248

明治の欧化を想像する。明治六年頃に流行した唄に、

おいおいに開けゆく  開化の御世のおさまり
郵便はがきで 事たりる  針金たよりや  陸(おか)蒸気
つっぽに 靴はき   乗合馬車に 人力くるま
はやるは安どまり   西洋床に 玉突き屋
温泉は 日の丸ふらふら 牛肉屋
日曜どんたく 煉瓦づくりに 石の橋

針金たよりは、無線電信。陸(おか)蒸気は、汽車。つっぽは、洋服。安どまりは、いまでいうラブ・ホテル。明治6年に、もうビリヤ-ドが流行していたんだね。西洋床でザンギリにしたハスラ-もいたに違いない。

247

戦後すぐの神保町に「ランボオ」という喫茶店があった。「近代文学」の人たちをはじめ、いろいろな作家、評論家、芸術家たちが集まっていた。
この店にときどきやってくる人物がいた。アメリカの喜劇チ-ム、ロ-レル/ハ-ディ-の、小柄で痩せっぽちのオリヴァ-・ハ-ディ-によく似ていた。「戦後」すぐで、かなり色の薄れた青いオ-バ-を着ていたが、その丈がやたらに長く、裾の先から素足、すり切れたゲタという恰好だった。「近代文学」の人々の旧知の人らしかった。
いつも隅っこのテ-ブルにつくと、コ-ヒ-を注文して、あたりを気にせず、分厚いフランス語の原書を読みふけっている。
まだ外国語の勉強など考えもしなかった私は、辞書ももたずにフランス語の原書をすらすら読みこなす人がいることに驚いた。
たまたま私たちの話題が江戸の文芸におよんだ。すると、少し離れたテ-ブルで、フランス語を読んでいた人が、それは・・・の何ぺ-ジに出ていますよ。書いたのは・・・で、版元は・・・で、というふうに説明した。知識をひけらかすような衒いもない、自然ないいかただった。このときもショックをうけた。その人の博識に度肝を抜かれた。
あまり衝撃が大きかったので、何が話題になっていたのかおぼえていない。それから、佐々木 基一、荒 正人たちの質問が集中した。彼は、フランス語を読むのをやめて、丁寧に答えた。おぼろげながら柳 里恭か服部 南郭の名が出たような気がする。
やがて、彼はコ-ヒ-代を置いて、みんなにかるく頭をさげると、青いオ-ヴァ-の胸もとにフランス語の原書をねじ込んで出て行った。
このとき彼が読んでいたのはアナト-ル・フランスの『ペンギンの島』だった。これは間違いない。私は実際にその本の背表紙を見届けたのだから。
石川 淳だった。戦後の「焼跡のイエス」が発表される直前のこと。

246

少年時代に「立川文庫」に夢中になる。少しもわるいことではない。徳富 蘆花の『自然と人生』を読む一方で、村上 浪六を読みふける。やがて、『不如帰』、『金色夜叉』などを読みあさる。さらに黒岩 涙香、有本 芳水といった名前も、彼の心に深くきざまれる。はるか後年、この少年は有名な評論家になる。堀 秀彦。
「要するに、いま私がやっているのと同じように少年時代にも私は行き当たりバッタリの読書しかしなかった。私はこのことを、いま、ほんとうに心から後悔しているのだが、このごろでは、そうした読書の方向が私の性格に合致していたのではないかと思いもする。」
少年時代に「立川文庫」に夢中になったことを恥ずかしいと思うのがおかしい。徳富 蘆花を読みながら、村上 浪六をおもしろがって、どこがわるいのか。こういう考えかたの背後には『不如帰』、『金色夜叉』に涙する人々に対する無意識の蔑視がひそんでいよう。こういう人は読書論なんか書くべきではない。
黒岩 涙香、有本 芳水といった名前が心に深くきざまれた、だと? ウソつきやがれ。涙香、芳水から何ひとつうけとらなかったくせに。
人生のあらゆる出会いとおなじで、一冊の本との出会いはそのときの自分にとって、どうしようもないものなのだ。そう思えば、少年時代に「立川文庫」や、徳富 蘆花や、村上 浪六に出会ったことを、後年、ほんとうに心から後悔しているなどという、したり顔の反省をする愚劣な知識人にならずにすむ。
「モンテ-ニュの『エセ-』を、文字通り座右に備えて、この上なく愛読している」だってさ。ふざけンじゃねえ。

