388

何世紀も昔、すべての衣服は左側にボタンがついていたそうな。

中世になって、剣をすばやく引き抜けるように男の衣服は右ボタンになり始めた。

あたらしいデザインでは、すばやく左手で上衣のボタンをはずして、右手で剣をとるように考案された。しかし、実際に剣を抜く目的からはなれて、男の右ボタン、女の左ボタンは、現在までずっとつづいている。
「実際に剣を抜く目的からはなれて」の意味は、きみの想像にまかせよう。

現在では、男のコートの袖のボタンはあくまで飾りだが、これも実際的な目的から始まっていると思われる。今よりもコート袖が広くたっぷりしていた時代にボタンがはじめて使われたらしい。ボタンで袖をしっかりとめれば、両手がらくに使える。

別の説もある。プロシャのフリードリヒ大王は兵士が袖口で顔を拭くので、制服の袖をボタンでとめるように命じた。

ボタンにまつわるいろいろな迷信がある。ボタンの穴を間違えてボタンをかけ違えると、悪運に見舞われる。服を外に出してキチンとボタンをかけ直すと悪運は免れるという。
こういうのは雑学だが、芝居の演出をするには、こんなアホらしいことまで知っておく必要がある。一度、役者にボタンの穴を間違える芝居をさせた。それに気がついてあわててボタンをかけ直す。それだけで、観客はどういう「役」なのか理解する。ただし、いつもそんな芝居をさせていたわけではない。

387

握手は中世の頃に始まっている(らしい)。
「ロミオとジュリエット」を見ればわかるのだが、中世の気風はまことに殺伐で、見知らぬ人と会ったとき、どうかすると、たちまち武器を手にしなければならない場合もあった。右手はさっと腰の短剣に伸びる。
ふたつのグループは、お互いに武器を手にして相手のまわりをぐるぐる回る。やがて無言のまま武器をおさめるまで。そうなると、武器をもっていないことを見せるために右手をさし伸べて、お互いに握りあう。これが握手の始まりだった。

今でこそ異性と握手しても、誰も不審な眼を向けないが、こういう風習はあまねくひろがっているわけではない。香港映画でおなじみだが、胸の前で固めた拳に右の手を重ねる礼。あれだって、他人に会ったときは武器をもっていないあかしに、相手の前で自分の手を握ってみせたことから起きている。ジェット・リ-がやるとカッコいい。
握手は仕事の取引のあかしにも使われる。手をクロスさせて握りしめるのは、その仕事を祝福すること、それぞれお互いの名誉をかけた意思をしめすため。

386

私たちのあいだでも、握手をする習慣がある。
たとえば、親しいひとと会ったり、別れるときに、手をさしのべる。相手の手をにぎりしめる。それが自然にできるようになっている。
若い頃には、女性と握手するようなことはなかった。
男の子と女の子がいっしょに仲よくしているだけで、

ヤ~イ、男と女のマ~メいり、
いってもいっても、いりきれない

などと、囃子(はやし)たてる。
私は中学生のとき、まだ小学校の三年か四年の妹と歩いていて、悪童どもに囲まれたことがある。
焙烙(ほうろく)で大豆を煎る、これが煎り豆だが、これは性的な暗喩だった。戦前の日本人の内面には、こうした軽侮のうしろにいつも陰湿な羨望がひそんでいた。
こういう「やっかみ」が、日本の文化に独特の歪みをもたらしているかも知れない。
気のつよい女の子は、きっとした顔で、囃したてた男の子たちを睨みつける。

いまでは、私たちばかりではなく、世界じゅうの地域で、お互いに善意をしめすジェスチャーとして相手の人と握手する。異性と別れるとき、握手しても、誰もとがめない。

そこで、少し考える。
握手という習慣を、どういうかたちで身につけてきたのか。
フランスでは、人に会えばお互いの両頬にキスする。マヤ・ピカソを成田空港に送って行ったとき、そういうキスをしなさい、といわれた。
南洋のある島々の住民の挨拶は鼻をこすりあわせる。あいにく、こういう挨拶はしたことがない。一度、やってみたいものだが。(笑)        (つづく)

