追求できた主題なのだが。
154
竹久 夢二の「宵待草」は誰でも知っている。
夢二は、明治四十年に九十九里を歩いた。その五年後、明治四十五年(1912年)に、八行の詩「宵待草」が発表された。夢二、三八歳。
ただし、この「宵待草」は平凡な作品で、詩としてはとるに足りない。
ところが、翌年(大正二年)に三行に圧縮された。
まてどくらせどこぬひとを
宵待草のやるせなさこよいは月もでぬそうな
これは、竹久 夢二の代表作になっている。
一行アキ。
この一行の飛躍(アンジャンプマン)は、私にさまざまなことを想像させる。
「九十九里月見草咲く浜づたい ものおもふ子はおくれがちにて」
「旅人はかなしからずや行きづりの少女を恋ひてさまよふときく」
という、牧水ふうの短歌との関連ばかりではない。明治から大正への時代の大きな変化さえ。さらには夢二の内面の断層さえも。
153
庄司 肇さんの個人誌、「きゃらばん」59号が送られてきた。「肥後、筑紫、三老翁集」と題している。最初に高木 護論。思いがけず、宇尾 房子、竹内 紀吉の文章が挿入されていた。短いものながら、放浪の詩人、高木 護の姿がとらえられている。
この「きゃらばん」に、庄司さんの同窓の先輩画家、九州在住の大坪 瑞樹に対するオマージュが掲載されている。
大坪 瑞樹という画家を私は知らなかったが、庄司 肇によるエッセイ、年譜で、はじめて、この特異な画家の画業が紹介されている。この「きゃらばん」に紹介されているヌードにはいいものがある。現在、89歳。妻も毎日、水彩を4枚描くという。えらいものだと思う。
152
近くの大学の学園祭に行く。例年のことだが、若い人たちで混雑している。私のような高年の人をほとんど見かけない。
かならず「漫研」の部屋に行ってみる。たいていは失望する。ついでに美術展に行くことにしたが、催場がわからない。ぐるぐる歩いてしまった。ここも、ほとんど全部、平凡な作品ばかり。しかし、性懲りもなく学園祭に出かけている。
しばらく前に、テレビで「スウィング・ガールズ」(矢口 史靖監督/04年)を見た。これにもひどく失望した。こんな映画より、テレビで、おなじように高校の吹奏楽部の生徒たちを描いた所 ジョージの番組のドキュメントのほうがはるかにすばらしい。
ほんとうの青春の姿が、汗や涙としてとらえられているからだ。
151
『O嬢の物語』は、女性のマゾヒズムを描いたポルノグラフィーとして世界じゅうに衝撃をあたえたが、作家、ポーリーヌ・レアージュの正体をめぐっていろいろな噂が流れた。ひろく信じられたのは、ジャン・ポーランの変名ではないかという噂だった。
「EROTICA」(マヤ・ガルス監督/97年)は、10人の女性のインタヴュー。ボルノ女優のアニー・スプリンクル、『肉屋』の作家、アリーナ・レイエス、女性のヌードを美しくエロティックに撮影する写真家のベッティナ・ランスなど。
そのなかにポーリーヌ自身が登場していた。1907年生まれ。すっかり老齢に達しているが、上品なレディで、淡々と自分の性生活を語っている。彼女は作家のジャン・ポーランと15年間、事実上の「関係」があって、生涯でいちばん幸福な時期だったという。 女性として誰かに服従したいという欲求は、完全に個人の趣味という。恋する女なら誰でも経験するでしょう、と語る。そして「今の私は死人も同然」と語る。
おなじドキュメントに、『O嬢の物語』に絶大な影響をうけたというジャンヌ・ド・ベルグも登場する。彼女が、じつはアラン・ロブ・グリエの夫人で、サド・マゾヒズムは夫によって調練されたこと。これも驚きだった。
今にして思えば、『O嬢の物語』は二十世紀の文学作品でもっとも特異な作品だった。おなじように評判になった『エマニュエル夫人』や『孤独な泉』、『肉屋』程度のEROTICAではない。この作品は、これからもまったく違った文学的時空を生きつづけるだろう。
150
最近のハリウッド映画。ここ3年で、観客動員数が、毎年、5パーセント近く減少している。今後もますます観客が離れてゆくだろう。私にしても、ハリウッド映画をほとんど見なくなっている。そのかわりアジア映画を見ている。
テレビで韓国ドラマを多く見ているせいで、韓国の俳優、女優たちの顔と名前がだいぶわかるようになってきた。かなり前に「画酔伝」を見てから韓国映画に関心をもった。韓国語がわからないのが残念だが、内容はわかった。あとになって美少女、ソン・イエジンがこの映画でデビューしていることに気がついたし、キム・イジン(「大長今」では済州島の医女をやっている)が出ていた。
韓国ドラマの「大長今」。主役のイ・ヨンエ(李 英愛)はもっとも魅力のある女優さん。新作映画「親切なクムジャさん」は、ハードな復讐もの。最近、BSでこの女優さんのドキュメントをやっていた。
中国の映画雑誌「影視圏」(05.11.)の記事に・・「清醇的眼神,細膩柔和的表情,渾身散発出温暖人的親和力」とあったが、ほんとうにその通りだと思う。「大長今」の出演者では、「最高尚宮」のヨ・ウンゲという老女優と、敵役の「チェ・サングン」をやっているキョン・ミリに注目した。ふたりともすばらしい女優さんだと思う。
アジア・ポップスも聞いている。王 菲がしばらく活動をやめているのは残念だが、あい変わらず中国の超級女声を聞いている。このところ關 淑怡(シャーリー・クァン)、林 憶蓮(サンデイ・ラム)たちが復活して、来年はいよいよ周 慧敏(ヴィヴィアン・チョウ)が登場するらしい。
149
吉行淳之介が『コールガール』という小説を書いていた頃、私が訳した『コールガール』からいろいろ引用されていた。
当時、知りあったコールガールに聞いたことがある。
娼婦はほんとうに客に惹かれることがあるのだろうか。
はじめはまともに答えてくれなかったが、しばらくして自然に答えてくれた。
客のなかには醜い男もいる。醜いほどではないにしても自分の好みのタイプではなかったりする。そういう男に気を許すことはない。客もそれを知っていて、たいていの男たちは、自分だけの快感をもとめるだけで、女の感情など気にかけない。
しかし、ときにはほんとうにほれぼれするような男に出会うこともある。ルックスや個性、その相手が特別なものに見えるような、ほんのちょっとしたことがあって、その男の相手をするのが楽しくなる。
ところが、たいていの娼婦は、たとえ心を惹かれる男にぶつかっても、深間にはまり込んで問題を起こすようなことはない。むろん、そうした男と寝るのは楽しいのだが、娼婦はあるところからはっきりした距離をとって真剣な愛情をもたないようにする。
昔の遊女もおなじだったに違いない。
今から四十年も前の話。今の女性たちのことは知らない。