2008年度から、公立の小学校で、英語が正式の科目として教えられるようになる。 これまでは、「総合学習」の一環として、英語を教えることはできたが、正式の科目として教えることはできなかった。
英語を教えていた地域では、「小学校段階から英語の能力がついて、関心が高まった」、「教員の教える意欲が向上した」という評価する声が出ている、という。
けっこうな話じゃありませんか。
じつは、私は語学が好きではない。そのくせ、翻訳したり、どこかの大学で英語を教えたこともある。考えてみれば(いや、考えなくたって)そらおそろしい話だ。
そういう私だが、公立の小学校で英語を正式の科目として教えることに反対はしない。ただし、英語以外でも、中学で教える内容の一部を小学校で教えることが可能になる、という条件で、「反対はしない」だけである。
私は忘れない。日本の教育行政がどれほど多くの誤りを重ねてきたか。
文部官僚の一部のほんの思いつきで、やれ「学校群」やれ「ゆとり教育」、やたらに教育制度いじりやら教育システムをコロコロ変えて、結果としていちじるしい学力低下を招いてきたではないか。もっとも、そんなことをいい出したやつは、もうとっくに退職して、今頃は天国でのんびり暮らしているだろうナ。
ま、いまに誰もがエ-ゴしゃべっちャッて、みんなハッピ-だよ~ン。外交だって、エ-ゴ通じたりして。ほら、9.11ンとき、アメリカにトンでって「テロに反対する」
We must fight terrorism.かなんかいっちゃった、ええカッコし、いたやんか。
あんとき、そばにいたおエライさん、ギヨッとしてはったで。(オラ、ここンとこ、ちゃんと録画しといたもンな。)
だけど We must fight against the terrorismぐらい、いっチャッってほしかつたな。
フぁ~ッ。(ナントカHGのパクリっすヨ。)
そんじゃ、ま、小学校の英語のお勉強ヨロシコ!
投稿者: zion
207
お隣りに新婚の夫婦が引っ越してきた。ある日、その奥さんが私の妻に訊いた。
失礼ですが、ご主人はどこかおからだでも・・?
いいえ、別にどこもわるくありませんわ。妻が答えた。
日がな一日、家にひきこもって何か書いているのだから、えたいの知れない人間に見えたのだろう。その頃の常識では、失業者か、病人、それも肺結核か神経衰弱の患者と見たらしい。
どんなお仕事を・・?
もの書きですけれど。
ああ、代書をなさっているのですか。
あとでその話を聞いて私は大笑いした。
当時の私は、翻訳を二、三冊、あとは雑文を書きつづけていた程度のもの書きだった。毎日、犬をつれて近くの公園を散歩したり、ときどき訪ねてくる若い人たちを妻の手料理でもてなすぐらいがせいぜいだった。私のところに遊びにきてくれた仲間に、常盤 新平、志摩 隆(後年、「パリは燃えているか」を訳した)、鈴木 八郎(劇作家)、若城 希伊子(後年、女流文学賞を受けた)たちや、若い俳優、女優のタマゴたちがいた。
みんな貧しかったが、そろって勉強好きで、それそれ自分のめざす世界に向かってつき進んでいた。
いわゆる土地の名士だった岳父もずいぶん肩身が狭かったらしい。何を書いているのかわからない無名のもの書きに娘を嫁がせなければならなかったのだから。
昭和28年頃のこと。
206
小間物屋。今ではまったく見かけなくなった。昔のスーパー、またはコンビニ。
日用品ならなんでもそろっていた。店先に板の台に、石鹸、歯磨き、香水、白粉(おしろい)、椿油などが眼につくように並べられている。
江戸と明治がまざりあっていた。
たいていが土間で、中の棚には半切れ、状袋、筆や墨、和紙、色紙、書簡箋。