385

パリ。深夜にタクシ-に乗った。
初老の運転手が私を旅行者と見て話しかけてきたと思う。どこからきたのか、とか、パリにきてどのくらいになるのか、といった、ごくあたりさわりのない話だった。
そのうちに、私はこの運転手が、スラヴ系の出身者らしいことに気がついた。
しばらく話をしているうちに、どういうことからそんな話題が出てきたのかもうおぼえていないのだが、彼の境遇を聞かされることになった。ロシア革命当時、貴族の子弟として士官学校に入っていた彼は、赤軍と戦って遠くシベリアで転戦した。
自分の部隊が壊滅したため、必死に戦線を離脱して、難民としてパリに落ちのびたという。
彼の口から、思いがけない人の名前が出た。
ベルジャ-エフ。
士官学校で彼の講演を聞いてから、個人的に親しくなったという。
私はベルジャ-エフを読んではいたが、おもにドストエフスキ-に関しての著作だけで、ほかのものはあまり知らなかった。それでも、『ドストエフスキ-論』を読んだことがある、といった。
そのときの彼の驚いた表情は、いまでもよくおぼえている。車をとめた。

小柄で、風采のあがらない、おまけに頭のわるそうな日本の若者が、ベルジャ-エフを読んでいる。信じられないことだったに違いない。
私のほうも、ロシアの元貴族がパリでタクシ-の運転手をやっていて、少年時代にベルジャ-エフと親しかった話を聞かされる、などとは想像もしなかった。
それから、ひとしきりベルジャ-エフの話になった。

いつか短編にしようと思っていたが、とうとう書かずじまいだった。
メ-タ-をとめて話をしたのだが、別れぎわに私からタクシ-代をうけとらなかった。だから、旅行者と見てたくみにだます雲助ではなかった。
私にとってはパリの思い出のひとつ。

384

作家、翻訳家になるのはそれほどむずかしいことではない。小説を書く、翻訳をする。それだけできみは作家なり翻訳家になれる。同人雑誌にはそういう作家がいっぱいいる。
では、作家や、翻訳家になることが、きみの目標なのか。
そのためには、きみの過去、現在が、そのための手段ということになる。
きみはどれだけの過去を生きてきたか。それを現在、誰にむかっていきいきと語ることができるのか。
むずかしいのは、最初の小説を書き、最初の翻訳をしてからなのだ。つぎの小説が書けるのか。さらに、そのつぎの小説が書けるのか。
一冊の本を翻訳をする。つぎにまったく違う作家のものを翻訳できるのか。または、それまで手がけたことのないジャンルのものを翻訳できるのか。
大学の先生たちの翻訳が、たいていおもしろくないのは、こんなことを考えもしないからだ。自分の好きなことをやっていればいいのだから。
こうなると、作家なり翻訳家になることなどたいした目的にはならない。
いい小説を書く。ほかの翻訳家のやらないような作品を選ぶ。つまり、いつもいい小説を書き、いい翻訳をしたいという願望が、きみをほんとうの作家なり翻訳家にするのだ。

383

香港で、張 國榮(レスリ-・チャン)の没後、5周年を記念して、大きな回顧展が開かれた。(’06.8)
私は、自宅でレスリ-を偲んで、「ダブル・タップ」(ロ-・チ-リョン監督/00年)を見た。
これはサイコ・キラ-。張 國榮(レスリ-・チャン)が、めずらしく殺人者をやっている。ダブル・タップというのは目標にむかって2連射して、おなじ位置に命中させる射撃用語。香港返還後の香港の姿がいくぶんでも見られるが、全体に停滞した空虚な気分が読みとれる。映画もかっての輝きは見られない。演出も迫力がない。香港映画の衰退。

ついでに、 「ハッピ-・フュ-ネラル」(「大腕」フォン・シャオガン監督/01年)を見た。映画界の内幕を描くと見せて加熱する広告業界、ひいては中国のバブル経済の風刺と見ていい。ドナルド・サザ-ランド、シャ-リ-・クワン。こういう映画が作られるだけ、中国映画界が成熟してきたと見ていい。ベルトルッチの「ラスト・エンペラ-」を意識していると見せて、中国の経済発展を皮肉ったおもしろい映画だが、その批判は党の「走資主義」に向けられてはいない。どうせこういう映画を作るなら「題名のない映画」や「グッドバイ、バビロン」のような視点で描いたほうがもっとおもしろいものになったと思われる。

