288

谷崎潤一郎は、戦後(昭和31~32年)に『幼少時代』を書く。

私は今度、自分の記憶に存する限りの一番古い出来事から書いて見ようと考へて筆を執り始めたのであるが、そのつもりで遠い昔の思ひ出をだんだんに辿って行くと、もう完全に忘却の彼方に埋没してゐた筈のことが順々に蘇生(よみがへ)って来て、よくもこんなこと迄が頭の隅に残ってゐたものだと、我ながら驚きを感じてゐる。そして、その頃のことが次々に浮んで来るに従って、それを逃がさず書き留めて行くことに限りない興味を覚えつつある。

もともと記憶のいい作家だっただけに、『幼少時代』は戦後の代表作になっている。
私も谷崎のひそみにならって、自分の記憶に存する限りのいちばん古いできごとを思い出そうとしてみたが、ほとんど完全に忘却の彼方に埋没している。
身のほど知らず。おまけにそろそろ認知症かも知れないなあ。

287

(つづき)
泉 鏡花の人物描写がおもしろいので、もうひとつ別の例を。
背丈があのくらい長いのは、世間に沢山あるものではない、という学校の教師。

教師は、其時分からもみあげを剃込んで、第一色の蒼白い、油できちんと髪を分けて、雪のやうな襟の巾(はば)、縦に五寸といふので、いつも薄色の服をつけて、竹馬に乗った小児(こども)のやうに、大跨(おおまた)に、ひょいひょい。

この奥さんがいい。

腹へおそなへを盗んだやうに、白い服の外からもだぶだぶ見える、大きな乳を、大道で、直ぐに飲ませさうな見脈(けんみゃく)をして歩行(ある)いたのは、四十恰好の女教師で、此の又つんづら短い事、横ぶとりに肥った事。顔といひ容子(ようす)といひ、ぶくぶくした工合(ぐあひ)、真鰒(まふぐ)を風呂敷に包むだやうで。

昔のアメリカ・マンガ「ジグス&マギ-」を逆にしたようなカップル。
こういう描写にも明治の匂いがたちこめている。

286

明治の美人はどういうスタイルだったのか。

古代紫の頭巾を深く、紫紺縮緬の肩掛を無雑作(むぞうさ)に引かけて、鉄御納戸(おなんど)無地のお召し縮緬の薄手なコオト、絹手袋の紺淡く、ほっそりと指の長いのが、手提げの旅行鞄(かばん)繻珍(しゅちん)の信玄袋を持ち添えた、丈だちすらりと、然(しか)ればこそ風には堪えじ柳腰、梅の薫りを膚(はだえ)に籠(こ)めて、艶(えん)に品好き(ひんよき)婦人である。

泉 鏡花の『紅雪録』(明治37年)に登場する女性の描写である。こうした風俗はもはや想像もできないが、それでも楚々とした美人の姿が眼にうかんでくる。
小説のなかに女性の衣装や持ち道具を描く場合、その風俗が消えてしまうと、その小説もその部分から風化して行く。それは間違いないのだが、すぐれた作家の描写は、時間の腐蝕のあと、思いがけないかたちで、後世の読者に新鮮な驚きをつたえてくるだろう。
泉 鏡花の「女」の姿態は、なぜかノスタルジックな、しかし、あざやかな魅力を見せてくれるような気がする。
(つづく)

285

意志がつよいひと。それだけで誰もが尊敬してくれる。
しかし、よく見るがいい。やりたいと思ったことをやったというだけじゃないか。
女にもいる。自分の意志がつよいと思っているひと。
そういう女には近づかないほうがいい。
やりたいと思ったことをやらなかっただけじゃないか。あるいは。やりたくないと思ったことをやってきただけではないか。