その奥に手巾(ハンケチ)、手拭い、メリヤス、どうかすると、女ものの半襟、かもじまで。このあたりには、明治と大正の匂いがただよっていた。
とりどりの雁首のついたキセル。なかには村田張り、千段巻きのシンチュウギセル。
舶来タバコの綺麗な箱を飾りつけ、安ものの駒下駄、夏には麦わら帽子など。
和菓子も、串団子、金鍔(きんつば)、豆大福、酒マンジュウ。
売薬、ウイスケから電気ブラン、ポルト・ワインなどの洋酒まで。
これが温泉場の小間物屋になると、店いっぱいに湯花染、ご当地名物の繰りもの細工。花筒(はないけ)。木彫りの置きもの。
いちおう何でもそろっていた。
永井 荷風は「コルゲート」で歯を磨いていたし、芥川 龍之介は「コカコーラ」を飲んでいた。
今では小間物屋は根こそぎ壊滅した。江戸情緒もへったくれもない。
戦前、価格が均一の「10銭ストア」があった。そういう移りかわりを見てきた私には、戦後になって、いたるところに進出してきたアメリカン・スタイルのコンビニも、私にとっては西洋小間物屋に見える。
205
出羽ガ嶽のことを知っている人は、もういないだろう。
斉藤 茂吉が可愛がった力士で、お正月か何かに、斉藤邸に挨拶にうかがった。幼い頃の北 杜夫は、その巨躯に恐怖をおぼえたという。これは北 杜夫が書いている。
こんな笑話があった。
相撲部屋でも、お正月には屠蘇を祝い、お雑煮をいただく。
出羽ガ嶽のお雑煮に入れるお餅の大きさはハガキほどもあった。
お相撲さんのことだから、ぺろりとたべてしまう。
「めんどうくさい、出羽ガ嶽のお雑煮は往復ハガキにしろ!」
出羽ガ嶽は関脇どまり、膝やからだの故障で不成績がつづいて、番付は落ちるばかりだった。やがて廃業、いつしか忘れられてゆく。
私が土俵の出羽ガ嶽を見たのは二度。前頭の上位のときと、十両に落ちてからと。二度ともあっけなく負けてしまった。
学校の帰り、チンドン屋が出て人だかりがしていた。電車通りに面した角にお菓子屋ができて、開店のお披露目だった。
クラリネット、三味線、ハチに小太鼓で、「美しき天然」のメロディ-に乗って、チョンマゲ、鳥刺し姿の男女がうねり歩いているなかに、赤と白のトンガリ帽子をかぶった巨大な男が、店の名前をくろぐろと墨書した幟(のぼり)を掲げ、背中に旗指物(はたさしもの)をさして、のっそりと歩きまわっている。見物人は遠巻きにして、ゲラゲラ笑っていた。
出羽ガ嶽の落ちぶれ果てた姿だった。
小学生は、なんだか悲しくなって、べそをかきながら家に帰った。
204
高見盛というお相撲さんに人気がある。
制限時間いっぱい、最後の仕切りに入るとき、自分の気もちを引きしめるのだろう、いきなり自分の顔を両手でバシバシッとたたく。満面を紅潮させながら、両手の拳をにぎりしめ胸もとをドシンドシン。つづけて二、三度、両手を胸もとにグイッグイッとひきつける。まるで重量挙げの選手がバ-ベルをあげるように。
そのウォ-・ダンスの動作が滑稽というか、見ていておもしろいので、場内に声援と笑いがどっと沸く。本人は大まじめなのである。
こういうお相撲さんが、ほかにもいたのだろうか。
明治14年頃、三段目に、越ノ川というお相撲さんがいた。この力士が土俵にあがると、どっと笑いが沸いて、たいへんな人気だった。なにしろ、ユルフンで、やたらと上のほうにしめている。本人はそれを気にして、両手の親指を突っ込んで、下にさげる。そのとき、おなかをペコペコさせる。仕切り直すたびに、それをくり返す。
見物人は大喜び。本人は、なんで見物が笑うのか気がつかない。どうして笑うのかわからなかったらしい。
少しも当てこみがなかったので滑稽が下卑(げび)なかった。
この越ノ川は負けてばかりいたが、それでも番付はあまり下がらなかった。人気があったせいだろう。