245

ある日、有名な評論家の書いた『読書のよろこび』を読んでみた。
この人は、高校から大学にかけて、久保田 万太郎や鈴木 三重吉などの「可憐な」小説を愛読したという。この評論家は堀 秀彦。
「ところで、そうした小説は私に何をもたらしたのか」と彼は反問する。
ようするに、一種のセンチメンタリズムに過ぎなかった、という。
「私はいまになって、あたら、よき青春の日を、浪費したような気がしてならない。私はもっと偉大な人間の記録をよむべきだったのた・・・いまにして思えば」という。
私は笑いだした。このほうがひどいセンチメンタリズムではないか。
石川 啄木や、堀 辰雄、津村 信夫を読んで感動する若い読者に、きみはあたら青春の日を浪費しているというのだろうか。
堀 秀彦は、もっと偉大な人間の記録を読むべきだという。彼があげるのは、モロアの『ヴィクトル・ユ-ゴ-』、ツヴァイクなど。「私たち平凡な人間にとって(ここにケタはずれの実在の人間がいる!)ということを私たちにいや応なしに教えてくれるからだ」という。わるい冗談だなあ。表面には出ていないが、いやらしいエリ-ト意識と卑下慢めいたいいかたが鼻につく。なにもモロア、ツヴァイクなんか無理して読む必要はない。
私はいまでもモロア、ツヴァイクに深い敬意をもっている。ただし、ここにケタはずれの実在の人間がいる、などということをいや応なしに教えてもらったからではない。
私がモロア、ツヴァイクに深い敬意をもったのは、その評伝を偉大な人間の記録としてではなく、人間の偉大な記録として読んできたからなのだ。
読書論なんか書かなくてよかった。

244

60年代から80年代の中頃まで、私は映画批評を書いていた。毎日のように映画の試写を見るので、京橋から新橋にかけて歩いたものだった。
銀座では、私よりもずっと先輩の飯島 正、双葉 十三郎、植草 甚一たちや、私と同世代の田中 小実昌、佐藤 重臣、虫明 亜呂無たちの姿をよく見かけたものだった。築地の「松竹」の試写室で見かけたばかりの人が、そのまま新橋の「コロンビア」や土橋の地下の試写室ですわっていることもあった。
もっと昔の、敗戦直後の西銀座を思い出す。いたるところに防空壕が掘られていた。白昼、焼け跡のビルから若い女の悲鳴が聞こえてきたり、復員兵くずれの辻強盗が出たり。新橋の地下鉄の出口に、外地から復員してきたらしいボロボロの軍服の男が階段にすわり込んでいた。日に焼けているが、痩せて、眼ばかりギロギロしていた。うしろの壁に新聞紙を張りつけて、金釘流で、大きく「いのち売ります」と墨書してあった。通りすがりの人々も、ほとんどが眼も向けなかった。そんな時代だった。
その頃、久保田 万太郎の戦後の短編を読んだが、そのなかに、
「しかしだね、さァ、こんなものはもういらなくなったんだ、景気よく埋めようぜと、三味線太鼓でのお祭り騒ぎで埋めることができればいいが、おおきにそう行かないで、それこそ涙片手に、泣く泣く埋めさせられなくッちゃァならないことにでもなったら、そのとき、おれたちは、一たいどういうことになるんだろう?」
とあった。
今の西銀座、街のたたずまい、空気まで、すっかり変わってしまった。環境の破壊や汚染、耐震強度の偽装、監視カメラや、格差ストリ-ト。

243

晩年のジョン・ヒュ-ストン(だったと思う。間違っていたらごめんなさい)は、よくこんなことをいっていた。
「おれはハレ-彗星を二度も見たんだ」
すごい。羨ましいとは思わないけれど。
私はハレ-彗星を見なかった。
もう少したったら、すっかりボケた私はいうかも知れない。
「おれなんか、毎年、異常気象を見てきたんだぜ」
ひねくれ過ぎかも。

