368

1967年といえば、まだ、テレビもそれほど普及していなかった頃のこと。
FM放送を開始していたNHKの番組の一つに「English Hour」があったことも知らなかった。
その番組で、BBC制作の“The Same River Twice”という8回シリ-ズのミステリ-・ドラマが放送されることになった。その解説者に私が選ばれたのだった。
なぜ、私が起用されたのかわからない。
当時、私はミステリ-の翻訳をしていたし、推理小説の批評を書いていたので選ばれたと思われる。それに、俳優座養成所で講義をしていたし、評論を書く機会がないのでせっせとラジオ・ドラマを書いていた時期だった。だから、この人選はかならずしも間違ってはいなかったと思われる。
NHKから話があったとき、私は気がるに承諾したのだった。

ところが、驚いたことに、かんじんの台本が送られてこなかった。シノプシスもついていない。BBCはドラマだけを送ってきただけという。つまり、私はテ-プを聞いて、ミステリ-・ドラマを毎回、解説してほしいというのだった。
英語の台本がないのでは、私としては手も足も出ない。
私はミステリ-の翻訳家として知られていた。しかし、それはアメリカのミステリ-が専門で、イギリスのミステリ-は翻訳したことがない。
それに翻訳をしていても、会話ができるわけでもなかった。まして、ヒヤリングだけで、複雑なプロットをもつミステリ-・ドラマがわかるだろうか。
さすがに、あわてた。
しかし、引き受けた以上、なんとか解説めいたことをしゃべらなければならない。
当時はまだカセットテ-プも普及していなかった。
いそいでオ-プンリ-ルを用意して、ドラマを聞きはじめた。
(つづく)

――(「未知の読者へ」No.5)

367

人生には、想像もしないできごとがある。

昔、NHK・FMで、イギリスBBCのミステリ-が放送された。私がその解説をしていたらしい。そういえば、そんなこともあった。
まさか、これを録音していた人がいるとは思ってもみなかったが、当時、英語の勉強のために録音していた人がいたらしい。久保 隆雄さんという。ジャズ関係の仕事をしている方で、当時、このミステリ-を録音しておいた。私はそんなものが存在するなどと想像もしていなかった。
吉永 珠子のところに、久保 隆雄さんからメ-ルがあった。
もう40年も前、久保さんは商社に勤務しながら、英語の勉強をつづけていたという。最近になって、そのテ-プが出てきた。それで、当時の機械をわざわざ買って、これをパソコンに入れたらしい。

「そんなときNHKFM放送で、中田 耕治さん解説のBBC制作The Same River Twiceという8回シリ-ズのサスペンスドラマが放送されました。当時録音して何度も繰り返し聞いて楽しんでおりました。最近そのテ-プが出てきましたので・・」

久保 隆雄さんは、わざわざそれをCD化して、送ってくださった。
ふたたび久保 隆雄さんのメ-ルを引用させていただく。

「当時、その後ポピュラ-になったカセットテ-プはまだ珍しく、オ-プンテ-プで録ったものです。ところが当時のテ-プデッキは3スピ-ドがあり(中略)一番遅いスピ-ド4.75cm/秒という長時間録音を使いました。
テ-プが出てきたとき、今私の持っているデッキは2スピ-ドで4.75/cm秒はありません。ハタと困って、ヤフオクで探したところ当時使っていたものと同じデッキが900円で出ていました。もちろん中古、というかジャンク品です。送料の方が高いわけですが貴重なのでゲットし、クリ-ニングしたり、油をさして何とか聞けるようになりました。40年前のテ-プはワカメのような状態で、音質の不安定なところもありましたがシリ-ズ全部をPCに取り込むことが出来た次第です。40年ほどタイムスリップして懐かしく聞き入りました。中田さんの解説も素晴らしく、今聴いても新鮮です。」
(つづく)

――(「未知の読者へ」No.4)