江見 水蔭を読んでいて、こんなお相撲さんのことを知った。
203
双葉山は不世出の名横綱だった。
ほかの横綱、玉錦、男女ノ川(みなのがわ)、武蔵山たちも、双葉山には負けつづけた。誰が双葉山を敗るか、連日、興味が集中していた。
小学生の私のご贔屓は三役では鏡里、小結の綾昇(あやのぼり)、平幕の鯱里(しゃちのさと)たちだった。玉ノ海、名寄岩などは、性格、取り口が荒っぽいせいで、あまり好きになれなかった。
いまでも双葉山が安芸ノ海と対戦した日のことをおぼえている。
ラジオにしがみついて、取り組みを聞いていた。
この日、双葉山が敗れるとは誰ひとり思っていなかったに違いない。
結果として双葉山の70連勝が阻まれた。場内は騒然、というより、歓声、怒号、叫喚の坩堝で、座ぶとんが飛び、まるで暴動でも起きたような騒ぎになった。アナウンサ-の声も聞きとれないほどの騒ぎになった。
私は母に知らせに走り寄った。
「お母さん! 双葉山が負けたよ!」
母の宇免は洗いたての割烹着、小ざっぱりした身だしなみ、おしろいもつけず、無造作に髪をたばねて台所で水仕事をしていた。まだ20代の後半で、相撲に関心がなかった。私があまり昂奮しているのであきれたらしい。私にひとこと。
「可哀そうに。だけど、あしたッからまた勝ちゃいいじゃないの」
私は茫然とした。
202
1932年の映画スタ-名鑑。
トップに、田中 絹代。つづいて、川崎 弘子、澤 蘭子、入江 たか子。これが三役クラス。
平幕に、夏川 静江、梅村 蓉子、及川 道子、伏見 直江、浦辺 粂子。
少し下だが、琴 糸路。新人では、五味 国枝、光 喜三子。
もう誰も見たことのないないスタ-たち。私はだいたい見ている。私の好きな女優は、琴 糸路だった。このリストには出ていないが、しばらくあとで、森 光子がデビュ-する。スタ-女優の森 静子の実妹だろうと思っていた。
アメリカ映画のトップは、ノ-マ・タルマッジ、メリ-・ピックフォ-ド、コンスタンス・タルマッジをおさえて、コ-ネリア・オ-ティス・スキナ-。少し下に、グロリア・スワンソン。新人では、メイベル・ボ-ルトン。
無声映画のスタ-たちが、交代してゆく状況が見えてくる。
201
座について、両者はまるで百年の知己のようにうちとけて語りあった。
彼が、
「お困り召されたかな」
というと、相手はかるく笑って、
「なんで、わしをこんなに苦しめなさるのじゃ。これから、わしがあんたに代わって官軍を指揮するから、あんたがわしに代わって江戸城に立てこもってもらいたいな」
と答えたがすぐにまじめになって、
「でも今度、あんたがきてくださったので、わしもすっかり安心しましたよ」
といった。
江戸城明け渡しである。西郷 隆盛、勝 海舟のふたり。場所は品川の薩摩屋敷。
ほんとうかどうか、私は知らない。昭和初期、児童もので知られていた安倍 季雄が書いている。
200
最近、私の書くものに過去のことが多くなったとしても、それは仕方がない。すでに老いぼれた作家に未来があるはずもないからである。記憶はまだ少しはしっかりしているが、記憶していることときたら、当然、過去のことばかりである。
とすれば、私が過去のことを多く語るようになっても、それは自然なことと見ていい。老人の特徴としては、判断力の衰えと、自分ではそれに気がつかないか、気がついてもそれを認めないことにある。
日頃の生活も、だいたいきまりきったことのくり返しになる。考えが硬直してくるのも当然だろう。
知性も、少しづつ、または急激に失われて行く。私は、たいしたもの書きではないが、なけなしの自分の知性がこれからどうなるのか興味がある。(そもそも私に知性などというものがあったっけ?)