242

こんな笑い話がある。

アメリカ人、フランス人、日本人が、ゾウをテ-マにした本を書いた。
アメリカ人は、『ゾウでいかに儲けるか』。
フランス人は、『ゾウのラヴ・ライフ』。
日本人は、『ゾウは日本をどう見るか』。

笑える。日本人だっておかしい。日本人のおかしさが笑える。
ところで、少しまじめに考えてみる。中国人ならどういう本を書くだろうか。
ロシア人なら? ロシアにはマンモスしかいないからな。(笑)。

241

明治時代、「団々珍聞」に出た都々逸。

人のうわさで また気がまよふ 思い切(ろ)う と する矢先

まあ、そんなものだろうな。しかし、おなじ色恋を詠んでも、

思い切らうと あきらめて それから恋になりぬとや

作者は、松浦 静山(1760~1841)侯。随筆『甲子夜話』で知られている。人情の機微をよくご存じだったらしい平戸の名君。

240

もう、話題にならない06年の冬季トリノ・オリンピック。日本の成績は不振をきわめた。その中で、女子フィギュアで荒川 静香が金メダルをとったことはうれしかった。男子フリ-は予想通り、ロシアのエヴゲニ-・プルシェンコ。
4年前のソルトレイクで、プルシェンコはアレクセイ・ヤグディンに敗れている。プルシェンコは、ちぇッ、ドジッたなあ、みたいな顔をしていたが、採点でヤグディンが泣き崩れたことを思い出す。
もう、誰もおぼえていないだろうけれど。
2002年のソルトレイクとトリノの違いはどこにあったのか。まったく個人的な意見だが、大きな違いはプレイヤ-のファッションにあったと思う。
ソルトレイクでは、ほとんど例外なく黒が基本色だった。
カナダのエルヴィス・ストイコは、背中にぎらぎらの金のドラゴンの刺繍だったが、黒が基調。アメリカのマイケル・ワイスは、全身、黒。フランスのフレデリック・ダビエは、純白のシャツに黒。日本の本田選手もおなじスタイル。
いかにも田舎の純朴な青年といったティモシ-・ゲ-ブル(当時24歳)は、純白のシャツに黒いヴェスト。ロシアのアレクセイ・ヤグディンもピッチ・ブラック。わずかな例外は、ブルガリアのイヴァン・ディネフが胸いっばいに大きくアフリカの仮面をデザインして、これがダ-ク・グリ-ンだが、全体は黒。アレクサンドル・アブルは、薄い青のシャツだが、やはり基調としては黒と見ていい。時代が暗かったせいなのか。
それにひきかえ、06年の冬季トリノ・オリンピックの男子のスタイルの華麗だったこと。

239

清水小路の表通りには、小さな市電やバスが通っていたが、あまり乗客がなかった。
商店らしい店もなく、印刷屋、糸屋、ミシン屋、タクシ-屋がならんでいるだけで、長びく不況のせいでひどくさびれていた。
ミシン屋の横の路地を通ると、すぐに道幅がひろがって、そこに数軒の住宅が向かいあっていた。父が見つけてきた借家に移ったのだが、もとは武士の長屋の跡地だったらしく、奥に大きな武家屋敷があった。
タクシ-屋の車は一台だけで、たまに急病人を乗せて、大学病院に行ったり、婚礼の式場に花嫁さんを乗せるぐらいで、車はいつも狭い駐車場に入っていた。
このタクシ-屋にはマサコちゃんという娘がいた。ひどくおきゃんな、元気で活発な女の子だった。一歳下の私はいつもこのマサコちゃんと遊んでいた。オママゴトや、オハジキ、お手だまといった遊びではなく、チャンバラごっこや、石蹴り、メンコ、ケン玉などを教えてくれた。私は、マサコちゃんが好きになった。
やがてマサコちゃんが小学校に入って、私には遊び相手がいなくなった。マサコちゃんにはあたらしい遊び相手ができたようだった。私は家で妹と遊ぶようになった。
ある日、母からマサコちゃんがいなくなったと知らされた。車で病院にはこばれて入院したが、そのまま死んだらしい。
仲よしの女の子が不意にいなくなってしまった。幼い私は、マサコちゃんはどこに行ったのだろうと思った。あんなに仲がよかったのだから、なぜ、さよならをいわなかったのだろう。
それからあと、マサコちゃんと遊んだ路地や、軒の下に何度も行ってみた。マサコちゃんはどこにもいなかった。
そのうちにタクシ-屋は引っ越してしまった。