366

「絶望ごっこ」という遊び。むろん、誰も知らない。

囲炉裏のある部屋に何人かの常連があつまる。みんなで囲炉裏の火を見つめながら押し黙って、ひたすらぼんやりして仮死状態のようにしている。
この遊びは、いささか荒涼として見えるのだが、めいめいの本心に対してむりを感じないところがいい。
いっけんバカバカしいお遊びだが、次第に焚き火の香りが五体にしみとおるような気がして、自分の部屋に引きあげるのがつまらなくなってくるから妙なもの、だそうな。
井伏 鱒二の初期の短編、『末法時論』に出てくる。

山でひどい雷雨におそわれて、何もかもおっぽり出して、いそいで岩かげや、這松の根っこの下にもぐり込む。生きたここちがしない。ガタガタふるえながら、ツェルトザックをひっかぶる。何も考えられない。口に出てくるのは「ちきしょう」とか「くそっ」ということばだけ。途中で引き返せばよかった、などと考えるのは、もう少し頭が働くようになってから。
当面の危険が去りはじめて、まだからだのふるえはとまらない。夢中でザックを引き寄せ、なんとかビバ-クの準備をする。
やっとの思いで、携帯コップ一杯のお湯をわかす。
バ-ナ-の火をじっと見ていると、もう少し落ちついてくる。まだ生きたここちがしないのだが、その小さな火を見つめている。
それが私の「絶望ごっこ」だった。

365

私の「文章講座」は、二年たらずで中絶した。

それまで、翻訳を勉強している人たちといっしょにさまざまなテキストを読んできた。結果として、かなり多数の人たちが私のクラスから巣立って行った。私は英語を教えたのではない。翻訳を教えたわけでもない。翻訳をする姿勢について、いつもみなさんといっしょに考えてきたのだった。

「文章講座」のクラスも文章の書きかたを教える場所ではなかった。ましてや、こちたき文章学を論じるつもりもなかった。文章を書くということが(きみや私にとって)どういうことなのか。そのあたりのことから、まず考えてみよう。

「あなたも文章が書ける」式の講座や、いわゆる「文章作法」などを期待してもらっては困る。テキストに、その日のストレ-ト・ニュ-ズの原稿を選ぶかも知れないし、コラムと呼ばれる記事を選ぶかも知れない。
このとき私の視野にあったのは、およそ時代遅れな候文、祝賀、吊祭文から、現在の新進作家の作品まで。ときにはホラ-・ビデオを見たり、落語を聞きに行ったり。とにかく自由に講義をつづけて行く。

もともと教育者になりたいと思ったことがなかった。教えることはきらいではない。それぞれの人の内奥に秘められている能力をいち早く見抜いて、その才能の所在を指摘する。それが私のやってきた仕事だった。

昔の映画だが、「俳優入門」(マルク・アレグレ監督/1938年)で、ルイ・ジュヴェが、多数の若い俳優や女優のたまごたちを相手に、あざやかに的確な意見を述べ、みごとなヒントをあたえてゆく。(シナリオはアンリ・ジャンソンだが、こういう部分は、シナリオにはなく、すべて実際にルイ・ジュヴェが演じてみせたもの。)
ジュヴェのような指導ができたら、というのが私のひそかな願いだった。

この講座は、現在の『中田 耕治・現代文学を語る』という講座に発展している。

(注)この「文章講座」に出席していた人のなかで、作家になったひとりに、森山茂里がいる。近作は『夫婦坂』。とてもいい時代小説。

364

ある時期、神田猿楽町にあった「翻訳家養成センタ-」で教えていた。(現在の「バベル」である。)
途中で、「文章教室」めいたコ-スをはじめた。

戦後、日本の教育は子どもたちに、個性的でゆたかな発表能力を身につけさせようとしてきた。その結果、皮肉なことに、ろくな文章ひとつ満足に書けない連中ばかりが多くなった。
私たちは、文部省の国語教育のおかげで、日本語の文章についてどれほどゆたかな知識を得たのか。もはや、日本語の文章について考える必要もなくなってしまったのか。
残念なことに、いまの人たちが文章を書けなくなったのは、中学、高校で、まことにすばらしい国語教育、作文教育をうけてきたおかげなのである。

