328

岡本 綺堂のお墓に詣でたことがある。
青山墓地に桜を見に行って、たまたま尾崎 紅葉の墓に立ち寄った。すぐ近くに岡本 綺堂のお墓を見つけたので合掌した。はるかな時代の作家に敬意を払うのもわるくない、その程度の気もちだった。
綺堂は『半七捕物帳』の作家として知られているが、劇評は貴重なものだし、劇作家としての綺堂は、逍遙、鴎外などよりすぐれていると思う。中国の古典にも造詣が深い。ほんとうは綺堂のような人こそほんとうの知識人と見ていい。
晩年の綺堂は、中国古典の志怪の書を訳した。その凡例に、

訳筆は努めて意訳を避けて、原文に忠ならんことを期した。しかも原文に拠ればとかくに堅苦しい漢文調に陥るの弊あり、平明通俗を望めば原文に遠ざかるの憾(うら)みあり、その調和がなかなかむずかしい。殊に浅学の編者、案外の誤訳がないとは限らない。謹んで識者の叱正を俟(ま)つ。

翻訳者なら、誰しもおなじ思いを知っていよう。しかも、綺堂訳は、なまなかな研究者のおよびもつかない名訳といってよい。
私は岡本 綺堂に敬意をもっている。お墓に詣でたのは偶然だったが、うれしかった。

327

宋定伯という男が夜道を歩いていた。その道で人に会った。
「あんたは誰だ?」
と尋ねると、
「おれは鬼(クィ)だよ」
相手が問い返してきた。
「あんたは誰だ?」
という。
「おれも鬼(クィ)なんだよ」
そ知らぬ顔で、いい返すと、
「どこに行くんだ?」
「宛(えん)の市場に行くところさ」
「おれもそこに行くんだよ」
そのままつれだって数里行くと、鬼(クィ)が、
「疲れたな。交代でオンブしよう」
鬼(クィ)がまず宋定伯を背負って、また数里行くと、
「あんた、やけに重いぜ。鬼じゃないんじゃないか」
「死んだばかりなので重いんだよ」
こんどは定伯が鬼を背負ってやったが、まるっきり重くない。何度か交代して、宋定伯が訊いた。
「じつは、おれは死んだばかりなのでよく知らないのだが、鬼は何が苦手なんだい?」
「人に唾を吐きかけられると、ひとたまりもない」
さて、このつづきは伏せておく。
この引用は、私なりに書き変えたものだが、中国の『列異伝』に出ているという。岡本 綺堂の『中国怪奇小説集』(本間 祥介・解説)で知った。
こういうお話が好きなのだ。私に才能があったら、これを脚色して、不条理劇にするか、子どもむきの絵本にしたいところだが。
もう三十年ばかり昔だが、香港で怪奇ものの映画を数本見てから、中国古典の志怪譚(ホラ-)に関心をもってきた。数年前に、墨子についてエッセイを書いたのも、『明鬼篇下』を読んだせいだった。怪奇現象をとりあげて、その実在を論証しようとしたもの。
私にはむずかしい内容だったが、墨子は孔子さまを痛烈に批判している古代中国の思想家。よくわからないのに、私は墨子を尊敬している。
今年の夏は、また中国古典の志怪譚(ホラ-)を読もうか。