はるか後年、明治の作家、押川 春浪が少年時代に清水小路に住んでいたことを知った。私の住んでいたあたりだったのかも知れない。

238

ずいぶん昔、東南アジアの仏教のお寺を見て歩いた。
日本人の私には驚くばかりの違いだった。
私の知っているお寺のひっそりともの寂びたたたずまい、幽玄な静寂とはまったく趣きを異にしている。とくに道教の影響のつよいお寺は想像をこえていた。
元始天尊、北斗神君、さらには関帝、大伯公、謝将軍や苑将軍たちがずらりとせい揃いしておわします。赤い垂れ幕に金字の聯。やたらと派手にしか見えなかったが、畏れ多いので長居はしなかった。
サイゴンでは、お寺の境内にくずれた面体の人たちがたむろしていて、通りすがりの私に手をさし伸べてきた。そのときのつよい衝撃は忘れられない。
ヒンドゥ-の寺院は、入り口に大きな塔がそびえて、さまざまな人物像、動物が、びっしり幾つもの層に嵌め込まれている。ハシバミのような眼を見開いた女神は豊満な肢体をみせて、強烈なエロスを感じさせる。
日本のお寺しか知らなかったので、それからの私の宗教観は変わった。
どこの国の宗教も、その民族にふさわしい、それぞれの歴史に正確に対応した、あざやかな過去をもっている。
ようするに、想像力の問題なのだ。

237

ヴァレリ-のことば。

自分をいつも単一だと信じている複雑な存在 A が・・・・
自分を単一だと信じ、A にとっても単一にみえる複雑な存在 B を相手にする。

ヴァレリ-は、その例として、友情や、恋愛をあげていた。
国際関係だっておなじことだろう。
これをパラフレ-ズして考える。
自分をいつもユニ一クだと信じているシンプルな批評家が、自分をユニ-クだと信じているシンプルな作家を相手にする。あるいは、その逆。
おもしろい。と同時に、退屈な風景。

236

おれのエッセイだと?
そんなものが何の役に立つんだ。バカになるのに役に立つだけじゃないか。
それでいいのさ。自分のバカさかげんに気がつくかも知れないからね。

235

京都のお坊さん、雲竹が、自画像らしいものを描いた。顔をあっちに向けた法師の絵だが、芭蕉に讃をもとめた。
芭蕉は答えた。あなたは、すでに六十を越えている。私も、そろそろ五十に近い。
「ともに夢中にして夢のかたちを顕す、是にくはうるに又寝言を以(もって)す」。
こちらむけ我もさびしき秋の暮
このとき、芭蕉、46歳。
いまや認知症に近い私の書くものはまったくの寝言だが、芭蕉翁の「若さ」におどろかされる。
私もときどきいたずら書きを描くことがある。顔をあっちに向けた女性のヌ-ド。これとても夢中にして夢のかたちをあらわしているつもり。ただし、誰も讃をつけてはくれないだろう。アンクロ-シャブルだから。