382

香港映画迷だった。香港映画では、映画監督の徐 克、王 家衛に、いつも関心をもってきた。

もう、誰の記憶にも残ってはいないだろうが、「ハッピ-・ゴ-スト(開心鬼撞鬼)」(ジョニ-・ト-監督/86年)について。
何かの事件で死んでしまった女が幽霊としてこの世に戻ってくる。香港映画では、「チャイニ-ズ・ゴ-ストスト-リ-」などでおなじみだが、この映画はおなじテ-マでも、幽霊が現実の事件にからんでくるバカバカしいドタバタ喜劇。まだ新人だった張 曼玉が可愛い。
ブレイク・エドワ-ズ監督の「スウィッチ」(91年)を見たとき、「ハッピ-・ゴ-スト(開心鬼撞鬼)を思い出した。
こちらのスト-リ-は・・・女たち3人に殺されたビジネスマンが、最後の審判で地上に戻される。ところが悪魔の仕業で、戻ったときには、女になっていた!
ブレイク・エドワ-ズの映画ではおもしろいほうだった。エレン・バ-キンは美女とはいえないが、私の好きな女優。この作品で「ゴ-ルデン・グロ-ヴ」にノミネ-トされたが、受賞はしなかった。これで受賞していたら、もっといい女優になっていたはずだが。 私はこういうバカバカしいドタバタ喜劇も好きなのである。

「ハッピ-・ゴ-スト(開心鬼撞鬼)」に、サッカ-・シ-ンが出てくる。この部分、徐 克のアイディアだが、後年の周 星馳の「少林サッカ-」がこれを発展させたものだったことがわかる。
なぁんだ、あのサッカ-・シ-ンは周 星馳の「独創」かと思ったら、徐 克(ツイ・ハ-ク)がとっくに先鞭をつけているじゃないか。
あらためて、徐 克に敬意をもったが、そのツイ・ハ-クが、俳優としてこの映画に出ているのだからおかしい。
自分の映画に出ていた映画監督としては、「キ-プ・ク-ル(有話好好説)」(97年)に出た張 藝謀(チャン・イ-モ-)がいい。ほんのわずかなシ-ンに出てくるだけで、演技といえるようなものではなかったが、まじめな顔をしているのがおかしい。やはり一流の監督になると、面がまえが違うなあ。

381

冥王星が、太陽系の惑星から外されてしまった。可哀そうに。

プラハで開催された国際天文学連合(IAU)の総会は、惑星の定義をめぐって討議し、冥王星を惑星から格下げして、太陽系の惑星を8個とする最終決議案を採択した。(’06.8.24)
理由は・・・冥王星はほかの惑星と比較して軌道や大きさが異質で、冥王星を惑星とみとめないという。これまで幕内にいたのに、いきなり三段目に落とされたようなもので、冥王星はボヤいているかも知れない。
1930年に発見された「冥王星」は、わずか76年で、栄えある資格を剥奪されてしまったことになる。
とばっちりを食ったのは、冥王星の衛星「カロン」で、原案では12惑星に認定されるところだったのに、最終案では惑星の候補にもあげられなかった。

しばらく前に「冥王 まさ子」というペンネ-ムの女流作家がいた。他人のご趣味をとやかくいうつもりはないが、大仰なペンネ-ムに違いない。この方はいつもペンネ-ムにこだわっていたらしく、翻訳では別に2種類の名前を使っていた。
アナイス・ニンの翻訳のことで、一度だけ電話をかけてきたことがある。ひどく高飛車ないいかたで、「中田さんがおやりにならないのでしたら私がやりますから」という。私としては、むろん否やはない。長年、日本でアナイスを出したいと思って苦労してきただけに、翻訳してくださる方が名乗りをあげたのはありがたい。どうぞ、おやり下さい、と答えた。
私のいちばん苦手なタイプの女流だった。

あとで聞いたのだが、直接、アナイスのところに押しかけて行ったらしい。アナイスは彼女が翻訳することをよろこんだが、親しい友人には「へんな女」と語っている。これを聞いた私はおもわず苦笑した。