284

芥川龍之介の語学力は非常に高いものだったと思われる。
(1) ところが、「僕等の語学的素養は文芸上の作品の美を捉える為には余りにも不完全」だから、西洋の詩文の意味は理解できても、その作品の「一字一首の末に到るまで舌舐めずりをする」ほどには味わえない、という。(「文芸的な、あまりに文芸的な」)
いまの翻訳家にしても、いくらかおなじ嘆きを抱いている人はいるだろう。
(2) その三年前にも、芥川龍之介は、
「僕の語学の素養は彼等(外国の作家、詩人)の内陣に踏み入るには浅薄を免れなかった」という。そして今も外国の詩人の音楽的効果を理解できない、とする。
(3) 僕に上田 敏と厨川白村とを一丸とした語学の素養を与えたとしても、果して彼等の血肉を啖ひ得たかどうかは疑問である。」(「僻見」)という。
私の考えは以下の通り。
(1)は、芥川龍之介のように非常に高い語学力をもった人なら当然の意見で、この論理から、野上 豊一郎のような翻訳論を展開するのは愚劣である。ある国語にまったく違う文脈のものを移植する作業は、円周率の計算を出すようなもので、未来永劫、原作と同一の結果が出るわけではない。つまり、翻訳は「一字一首の末に到るまで舌舐めずりを」しながら訳したからといって名訳ができるわけではない。
(2)については、芥川龍之介の謙虚を見るべきだろう。と同時に、(3)は、上田 敏と厨川白村に比肩するひそかな自負を見ていい。
現在の私たちは外国について、語学的にも、情報量も、芥川の時代とは比較できないほど優位に立っている。しかし、翻訳が楽になったわけではない。だから、「僕等の語学的素養は文芸上の作品の美を捉える為には余りにも不完全」という思いは、私たちにも共通しているだろう。
私が志賀 直哉を軽蔑するのは、戦後すぐに国語のフランス語化を提言するような愚劣なもの書きだったことによる。野上 豊一郎に反発するのは、彼の「翻訳論」に、日本語は外国の文芸上の作品の美を捉える為には余りにも不完全だから、その意味だけを訳せばよいとする無能と、原文を理解するなら直接、その言語に当たるべきとする大正教養派の傲慢を読むからである。

283

小説を書く。舞台に立つ。芝居の演出をする。翻訳をする。
すべては、それまでの自分をまるで別のものに作り変えることことなのだ。
ところが、これがむずかしい。
自分を変えようとしたって、せいぜいもとの自分に似たものしか出てこないのだから。

282

小学生の私は腕白ぼうず、いたずらばかりしていた。学校から帰るとすぐに外に飛び出して、メンコ、ビ-玉、原っぱで忍術ごっこ、川っぺりでツブテ打ち。夜はラジオで村岡 花子先生の「子どものじかん」を聞くだけ。勉強は大きらいだった。
見かねた母(宇免)が学習塾に頼みに行ったが、面接で先方に断られた。途方にくれた母は、隣りのクラスの級長だった杉田(慶一郎)君のお母さんに相談した。たまたま杉田君の親戚で近くの酒屋の主人が書道の達人と聞いて、私をお習字に通わせることにした。 この酒屋さんは商売熱心な人だったが、習字の練習はきびしかった。この達人に、墨硯、筆づかいの初歩から教えてもらったことを生涯のよろこびと思っている。
酒屋さんの義兄の桜田さんは、水戸藩の剣道の達人だったが、杉田さんの縁で算数を教えてくれた。年配、四十五、六、頭を剃っていたので、禅寺の修行僧のように見えたに違いない。この人も外見は柔和だが、内面ははげしい人だった。
この人の母親、「桜田おばさん」も私にとっては忘れられない老女である。娘の頃の美貌を偲ばせるおばあさんだったが、私をまるで孫のように可愛がってくれたのだった。躾けのきびしい武家育ちで、品がよく、昭和になってお歯ぐろをつけていたので、子どもながらに驚いた。見たこともなかったから。
母からの届けものをしたとき、「桜田おばさん」は丁寧に手をついて、
「お使いがら恐れ入りました。お母さんに、どうぞこのようなごねんごろにはおよばぬとつたえてください」
と挨拶された。
何をいわれたのかよくわからなかったので、私はペコンと頭をさげて帰ってきた。
いまでも、私を可愛がってくれた「桜田おばさん」のことを思うと、なつかしい思いが胸にあふれてくる。
杉田君はきわめて優秀な人で戦後まもなく理学博士になった。