234

誰も書かないので書いておこう。
トリノの冬季オリンピック、開会式。さすがにイタリアらしいみごとな演出だった。(それにひきかえ長野の開会式のひどかったこと!)
最後に8人の女性がオリンピックの旗を手に入場したが、先頭に立ったのはソフィア・ロ-レンだった。その旗を供奉したなかに、ス-ザン・サランドンがいた。女優が社会的に尊敬されていることがよくわかった。NHKの中継では、ス-ザンの名前もあげず、彼女が選ばれている理由もふれなかった。
いよいよ聖火が点火されたあと、最後にオノ・ヨ-コが平和の願いをこめたメッセ-ジをアピ-ルしたときも、それまてうわずった声をあげていたNHKのコメンテ-タ-は、ただ、オノ・ヨ-コさんですねえ、程度のふれかただった。
そのあとで、開会宣言や、選手宣誓が続いて、イタリアを代表する芸術家、ルチア-ノ・パヴァロッティが、「トゥランドット」のアリアを歌った。
この途中で、NHKは中継を打ち切って、「お早う日本」に切り替えた。いくら時間に正確だろうと、これが日本が開催した国際的な行事だったら、日本人の非礼に世界があきれるだろう。相変わらずのNHKのバカさかげん。野球や、ゴルフなら、平気で時間を延長するくせに。
もっとも、夜の再放送では、さすがにパヴァロッティの歌を最後まて聞かせた。だから文句をいうわけではないが、NHKの視聴者軽視、臨機応変のセンスのなさ、無神経ぶりにあきれた。
もっとも今に始まったことではない。
ずいぶん前に、女子マラソンで、クリステンセンという選手が、ほとんど心神喪失の状態で、トラックに戻ってきた。すでに何人もゴ-ルに入っていたから、着順に関係はない。しかし、ふらふらになりながら、必死に最後まで走り続けている姿に、世界じゅうの人が感動したはずである。
ところが、ゴ-ルまでの直線コ-スで、立っているのもやっと、眼も見えなくなりながらよろめきながら走ろうとしているショットで、NHKは、カメラを切り替えた。アナウンサ-、松平某がへらへらとうす笑いをうかべていたが、おもわずヘドが出そうになったっけ。すぐに民放を見たが、ちゃんと最後まで見せていた。
クリステンセンは、やっとゴ-ルしたとき、駆け寄った役員の手に崩れ落ちた。期せずして、場内からたいへんな拍手が送られた。観衆が感動していたのだった。

233

私は漢字(旧漢字・正字)をほぼ間違いなく書くことができて、漢文体や成語がだいたいわかる最後の世代だろう。

「小生近来深く悟る所あり、近く小笠原島に赴き、以て所志を成さんとす。思ふに茫々たる太平洋の浩燿嚇灼(こうようかくやく)たる、以て小生の初期を成さしむるに足る可きものあり」。

おそらく、今の人達には、こういう古色蒼然たる文章に心をうごかされないだろう。私は、こんな空疎な文章にも、その背後に秘められている感情や、時代をうごかしていた思想をほぼあやまたず想像することはできる。
押川 春浪の文章。「武侠世界」に出たもの。
旧漢字が読めたり書けたところで、今では何の役にもたたないが、それでも昔の中国の才子佳人小説から武侠小説を読んで楽しむぐらいのことはできる。
小学三年生の頃、父といっしょに夕涼みがてら縁日の露店を見て歩いた。古本を並べている夜店で、父にねだって一冊の漢和辞典を買ってもらった。
後藤 朝太郎が小学生むきに編纂した、紙質のわるい漢和辞典だった。
この辞典を毎日読みふけった。やさしい漢字ばかりだったが、どんなに役に立ったことか。
その後、私が中国に関心をもつことになったのは、この碩学が小学生むきに編纂したやさしい漢和辞典にふれたからだった。

232

ジャンヌ・ダルクの遺骨が、フランスの医師、歴史家によって「鑑定」される。
この遺骨は、長さが約15センチで、炭化している。1431年にル-アンで火刑になったとき、ひそかにあつめられたという。いっしょに保存されている衣類の生地や、燃え残った木々もあわせて「鑑定」されるという。
現在の警察の鑑識や遺伝子医学の精密さなら、この遺骨の性別、死因、処刑の時期なども確定できるだろう。担当医のフィリップ・シャルリエは、ジャンヌ・ダルクの遺骨かどうか、半年で解明できると語っている。(06.2.15)
ポ-ル・クロ-デルが生きていてこのニュ-ズを知ったら、どういうだろうか。

231

蛇くふときけばおそろし雉の声

松尾 芭蕉の句。芭蕉にしてはいい句と思われていない。誰が読んでも、美しいキジがおそろしい声をあげながらヘビを食い殺している、おぞましさを連想する。
類句の「父母のしきりに恋し雉子の声」のほうが、いい句とされている。
アマノジャクな私は、「父母のしきりに恋し雉子の声」をいい句と思わない。
「蛇くふときけばおそろし雉の声」のほうは別の連想が働く。思わずニヤニヤする。
これはいい句だなあ。