どうすればいい文章が書けるのか。
ある評論家は「あるがままに書くのはやめよう」といった。冗談じゃない。あるがままに文章が書けたらたいへんなものではないか。別の作家はいった。「ちょっと気どって書け」と。わるい冗談だね。ちょっと気どっていい文章を書いた作家がいたら、おめにかかりたいものだ。
(つづく))

363

『闘牛』はメキシコが舞台。
メキシコを舞台にした芝居は、テネシ-・ウィリアムズの『浄化』を手がけてから二度目だった。
メキシコが好きになったのは、サム・ペキンパ-の映画を見ていたせいもある。ペキンパ-も最後の作品一本は見るも無残ものだったが、あとの作品はいまでも好きである。
日本のTVコマ-シャルで・・・ジェ-ムズ・コバ-ンがダ-ツをやっている。2本投げてみごとに命中する。3本目を投げようとした瞬間にドアが開いて、幼い少女が姿を見せる。投げようとしていたコバ-ンがその少女に眼をやる。緊張がほどける。
このコマ-シャルの演出がサム・ペキンパ-だった。わずか数十秒のコマ-シャルだが、みごとな演出で、いつまでも心に残った。
『闘牛』の演出をしながら、劇団内部の軋轢や、幹部たちの反目といった陰湿な空気、さらには稽古の途中でつぎからつぎにむずかしい問題がふき出してきたとき、私は「革命児サパタ」を思い出していた。
スタインベックのシナリオ、イライア・カザンの演出だったが、ラスト・シ-ンは、マ-ロン・ブランドの「サパタ」が、誰もいなくなった村へ単身乗り込んで行って、不意に敵兵に狙撃され、あえなく絶命するシ-ンである。
三百発の銃弾をうけて無残な死をとげた「サパタ」の姿に、私は感動していた。

芸術家も、ああいう姿をさらすとき、ほんとうに芸術家の名にあたいするのではないか。そんなことを考えながら、演出していた。

『闘牛』演出は私の最高の仕事になった。

362

『闘牛』ははじめて読んだときから、いつかは手がけてみたいと念願しつづけてきた戯曲だった。
『闘牛』を選んだのは、登場人物が多数出てくるので、日頃、舞台に立つことのない研究生たちに機会をあたえてやろうと思ったことも理由のひとつ。
芝居の演出はそう楽な仕事ではない。弱小劇団のかなしさ、はじめに予算ありき。ぎりぎりの予算のなかで作ってゆくのだから、毎日、無から有を生じさせる経済原則をつきつけられながらものを作るようなもので、極端な例では、ライト1本でも節約して、舞台上では変わらない効果を考え出す。そんなことの連続だった。
大劇団の演出家なら助手に命じてすませられることでも、小芝居の演出となると、ありとあらゆる困難にぶつかる。みんな貧乏で、昼、女優が食べたラ-メンの残りの汁をすすって食事がわりにするような役者もいた。ぜったいに芝居で損失を出してはならない。これが私の信念になった。ところが、『闘牛』の演出にかかってから、劇団の内紛が起きて、出演者のあいだに動揺がひろがり、さすがに一時は演出意欲もそがれてしまった。
どうして、こんな戯曲を選んでしまったのだろう?
それまで演出家としての自分の才能に疑いをもつことがなかったのに、このときは私の演出を延期して、別の演出家がつぎの公演に予定していたレパ-トリ-にさし変えることまで追いつめられた。こういう状況のなかで、この芝居を上演してもコケル。そんな重苦しい自責感に似た思いにおそわれていた。
もっとも心配性の私は、よく、そんな状態になることがあった。なんど芝居を演出しても、こういう性質は直らない。むろん、出演者たちには、そんなようすは少しも見せないのだが。
(つづく)

361

レスリ-・スティ-ヴンスの『闘牛』を演出したのは、いつだったのか。

当時、私は「新劇場」という劇団で5本、ほかの劇団で3本、芝居を演出した。成功したものもあるし失敗したものもある。「新劇場」の演出家としては、『闘牛』がいちばん成功したものだった。
私は、自分に演出できない戯曲は絶対に選ばなかったし、興味のない戯曲を演出したことはなかった。
後年、福田 恆存が中村 光夫の戯曲を演出していたとき、訊いてみたことがある。
「どうして中村 光夫の芝居なんか演出なさるんですか? 福田さんが演出なさるというので期待していますが、どこが気に入られたのか、見当もつかないんですが」
「あれゃあ、つまらない芝居だよ」
「じゃ、どうして演出しようと思ったのですか」
「だってきみ、あんな芝居、どこでもやりやしないよ。だから、やってみようと思ったんだ」
この芝居、ひどく不評だった。              (つづく)