281

芝居を見る楽しさ。それは役者を見る楽しさにひとしい。
じつにいろいろな俳優、女優を見つづけてきた。それぞれの役者の一瞬の姿が眼に灼きついている。芝居を見る楽しさは役者を見る楽しさでもあった。
戦後の芝居を見つづけてきた人が、最近、三島 由紀夫の『鹿鳴館』を見た感想を私にメ-ルでつたえてきた。

ふと気づくと、眼前の舞台に、かつての中村(伸郎)・杉村(春子)、森(雅之)・(水谷)八重子、中村(伸郎)、村松(瑛子)、平(淑恵)・佐久間(良子)、(市川)団十郎、二世(水谷)八重子のそれぞれの舞台が映って、えもいわれぬ楽しさでした。言葉の上では知っていた「団菊爺い」の列に連なる年齢に私もなっていたのです。

私の眼にもそれぞれの舞台が灼きついている。きみがあげている俳優、女優たちには、ごくわずかな機会だったにせよ個人的に知りあい、親しく話をしたことのあるひともいる。だから、きみのいう「えもいわれぬ楽しさ」は、私のものでもあった。
ある時代をともに生きたという思いは私の胸から消えることはない。ただ、残念なことに、私はもう劇場に足をはこぶことがなくなっている。

280

自分では使わないことばを他人がどう使ってもあまり気にならない。
山本 夏彦は、自分が使いたくない表現として、「叩き台」や「踏まえて」といういいかたをあげていたらしい。剣持 武彦は、このふたつをあまり気にならないでつかっている、という。
その剣持 武彦がどうしても使いたくないことばとして、「もの書き」、「やぼ用」、「生きざま」をあげている。それぞれの語のひびきが卑しくかんじられるから。
私も、「叩き台」や「踏まえて」といういいかたはしたことがない。そうしたことばが使われる会議や、人種に無縁だったせいだろう。
たしかに、剣持 武彦のいうように「もの書き」、「やぼ用」という表現は、一見へり下ったような、てれかくしの自己表現で、使うときの心根の卑しさを感じさせる。
私は「生きざま」という表現は一度だけ使ったが、「やぼ用」は使ったことがない。しかし、「もの書き」はよく使う。「しがないもの書き」というふうに。たいしてりっぱな作家ではないからである。
私が嫌いなのは「なにげに」とか「よさげな」という形容。なにげにネコに眼をやると気もちよさげに眠っていた、といった表現。
ただし、翻訳で使うことはあるかも知れない。そのキャラクタ-にぴったりくる、と判断すれば。

279

鎌倉の東慶寺は何度か訪れたことがある。
境内に晩年の鈴木 大拙が過ごした松ケ岡文庫があるが、畏れ多いのでここには立ち寄らない。墓地には西田 幾太郎、和辻 哲郎、谷川 徹三などの墓があるが、どなたも存じあげないので失礼して、小林 秀雄の墓に詣でることにしよう。
ほかの方々の墓碑にくらべて、小林さんの墓は驚くほど小さい。しかし、そのゆかしさにこの思想家の姿が重なるようだった。
この墓から見て裏手にあたるのだが、裏山の中腹から上のあたりに、澁澤 龍彦のお墓がある。ひとつおいて磯田 光一の墓がつづいている。
澁澤 龍彦とは何度か酒を酌みかわしたことがあるが、磯田 光一とはコ-ヒ-を飲みながら話をしたことがある程度だった。それだけのことながら私にとってはありがたいことだった。
澁澤 龍彦、磯田 光一のふたりとも私にとっては忘れられない文学者なのである。

