88

 

映画を見つづけてきた。つまり、さまざまな女の愛の姿を見届けてきたことになる。
『獲物の分け前』のジェーン・フォンダ。息苦しいほどエロティックな愛。『巴里祭』のアナ・ベラ。可憐な花売り娘の愛。あるいは、『殺意の夏』のイザベル・アジャーニの狂気の愛。『天井桟敷の人々』のマリア・カザレスの報われない愛。
いつか私は書いたのだった。ひとはときとして愛するひとのなかに永遠をもとめる、と。(「フリッツィ・シェッフ」)愛はある情緒(エモーション・パルティキュリエール)のなかに永遠をかいま見ることにほかならない。だから、ほんとうの愛がいつまでもつづくことを心のどこかで、ほんのわずか信じたとしても無理ではない。

87

レニングラードは美しい街だった。
通訳のエレーナさんの案内で、「血の日曜日」の現場や、冬宮、ツァールスコエ・セロといった歴史的な場所や美術館に行っただけだが、この憂愁にみちた街の印象はいつまでも心に残った。
帰国したあと、『メディチ家の人びと』のエピローグにレニングラードの印象をレニングラードの印象を書きとめたが、あとは「ソヴィエト紀行」を新聞に四回書いただけだった。

先日、書斎をかたづけていると、「ソヴィエト紀行」のメモが出てきた。どうやら発表するつもりだったらしい。

86

 

映画の試写室はおもしろい場所だった。
淀川さんは暗いなかで小さなノートに鉛筆を走らせつづける。飯島さんがすわる席はきまっている。双葉さんがきているかどうか、離れていてもすぐにわかる。つまらない試写だと、植草さんのからだがだんだん傾いて最後には寝そべってしまう。
試写室でよく見かけたのは田中 小実昌、渡辺 淳。お互いに顔を見あわせてニッコリするだけ。やあ、きていますね。そういう微笑だった。映画の話もしたことがない。いまはもうふたりとも亡くなっている。
自分でも信じられないのだが、私は週刊誌で5年、新聞で10年、週に二、三本、映画批評を書いてきたのだった。

85

明治文学を読みつづけている。幕末から明治の人々がおもしろがっていた遊芸にまで関心がひろがってきた。
「あんなんこんなん女がだいじのはくらくりうだいこさんちゃははんえいえぞえんめいびんくるり……」これから、えんえんとつづく。一度読んでもわからない。
二、三回、読んで、なんとか見当がつく。安南の女やこういう女が、大事にしているのは伯楽流で、たいこもち、散茶女郎は繁栄して、蝦夷地は(オロシャ相手の交渉で)なんとか無事におさまって、(世界情勢が気になって)ぐるりと頭をまわしてみると……。
福森 久助の作詞。三代、中村歌右衛門が舞台で踊った。

84

へそ。不思議な組織。妊娠、出産に大きな働きをしながら、その後は、あってもなくてもいいようなもの。日本人は、わりあい、へそのい関心をもっている。
へそに言及した外国の文学作品はあるのだろうか。まったく見つからなかった。17世紀のトマス・ブラウンが、アダムとイヴのへそを論じている。これには、さすがに驚いた。あまり役に立ちそうもなかったが。
いつか、おへそのアンソロジーを作ってみようか。

83

ねっちり。これも廃語だろう。
「ねちねち」は、性質や話しぶりがはっきりせず、しつこいさま、と「広辞苑」に出ているが、「ねっちり」は出ていない。どうやら、とっくに廃語になっているらしい。
ねちねち厭味をいう。これは誰でもわかる。しかし、ねっちりと厭味をいうのは少し意味が違う。先代の中村 鴈次郎が、小津 安二郎の映画でこの違いを見せていた。
私がうっかりこんなことばを使ったら、校正者がたちまち訂正してくださる。さしづめ「きっちり」とか「しっかり」とか。校正者の舌打ちが聞こえそうな気がする。
ザマァねえや。

82

「電車男」は、ネットの掲示板への書き込みがそのまま純愛ドラマになっている。こういう作品が出てきた現象はおもしろい。もはや、純文学の変質といった次元で論じても仕方のない現象だから、文壇批評家は誰も問題にしないだろう。
すでに映画化され、コミック化されている。もっともっと売れたほうがいい。
この作品に関心をもった多数の読者のなかには、自分がネット上のアノニムな存在であることにあきたらなくなる人も出てくるのではないか。私はそのことにひそかな期待をもっている。むろん、ごく少数に限られるだろうけれど。

81

仙台市土樋に住んでいた。愛宕橋のたもとで、門のすぐ横に柳川庄八ゆかりの池があった。柳川庄八は伊達家の浪人で、主家のかたき、重臣の茂庭周防守を青葉城下に襲ってみごとに討ち果たし、その首をかかえてひた走り、愛宕橋までたどりついてこの池で生首を洗ったという。戦前は講談のヒーローのひとりだった。
まわりを大谷石で囲っただけの二畳ほどの小さな池だが、草木が生い茂っていて昼でも薄暗い。小学生の私は柳川庄八の敵討ちについては何も知らなかったが、ここまで走りつづけてきた浪人の姿が心に残った。
はるか後年、時代小説を書いたが、私の主人公はいつも走っているのだった。

80

 

