308

アゴタ・クリストフは、1935年、ハンガリ-で生まれた。母国語はハンガリ-語。9歳でドイツ語、11歳でロシア語。これだけで、母国、ハンガリ-の運命が想像できるだろう。
スウィスに亡命して、1986年、フランス語で書いた『悪童日記』で世界的に知られた。フランス語も彼女にとっては未知の言語だった。
彼女はいう。フランス語は三十年前から話している。二十年前から書いている。それでも、いまだにこの言語に習熟していない。話すときには語法を間違えるし、書くためにはどうしても辞書をたびたび参照しなければならない、と。
アゴタ・クリストフのような作家でさえそうなのか。
私は、長年、外国語の勉強をしてきた。フランス語も少しだけ読める。イタリア語はもっと少しだけ読んできた。今は、中国語をほんの少しづつ読んでいる。それでも、外国語で小説を書くなどということは到底考えられない。
私にはもともと外国語を勉強する能力がなかった。だから努力をしてきたと思っている。なんとか翻訳をつづけてきたのは、外国語を勉強することが「日本語との格闘」だったからだろうと思う。(注)

アゴタ・クリストフは、フランス語が「私のなかの母国語をじわじわと殺しつつあるという事実」をあげている。
文部科学省の連中は、そこまで考えたうえで小学校からの英語教育に何を期待しているのか。

(注)「日本語との格闘」は、作家、横光 利一のことば。

307

室生 犀星は70歳のとき、あるデパ-トの時計売場の女店員と知りあう。当時、19歳。初対面から惹かれる。
つぎに行ったとき、彼女に挨拶されてうれしくなる。
「あなたがぽかぽかと笑ってくれるので、それを見ていたら時計なんぞどうでもいいんだ」と考える。つづけて、「私はさういふ事が好きな男でありそのために小説といふ物を書き続けて来たのである」という。
夫人が亡くなって、少女は犀星のところに身を寄せる。3年後、犀星の死去の際、彼女はその臨終に立ちあった。
いまの私は心から犀星を羨ましいと思う。
私も「さういふ事が好きな男」だが、「そのために小説といふ物を書き続けて来た」わけではない。
やっぱり大作家は違うなあ。

306

きみは、外国、それもコロンビアで長年過ごしてきたという。
帰国してから、現在は東京で、シナリオ講座を受講しながら脚本、小説、詩を書いている。
「教室などでやはり白い眼で見られているようです。たぶんメンタリティーが半分外人ということでしょうか。外国人の眼で日本を見ている。」と。
私にいわせれば、脚本、小説、詩を書いてゆくうえで、そうした体験をもっているだけでもうらやましいかぎり。
私はコロンビアについては何も知らない。しかし、ルイ・ジュヴェの評伝を書いたとき、コロンビアについて多少なりとも調べたことがある。カルロス・イエラス・レストレボが「産業開発協会」を設立して、中小企業を育成したという一行を書くために、コロンビアの経済書を何冊も読んだ。それは、ルイ・ジュヴェが劇団をひきいてボゴタに行ったときのコロンビアの社会を読者に知ってもらうためだった。ホルヘ・ガイタンが暗殺されたことにふれたのも、ジュヴェの滞在した当時のラテン・アメリカの状況を暗示するためだった。
コロンビアのアレーパが、フランス人の口にあわなかったこと。舞台に立つ俳優の仕事が、じつは重労働に近いため、コロンビア米に、肉、焼きバナナ、豆程度の食事では栄養のバランスがとれなくなることも書いた。
私のようなものでも、一つの作品を書くためにどれほど調べたり、読者のために気配りをしているか、わかっていただけるだろうか。
ほかの人から白い眼で見られている。それこそが、きみにとって他にぬきん出るチャンスではないか。日本人に特有のじめついた白眼、無意識の差別、そんなものははじめから無視したまえ。気にすることはないのだから。もし、きみがほんとうに「メンタリティーが半分外人」だったら、それだけでもおもしろいではないか。それに、「外国人の眼で日本を見ている」ことが私たちにできるのだろうか。
これも文学的に大きな主題になる。

――(「未知の読者へ」No.3)