278

メェ・ウェスト。Queen of sexy quips.つまりは ハリウッド伝説の大女優。ブロンド、妖艶なまなざし、巨乳。男たちはひれ伏した。
1935年、大不況のさなかに破産寸前に追い込まれていたRKOが、メェ・ウェスト主演作一本で立ち直った。
彼女の「ことば」(wisecracker)には感心する。
男性遍歴を聞かれて、「ベイビ-、あたしは night school を出たのよ」と答える。
結婚について。
「結婚はりっばな制度よ、だけど誰が制度なんかになりたがるのヨ」
「二つのものを一つにするとトラブルね」
1932年、ブロ-ドウェイでヒットした舞台女優について聞かれたとき、
“I’m not a little girl from a little town makin’ good in a big town.”と答えた。
さらにつづけて、“I’m a big girl from a big town makin’ good in a little town.”と答えた。
あまりにエロティックだと見たハ-ストが口を出した。
「国会でメェ・ウェストをどうにかすべき時期ではないか」と。
ハ-スト系の新聞の論調はいまのアメリカにも見られる。

277

戦後、すぐにストリップショ-が流行した。
それまでのきびしい抑圧から解放されて、私たちに自由を実感させたのが女性のヌ-ドを見ることだった。舞台上で全裸の女性が静止した姿を見せる「額縁ショ-」が戦後の性風俗のさきがけになった。客が押し寄せたので、警察が介入した。
こういう現象は激動期の国には共通して見られる。
はるか後年、ベルリンの壁が崩れたとき、東ベルリンの市民が西側のポルノショップに殺到したり、ストリップショ-に眼を奪われたという。ソヴィエト崩壊の混乱のなかでも、まっ先に氾濫したのがポ-ノグラフィ-、ストリップショ-だった。
だから、日本でも戦後にすぐに登場したヌ-ドの「活人画」がストリップショ-のはじまりと思われている。しかし、これはあやまり。
芸者のお座敷芸はべつとして、舞台上のストリップショ-らしきものは、明治39年5月23日。日露戦争の終わった直後である。神田橋外、和強楽堂で開催された「東洋演説音楽会」というショ-のラストに登場した。
舞台に紅白の幔幕。その中央から幕が引きあげられると、「只見る、一人の裸体美人、両手に樹枝をかざして立てり」。観客は声をのんで見つめたにちがいない。
ただし、「満堂の視線、之(これ)に集まる刹那、幔幕は引き下ろされたり」という。 これを報じた「日本」の記事では「此瞬間、何等(なんら)活人画なるものに就いての感想は起らざるなり」と書いている。観客は、唖然、茫然、愕然、凝然、ただ声を失ったにちがいない。
しかも、俗謡の伴奏つきだったという。記者はこのショ-をはげしく非難している。
当時、内務省は美術作品の裸体画に対する弾圧をつよめていたことを考えあわせると、こんな記事からでも見えてくるものがある。(笑)