稽古に時間をかけるのが普通だった。
内村(直也)さんに聞いた話だが、初期のラジオドラマの稽古は一カ月もかけたという。私の初期のラジオドラマでも、稽古が週三回、その日の夕方に本番。ゲキバンはナマ演奏。大先輩の青山 杉作は、まるで指揮者がタクトをふるようなジェストで演出するのだった。エボナイト録音の時代である。時代ものんびりしていたが、わずかな失敗も許されなかっただけに出演者も真剣だったような気がする。
やがてテープ録音になって、顔あわせ、本読み、台本の読みあわせが一度、すぐに録音というペースになった。テープはいくらでもカットできるので、トチっても安心だった。
コンピュータ制御の演出なんて考えられなかった昔の話。

79

 

江戸に近いせいで、上総のわらべ唄もよく似ている。たとえば――
カラス、カラス、勘三郎。どこサ行った。カンゴ山にムギまきに。何升まいてきた。一升五合まいてきた。あとあじ(何を)した。父母(ちちかか)がみんな食ってしまった。
別のフレーズもある。
カラス、カラス、勘三郎。父は熊野へ鐘たたき。一日たたいてコメ三合。
夕暮れ、ねぐらにいそぐ烏にむかって、
カラス、カラス、あとになると、ヨゴくるど。
このヨゴは怪鳥。江戸末期の社会不安が響いているような気がする。

78

上田秋成を読む。無学な私にはとてもむずかしい。
『世間妾形気』に、大坂の堂島の米市について述べて、六十余州の大小名の身代をうけてみて「日本国が一所へよるとは、よい事をする時のやうな詞」とあって驚いた。
気宇壮大というか、すごい比喩だなあ。
むずかしいけれど、私の好きな作家のひとり。

77

『ルイ・ジュヴェ』という評伝を書いた。なぜ、この評伝を書いたのか。
たまたまジュヴェの出た映画の記事(『ぴあ』)に「怪優ルイ・ジュヴェ」と紹介されていたので、あきれた。これではジュヴェも浮かばれないだろう。
こういう理解とはまったく違った次元のジュヴェを書きたかった。そして書きはじめた。

→ルイ・ジュヴェ

75

梅 艶芳。アニタ・ムイ。香港の歌手。昨年、亡くなっている。
返還前の香港ポップス全盛期を代表するシンガーだった。映画スターとしても知られている。一時、黒社会との交際がつたえられて人気が落ちた。
昨年、最後のコンサートに姿を見せたが、容色も声も衰えていた。
それまであまり好きではなかったが、毅然として最後のコンサートにのぞんだアーティストの姿に私は感動した。そのときから、梅 艶芳は難忘之人になった。

74

舟橋 聖一の邸宅に伺ったことがある。もう時効だから書いてもいいと思うのだが、まだ学生だった私が平野 謙を文学部の講師に呼んでほしい、と頼みに行ったのだった。これが実現して、その後、平野 謙が本多 秋五を迎え、本多 秋五が杉森 久英を招いて文学部の教授陣が充実した。
ずっと後年、大木 直太郎先生から、杉森君がやめるので、きみ、講師になってくれないか、といわれた。こうして半生を神田界隈ですごしてしまった。

73

ぬるぬるのムギトロがすき。
「東海道中膝栗毛」で弥次さん喜多さんが、丸子の宿でトロロ汁を注文する。乳呑子を背負った女房がスリコギで芋をする。のろま。亭主が女房の頭をコツン。たちまち夫婦喧嘩になる。ところが、亭主がトロロ汁に足をすべらせ、女房もひっくり返る。仲裁に入った近所のかみさんも、ぬるぬるすべってころんで――――

72

鼓の音が冴えている。狂歌を思い出した。

表かわ裏かわ中の一(ひと)構え 鼓のような先斗町かな

おもて側は、鴨川。うら側は、高瀬川。その中に先斗町(ぽんとちょう)。ポントはPointだという。おおかたどこかの大学の遊蕩生が思いついたジョークだろう。
この狂歌、よく読むとけっこうおもしろい。

71

杉浦 明平は、ルネサンス、そして渡辺 崋山の研究者だった。
若い頃、佐々木 基一から杉浦 明平の仕事を教えてもらった。そのときから杉浦 明平の仕事に敬意をもちつづけてきた。渡辺 崋山についても、杉浦 明平ほど深い理解をもっていた人はいないだろう。私が崋山に関心をもつようになったのも明平さんのおかげである。文学的に影響をうけたわけではない。そのくせ、いつも遠くから仰ぎ見るような存在だった。

70

クリストファー・イシャーウッドのGoodbye to Berlinを、ジョン・ヴァン・ドルーテンが戯曲にした。ドルーテンのI Am Cameraが映画化されて「キャバレー」になった。ライザ・ミネリが主演している。
この映画がもとで、ミュージカルができた。
イシャーウッドのすばらしい小説も、ドルーテンのみごとな脚色も、いまではもう誰も知らない。

69

宇免という名で、ウメと読む。役場の戸籍係が旧弊な人だったのか、それとも平ガナがきらいだったのか。ウメの母がタケ。名前が気に入らなかったので、自分でアイに変えてしまった。お愛さん。働き者で、眼のきつい、気丈な女だった。私の祖母である。
その母が、婦ん。おブンさん。嘉永生まれ。人がよかった。その母は……。
江戸末期から明治にかけて、庶民の女の名前は平凡で、おかしくて、かなしい。