305

博識について。
きみは私を博識といってくれた。そのことをありがたいと思う。
しかし、私は、若い頃からずいぶん「博識の人」を見てきた。
たとえば、「世代」の同人たち。なかでも、いいだ ももの博識ぶりにはおどろかされたものだった。横光 利一の初期の短編に、自分が何かを読むと、相手はすでにそれ以上のものを読んでいて、自分がすぐにそれを読むと、相手はさらにもっと上のものを読んでいる、といった内容の作品があったが、私が何か読んでも、いいだ ももがとっくに読んでいた。後年の、いいだ ももの仕事を見ても、そのおどろくべき博引旁証を知ることができる。
個人的に知りあえた批評家でも、私などの及びもつかない博識の篠田 一士や、磯田 光一がいた。
そして、澁澤 龍彦。さらには、種村 季弘、松山 俊太郎。
私は、この人たちと話をしながら、いつもその光彩陸離たる座談に眩暈のようなものをおぼえたものだった。
だから、私は自分を博識だと思ったことはない。ただ、いろいろな仕事をしてきたので、多少なりと勉強してきたにすぎない。
ただ、こういうふうにはいえるだろう。
ある人が私より博識だということは、その人が私たちの内部にひそんでいるものを、私とは比較にならないほど、みごとに自分の身にひきつけている、と。
そういう人の博識はすばらしい。逆に、クイズ番組に出てくるような博識の連中などに少しもおどろくことはない。

――(「未知の読者へ」No.2)

304

たまに「コージートーク」を読んだ人からメールがある。こんな小さなエッセイでも誰かが読んでくれている。うれしいかぎり。
今回のメールは――若い頃から中南米を放浪して、現在は東京で、シナリオ講座を受講しながら脚本、小説、詩を書いている人から。かりに「Sくん」とお呼びしよう。
いろいろとお答えしたい内容なのだが、まとめて返事を書くことができないので、とりあえず、ひとつのことを考えてみよう。
「やり過ぎ、一つに集中すべし、ということは分かっているのですが、やはり全部やりたい。これも何かの病気かもしれませんね。まあその性癖のおかげで、先生の広範なテーマのコラムが好きなわけですし、こりゃ先生も同病じゃないだろうかと勝手に想像したりして、ますます親近感が沸いてくる次第です。」
まったく無名とはいえなかったが、まだ、自分のめざす世界の見当もつかなかった頃、先輩の方々によく忠告されたものだった。中田君は創作だけに集中すればよかった。そうすれば作家になれたのに、と野間 宏にいわれた。中田君は語学をやらなければいけません、そうでないと、十返 一のような(軽)評論家になってしまう、と荒 正人にいわれた。きみは批評よりも戯曲を書いたほうがいい、と内村 直也がいってくれた。
ようするに、気が多い、一つのことに集中したほうが成功できる、という忠告だったと思う。今、思い返してもありがたい助言だったと思う。
ただ、このときから自分なりに考えた。一つのことに集中する、ということは、自分を作り直すということなのだ、と。しかし、これがそう簡単にはいかなかった。
当時の私は、イギリスの戯曲を熱心に読みあさった。誰も読まないらしく、古本屋の片隅に埃をかぶっていたから。だいいち値段が安かった。内容もやさしいように見えた。戯曲を読むことのむずかしさに気がつかなかった阿呆が、私だった。
アメリカの詩を読んだ。短いので、簡単に読めるからだった。
こうして「勉強」らしいことをはじめたのだが――結果はごらんの通りのていたらく。今の私の語学はいまだにあやふやで、おまけにそろそろボケてきているので、ほんとうに語学を身につけることができなかった。
ただ、こういうムチャな乱読のおかげで、ノエル・カワードも、アーチバルド・マクリーシュも、W・H・オーデンも、何もかもごった煮になって私の内部にひしめきあうことになった。
アメリカの詩人を読んだといっても、系統的に読んだわけではないので、ホイットマンからシルヴィア・プラス、ミュリエル・ルケイザー、エミリー・ディッキンスン、とにかく手あたり次第に読みつづけた。
小説もおなじことで、偶然に手にとった作家は、私にとってはすべて未知のものばかり。とにかく読むしかなかった。
だからといって「気が多い」ことにはならないだろうと思う。
それに、小説を読むのは楽しみのためで研究するためではなかった。いい小説を読んだとき、自分の思考が、不意にそれまで考えもしなかった豊かなものになる。自分では想像もしなかったほどの深みに達している。そう思える瞬間がある。
そういうとき、眼がくらむような思いで立ちつくすような眩暈におそわれる。
私はいつも好きな作家をそんなふうに「発見」してきたのだ。
これだって「一つのことに集中」することにならないだろうか。

――(「未知の読者へ」No.1)