276

ずいぶん前に、通俗雑誌の挿絵画家、ノ-マン・ロックウェル展で、『イエス生誕を見守る人々』という一枚を見た。ノ-マン・ロックウェルは、雑誌の表紙にごく平均的なアメリカ人、とくに少年少女を描いたイラストレ-タ-。
だが、この『イエス生誕を見守る人々』は、画面中央に剣を抜き放ったロ-マ兵の下半身がえがかれ、それを囲むようにして善男善女たちが、イエス生誕を見守っている構図。描かれたのは1941年12月。うっかりすると、ただクリスマスを描いた宗教画にしか見えない。だが、この一枚はロックウェルが痛哭の思いで描いたことはひしひしとつたわってくる。
ところが、カタログには何も説明されていなかったし、美術評論家も何ひとつ解説していなかった。この絵を見たときから、私はこの美術評論家を信用しなくなった。
美術展のカタログには、たいてい勉強家の秀才たちの解説がついているが、そんなものを読むより、自分勝手に絵を見ているほうがよほど楽しい。
たとえばシスレ-の一枚。『森へ行く女たち』(1866年)。
田舎の村の真昼。石と煉瓦造り、似たような農家が三、四軒。乾いた道が斜めにのびて、手前に三人、女たちが立っている。ひとりが本か紙切れを手にして、三人が何か話をしている。やや離れて、道に馬車の輪ッカを立てた男。さらによく見ると、遠くの家の日蔭にも二、三人、女たちが立っている。みんなが森に行こうとしているのだろうか。
なんのへんてつもない風景。美術評論家もとりあげないし、シスレ-の代表作でもない絵なのに、いろいろ想像したくなる。
道に立って何か話をしている三人は何を話しているのだろうか。手にした本(パンフレットかも知れない)は何なのか。森に行くための地図だろうか。まさか。
当時、フランスの農民の識字率はきわめて低かった。したがって、通俗小説にしても文学作品とは考えられないし、森に出かけて行くときに聖書をたずさえて行くとも思えない。では何か。
手紙。誰からの? おそらく戦死公報だろう。どこから? マダガスカルから。
むろん、私の勝手な想像である。しかし、男がひとり、女たちからややうしろ、道に馬車の輪ッカを立ててたたずんでいるのはなぜなのか。
そんなことを想像しながら絵を見るのが私の楽しい悪癖のひとつ。

275

宝井 其角(1661~1707)に、
京町の猫かよひけり揚屋町
という句がある。つまらない句にしか見えない。むろん、ダブル・ミ-ニング。
たちまち、廓という異空間が見えてくる。
吉原の芸妓はもともと、仲之町と京町(横町とよばれていた)の二つにわかれていた。昭和初期に仲之町芸者は85名、京町に70名ばかり。
吉原芸者といえばほんらい仲之町芸者のことで、大店(おおみせ。おおだなと読むと、べつの意味になる。)に出入りするのは、仲之町芸者だけ。
横町芸者は見番制度をとっていた。玉(ぎょく)一本が30銭。2時間を一座敷として玉4本。お祝儀が2円40銭は1時間2本。祝儀90銭のきめだった。
明治の作家、福地 桜痴が、仲之町芸者を呼んでことごとく白無垢を着せ、当時いちばんの幇間、桜川 善孝を坊主に仕立てて、くちぐちに南無阿弥陀仏と念仏を唱えさせながら、精進料理で酒を飲んだのが法事遊び。たいへんな費用がかかったはずである。
品川楼の花魁、清司(せいじ)は客と心中した。その名をついだ二代目の清司(せいじ)は、初代清司の菩提をとむらうために、背中に南無阿弥陀仏、袖に卒塔婆(そとうば)、裾にしゃれこうべ、木魚、鉦(かね)などを模様にした白装束で客をとった。
昔の吉原にはそんな話がいくらでもある。
福地 桜痴の大尽遊びを羨ましいとは思わない。二代目清司(せいじ)の殊勝ぶりにも興味はない。さりながら、夜更けの新内流しや、火の用心に廓をまわる夜番の金棒の音を寝ざめの床でしんみり聞いてみたかったという思いがないわけではない。
そこで、其角の一句がなかなか趣きのある句に見えてくる。