変わりばえのしない一日にまたつぎの一日を重ね、一年に一年を重ねて、やがて、確実に完了する。「中田 耕治のコージートーク」は、そういう私の「現在」の小さな報告にすぎない。
それでいいのだ。
199
親しい中国人の女性から、林 月の版画を贈られた。林 月は現代中国の芸術家だが、有数の風景画家という。これを倦かず眺めていて、ふと、ある詩句を思いだした。
みどりの雲と結ひし髪、その白さ雪を凝らす肌。眼には秋の水の波のただよい、眉は春の山の黛(うすずみ)を挿(さ)す。紅(くれない)の頬は桃の花の淡き粧(よそお)い。朱(あけ)の唇はかろやかな桜桃のふくらみ。鞋(くつ)はほっそりと可愛い足をつつみ、指(おゆび)はしなやかな春の筍の姿さながら。
古い中国小説のなかにあった。いまの私は、こんなアーカイックなクリシェがなつかしい。唐、宋の頃の春風駘蕩たる気分がなぜか私を惹きつける。
いつか、こんな常套的なクリシェばかり使った短編の一つも書いてみたい。
198
イザベル・ディノワ-ルというフランスの女性が、顔面移植手術で、まったく別人の顔になった。(06.2.7)人間は自分の顔を他人の顔と変えるかどうかをみずからに問いかけるために生きなければならなくなる。(笑)。
戦後すぐに、ニュロティックな映画がぞくぞくと登場したなかにハンフリ-・ボガ-ト主演の「潜入者」というフィルムがあった。まだ、性転換も心臓移植も考えられなかった頃の映画だが、ギャングが顔を手術、別人になりすましてつぎつぎに犯行を重ねてゆく。原作は、二流のミステリ作家、デヴィッド・グッディス。はるか後年の「フェイス・オフ」を並べると、自分の顔を他人の顔と入れ換えたいという希望は「変身願望」のヴァリエ-ションと見ていい。
映画史的に見れば、ルイ・ジュヴェの出た「ふたつの顔」(ジャン・ドレヴィル監督)から、ロベルト・ベニ-ニの「ジョニ-の事情」などの「とりかえばや」喜劇、Copy-conformeテ-マにつながってくる。
もう一つ。凍結して保存した男性の精子を使って、その男性の死後に体外受精で出産した女性がいる。そうして生まれた子どもを、生前の男性の子として認知を求めた訴訟事件は、東京高裁が棄却した。女性側は、これを不服として、最高裁にもち込んだ。(06.2.16)
こういうスト-リ-は、いずれ映画やドラマのテ-マになりそうだなあ。
できれば昔のパラマウントかRKOあたりのかるいコメディ-で。間違っても、「マイノリティ-・リポ-ト」や「宇宙戦争」のスティ-ヴン・スピルバ-グには作らせないでほしいな。(笑)。
197
イザベル・ディノワ-ルというフランスの女性が、顔をイヌに咬まれて重傷を負った。この女性は、15時間におよぶ顔面移植手術で、まったく別人の顔になった。執刀医は、J・M・デュヴェルナ-ル。(06.2.7)
イザベルさんは、まだ唇の機能が回復していないようだが、それでも生きる希望をとり戻したようだった。
ジャ-ナリズムの一部は、被手術者の身辺を洗って、日頃、薬物におぼれていたとか、もともと自殺願望があった、などと報道した。そんな女だからイヌに咬まれたのも当然、そんな女に顔を移植してやる必要はなかった、というような冷嘲をあびせている。
どこの国にも、陰湿な手口で、大衆の低俗な好奇心をあおる連中がいる。
このニュ-スを見て、私がまず考えたのは・・・拒絶反応や、免疫抑制といった問題はどうなのか。半年か一年たてば顔面の機能が完全に戻っているのか。リンパ系の異常や、骨の壊死などが起きないのか。素人の私でもそのくらいは考える。
顔に重度の傷をうけた女性が、あたらしい顔を得て、あたらしい人生を歩んでゆくのだから祝福すべきことだという立場もあっていい。
アイデンティティ-の移植ではないからである。心臓移植となんら変わらない。
この手術は生命倫理に反したものではないのか。
個人の倫理よりも医学の進歩を先行させた。科学万能の思想がますますはびこる。
そう考える人もいるだろう。
私は新しい顔になったこの女性が幸福になることを希望する。それは素直によろこんでいい。ただ、ことは心臓移植と少し違った次元の問題になるような気がする。じつはむずかしい「設問」が待ちかまえているような気がする。
それは生命操作がはたして人間を幸福にするかどうか、人間を幸福にするとしてはたしてどこまで幸福にするかという問題になる。
私たちには、いずれすべてのことが可能になるだろう。
ヴァレリ-ふうにいえば・・・人間は自分の顔を他人の顔と変えるかどうかをみずからに問いかけるために生きなければならなくなる。(笑)。