326

旅ゆけば、駿河の国は茶の香り・・
広沢 虎造の名調子は小学生でも知っていた。
いまのようにテレビがあるわけではなく、ラジオで聞くだけだったが、「石松代参」のオ-プニングが聞こえてくると、一言一句聞きもらすまいと、ラジオにかじりついた。
浪曲のファンだったわけではない。だから鼈甲斉 虎丸の「安中草三」を聞いてもわからなかったし、木村 重友の「河内山」や寿々木 米若の「佐渡情話」を聞いても、魂を奪われるような感動はなかった。
広沢 虎造だけに夢中になった。
「おう、江戸っ子だってねえ。寿司食いねぇ」
渡し舟に乗りあわせた客の話にうれしくなった「石松」が、寿司をすすめるあたりになると、「石松」の有頂天ぶりが眼に見えるようで、思わず笑いがこみあげてくる。
その頃の浅草には、定席ではなかったが、江戸館、並木亭、遊楽館といった小屋がずらりとあって、春日 清鶴、東家 楽燕、天中軒 雲月といったそうそうたる顔ぶれがでていた。
浪曲の定席だった音羽亭が、金車亭になって、講釈に代わって浪花節が全盛を迎えようとしていた時期だった。むろん、講談がなくなったわけではない。一龍斉 貞山の「牡丹灯籠」なぞ、聞いているうちにぞくぞく総毛だってくるほど怖かった。
もう怖い話はまっぴらだ、と思いながら、「四谷」も「番町」もきっちり聞いているのだから世話ァない。
そのうちに、虎造のフシをとったコミックバンド、「あきれたブラザ-ス」が出てきて「地球に朝がやってくる」と真似をするようになった。
その頃の山ノ手の小学生たち、奥野 健男や北 杜夫たちはどうだったのだろうか。一度、聞いてみたかったと思う。

325

近頃、女優ということばを使わなくなったらしい。NHKでは、一時、「俳優」と統一したが、それはじきになくなった。ところが、最近、またぞろ復活してきたようで、女優さんが出るとテロップに、俳優 ・・・さんと出た。
冗談じゃないぜ、ほんとうに。怒りをおぼえた。
男女差別がなくなることには賛成だが、女優さんを俳優としてカテゴライズすることに、どういう意味、または必然性があるのか。
もともと女優という呼びかたはなかった。女役者という。
明治の頃の女役者としては、久米八などが有名だった。女だてらに浅尾信次と名乗った女役者の一座もあった。(このことから、当時の女性蔑視が見てとれるだろう。)
当時、大劇場といえば、いうまでもなく「帝国劇場」と「歌舞伎座」だった。
「歌舞伎座」が中村歌右衛門、福助、市村羽左衛門といった人気俳優をかかえていたのに対して、「帝国劇場」は松本幸四郎、尾上梅幸、沢村宗十郎、宗之助、中村勘弥などが座付き、これに益田太郎冠者が女優劇の一幕を出した。森 律子、村田嘉久子といった「女優」たちが登場する。それまで「女役者」と呼ばれていたが、「帝国劇場」が「女優」という呼びかたにしたのだった。
女優という呼びかたには、女性の社会進出を背景にしたはっきりした歴史がきざまれている。NHKなどが女優を「俳優」と呼ぶことが、女性の地位向上に役立つと考えているとすれば、かえって女性の解放の歴史を無視する暴挙だと思う。「女優」ということばひとつに、女性史の輝きが秘められているのだ。
そもそも Actor と Actress という違いを、すべて「Actor」としている国がどこにあるのか。
もし、NHKが「女優」ということばを抹殺するのであれば、私はあえて「女役者」と呼ぶことにしよう。料金も払ってやらないからな。おぼえてろ!

324

最晩年の荷風の日記は、連日、浅草に行く、という記述がつづいていた。おそらく日記に記録する気力が失われたせいだろう。浅草に行っても、いまさら新しい感動はなかった、つまり記述すべきこともなくなっている。それで、簡単な記述ですませたのかも知れない。死を前にした荷風にはもはや何も書くことがなかったのか。
毎日、浅草に出かけて行ったのは浅草の踊り子たちと話をしたり、食事をおごってやったりするのが楽しかったからだろう。これはわかる。老齢のため、市川に帰ってきて、疲れてしまって何も書けなくなっていたとも想像できる。
だが、連日おなじ記述を書きつづけたことに、べつの想像が許されるだろう。
荷風の内面には、吉原にかぎらず、どこを歩いても、過去にかかわりのあった女たちの「思い出」が油然とわき起こってきたはずである。そのいくつかは小説に描いた。だが、その思い出が切実なものであればあるほど、もう一度、それを反芻することになる。そのために荷風は日記に何も書かなかったのではないか。
どうしてこんなことを考えたか、といえば、吉本 隆明が「八十歳を越えた僕には(思い出)がなくなってしまった」と語っていることを知って、吉本とは関係なく、私の内面に荷風の日記がうかんできた。
荷風も、八十歳を越えて思い出がなくなってしまったのか。そういう荷風の姿は想像しにくい。