303

フィルムを焼き捨てる。もともと残しておく必要のないものばかり。
それぞれの写真にはその一枚を撮ったときの思い出が重なっている。しかし、他人が見てもまったく興味がないだろう。なかにはヌ-ドもあった。
写真は私の記憶をよみがえらせてくれる。ときには、その思い出があざやかにひろがってくる。ふと、その頃のことを書いてみようかとも思う。たいていは書かない。書こうと思ったことさえもじきに忘れてしまうのだが。
一時、カメラに凝っていた。ハッセルブラッドがほしいために通俗小説を書いていた時期もある。今は、わずかばかりのカメラも戸棚の隅に放り込んだきり。デジタルカメラの登場で、私のカメラの運命も終ってしまった。
いまさらながら技術の進歩の速さにおどろいている。まさか写真の現像技術がこれほどあっさりとデジタルに転換してしまうとは想像もしなかった。
ひさしぶりにカメラを手にとると、ずっしりとした重みがつたわってくる。未使用のフィルムもまだ少し残っているのだが、もうカビだらけになっているか、カラ-フィルムは褪色がひどく、いま現像してもボヤけてしまっているだろう。
残念だがみんな焼き捨てよう。
カメラばかりではない。
エボナイトからLP、ハイ・フィデリティ-からステレオ、CD、ビデオからDVD、ワ-プロからPCという変化を見つづけてきた。ただし、心の隅では、そうしたテクノロジ-の驚異的な進歩にいつもふりまわされつづけてきた自分が情けない気もする。

302

この前、真昼の電車のなかで、若い女ふたりが、スラングまじりで、あけすけに自分のセックス体験を話していたことを書いた。
羞恥を知らない、下司な女どもにあきれたからだった。
むろん、電車のなかで若い女性がセックスを話題にしたっていい。
ベルトラン・タヴェルニエ監督のフランス映画「ひとりぼっちの狩人たち」(“L’APPAT”/95年)のオ-プニングで、電車のなかで、少女ふたりが雑誌の性記事を話題にしていた。この映画のヒロインは、美少女のマリ-・ジラン。
映画なら、こういうシ-ンを許して、日本の若い女が、露骨にセックスを話題にするのが不愉快だったというのは、不当ではないか、といわれた。
私のいいかたが、セクシュアル・ハラスメントに当たるのだろうか。

301

最近、ビデオで見た映画。「アメリカン・ブライド」。昔、見たのだが、何もおぼえていない。原作がマリオ・ソルダ-ティ。妻の兄が、ハ-ヴェイ・カイテル、その妻がステファニア・サンドレッリ。
イタリア人の大学教授。しずかな知識人。安レストランで働いているウェイトレスの「イ-ディス」に恋して、やがて結婚する。おやおや、どこかで見たことのあるテ-マだなあ。(すぐに「リタと大学教授」や「恋愛小説家」などを思い出した。)
妻の兄「パ-セル」は、主人公とは対照的で、実際的で、何につけ屈託がない。建築の現場監督。その妻「アンナ」はおどろくほど美貌。
主人公は結婚式ではじめて「アンナ」に紹介されたときから心を惹かれる。
何もかもありきたりの「メナ-ジュ・ア・トロワ」。そして不倫。
「イ-ディス」は夫と親友の不倫に気がついたが、すぐに脳腫瘍であっけなく亡くなってしまう。「アンナ」にも去られて孤独になった大学教授は、アメリカに帰化しておしまい。(おいおい、マジかよ? 安手なクロ-ジングだなあ。)
見たあとすぐに忘れてしまうような映画だった。こんな駄作でも登場人物それぞれの孤独感がにじみ出ているような気がしたのは、やはり俳優、女優がいいからだろう。
どこか一か所でも光っていればいい。それを「発見」するのが、映画を見る楽しみなのだ。

300

夜はもう過ぎ去っているが、まだ朝はやってこない。太陽は、姿を見せるのをためらっている。通り過ぎてゆく車もなく、暗い灰色の靄のなかに街じゅうがしすかにうかびあがろうとしている。どの通りも空虚な時刻。そんなとき、ひどく孤独な気がする。
いろいろなことを考える。友人が体調をくずした。別の女性が仕事を終えて帰宅したあと、頭が重くなると訴えてきた。また、別の友人は、気鬱になって仕事をやめてしまった。 私は、そういう知らせを聞くとひどく動揺する。
毎日、誰かしら他人と接触している。日々の暮らしのなかや、さしたることのない偶然のなかで。そうしたふれあいが喜びをもたらし、情熱を喚びさます。ときには、何ものにもかえがたい貴重な時刻(とき)をあたえてくれる。
だが、老人にとっては、すべてはひとつのことから発している。それは、どうしようもなく孤独であること。
老人は、誰しも、死のように避けられない、こうした孤独をおぼえるのだろうか。
私はそういう孤独を避けようとして何かを書いているのかも知れない。