274

めっきり数がへったけれど、たまに各地の同人雑誌が届く。
ずいぶん昔のことだが、ある雑誌でしばらく同人雑誌評をつづけていた時期があって、手もとに届いた同人雑誌は全部読んだ。
当時の私は、文壇作家とは違う次元を切り拓くようなもの書きがいるのではないか、という漠然とした期待をもっていた。
今でも全国的には、かなりの数の同人雑誌がでているものと思っている。ほとんどが経済的に苦しい条件のなかで発行されているのだろう。むろん、それぞれの同人雑誌に発表されている作品は千差万別で、ひとしなみに論じることはできないが、大別して三つにわかれている。
まず、他人にどう評価されようと気にしないで、自分たちのグル-プだけで作品を書いていればいい、というタイプ。これは詩や俳句の結社の機関誌や、地方で結束して営々と雑誌を出しているグル-プに多い。
もう一つは、たとえ誰にも読まれないにしても、同人雑誌で長く文学修行をつづけてきた人々の雑誌。こういう雑誌に書かれているものは、読んでいてまずあぶなげのない作品がそろっている。「季刊午前」や「季節風」、「星座」などをあげておこう。
最後にあげるのは・・・すぐれた主宰者をとり囲んで、お互いに切磋琢磨したり、和気あいあいとした雰囲気が感じられるグル-プ。三重県鈴鹿在住の清水 信を中心にした強力なグル-プもその例だろう。これについては、「きゃらばん」の庄司 肇が、「遠望す、清水一家」というエッセイを書いている。
これに対して清水 信は、「庄司肇ノオトA」を書いている。(「清水信文学選」63)これからのエ-ルの交換がおもしろくなりそうである。
同人雑誌を読む楽しみはこのあたりにある。

273

掲示板で、他人を傷つけるようなことばを見る。
差別まるだしの罵倒や中傷を流す。
見るに耐えないひどいことばがテジタル情報として流される。
こういう風景は、匿名性と無名性、自由と制約、大きく見ればヴァイオフィラスな生きかたとネクロフィラスな志向の相剋を物語っている。個人的なレベルでいえば、その人の品性、倫理感にかかわることで、ただちに社会的な荒廃につながる。
ITがこれからどういうふうに進化して行くか私にはわからないが、私自身は一つのル-ルをきめている。
けっしてラッダイトを書かないこと。
もの書きとしてこれは最低限のシネクァノン(必要条件)。

272

アメリカのコミックスを上位から人気順にあげると、
「バットマン」
「スパイダ-マン」
「Xメン」
「ス-パ-マン」
「ジャッジ・ドレッド」(これはイギリスもの)
「超人ハルク」
「ワンダ-ウ-マン」
「ジャッジ・ドレッド」は、まるでファシスト国家のような厳重な管理体制のなかで、中世の死刑執行人のようなヘルメットをつけて登場する。ほかのコミックは、ほとんどが正義の味方、悪の敵といった単純なキャラクタ-ばかりだが、「スパイダ-マン」だけは少しだけ内省的で、孤独な感じがある。
ある時期、ハリウッドがつぎつぎにアメリカのコミックスを映画化したが、ろくな映画が作れなかった。「ゴジラ」や「ス-パ-マリオ」の映画化のひどさを見てから、アメリカのコミックスにまで関心がなくなった。
ハリウッド映画が加速度的につまらなくなった時期。

271

TVアニメ「サウスパ-ク」は10年目に入ったが、長年、「シェフ」の役の声優をやってきたアイザック・ヘイズがしりぞいた。(CNN/06.3.15)。
このアニメが出発当初と違って、無差別に反宗教的な姿勢がひろがってきたためという。アイザック・ヘイズ自身が新興宗教「サイエントロジスト」の信者で、このアニメが「サイエントロジスト」を嘲弄したため、声優を続けるわけにはいかないというあたりにあるらしい。
「サウスパ-ク」は、アメリカの片田舎に住んでいる5人の小学生たち。ユダヤ教徒のカイル、デブでエッチでマセている悪童カ-トマン、毎回かならず死んでしまうケニ-、可愛い少女ウェンデイが好きなくせに、話かけられると、ヘドを吐いてしまうスタン。
この子どもたちの行動が、アメリカの偽善、道徳、倫理、常識(超保守派の女市長、無能で人種差別主義の校長たちに代表される)を徹底的にちゃかしたり、有名人をコキおろしたり、スキャンダラスな番組だった。
学校給食を担当している黒人の「シェフ」は、いつも少年たちの味方で、ときどき相談にのってやったり、短いエピグラムふうのセリフで、ピリッと皮肉や風刺をきかせる。ただし、いつもワキ役。
彼の特技は、しぶい声で春歌をご披露すること。(アイザック・ヘイズだから当然なのだが)ずっとあとの回で、両親がヴ-ズ-教の霊能者ということがわかった。
このアニメが10年も続いていることから人気のほどがわかるが、最近の「サウスパ-ク」はすでにピ-クを過ぎている。1999年から2000年にかけての、初期のエネルギ-、破壊力、創造性が薄れている。ハリウッド映画が力を失ってきた状況とおなじかも知れない。初期のビデオはWBで出ている。訳者の名は出ていないが、ス-パ-インポ-ズの訳がいい。私はいつも感心していた。
ビデオの入手がむずかしい向きは、DVDの「サウスパ-ク」(99年)だけ見てもいい。これには湾岸戦争当時のサダム・フセインが出てくる。
最近はAXN(45チャンネル)で見ることができるが、吹き替えなので、声優の違いもあっておもしろさは激減している。
残念だが。