323

旅に出ることがない。だから駅弁も食べなくなっている。
新聞で知ったのだが、東日本の駅弁販売は、1993年に約890万個だったのが2000年には458万個まで落ち込んだ。ところが、最近は、1個、2千円、なかには3800円という高級な駅弁が売りだされて人気になっているという。
けっこうな話である。そういう駅弁を食べたい人は食べればいい。
ふと、思い出したことがある。日中戦争が激化していたころの話である。
あるとき、有名な作家三人が地方の文芸講演会に出かけた。
車中で駅弁を食べることになって、駅弁をひろげたが、丹羽 文雄は、白いご飯のまんなかに箸をつけて食べはじめ、おかずもおいしそうなものから食べて、いちばん早く平らげて、紐をぐるぐる巻きつけて座席の下にポンと放り込んでしまった。
石川 達三は、はじからご飯に箸をつけて、半分ほど食べると、紐を十字にかけて、座席の下に置いた。
高見 順は弁当箱のフタをとると、裏についたご飯つぶを丁寧に箸でとって口にはこんでから、ご飯の隅からきっちりと四角に箸をつけて、全部食べ終わると、もと通りにフタをして、紐をかけおわると自分の手荷物の上にのせた。
このときのようすを十返 一(評論家)が見届けて随筆に書いている。作家たちに同行したらしい。戦前の映画雑誌(たしか「エスエス」だったと思う)で読んだ記憶がある。このエピソ-ドは中学生の心に残った。十返 一の名前も。
私は、この作家たちの小説をまったく読んだことがなかった。それでも、少しづつ日本の文学作品を読みはじめていたので、丹羽 文雄、石川 達三、高見 順が有名な作家らしいことは想像できた。
この随筆から、流行作家のそれぞれの風貌や、作風の違いまで、なんとなくわかったような気がしたのだが、高見 順がお弁当のフタの裏についたご飯つぶを箸でとって口にはこんだのは、左翼運動で収監された経験から身についたものだろう。
私は登山に熱中した時期があるが、ザックにかならず駅弁を入れることにしていた。弁当をつかいながら、いつも丹羽、石川、高見といった大作家のことを思い出していたわけではない。しかし、戦中、戦後の窮乏や食料の逼迫を知っているだけに、私は高見 順の食べかたに共感する。

322

今日は何曜日だっけ。
新聞でたしかめる。
月曜日なら、ああ、つき曜日か、と思う。火曜日は、ひ曜日。水曜日はみず曜日。ぼく曜日、こん曜日、つち曜日。日曜日だけはサン曜日。
小学生のやりそうないたずら、とわかっている。なぜ、こんなたあいもないいい変えをするのか。
小学生のときからのくせ。月曜日になると、これから一週間、何か楽しいことがあるといいと考えた。そこでツキがありますように、という意味で、つき曜日ということにした。火曜日は、母親にお小遣いをせびる。たいてい1銭、運がよければ5銭もらえた。子どもの口にいっぱいのアメダマが5厘だった。その費用のひ。
水曜日には友だちのところに遊びに行く。その母親が活動写真の小屋をまかされていた。友だちとしばらく遊ぶと、あとは客席にもぐり込む。「児雷也」や「関の弥太っぺ」、ときには「月よりの使者」といったメロドラマを夢中になって見ていた。
木曜日は、ぼく(私)の日だった。学校から帰るとランドセルを放り出して遊びに行く。妹といっしょに遊んでやったり、まだ幼い弟の面倒をみたり。ひとりのときは、近くの丘や、川の砂州がぼくの王国だった。
金曜日になると、買ってきた少年雑誌を読んだり、友だちに借りた本やマンガを読み返す。なにしろ、毎月一冊しか買ってもらえないので、少年雑誌は隅から隅まで読むことになった。読むところがなくなると、懸賞にあたった全国の当選者の名前まで丹念に読む。 昭和12年。やがて戦争がはじまったが、まるっきり勉強はしなかったし、何も考えない少年時代だった。
翌年、弟の達也が亡くなったときから私は変わった。