360

ヘミングウェイの『日はまた昇る』の題名が、旧約聖書からとられていることはよく知られている。
「世は去り、世はきたる。日はいで、日は没し・・」という『伝道の書』の一節。
ヘミングウェイが神を信じていたかどうか。あるいは、どこまで神を信じていたのか。
ヘミングウェイを読んでいたので、当然、スタインベックも全部読んだ。
『怒りの葡萄』のなかで、
「ふたりはひとりになる。彼らはその労苦によって良い報いを得られるからである。すなわち、彼らが倒れるとき、そのひとりがその友を助け起こす。しかし、ひとりであって、その倒れるとき、これを助け起こす者のいない者はわざわいである」
という、おなじ『伝道の書』の引用を見たとき、ここにヘミングウェイと、スタインベックの違いを見ることができるような気がした。
その後、私はいつもこのふたつをめぐって考えつづけてきたような気がする。

359

ずいぶん昔ヘミングウェイを読んでいたら、こんな言葉にぶつかった。

しかし、作家というものはますます孤独になるものだな。なすべき仕事は多いのに、時間はますます少なくなって行くのだから。

あるインタヴュ-に答えたことばだが、いまの私にもこの重みは、いくらかわかるような気がする。

去年は去年の孤独があり、今年は今年の孤独がある。
私はその孤独に耐えるしかない姿勢で、仕事をつづけてきたが、年々歳々、孤独は深まってゆく。

私は、その孤独に沈潜しなければならない、などというのではない。
ヘミングウェイのように強靱な精神力、体力に恵まれた作家でさえ、自殺しなければならなかった。私はヘミングウェイのような大作家ではないので、自分がますます孤独になってゆくことに、うろたえながら生きている。まだもう少し書きたいものはあるのだが、書けなくなっても仕方がない。もともと才能に恵まれなかったことを嘆いたところではじまらない。

358

ときどき川柳を読む。

私の中学で国語を教えていたのが高坂 太郎先生だった。世に知られることはなかったが、川柳の研究に生涯をかけた学究だった。一冊の編著を残したが、江戸時代の川柳を網羅したもので、数千枚を越える大冊で、時の文相、鳩山 一郎の序文がれいれいしくついていた。
「あたしが自分で書いたんだよ。政治家なんざ、こんな文章も書けやしません。だから、こっちが書いて署名していただく。へへへ。こういうお墨付きがあれゃぁ警察も手が出せない」
たいへん洒脱な人で、授業中に、安永時代の話になった。安永(1772~81)といえば江戸中期。恋川 春町、並木 五瓶、桜田 治助の時代。
先生は中学生を相手に川柳をちらっと披露する。

新酒屋うらから女房度々逃げる

銘酒屋を開業したが、女めあての客が酔っぱらって口説く。それがこわくて、裏口から逃げ出す。洒脱な語り口に教室がわいた。むろん、中学生相手だからほんとうのところは伏せてある。
私が川柳に興味をもつようになったのはこの先生の影響だった。

戦後、高坂 太郎先生は自分が営々と集めた尨大な川柳の資料を手放した。当時の混乱のなかでは、とうてい出版できなかったと思われる。その資料は、さる人の手にわたって、後年、その人の名で出版された。

357

大学を卒業する直前のこと、ある作家からお小遣いを頂いた。
当時の私は友人の椎野 英之の頼みで、雑誌「演劇」の編集を手つだっていた。
身分は学生だが、貧乏なもの書きだった。注文があれば、ラジオドラマや、コントと称する読みもの、雑文などを書きながら、アルバイトで編集者、というより「パシリ」で、いろいろな作家の原稿をもらいに行く。おまけに、俳優養成所で講義をつづけている。自分でもわけのわからない仕事をつづけていた。