この女流作家が・・・「冥王星被錫出九大行星」というニュ-スを聞いたらどんな顔をなさったか。そんなことを想像すると、また苦笑したくなった。

380

ヒラリ-・クリントンの胸像を作った彫刻家がいる。ただし、上半身のニュ-ド。題して「大統領の像」。ニュ-ヨ-クの、ある美術館で公開された。
このニュ-スは中国語の新聞「半月文摘」(06,8.16.)で読んだ。
なぜ、こんな題をつけたのかと聞かれて、作者、いわく、
「ヒラリ-はアメリカの歴史で第一位の女性大統領だから」
この「大統領の像」のヒラリ-の眼に深い叡智がたたえられている(という)が、目尻の皺まで克明に再現されている。豊満な乳房。まるで、ロココの女の彫像のようだが、乳首、乳暈は花びらで表現されている。

私は、エロティック・ア-トをエロティックであるという理由で否定しない。むしろ、芸術がどんなにエロティックであっても、そのことは積極的に容認する。たとえば、日本の浮世絵、ロダンの多数の秘画。コクトオが描いた「恋人」の勃起するペニス。いつも性器を露出させているピカソの女とおなじように、マリリンのニュ-ドを描きつづけたスズキ シン一。

ヒラリ-は、来年の選挙に向けて各地の遊説に動いている。(’06.9)
かなり人気が高い。有権者の関心は・・・ヒラリ-がつぎの大統領選挙に出馬するかどうか。出馬を表明すれば、国会議員としての仕事を途中で下りるわけだから、有権者としても気にしないわけにはいかない。マスコミをシャットアウトしているだけに、彼女の動向が注目されているのだが、この「大統領の像」を彼女が見たらどう思うだろうか。

私はこの「大統領の像」にはげしい嫌悪の眼をむける。
まず、まったく芸術的にすぐれているとはいいがたい。もっとも不愉快なのは、有名人に対するねじれた、いじましい凝視であり、芸術というかたちをとった売名行為にほかならない。

379

夏休みも終わって、私の「文学講座」も再開したが、明治の文学を終えて、ようやく大正の文学に入った。最初にとりあげたのは『こころ』だったが、あらためて漱石さんに敬意をおぼえた。そこで、しばらく漱石を読み返した。

彼は斯う云つて、依然として其女の美しい大きな眸を眼の前に描くやうに見えた。もし其女が今でも生きて居たら何んな困難を冒しても、愚劣な親達の手から、若しくは軽薄な夫の手から、永久に彼女を奪ひ取って、己れの懐で暖めて見せるといふ強い決心が、同時に彼の固く結んだ口の辺に現れた。

この一節を読んだとき、私はつよく心を動かされた。
明治の作家は恋愛を描いても、これほどはげしい情熱を見せたことはないような気がする。意志的で、理知的な漱石の内面には、なにかおそろしく緊張したものがあったのではないか。
ただし、「其女が今でも生きて居たら」という仮定が語られている。もはや、とり返しのつかない悔恨、そして人生の不条理に、漱石のテ-マを見てもいいような気がする。

378

横浜から、桜木町に出た。クィーンズの動く歩道。横浜美術館に行く。「ヴェナンツォ・クロチェッテイ展」。これは、ぜひ見たいものの一つだった。
クロチェッテイは、マンズー、マリーニなどとともにイタリア現代彫刻の代表的作家として知っていた。一九三八年、ヴェネツィア・ビエンナーレで、彫刻大賞を得たが、二十三歳。つまり、戦前、すでに芸術家としてその存在が認められていたわけである。
だが、実質的には戦後からその活動が知られるようになる。
私たちには、マンズー、マリーニなどのほうがよく知られていたのも当然だったろう。実際に見た印象としては、千葉でマイヨールを見たときほどつよいものではなかった。しかし、女性のヌード、セミ・ヌードは魅力がある。

彫刻のなかでも、いのちの啓示が輝いている女のヌ-ドほど美しいものがあるだろうか。生身の女のヌ-ドも美しいけれど、彫刻のヌ-ドは女が女であることを越えて、何か違った精神性をもったものとしてあらわれる。絵のなかのヌ-ドにはないものだと思う。