321

気分的に落ち込んだとき、きみならどうするだろうか。
私の対症療法としては、特別なCDを聴く。
私が聴くのは、「世紀のプリマドンナ」のCDである。
マリア・カラス? とんでもない。テバルデイ? いいえ、いいえ。むろん、サザ-ランド、ルネ・フレミング、シミオナ-ト、そうした“ディ-ヴァ”たちの誰でもない。
私がえらぶのはフロ-レンス・フォスタ-・ジェンキンス。
1868年生まれだから、ルイ・ジュヴェより一歳上。
大富豪と結婚したフロ-レンスは、オペラに夢中になって離婚された。莫大な慰謝料をもらったとたんに、これも富豪だった父が亡くなって、またまた莫大な遺産をせしめた。そこで、彼女はコロラトゥ-ラ・ソプラノの歌手として活動をはじめた。
ところが史上まれに見る悪声。そればかりか、音程も、リズム、テンポ、すべてが狂っていた。音痴もいいところ。オペラ歌手としての素質、ゼロ。
なにしろ金がくさるほどある。毎年、堂々たるリサイタルを開き、やがてパリに登場する。
ヨ-ロッパを驚倒させた。あまりの音痴だったから。
1944年、(アメリカは、ドイツ、日本と戦争している)、ついにカ-ネギ-・ホ-ルで、個人リサイタルを敢行する。
なみの神経ではない。
戦時中、エンタ-ティンメントに飢えていたアメリカ人が、彼女のリサイタルに押しかけた。前売りは完売、当時の貨幣価値で6千ドルの純益があったという。
私のもっているCDは、生前の彼女の貴重な録音をCD化したもの。
とにかく、すごい。これほどの音痴で、『魔笛』の夜の女王のアリアや、ドリ-ブの『鐘の歌』などを歌っているのだから。
ただただ恐れ入るばかりだが、ゲラゲラ笑いながら聞いているうちに、こっちも元気になってくる。なにしろいろいろと考えさせられることも多いので、クヨクヨしている暇はない。私の「コ-ジ-ト-ク」を読んでくれる人たちにも、ぜひ、聞いてほしい1枚。
まったく才能のカケラもないのに、本人だけはいっぱしの芸術家きどりでいるおかしさ、悲惨さを通り越して、ただもう笑っちゃうしかない。そして、元気になれる。
ジェンキンス女史の歌は、私にいつもさまざまな問題をつきつけてくる。だから落ち込んでなんかいられない。

320

先日、TVでセロという若いマジシャンの芸を見た。手品、奇術を見るのが好きなので、このマジシャンの芸もおもしろかった。
彼はネパ-ルの山村で、マジックを見たことのない子どもたちに、やさしい奇術を見せてやる。子どもたちがびっくりする。素朴な好奇心、食い入るようなまなざし、疑い、見たこともない神秘にはじめてふれた子どもたちの驚きとよろこびの表情。じつにいきいきしていた。TVを見ている私だってネパ-ルの子どもたちとおなじようなものだが。
外国でいろいろなマジックを見たことがある。大きな劇場の席で、驚天動地のマジックを見た。「どこの国にもすごいマジシャンがいるなあ。しかし、これを見る前と見てしまったあとで、おれの人生なんかちっとも変わりゃしねえや」とつぶやく。
私は、どんなに大がかりな仕掛けもののマジックを見ても、驚かされこそすれ、ほんとうに感動したことはない。むしろ、ラス・ヴェガスのショ-を見て、ア-ティストの器量の大きさに感動しなかったか。
そのあと、映画「オズの魔法使い」を途中から見た。ジュデイ・ガ-ランド。何度も見た映画。この映画の主題歌「虹の彼方」が、ベスト100のトップに選ばれている。この曲のおかげで、映画も不朽の名作になっている。
ジュデイ・ガ-ランドという女優の運命を知っているだけに、この映画を見ながらさまざまな感慨をおぼえた。映画にかぎらず芸術作品の評価や、そのたどった運命を考えるとなぜか奇妙な感じにおそわれる。