299

夜はもう過ぎ去っているが、まだ朝はやってこない。太陽は、姿を見せるのをためらっている。通り過ぎてゆく車もなく、暗い灰色の靄のなかに街じゅうがしすかにうかびあがろうとしている。どの通りも空虚な時刻。そんなとき、ひどく孤独な気がする。
いろいろなことを考える。友人が体調をくずした。別の女性が仕事を終えて帰宅したあと、頭が重くなると訴えてきた。また、別の友人は、気鬱になって仕事をやめてしまった。 私は、そういう知らせを聞くとひどく動揺する。
毎日、誰かしら他人と接触している。日々の暮らしのなかや、さしたることのない偶然のなかで。そうしたふれあいが喜びをもたらし、情熱を喚びさます。ときには、何ものにもかえがたい貴重な時刻(とき)をあたえてくれる。
だが、老人にとっては、すべてはひとつのことから発している。それは、どうしようもなく孤独であること。
老人は、誰しも、死のように避けられない、こうした孤独をおぼえるのだろうか。
私はそういう孤独を避けようとして何かを書いているのかも知れない。

298

五代目、菊五郎の舞台は見たことがない。私が生まれる前に亡くなっている。
その五代目が「戻橋」(もどりばし)を上演したとき、大道具の棟梁(かしら)を呼んだ。何かの図面を出して、
「すまねえが、この寸法で作ってもらいたい」
「何ですィ、これあ」
いぶかしげに棟梁(かしら)が訊くと、
「橋の図面さね。京都の知り合いに手紙を出して聞きあわしたんだよ。見物(観客)の眼には、そこまではわかるめえが・・」
「わかりました。作りましょう」
棟梁(かしら)がきっぱり答えた。
この話、母から聞いた。
六代目(菊五郎)の舞台は私も見ている。戦時中のこと。むろん、何がわかったわけでもない。ただ、綺麗な役者だなあ、と思っただけだった。
菊五郎をかかさず見に行っていた母が、ある日、帰ってくるなり、
「ひどいんだよ、あの人は。お客を見て、踊りを半分もはしょるんだからねえ」
ぶんぷんしていた。
六代目は「娘道成寺」を踊ったが、客の顔を見て、途中の踊りをすっぽり抜いて、早く切り上げたらしい。観客はもともとそういう演出だと思っているから、誰も不審に思わない。母は三味線をやっていたから、気がついたらしい。
「いくら(踊りの)名人だて、ああいうこたぁ、やっちゃあいけないねえ」。
母は六代目(菊五郎)を見に行かなくなった。

297

1998年3月下旬のこと。
東京まで1時間近く電車に乗る。たいてい眼を閉じているのだが、乗客の話が耳に入るときもある。
途中で、若い女がふたり乗ってきた。午後1時過ぎ。
エスニックふうの薄いペラペラの衣装、ひどく派手な原色。ふたりともかなりの肥満体で、まるでお相撲さんのような体型だった。はっきりいって、BUSU。
席につくなり話のつづきをしゃべりはじめたが、あたりかまわず笑いころげ、お互いに肘で突っつきあったり、傍若無人にふるまっていた。
話題はミュ-ジシャンのこと。私の知らないグル-プの誰かれの話ばかり。どうやらロックグル-プの追っかけらしい。
混んでいる車内で、若い女たちが楽しそうに好きな音楽の話をしているだけなら、別に咎められないだろう。しかし、話題は露骨にセックスのことばかりだった。
若い女が誰とセックスしようといっこうにかまわない。しかし、話のなかで、
「この前、XXとファックしちゃってさあ」とか、「XXのプリック、こんなノ。笑っちゃった」などと、隠語まじりで露骨な話をしているのにはあきれた。
女性が性的に自由であることはいい。しかし、電車のなかで声高に自分が寝た相手のことをあけすけに話す、というのはちょっと信じられなかった。
まるっきり羞恥心もなければ慎みもない、下司な女ども!