196
偶然だが、BS11で「シンシナティ・キッド」(ノ-マン・ジュイソン監督)を見た。スティーヴ・マックィーン、エドワード・G・ロビンソン、アン・マーグレット、チューズデイ・ウェルド。なつかしい顔ぶればかり。
映画は、ニュ-オ-リ-ンズにポ-カ-の名人で「ザ・マン」と呼ばれる老賭博師が乗り込む。それを迎え撃つ若いスタッズ・ポ-カ-の対決。
ニュ-オ-リ-ンズは、超巨大台風「カトリ-ナ」に直撃されて、かつての姿を失っている。そんなこともあって、この映画に何かノスタルジックな思いを重ねて見たのか。
エドワード・G・ロビンソンは、小柄で、お世事にも美男とはいえない独特な風貌。爬虫類のような薄眼が、不意に冷酷な光を帯びる。アクのつよい演技で、悪役スターとして知られていた。こういうタイプの俳優はどうにもカテゴライズしにくいので、戦前は「性格俳優」と呼ばれていた。
1893年、ルーマニアのブカレスト生まれ。ユダヤ系移民として、1903年、アメリカに移住。父は弁護士として成功した。
1911~13年、アメリカ演劇アカデミーで演技の勉強をした。つまりは、アメリカの「新劇運動」のまっただなかで育ったと見ていい。「戦後」、俳優としていささか知られてからハリウッドに移った。トーキーの登場で、セリフのしっかりした映画俳優として成功したのも当然だろう。30年代、「暗黒街の顔役」のギャングスター、戦後は「スカ-レット・ストリ-ト」、「キ-ラ-ゴ」の犯罪者といった役で、圧倒的な存在感を見せていた。しかし、「シンシナティ・キッド」を見ると、エドワード・G・ロビンソンは、「性格俳優」などという概念化ではおさまらない俳優だったことかわかる。
ハリウッドきっての教養人で、ピカソ、マティスから現代美術まで、有数の美術コレクターだった。
出演作が多いので、代表作をあげるのはむずかしい。私があげるとすれば、「運命の饗宴」(ジュリアン・デュヴィヴィェ監督)の、落魄した悪徳弁護士。最晩年の「シンシナティ・キッド」の老練なギャンブラー。1973年1月26日に亡くなっている。
彼の33回忌に「シンシナティ・キッド」を見たことになる。あくまで偶然だが。
195
ある日、高学年の生徒たちは学校の講堂に集められた。この日は特別授業とかでえらい人のお話があるのだった。
私は四年生だったし、いちばんチビの一人だったので、最前列に並んでいた。
どういう人がくるのか知らなかった。やがて演壇に和服で小柄なおじいさんが姿を見せた。りっぱなひげが眼についた。
校長先生が、ひどくへりくだった態度で、私たちにそのおじいさんを紹介した。「荒城の月」を書いた人という。
先生たちは、それぞれのクラスの横に立って拝聴していたが、私たちは、講堂のゆかにすわることを許されてお話を聞いた。おじいさんは子どもにもよくわかるように話してくれたようだったが、そのときの話はもうおぼえていない。綺麗に忘れてしまった、というより、何を話してくれたのか、そのときもわからなかったのだろう。ただ、人間の心のことを話してくれたような気がする。
「荒城の月」を書いたと聞いて、小学生の私は「春 高楼の花の宴」のメロディ-を思いうかべた。ふ~ん、ぼくたちはこんなおじいさんが書いた曲を歌っているのか。
当時、土井 晩翠は二高教授を退官した頃だったのだろう。
はるか後年、私は彼の訳で「イ-リアス」や「オヂュッセイア」を読んだ。
今の小学校でも詩人を招いて子どもむきのお話をしてもらうことがあるのだろうか。聞いた内容はおぼえていなくても、詩人の姿をおぼえている子どもはいるだろうと思う。
194
ゴルフ。「ビュイック・インタナショナル」のラスト(06.1.30.)。タイガ-・ウッズを見た。プレイ・オフ。この16できまらないと、つきの17(422ヤ-ド)に持ち越す。相手はジョゼ・マリ-ア・オラサバル。39歳。最初にバンカ-。
タイガ-・ウッズはクラブを握りながら下唇に舌を走らせる。癖なのか。緊張しているのか。クラブをふりおろす。青空に白球がまっすぐ飛び去ってゆく。
はじめにバンカ-に落としたオラサバルの第二打は、みごとにピンに寄せた。ふつうでは考えられないようなプレイ。ギャレリ-がどよめく。Masterpiece! そんな声が飛ぶ。これでオラサバルの勝利を確信したのか、ギャレリ-の多数が、早くも17コ-スに移動しはじめている。タイガ-は表情を変えない。
だが、つぎのオラサバルの第三打はピンのへりをかすめて外れた!