319

ある展覧会で、最近のロシア、フィンランド、グルジア、中国などの画家の絵を見た。残念ながら、ほとんどがポンピエだった。そして、アホらしい値段がついていた。
平凡な才能の画家が平凡な売り絵を描く。私はそういう絵を少しも軽蔑しない。
そういう絵がどこかの家庭の壁に飾られて、いつもやさしく眺められてみんなが幸福な気もちになる。それでいい。
私がスリット・ア-トに関心をもつのは、そういう絵を描く人は、はじめから自他ともに要求するところが少なく、見る人もそういう絵を飾ることで満足している・・・素直で、けなげで、微笑ましい情景に好意をもつからだ。
ところが、景気が少し回復してきたので、またぞろ、えたいの知れぬ美術品がえたいの知れぬ値段で市場に出てくる。そのことが不愉快なのだ。

318

お日待ち。どうも近頃は聞きませんですナ。
お正月、お盆、お祭りは、大日待ち。あとノは小日待ち。
もともと仏教の教えにもとずいた風習でやんしょうが、ようするに休日。
十五夜、十七夜、十九夜、二十三夜、庚申さま、いろいろな日待ちがごさいましてナ。 ヤツガレ、ガキの時分、お月さまァノンノさまで、ちいさな手をあわせて拝んだものでさぁ。おさな心に、無病息災、罪障消滅、家門繁昌を願ったンでしょうナ。十五夜は阿弥陀如来さま、二十三夜は勢至如来さまがお姿をあらわしたまうッてんで。
お日待ち。戦後はすっかり変わっちまった。いいえ、アァタ、お正月、お盆、お祭りといった大日待ち、三月三日のお雛さま、五月五日、七月七日、九月九日といったお節句はなくなりませんヨ。さはさりながら、いまどき、怠けものの節句ばたらき(働き)がもの笑いのタネになるテナこたァない。(笑)
今の私、ですかィ。イヤァ、おそれいりやす。何を隠そう、毎日がお日待ち。ゲゲゲの鬼太郎さんとおなじで、毎日、楽しく暮らすことにしようナンテ。えへへ。
阿弥陀如来さまにおめにかかれる日を待っている。だから、お日待ち。(笑)
おあとがよろしいようで。

317

旅への誘いは、いつか私の空想(ロマン)から消えて行くだろうか。むろん、私の旅は、「せめて新しき背広を着て、気ままなる旅」に出るといったものではない。
私の旅はどう見ても平凡なものなのだ。
駅まで。歩いて約800歩。私の住んでいる千葉を起点にいくつかのロ-カル線が出ているので、掲示板に出ているいちばんすぐに出発する電車に乗る。どこに行く目的もない。すわれなければ、二つか三つ、先の駅まで行って降りればいいのだから。
たまに、おにぎり、お茶、ボンタンアメなどをもって行く。
電車に乗ってしまえば、あとはもう安心しきって、車窓から、あまり変わりばえのしない風景をぼんやり眺めて、沿線のどこかの駅で降りればいい。
ずっと先の駅まで行ってもいい。終点まで行ってもいいのだが、歩きまわっているうちにうっかり駅に戻れなくなると困る。
私の住んでいる千葉は、地形上、北は印旛沼や利根川の流域、あとの三面は海に囲まれているので、半島というより、どこか島といった感じがある。昔から、成田さんへの街道以外に大きな街道はないし、交通も不便なため、江戸から千葉を通過する旅人も多くなかった。
さて、どこかの駅で降りよう。
できれば、あたりに住宅も見当たらない、駅というには、ひどくさびれた、小さな駅で降りてみる。駅前の、広場ともいえない通りに立って、さて、どこに行こうか、と考える。こういうときは、われながら行き暮れたようなわびしい気もちになるが、それでも昔の一膳飯屋のような、うす汚れたラ-メン屋でも見つかればうきうきした気分になる。
夏のたそがれ。さすがに駅前からすぐに田んぼがひろがっている土地は少くない。それでも、駅から少し離れると、はるか彼方に、私の知らない町の灯が見える。まったくなんの目的もなく、とくべつな用事もなく下車した私は、ホ-ムレスになったような気分で、とぼとぼと灯を目当てに歩いて行く。路傍に立っている道祖神が行きかう人に何かを語りかけてくるような風情はない。馬頭観音の石碑や、青面金剛と刻まれた道しるべの横を、トラックやバイクが、あわただしく走り過ぎてゆく。旅の気分どころではない。
どうかすると、ドブ川のような流れにぶつかる。用水路の名残りだろうか。見るともなく眼をやると、汚れた流れにゴミが積み重なっていたり、異臭が漂っていたり。
疲れたときは、そのまま駅にもどればいい。そして、上りの電車を待つ。千葉まで帰る人たちが乗っている。
私は詩人ではないので・・・どこへ行ってみても、おなじような人間ばかり住んでいて、おなじような村や町で、おなじような単調な生活を繰り返していても、いっこうに気にならない。
私の“小さな旅”は、いつもこんなものにすぎない。それでも私にとっては楽しい旅なのだ。