270

中国の女流作家、林 白の短編を読んでいて、こんな一節にぶつかった。古い写真を見ながら、主人公の胸によぎる思いは・・・

「彼女の声には、なつかしさと愛しさがとめどなくあふれ、人生の黄昏を迎えた老人が胸に刻み込まれた若い頃の恋を追憶するかのようだった。そういった写真は美しく、悲劇的で、死ぬまで忘れがたい」。

小説とは無関係に・・・このパラグラフから私の連想がはじまった。
老人がかつて若き日に胸に刻み込んだ恋を追憶する。さしてめずらしいことではない。
北アルプスに登っていた頃、大正池の近くから穂高連峰を遠く眺めていた老人を見かけた。おそらく昔、自分が登った山々をなつかしんでいるのだろう。その姿に胸うたれたことがある。「美しく、悲劇的で、死ぬまで忘れがたい」思い出。
眠れない夜に、かつて愛した女を思い出すことがある。
なつかしさと愛しさがとめどなくあふれるならいいのだが、小説と違って、そういう思い出がいつも美しいはずはない。まして、その思い出が幸福なものとばかりはかぎらない。私などは、いくら悲劇的などと気どってみても、今になってみると、われながら滑稽だったり、なんとも恥ずかしいことばかり。それでも逆説的に、そうした思い出が死ぬまで忘れがたいことになる。
ただし、最近の私ときたら、死ぬまで忘れないどころか何もおぼえていないかも知れない。(笑)ひどい話だ。
林 白や遅 子建などの女流作家については別の機会に書くつもり。忘れなければ。

269

東京都内の霊園におもしろい墓石が作られた。(06.3.17)
高さ130センチ、合同葬、黒御影石の墓石の表面にパソコンが埋め込まれて、磁気カードで読み取る方式。
満開のサクラ、花火といったイメ-ジ画像が流れてから、故人の氏名、生没の年月日、写真が出てくるという。約90秒。
核家族化、単身世帯、低価格で、合同葬の墓が急速にふえ、すでに500基もあるという。パソコンが設置された墓もめずらしくなくなるだろう。
どうせなら、スクリ-ンで故人の生前の姿が語りかける、とか、ホログラフで故人の姿がボゥ-ッと出てくる、なんて趣向はどうだろう。
いっそのこと、故人の命日になると、そういうヴァ-チャルなCGイメ-ジを、各家庭に配信したら。
死ぬやつも、あらかじめ配信先をきめておく。失恋した昔の恋人のTVに、突然出てきて、ウラメシヤ-なんて。自分の作品の悪口を書いた批評家に、作家が出てきてウラメシヤ-。きっと、ウラメシヤ-・スト-カ-なんていうのも出てくるね。
みんなにわかに信心深くなったりして。(笑)。
おもしろいねえ。ゴ-ストもののホラ-なんかメじゃないね。(笑)。