驚きと失望。タイガ-への称賛が大気をゆるがす。
タイガ-・ウッズが白い歯を見せた。このゴルファ-は、顔つきがずいぶん変わった。堂々たる体躯は中年のオジサンだが、無数に修羅場を切り抜けてきた芸術家の顔といっていい。
タイガ-・ウッズ(30歳)、今年の開幕に優勝。4回目。通算47勝。
ゴルフにまるで関心のない私も見ていてドキドキした。勝負の世界には、こういう緊張したシ-ンが見られるからすばらしい。2位はオラサバルとネ-サン・グリ-ン。日本の丸山 茂樹は-3、28位。
193
猿まわし。
小太鼓に二尺以上もある竹のバチをあてる。猿まわしに使う小太鼓は、お祭りの小太鼓よりもずっと小ぶりのもので、バチをあてるのがむずかしいという。
猿まわしの肩から、ひょいっとちいさなサルが飛び出す。田舎の婆さまのように、腰をかがめ、首の綱を気にしながら、ヒョコタンヒョコタン歩き出す。
ひとまわりすると、猿まわしが背中の行李(こうり)から、半紙に描いた日の丸の旗を出して、サルの手にわたす。
今日はめでたや お家は繁盛
天下太平 日の丸 出して
今日の この日を お祝い いたそう
とことん とことん とことんとん
サルは、日の丸の旗をバサバサ振って、からだを左右に揺すりながら、太鼓にあわせて歩きまわる。そのようすが滑稽なので、見物人が笑った。
次の出しものは、犬にまたがったサルの那須の与一が、棒の先に結びつけた扇を的に、竹の弓を引きしぼり矢を放つ。なかなかあたらない。
サルも ときには 下手をする
九郎義経 馬から 落ちる
雲から 落ちるは 久米仙人
首の 落ちるは 失業者
すってん すってん すってんとん
みんながどっと笑った。
このときはじめて猿まわしを見た。おそらく4歳の頃。
192
エマ-ソンの読書法。
(1)刊行後、一年たってもまだひきつづいて版を重ねている本。
(2)有益な本であること。
(3)自分の好きな本。
私の読書法。
(1)刊行後、一年たってもまだひきつづいて版を重ねている本は読まない。
(2)有益な本かどうか、読んでみなければわからない。読んでみて、有益な本ではなかったとわかったら、書いたやつを軽蔑すればいい。
(3)自分の好きな本は、そのときそのときで変化する。モンテ-ニュなんか好きじゃなかった。しかし、ずっとたってから、ようやくモンテ-ニュの凄さがわかってきた。自分の好きな本ばかりよんでいたら倦きるだろう。こいつはおもしろくなさそうだなと見当をつけて、やっぱりおもしろくなかったなあ、と思うのが楽しい。
私ごときが、エマ-ソンのような思想家になれるはずもないのである。
191
こんな文章を見つけた。
「イギリスの少年達は『ロビンソン・クルーソー』を熱心に読んで、海国男児の勇壮な魂を鍛え、イタリヤの少年達は『クオレ(愛の学校)』を読んで、愛国心やおもひやりの心を養ふのだといひます。どこの国にも、その国の人が少年時代に必ず読む本があるものであります。」
「少年倶楽部」昭和11年(1936年)3月号、山中 峯太郎の『敵中横断三百里』のための付録。
私なども『敵中横断三百里』を愛読した少年だったが、「その国の人が少年時代に必ず読む本」といわれると、つい別のことを考えてしまう。
今の子どもたちが、はたして『ロビンソン・クルーソー』や『クオレ(愛の学校)』を読むだろうか。誰も読まないだろう。勇壮な魂を鍛える時代でもないし、愛国心やおもひやりの心を養うことも必要もないからだが、子どもの頃に、こういう作品を知らずに過ごすことは、不幸なことの一つ。