316

萩原 朔太郎の短編『猫町』は、昭和前期に書かれた文学作品のなかで、もっともすぐれたもの。春山 行夫が編集していた「セルパン」に発表された。

旅への誘いが、次第に私の空想(ロマン)から消えて行った。昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメ-ジするだけでも心が躍った。しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間に於ける同一事物の移動」にすぎないことを教えてくれた。どこへ行ってみても、同じような人間ばかり住んでおり、同じような村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。

この書き出しの、旅が単なる「同一空間に於ける同一事物の移動」という部分に注目しよう。こうした感慨は私たちにしても無縁のものではない。ただし、おそらく平凡な感想としか見えないのだが。
詩人の人生のある時期に、自分でもどうしようもない倦怠がまとわりついていたと想像してもよい。
私が感嘆するのは、さりげなく書かれたこの部分が、この作品のみごとなライト・モ-ティヴであり、伏線として効果をもっていることなのだ。
この書き出しのみごとさは川端 康成の『雪国』にも劣らない。

315

インドネシアでH5N型のフル-が流行しはじめて、アメリカでは10日間の食料備蓄の実施をすすめている。かつてのスペイン風邪の死者は45万人。おなじウィルスが流行すれば、日本だけで死者は220万人と予想されている、という。
天災地変。おまけに、戦争、テロ。これからますます何が起きるかわからない時代になる。私は、もうこの世の人ではないからいいが、家族や、友人たち、私の「恋人」たちが無事に過ごしていけることを願っている。
いまから40年ばかり昔、占星術の本を読んだ。その本のなかに、21世紀の予想では2000年~05年、これまで知られていなかった奇病がつぎつぎに発生し、人類はその対応に追われる、とあった。
私はノストラダムスを何度も読んだが、ヴィジォネ-ル、ないしは詩人として読むことはあっても、予言を信じたことはない。しかし、これからも奇病が続発するらしいので、あらためてノストラダムスをもう一度読んでみようか、と思う。

314

一つのことばが、別の人の一生にかかわる。めずらしいことではない。
大正期の画家、甲斐庄 楠音は、先輩の画家、土田 麦遷に「汚い絵」という批評を受けて、それ以後、徐々に画壇からしりぞいてゆく。
他人に非難されたとき、相手の怒りや憎悪をしずかに見きわめること。どこに原因があるのかだいたい見当がつく。てきれば文章で反論する。
そういうとき、いちばんほんとうのことをいっているのは、怒りや憎悪からではなく、批評的に的確なことをいっている人なのだ。
甲斐庄 楠音は土田 麦遷のことばに深く傷ついた。そして、ついには画家の仕事も断念したらしい。(晩年は、「松竹」衣装部の仕事をしていたという。)
このとき、むしろ土田 麦遷の絵のどこが美しいのか、と反論すべきだったと思う。土田 麦遷は世間的には有名画家だったが、戦時中に描いた農村の娘の絵など、対象をとらえる気概もない、まったくの凡作だった。
こういうときの反論の一つ。
きみはぼくの絵を「汚い絵」という。ぼくの絵を「汚い絵」といえるほどの何ものかである君は、いったい何ものなのか。きみの絵が「汚くない」とすれば、「汚くない」絵とはどういう絵なのか。そう反論すべきだった。
私のようなもの書きでも、いろいろと非難されたり、けっこうつらい思いをしてきた。だが、そういうとき、私が思い浮かべていたのは、ごく少数だが、私の側についていてくれる人がいるという思いだった。
たとえば、和田 芳恵、飯沢 匡、内村 直也。五木 寛之。
私はそういう人たちのことばを深く心に刻みつけてきた。