しばらくして岸田 国士編で、演劇書を作ることになった。実際の編集は椎野がやったのだが、末尾に演劇史の年表をつけることになって私が起用された。
演劇史に関心がなかった。やむを得ず、ギリシャ、ロ-マから代表的な戯曲を読みはじめて、なんとか年表らしいものを作った。
岸田 国士が別荘でその年表を校閲することになった。

軽井沢に行くことがきまったとき、編集室に立ち寄った作家にはじめて紹介された。そのときの話で、私が上野から軽井沢まで同行することになった。
帰り際に、作家はさりげなく紙幣を手にして、
「少ないけれど、とっておいてくれたまえ」
といった。
私はほんとうに驚いた。戦後すぐから批評めいたものを書いていたので一部では知られていたにせよ、その作家が私の書いたものを読んだはずはない。原稿料で生活していたが、先輩の作家、それも初対面の人から金銭を頂いたことはなかった。私は、仕事で伺うのだから、頂戴する筋あいのものではないとことわった。しかし、岸田 国士はにこやかに微笑して、
「気にしなくていいんだよ」
どうやら軽井沢に行く旅費もおぼつかないと察してくれたのだろう。ありがたく頂戴することにした。私は黙って頭をさげた。

この軽井沢行きには、もう一つ、大学の卒業をひかえたおなじクラスの学生たちの<修学旅行>が重なっていた。あまり教室に出なかったため、親しい仲間もいなかった私にとっては、この<修学旅行>は楽しい思い出になった。
もっとも、その晩泊まった宿屋でも、ほかの学生たちといっしょに放歌高吟することもなく、深夜まで、ひとり年表作りを続けていたのだから、最後の最後まで仲間はずれだった。

その晩、年表にとりあげた芝居の一節を思い出す。
「お互いに一生おぼえていよう。ぼくはきみを忘れない。きみもぼくをわすれてはいけないよ。ぼくたちはもう二度と会えないんだ。でも、ふたりは忘れやしない。ぼくのハイデルベルグへのあこがれはきみへのあこがれだった・・・そして、とうとうまたきみに会えたんだ」

岸田 国士は、翌年、『どん底』の演出中に劇場で倒れて、そのまま亡くなった。

356

マキャヴェッリの喜劇を演出したことがある。
『クリ-ツィア』五幕。訳は中田 耕治。
おかしな喜劇で、これをコメディア・デッラルテふうに演出した。
劇中に、ジェフ・ベック、グランド・ファンク、ミッシェル・ポルナレフなどをつかった。若い女優たちがときどきちぶさをポロッと見せたり。当時としては奇想天外なものになった。
マキャヴェッリといえば『君主論』の思想家。しかし、劇作家としては『マンドラゴラ』という傑作がある。マンドラゴラは曼珠沙華(まんじゅしゃげ)、クリ-ツィアは向日葵(ひまわり)。

ニコマコ いいか、計画はこういうことだ。まず、おれが寝室に忍び込む。暗闇で、静かにいそいで服を脱ぐ。さて、ピエトロのかわりに、花嫁のとなりにそっとすべり込む。
ダモ-ネ なぁるほど。で、どうする?
ニコマコ さて、彼女にぴったりくっついて。新婚初夜の花婿よろしく、彼女の乳房にふれてみる。彼女はおれの手をとって・・・・離さない。そこですかさずキスをする。あら、そんな、といっておれの顔を押しのける。ところが、おれは、彼女の上からのしかかる、そこで、彼女も観念して・・・

というお芝居。天衣無縫のいやらしさ、おおらかさ。猥褻な喜劇に見せかけながら、じつは、マキャヴェッリがイタリアの現状に冷然たる侮蔑をなげつけている。どうです、おもしろそうでしょう。

入りはよくなかったが芝居はまあまあだった。このとき、主役をやらせた女の子のひとりが、今、参議院議員になっている。もうひとり、これも主役をやらせた女の子は、劇団のゴタゴタにいや気がさして私から離れてスペイン舞踊に進んだ。