296

ヨ-ロッパ・ツア-に行った人の話。パリでのこと。
一行に、おもしろいお坊さんがいた。
パリには、どんな裏通りにも歴史の重みがずっしりとつもっている。しかし、パリに着いた坊さんは、歴史などに眼もくれない。観光客の行く名所にも興味はなかった。ただ、ほかのツア-客について歩くだけで、カフェ、ビストロにも立ち寄らない。
ひたすら買い物に熱中していた。いわゆるブランドものばかり。
パリ到着の日から、坊さんは、上から下までグッチで身を固めたのである。パリは、彼にとってはグッチであった。
パリの毎日は、ブランド品の「移動祝祭日」であった。
帰国したあと、その話を聞いた私は、この坊主に「グッチ坊主」というあだ名をたてまつった。もともと読経がヘタで、ろくにお説教もできないクソ坊主だった。
いまでは死語になっているが、「まいす」ということばがある。売僧と書く。中世の「狂言記」に出てくるが、一昔前の時代小説でも、良く見かけた。
ことばは死語になってしまったが、現実に「まいす」はこうした「グッチ坊主」のような姿で生き残っているのだった。

295

子どもの頃から、メガネをかけていた。
近眼の度は、ある年齢に達すると進まないという。ところが、私の近眼はいつまでも度が進んだ。だからド近眼であった。へんな話だが、いつ頃からか、すこしづつ昔に戻って、よく見えるようになってきた。老眼になったせいなのか。あまりメガネが必要ではなくなってきた。
本を読むスピ-ドは落ちたが、読みたい本、買ったまま読まずにいた本、一度読んでみたが、どうもよくわからない本などがいっぱいあるので、読まないわけにはいかない。
ずっと昔に読んだときは感心したのに、いま読み直してみるとそれほどに思えなかったり、昔に読んだときはあまり感心しなかったのに、読み直してみて、何も読めていなかったことに気がついたり。私の「文学講座」は、そうした「読み直し」の一歩なのである。
「ロシアに不美人はいない。ウォッカが足りないだけだ」という諺があるという。
それをパクッて(よくいえば、パラフレ-ズして)、
「日本の女たちに不美人はいない。なにしろいまの私にはメガネが必要ではなくなってきたから」
うん? シャレにもならないか。

294

バカは差別用語。使ってはいけないといわれた。
小説のなかで、登場人物が相手に「バカ野郎!」とあびせる。この罵声が使えるのと使えなくなるのでは、性格設定も効果も違う。そこで修正した。
「バカ野郎。いけねえ、こいつは差別用語だったな。この頭のお不自由な野郎!」
いらい私は自作で「バカ」ということばを使ったことがない。

「新明解国語辞典」(三省堂)に用法が出ている。
心を許し合える間柄の人に対しては親近感をこめて何らかの批判をする際に(と、ことわったうえで)「あのバカが、またこんなことをして」。
女性が、相手を甘えた態度で非難していうことば。「ばかばか」。
いいねえ。こういう辞典が出てきたのはうれしい。

例によって、少し脱線しよう。
女性が、相手を甘えた態度で非難していうことばに、「知らない」といういいかたがあった。「ばかばか」といって「知らない」と口をとがらせる。
「あのう、」
「どうしたのさ」
「あのう、」
「あのう・・」
「知らなくッてよ」と肩を揺って「知らないわ、わたし」

明治38年の日本には確実に棲息していた「女」の種族だが、いまどきこんな女の子はどこにもいないだろう。泉 鏡花の『胡蝶之曲』に出てくる。

293

子どもの頃から、毎日、活動写真を見ていた。むろん、それなりに理由がある。
私が小学校に入学したとき、栄一君を別の小学校に入学させたおばさんと、私の母が知り合いになった。このおばさんは、母より年上だったが、芸者あがりで、活弁(活動写真の解説者)に落籍(ひか)されて栄一君を生んだという。
活弁のおじさんは中年の、堂々たる風貌で、活弁時代は人気があったらしい。
ト-キ-時代になって、活弁たちがぞくぞくと失職するなか、おじさんは活動写真の小屋(劇場)を手に入れて、ドサまわりの小芝居の演芸場にした。無声の活動写真と発声映画が新旧とりまぜて上映されていた時期で、やがてPCL(「東宝」の前身)が発足したとき、映画館に改装して成功した。
私は、自分のクラスの子どもたちと遊ぶより、栄一君と遊ぶようになった。遊びにあきると、映画館の二階の席にもぐり込む。「関の弥太っぺ」とか「自雷也」といった活動写真を見た。毎日、栄一君のところに遊びに行くのだから、毎日、おなじフィルムを見るのだった。栄一君は一度見たフィルムは二度と見なかったが、私は何度もおなじものを見るのだった。「四谷怪談」は一度見たが、あまりおそろしかったので、二度目に見たときは、こわいシ-ンになる前に横になって、そのシ-ンが終わるまで見ないようにしていた。 たくさんの俳優、女優の顔と名前をおぼえた。