313

むかし、沢田 謙という伝記作家がいた。
『世界十傑伝』(大日本雄弁会講談社/1932年)という本の宣伝が凄い。
本書を見よ! 人間は誰でも偉くなれるのだ! 英傑を倣って奮起せよ!
とあって、数行先に、
見よ! 現に世界を動かしつつある十傑の真骨頂は劇を見る如く躍如!

この本がとりあげている人物は「何れも貧困より身を起し百折不撓! あらゆる苦難と闘い逆境を切り拓いて来た十傑!」である。
ヒンデンブルグ、フ-ヴァ-、ガンジ-、フランスの外相ブリアン、イギリス首相マクドナルド、新聞王ハ-スト、中国の蒋 介石、チェッコのマサリック、鋼鉄王シュワッブ、トルコの大統領ケマル・パシャの十人。
1930年代の読者は、こういう通俗的な読物で、「彼等の驚天動地の行跡には熱と力溢れ無限の教訓あり、意気に感ずるあり、明智果断にして真に一読感激、再読奮起!」したのだろう。
少年時代に沢田 謙の『少年エジソン』という伝記を読んで「一読感激」した。後年の私が、評伝を書くようになったのも、沢田 謙の『少年エジソン』を読んだおかげだった・・・とは思っていないのだが。
子どものために、せめて一冊ぐらい、やさしい偉人伝を書きたかったとは思う。

312

「よい伝記を書くことは、よい人生を生きるのとおなじほどめずらしい」
と、カ-ライルがいったらしい。
リットン・ストレイチ-はこれを否定する。そういう伝記は、まどろっこしくて、洗練されていないものばかりで、葬式みたいなものだ、という。私もまた、葬儀屋の仕事のような評伝を書くつもりはない。
ただ、ストレイチ-は、自分の伝記を書く姿勢にふれて、
「私は何も押しつけず、申し立てもしない。ただ提示するだけだ」
というヴォルテ-ルのことばをあげている。
おこがましいが、私はヴォルテ-ル、ストレイチ-と違う。私は伝記で何かを押しつけたい。何かいうことがあればブロポゼしたい。ただ提示するだけなら伝記など書く必要がない。
駆け出しの頃から、ツヴァイク、モ-ロア、ストレイチ-を尊敬してきた。はじめからおよびもつかないと承知してはいたが、せめて彼らの仕事に少しでも近づきたいという思いから『メディチ家の人びと』や、『ルイ・ジュヴェ』などを書いた。

311

初夏の夕方近く、その通りの角にはその界隈の子どもたちが集まってくる。紙芝居がくるからだった。見料は一銭。ブッキリアメをもらって、口のまわりを白い粉だらけにしながら、世にも怪奇な「黄金バット」の物語に惹きこまれていた。
ある日、その通りに子どもたちが、五、六人しゃがみ込んで何かを見ていた。紙芝居がまわってくる時間ではなかった。子どもたちがまわりをとり囲んでいるのは、道ばたに休んでいる行者(ぎょうじゃ)か雲水(うんすい)のような老人だった。老人のわきに、外に金網が張ってある六角の逗子(ずし)のような背負い子があった。
私もその金網のなかをのぞき込んだ。棚の内部は、中央に剥げた金文字で南無阿弥陀仏と書かれた細い掛け軸が下げられている。それをとり囲んで、びっしりと貼りつけられた小さな写真。棚いっぱいにびっしりと並べられている。大半は少女か、若い娘たちだが、若い男の子の顔もあった。
ざっと見ても百や二百ではきかない数だった。
せいぜい2センチ平方の写真ばかり、半数は色褪せて黄ばんでいたり、銀が浮きだして顔もさだかではなくなっている。明治、大正、昭和にかけて撮影された写真だった。
私と並んで金網をのぞいていた少し年上の子どもが説明してくれた。
そこに並べられている顔写真は、全国各地で神隠しにあったり、誘拐されたり、親に売られて行方がわからなくなった子どもたちばかり。この老人は、行脚(あんぎゃ)の先々で、親兄弟、親戚から頼まれて、その子どもたちの所在、どんなにわずかな消息でもいいから安否を尋ね歩いているという。私はおそろしいものを見たと思った。
神隠しというのは、子どもが不意に姿をかくすこと。昔から天狗や山ノ神のしわざと信じられてきた。そして、人さらいというおそろしい男たちがいて、さらわれた若い娘たちは南洋やシベリアに売り飛ばされたり、もっと幼い少女は曲馬団に入れられてつらい人生をすごす。そんなうわさは幼い私の耳にも入っていた。
その日、紙芝居を見ずに家まで走った。何かおそろしいものに追いかけられそうな気がして。それが何なのかわからなかったが、生きることへのおそれだったのかも知れない。
小学校に入ったばかりの夏休み。