夢まぼろしのごとくなり。

355

ある日、石井 漠と徳川 夢声が新橋あたりを歩いていた。
石井 漠が、とあるビルに眼をやって、
「ねえ、きみ、あのビルは動いているのか、いないのか」
と訊いた。
「ビルが動くはずがないじゃないか。どんなビルだって動いていないよ」
徳川 夢声があきれたような顔で答えた。
「ところが、じつは動いているんだ。ほんとうは、倒れまいとして、しっかり立っているだけなんだよ」
石井 漠が答えた。

映画批評を書いていた頃、私はよく新橋を歩いた。この界隈には試写室が多かった。映画を見終わって、戦後から大きく変わってしまったあたりを歩きながら、ときどき、このエピソ-ドを思い出した。

どこで読んだのか。何かの雑誌に出ていたのか、夢声の随筆で読んだのか。
日中戦争がはじまった翌年(1938年)頃の話らしい。
石井 漠は、当時の日本を代表する舞踊家。徳川 夢声は、活弁(活動弁士/無声映画の説明者)から漫談に転向し、さらに俳優として映画や舞台に出た。
戦後も、吉川 英治の『宮本武蔵』や『新平家物語』のラジオの朗読で人気があった。
石井 漠、徳川 夢声を知らなくても、このエピソ-ドからいろいろと考えることができる。

354

その界隈の酒場では、毎晩、いろいろな作家や編集者たちが集まって、誰かれなしに他人の作品を批評したり、ときには口喧嘩になったり殴りあったりする。
私はそういうバ-には立ち寄らないことにしていた。

彼女に案内された酒場は、その界隈でも、うらぶれた酒場のひとつだった。
ベニアに合成樹脂を張ったドアを開けると、いきなりカウンタ-になっていた。なにしろ狭い空間で、客が五、六人も入れば、もう動きがとれない。
「おや、いらっしゃい。お待ちしてましたよ」
彼女は、この店の常連らしく、バ-テンが声をかけてすぐにウィスキ-の水割りが前に出てきた。
「ヤッちゃん、こちら、あたしの先生。よろしくね。・・先生は何になさる? おなじものでいい?」
やがてなまぬるい水割りが苦い味を残して喉から胃にむかって落ちて行く。

話題はいくらでもあった。私の仕事。しめ切り。つぎの仕事。しめ切り。彼女が私に依頼してきた仕事。そのしめ切り。
彼女の卒業制作は有名な作家を論じたエッセイだった。大学を出て小さな業界誌の編集者になった。その後、もっと大きな出版社に移った。編集者としてやってみたい仕事。自分でも何か書いてみたいという。何を書いていいのかわからない。
私は酔っていた。
その視線の先に壁紙がわりに外国女優の写真のポスタ-が数枚、貼りつけられていた。マリリン・モンロ-だった。一枚は有名なヌ-ドだった。

「そういえば、マリリン・モンロ-って、たしか夏に死んじゃったのよね」
「1962年の夏」
「ああいう女優って夏に死ぬのよね。・・よし、きめた。あたしも、夏に死ぬことにするわ。・・ね、いいでしょ、先生・・あ、信じていない。いいわ、いまに、ぜったい夏に死んでやるから」

彼女の何杯目かのグラスが氷だけになっていた。

353

やつがれ「ご幼少」の頃、銭湯ってよかも湯屋(ゆうや)のほうが通じましたナ。
番台にすわってるのは、たいていひからびたシジイで。たまに近所でも評判の美人の娘がすわったりするてェと、さあ、たいへん、あっという間にひろまって、若い衆がワンサと湯屋に押しかける。子どももつれて行ってもらったり。帰りのラムネ、サイダ-がおめあてで、湯屋(ゆうや)に行くのがうれしかったですナ。

湯気でくもったガラス戸を開けると、もうもうと湯気が立ちこめて、カランの前にくりからもんもんの爺さんがからだを洗っていたり。三助がねじり鉢巻きで客の肩をもんでいる。なかなか威勢がよござんした。しばらく揉むってぇと、両手をそろえて肩を打つ。上がり口、ザクロ口、洗い場から高い天井にポ-ンと音が響く。その音がいいもので。
どうかすると、番台に三宝(さんぼう)が置かれて、お祝儀袋が積んであったり。
どうも物日か何かで、その日は菖蒲湯だったんでしょうなあ。まだ、どこか江戸の名残りがただよっていた。