別の不幸は、私たちが少年文学を考えるとき、つい『ロビンソン・クルーソー』や『クオレ(愛の学校)』などをもち出さなければならないことにある。
さらに大きな不幸は、『ロビンソン・クルーソー』や『クオレ(愛の学校)』をあくまでもすぐれた文学作品として読むことがなかったことだろう。山中 峯太郎の『敵中横断三百里』はもはや誰も読まない。それでいいのだ。
だが、福島 安正のオリジナルは、日本人の書いたもっともすぐれたノン・フィクションの一つ。この作品をすぐれた文学としてとりあげた文学史は一つもない。これこそ、私たちにとっては大きな不幸ではなかったか。
190
はじめてローマに行ったとき、バッグのカウンターにいたのは私ひとりだった。バッグが出てきた。すると、どこからともなく税関の役人が出てきた。いかにも人のよさそうな中年のオジサンで、やたらに明るい。パスボートを見せた。
私の顔を見て、旅行の目的を訊く。観光と答えた。ローマにきたきみは賢明だね。私は、フィレンツェに行くつもりである。彼はニヤッとしてみせた。
職業は? 大学講師。何を教えているのか? 文学。彼はニヤッとしてみせた。イタリアの文学は世界最高である。私はニヤッとしてみせた。
それだけだった。バッグの中身を調べずに白いチョークで、小さな輪を描くと、通過させてくれた。所要時間、30秒。
いくら楽な業務にしても、イタリアの簡単な入国手続きに驚いた。
イタリアののんびりした気風は、どこに行ってもおなじだった。私はまだイタリアのルネサンスの勉強をはじめてはいなかったが、イタリアに関心をもつようになったのはこのときからだった。
まだ、ハイジャックも、航空機によるテロもなかった時代。
189
少年時代、毎月、「少年倶楽部」を読んでいた。私の文学観の基本的な部分に、「少年倶楽部」の作家たちの仕事があったに違いない。
吉川 英治は『天兵童子』から読みはじめて『神州天馬峡』に夢中になった。
高垣 眸なら『まぼろし城』よりも『豹(ジャガー)の眼』。
軍事冒険小説としては平田 晋策の『新戦艦高千穂』。山中 峯太郎の『敵中横断三百里』。『亜細亜の曙』。空想小説なら海野 十三の『浮かぶ飛行島』。
佐藤 紅緑の少年小説は好きだったが、池田 宣政には心を動かされなかった。好きな作家、読むには読むが、まだ出ていない「少年倶楽部」が待ち遠しいとまでは思わない作家。こうした期待や選別から幼い批評意識が生まれなかったか。それぞれの作家を読んでワクワクしながら、それぞれの文体、文学世界の違いに気がつくようになった。
さらには山口 将吉郎、高畠 華宵、伊藤 彦造、斉藤 五百枝たちの挿絵が眼に浮かんでくる。河目 悌二の無邪気なイラスト、田河 水泡のマンガ。
やがて、少年小説から、大人の小説を読むようになった。
北林 透馬の短編で、はじめてエロティックな描写を読んだとき、少年の胸に驚きがあったと思う。(あとで読み直したが、少しもエロティックではなかった。)
江戸川 乱歩の『少年探偵団』を読まなかったら、ミステリーに関心をもたなかったに違いない。
はじめて文学作品を読んだのは、『我輩は猫である』と芥川龍之介の『黄雀風』だった。はじめて読んだ外国作家は、イエ-ツとキプリング。