292

私は忘れない。
ヴェトナム、メナム河口に、ドイツの赤十字の病院船(3000トン級)が碇泊していた。敗戦国ドイツは、ヴェトナム人のために、多数の医師、看護婦を派遣していた。
おなじ時期、日本からは、わずか数人の医師たちが善意から個人的に診療していただけだった。その診療期間も、わずか数カ月だったことを。

291

たいした理由はないのだが、かなり長い期間、CDを聞かなかった。
久しぶりにポップスを聞いた。

私が最初に選んだのは、林 青霞の「東方不敗」。徐 克の映画のサウンド・トラック。デスクに積んであったCDをとっただけだったが、あまり元気がなくなると、「白髪魔女伝」や「青蛇伝」や「倩女幽魂」といった映画を見ることにしている。
「東方不敗」は徐 克の映画の傑作の一つ。この映画の主演女優、林 青霞は「天地酔」と「只記今朝笑」の2曲を歌っている。私は林 青霞が好きだった。
それからはひたすら音楽を聞くことにした。
白光、李 香蘭、チョウシェン、張 露たちまで。もう70年も昔の歌姫たち。いまどき、戦前の彼女たちの曲を聞くもの好きはいないだろう。なにがなしノスタルジックな悲しみが私の心に響いてくる。
そのあと、ドゥルス・ポンテスを聞く。胸をえぐりつけてくるような悲しみ。

290

2005年、当時、IT産業の「ライブドア」の社長だった堀江 貴文の人気は絶頂で、「ホリエモン」と呼ばれて、たえずマスコミの注目をあつめていた。
マスメデイアに進出しようとして株式の大量取得に成功したり、選挙に立候補したり、その行動に声援を送った人も多かった。
やがて、会社ぐるみの粉飾決算の容疑で逮捕された。東京拘置所に収監され、「ホリエモン」の栄光は失墜した。(その後、3億円の保釈金で保釈された。06.4.27)
全盛期の彼のことばをおぼえている。深夜のレストランで食事をとりながらインタヴュ-をうけたとき、彼はいった。
「最高の食材を、最高のレストラン、最高のシェフの料理で味わうのが最高の贅沢というものだ」といった。
連日、深夜過ぎまでマスコミに追いかけられるのだからたいへんだなあと同情したが、こういう無邪気さが彼の人気をささえていたのかも知れない。私たちの精神の奥底には、いつもこうした人物に対する無意識の崇拝(worship)、ひそかな羨望、嫉視がひそんでいる。私は、こういういいかたに、「ホリエモン」の人間としての倨傲を感じたが、むしろ、精神的な貧しさに憐憫をおぼえた。

ある俳優のことばを思い出す。
「一流の劇作家の脚本を、一流の劇場、一流の俳優で上演して成功することなど、たいしたことではない」。
ルイ・ジュヴェ。
「ホリエモン」とはまるで関係のないことだが。

289

サッカ-W杯をあと1カ月にひかえたベルリンでは、それぞれの小学校に出場国の応援をふり当てている。
日本を応援することになった小学校では生け花、アニメの模写などを通じて、それまで知らなかった日本について子どもたちが勉強している。これはいいことだと思う。
この子どもたちは日本のことを勉強しているのではない。未知の世界を発見するのだ。これをきっかけにずっと日本に関心をもつ子が出てくるかも知れない。
たいした費用もかからないはずで、こうした現場にドイツ的なプラグマティッシユな姿勢がある。日本の文化官僚にはこうした発想はない。
こういう実際的で、長い目でみれば大きな効果のある教育こそ、文部科学省としては考えてしかるべきではないか。
日本でも、おなじようなことをもっと早くから、そして継続してやっておけば、世界に対する理解がひろがっていたと思われる。文部科学省あたりが考えてしかるべきこと。外国の中高生を二、三人、せいぜい一週間か十日、ホ-ムステイさせる程度で国際協力の実があがるといった、いつも目先のことしか考えない、自分の出世に関係のないことは考えない連中ばかりだから、実現はむずかしいだろう。