近頃、まるっきり、銭湯に縁がなくなっちまったが、浮世絵の美人入浴図などを見ると、やはりなつかしいもんでさぁ。
絵に描かれてる女のからだつき、体型は変わったが、そこに描かれているのは、どう見ても江戸の女の姿だからでしょう。
あたしも、湯屋の番台にすわるくらいやってみたいもんで。エヘヘ。

352

キリスト教について何も知らない。しかし、ルネサンスを勉強していたので、いちおうキリスト教についても勉強した。
私が好きなイエスをあげるとすれば、

パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。イエスは彼らに言われた。「あなた方は夕方になると、『空がまっかだから、晴れだ』と言い、「また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。
そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
(マタイ伝 16章1~4節)

この一節がいちばん好きなのだ。
政治的に仲がよくないパリサイ人とサドカイ人が、共通の敵であるイエスに対して、天からのしるしを見せるように、と迫った。
神が生きているなら、かならず「しるし」があらわれる。だから見せてくれ、といったのだろう。
この一節のイエスを想像するだけで、パリサイ人やサドカイ人の反応まで見えてくるような気がする。
私は聖書学者ではないので、神学的なことに関心はない。しかし、キリスト教を知らなくても、いろいろと想像することはできる。
まず、イエスのみごとなダイアレクティックス(反論)におどろかされる。「時のしるしを見分けることができない人々」に対する、あざやかな否定。
ヨナのしるしというのは、クジラの腹に飲み込まれた予言者ヨナが三日たって陸に吐き出されたという旧約聖書の物語をさす。そのくらいは私も知っている。
ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられない、ということばは、処刑後のイエス復活が「天からのしるし」であることになる。
そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
このエンディングはすごい。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。このイエスの姿を想像していると、物語のみごとな終わりに驚嘆する。
こんなことしか考えないのだから、私がキリスト教徒になれるはずもない。

351

エリザベ-ト・シュワルツコップが亡くなった。(06.8.3)。享年、90歳。

ハンス・カロッサに『一九四七年の夏』という作品がある。つい最近、なんとなく読み返したのだが、ふとエリザベ-トのことを思い出していた。
私の「なんとなく」には理由があって・・・エリザベ-ト・シュワルツコップは、戦後、すぐに、『魔笛』を上演している。敗戦直後のドイツで、劇場らしい劇場はほとんど壊滅していた。オペラの上演など考えられなかった時代で、楽器も、音響設備も、照明器具も満足にそろわない舞台で、エリザベ-トは歌いつづけた。
戦後ドイツの最初の歌声だった。
じつはドイツ・オペラのことは、ほとんど知らない。
昔のマルタ・エッゲルトや、ワグナ-ならシェルメ-ヌ・ル-ビンぐらいしか聞かなかった。好きな歌手もアンネ・リ-ゼ・ロ-テンブルガ-だから、ドイツ・オペラについてはまるで無縁だった。
それでも、エリザベ-ト・シュワルツコップの『フィガロ』、『バラの騎士』あたりは聞いている。
ずっとあとになって、この1945年の『魔笛』の録音を聞いた。録音はよくなかったが、エリザベ-ト・シュワルツコップが、戦後、誰よりも早くモ-ツァルトを歌ったことに胸を打たれた。

評伝『ルイ・ジュヴェ』のなかで、フランスのディ-ヴァ、ルネ・ド-リアのことにふれたが、このときドイツのディ-ヴァ、エリザベ-ト・シュワルツコップを引きあいに出した。(「第六部第五章」)
ルネ・ド-リアと並んで、エリザベ-トの歌は心に響いた。