230

日韓合作のドラマ「円舞曲 ロンド」は、竹野内 豊、チェ・ジウの主演というので期待した。ほかに日本側の出演者は、橋爪 功、杉浦 直樹、速水 もこみち、木村 佳乃、風吹 ジュン。韓国側はシン・ヒョンジュン、イ・ジョンヒョン。このキャストを見れば誰だって期待するだろう。
脚本は渡辺 睦月。スト-リ-など紹介しようもないが・・・韓国の姉妹の出生に隠された秘密。姉の「ユナ」(チェ・ジウ)と、犯罪組織「神狗」の幹部「ショ-」(竹野内 豊)の愛。じつは「ショ-」は巨大な犯罪組織「神狗」に潜入した警視庁の刑事。やがてこの組織「神狗」が、日本のすべての金融機関のコンピュ-タ-・システムのデ-タを消去する計画に着手する。サイバ-・テロリズムの恐怖をとりあげたつもりなのだろう。 まるっきり荒唐無稽なスト-リ-で、サスペンスとしては最低だった。しかし、この程度の脚本でも、すぐれた演出家ならけっこういいドラマに仕立てあげたかも知れない。
ひどいのは平野 俊一の演出で、近未来SFでも撮っているつもりらしい。ハリウッドのB級SFでさえ、最近はやらないような全編、光学的な逆光撮影。
登場人物の表情もわからないシルウェット、ハ-フライティング。この演出家は、俳優をまるっきり信頼していないのだろう。バックがまた、いつもいつも無機質なブル-、クラインブル-、そのなかに原色のレッド、ペ-ルブル-、赤、朱色、黄色などの散乱。これがウルトラ・モダ-ンなドラマ造りという愚劣な気負いばかりがのさばっている。気負いどころか、演出の無能を糊塗しようとしていると見たほうがいい。
こんな演出がテレビ演出のレベルなのか。
俳優としての竹野内 豊はなかなか魅力がある。チェ・ジウは、こんなドラマに出たところでキャリア-に傷がつくことはないが、演出がはじめから彼女の魅力に関心がなく、魅力をひき出そうとしていないのだからどうしようもない。
最低のドラマだった。

229

夏目 漱石は、胃が弱かった。明石に講演に行って、飯蛸を食べ、からだをこわして入院した。友人の長谷川 如是閑がお見舞いに行った。
「其うちに向ふの広間の二階の廊下に、若い商家の小僧のやうな身装の男が出て来て、手摺につかまって二三度身体を前にのめらしたと思ふと猛烈に嘔吐を初めた。すると、同じやうな装をした少し年上らしい若者がよろめきながら出て来て、吐いている男の背を撫でてやる。夏目君は此方の座敷からそれを見て、「見給へ、アレで介抱してゐるつもりなんだぜ」といって、頻りに「面白いナア」「面白いナア」と繰返した。」
(「犬・猫・人間」 大正13年)
このエピソ-ドはおもしろい。しきりに「面白いナア」「面白いナア」とくり返した漱石の顔が見えるような気がする。何がおもしろかったのか。それを想像するのもおもしろい。同時に、自分も猛烈に嘔吐したあげくに入院している身の漱石に、いささか許せないものをおぼえていた如是閑の不機嫌な表情も見えるような気がする。
それよりも、少し年上の若者がゲロを吐いている男の背を撫でてやっているようすを、漱石はなぜおもしろいと思ったのか。
ここに、漱石の「滑稽」に対する感覚、あるいはヒュ-マ-の性質を見てもいいような気がする。さらに、ゲロを吐いているひとりがくるしんでいるのに、もうひとりが生酔いで、背中をさすってやることしかできない。それでいて介抱してゐるつもりになっている。それを見ている漱石のまなざしに、なにか苛烈なものが秘められてはいなかったか。
もっとも、こんなエピソ-ドをおもしろがっている私のほうが、よほどおもしろいかも知れないな。