310

アメリカで、女の子にめずらしい名前をつける親がふえている。(ABC/06.5.19)たとえば Nevaeh。ネヴェアと発音するらしい。
あるロック歌手が娘にこの名前をつけたとテレビで語ったことから、きゅうにひろまったらしい。現在、女の子の名前の人気では第三位。(笑)
自分の子どもの幸福を願って、さらには他にぬきん出てほしいという思いから、独自な名前をつけるのは親として自然な感情だろう。最近のアメリカでも、それまで使われることのなかった命名がふえてきている。その背景には、福音主義宗教の影響がひそんでいるという。ネヴェアと発音してみると、Never と エホヴァ がかさなりあっているように聞こえる。
この名前の秘密はアナグラムではない。逆に読んでみればいい。社会心理的にも興味深い現象と見ていい。
私は外国の小説を読むことが多いのだが、しばしばヒロインの名前に関心をもつ。作家がどうしてヒロインにこの名前を与えたのか。そんなことも、その小説の印象や魅力にかかわりがある。「エンマ」と「エマ」というヒロインの名前だけで、フランスとイギリスの小説の違いさえまざまざと眼に移ってくる。
ところで、ネヴェアは、じつは80年代の映画「スプラッシュ」(「恋する人魚」)のヒロインの名前だった。さっそく当時の香港映画がパクって、そっくり映画を作ったっけ。こちらのヒロインの名前はおぼえていないのだが。

309

レジャ-ということばを聞かなくなった。
昭和30年代になって、生活にゆとりを見いだした庶民が、それまてできなかった小旅行や、スポ-ツ関連のリクリエ-ション、あるいは趣味などに自分の時間をふりむけるようになった。東京近郊の手頃な山歩きなども、この頃からさかんになって、現在の中高年の登山ブ-ムにつづいている。
ところで、レジャ-ということばが日本ではじめて知られたのはいつだったのか。
Mechanical equipment should create opportunity for leisure,not unemployment.
(訳文  機械力的装置は閑暇の機会をつくり出すもので、失業をつくり出すものではない。――合衆国上院議員 ボラ-氏)
私の訳ではない。「日曜報知」(昭和7年1月24日号)の「現代の言葉」というコラムに出ていた。
こんな一節からも、いろいろなことが読みとれる。当時のアメリカは大不況に見舞われていた。失業者があふれ、労働者がレジャ-を楽しむなど考えられなかったのだろう。と同時に、老朽化した各種産業の設備投資の促進と再編成が進められていたことがわかる。おなじ論理は、この十年、景気が冷えきって、たえずデフレスパイラルの危機におののいていた日本でも、しばしば聞かれたような気がする。
いまの日本ではレジャ-ということばを聞かなくなった。
最近の海外旅行や、ペット・ブ-ム、サッカ-・フィ-バ-、どれをとってもレジャ-という程度のものではなくなっている。
落語に出てくるご隠居みたいにレジャ-を楽しんでいるのは、いまどき私ぐらいなものだろうな。