エリザベ-ト・シュワルツコップが亡くなった晩、『ます』と『至福』だけを聞いた。1946年の録音。
聞きながら、カロッサを思い出していた。

350

明治百年(1967年)の東京見物はどういうものだったのか。
「人力車で市中をゾロゾロと連(つらな)って廻る様な悠長でなく、定員百人乗の空中飛行機で、スルスルと空中へ舞ひ揚り、客には銘々に双眼鏡一個づつ持たせ、案内者は口に喇叭(ラッパ)の様な拡声器(ケラフォン)を当て、音楽の如き大声で説明する」。
東京駅らしい部分だけ引用しておく。
「其れから少しく北方の大きな硝子屋根が、中央大停車場で、其所を中心として卓(テ-ブル)の輪骨の様に集まる鉄道が見えませう。ネ、彼れが東海道線、中央線、中仙道線、東北線、東武線、海岸線、房総線路の鉄道であります。また市街々々の間には、東京市有の電車が、蜘蛛の巣の様に軌道(レ-ル)を引っ張て、走て居ますが、まだ彼の外に、地の底にも沢山の電車線があります。」
見物人が、こんな海に近い、地の底に電車が通るものか。土鼠(もぐらもち)じゃあるめいし、田舎漢(いなかもの)だと思って馬鹿にしなさんな、と怒りだす。
案内人はわらいながら説明する。
地下の電車は会社が二つ、地の底十間も下に、大きな鉄管を伏せて、そのなかに鉄軌(レ-ル)を敷設する。これも、中央大停車場を中心にして、南は品川、北は千住、西は新宿、東は亀井戸まで、十文字に通じている。
もう一つの会社の地下電車は、煉瓦で巻きあげた墜道(トンネル)で、上野、浅草、両国、銀座、日比谷、赤坂、牛込、本郷を一周する。
停留所には、昇降機(エレベ-トル)とて、大き箱の中へ数十人の乗客を容れて、電力で入口から下まで釣り下げ、また釣り降して居ます。
これは、「冒険世界」(明治43年4月20日号)の記事。
「明治百年東京繁盛記」。書いたのは、坪谷 水哉。
ドイツ皇帝が伯林(ベルリン)から東京まで、空中飛行機で訪日する、といった予想は当たらなかったが、鉄道、地下鉄については、坪谷さんの予想はすべて実現している。

私たちには、これから10年後の日本の変化の予想もつかないのだが。

349

フランスの少女ふたりが、日本のマンガにあこがれて、日本に行こうと思い立って、06年6月22日、わずかな所持金と、マンガ本だけバッグにつめて、ベルギ-、ドイツを経由、25日、ポ-ランドからベラル-シに入ったところで警察に保護された。旅行にヴィザ申請が必要ということも知らず、韓国まではシベリア鉄道を利用するつもりだったらしい。可愛いじゃありませんか。
この事件は「リベラシォン」の記事に出た。
この少女ふたりは日本のマンガ、「NARUTO」や「ビ-チガ-ル」のファンで、日本のマンガ文化に夢中だったらしい。なにしろ「めぞん一刻」がフランスで放映されてたいへんな人気だったくらいだから、少女たちが日本のマンガにあこがれても不思議ではない。いまのところ日本が世界に誇れるものはマンガぐらいだから。

もし、この少女たちが無事に日本にたどりついていたら。私は、そのあたりのことを想像する。アフリカのニカウさんが来日したときとは違うだろう。

私のマンガの知識は、「のらくろ」、「冒険ダン吉」、「日の丸旗之助」からはじまって、「鉄人28号」、「いがぐりくん」、「赤胴鈴之助」、「ビリ-バック」あたりから。女の子むきのものでは、「少女三人」や「ママのバイオリン」あたりから。「ベルばら」はとびとび。
ある時期、あだち 充、細野 不二彦、岡崎 つぐお、神戸 さくみ、村生 ミオといったマンガ家をずいぶん熱心に読んできた。
アニメを見なくなったのは「F」が途中で打ち切られた頃から。
今では「おじゃる丸」をたまに見る程度。
だから、「NARUTO」や「ビ-チガ-ル」は知らない。

この少女たちが日本のマンガを読まなくなるようなことになりませんように。
その前に外国旅行には旅券が必要という「常識」を身につけてほしいのですが。