私が気に入ったのは、「岸辺で会釈する女」(69年)、「脱衣のモデル」(76年)、大理石の「帽子をかぶった少女」(60年)の三点。

驚いたのは、裸の上半身を前に折って両手で顔を蔽っている「マグダラのマリア」(80~81年)だった。それまで、入浴したあとからだや髪を拭くヌードをいくつも制作しているので、そのシリーズの一つとしか見えないが、このマグダラのマリアが、はっきり妊娠していることがわかる。クロチェッテイが隠したものが見えるようだった。
見てよかったと思う。そのほかデッサンに興味があった。じつにのびやかですばらしい。外に出たときは、もう夕方になっていた。

377

ミッキ-・スピレ-ンが亡くなった。(2006.7.17)

翌日、ある有名な評論家の方からこんな手紙をいただいた。
「じつはホ-ムペ-ジを拝見して、海外ミステリ-に関するお仕事をほとんど省いていらっしゃるのを知って(ケイン1冊のみ! スピレイン、ロス・マクの中田耕治が消えている!)、はっきりしたお考えをお示しになっているように思ってしまったのです。(昨日、スピレイン没!)

このHPの年譜から、ミステリ-の翻訳はほとんど省かれている。じつは、このHPをはじめた(立ち上げる、ということばがきらいなので)とき、年譜をつけたほうがいいといわれた。自分の経歴には関心がない。だいいち、すっかり忘れているので、若いひとにお願いして作ってもらった。最近の仕事を多くとりあげてくれたので、ミステリ-の翻訳ははぶいてあるが、「はっきりした考えを示している」わけではなかった。
もともとミステリ-から出発したとはいえないし、私の翻訳などもう誰も読まない。そこで年譜から省いたのだと思う。
やっぱり経歴詐称かなあ。

最近の私はミステリ-を読まなくなっている。私のクラスにいた人たちから贈られるミステリ-を読むのがやっとで、ほかに手がまわらない。

376

この夏、毎晩、寝る前にモ-ロアを少しづつ読んでいた。みじかい1章を読むと、よく眠れるからだった。
しばらく読まなかったせいで、私のフランス語はすっかりサビついてしまった。外国語を身につける根気や熱意が欠けていたのだから仕方がない。もつと努力していたら、もう少しフランス文学に精通することができたかも知れない。

私はある大学で語学を教えていた。たまたま研究室でフランス語専門の先生たちと雑談していたとき、
「中田先生はフランスの文学では何をお読みですか」
と聞かれた。
「アプレ・ラ・ゲ-ルの小説はわりに読んだつもりですが」
と答えると、みんなが笑った。
笑われても仕方がないと思った。だが、フランス語を専門にしているという連中が、何を読んできたのか、という思いはあった。
きみたちはアメリカ文学では何を読みましたか、と反問すればよかった。
しかし、私はだまっていた。
きみたちが、サルトルや、ボ-ヴォワ-ルを読んできた時期に、私はジャック・リヴィエ-ル、バンジャマン・クレミュ-、アンドレ・ビ-、ラモン・フェルナンデス、ジュリアン・バンダを読んできたのだ。
きみたちは、一度でもモ-リス・デコブラやジツプを読んだことがあるのか。おそらくシムノンさえ読んだことはないだろう。
その後、私は研究室ではいっさいフランス文学の話をしなかった。

大学の紀要に、一つか二つ、研究論文を発表するぐらい誰でもできる。だが、自分では文学にいちばん近いと思っている仕事が、じつは文学とはあまり関係のない仕事なのだ。文学の研究者には、文学とはあまり関係のない仕事をしている連中が多い。

375

TVで「恐竜」のドキュメントを見る。夏休みの特別番組らしい。私は恐竜ファンなので、こういう番組は見のがすわけにはいかない。
地球に大隕石が衝突して激烈な地殻変動や、はげしい異常気象が発生したため、巨大生物が絶滅した。
そういう事態ははじめから私などの想像を越えている。だから、化石になってしまった恐竜さんに同情することはない。
恐竜さんの亡骸にご対面するとき、いつも私の心をかすめるのは・・・恐竜さんほど種の絶滅を危惧してはいない私たちも、やがて生きている瞬間々々に、はげしい、異常な、すさまじい変動を目撃することになるだろう。
そういうニヒリズムが、私のどこかにはある。

ところで、恐竜が絶滅したとき、小さなネズミのような哺乳類がなんとか生きのびた。この哺乳類が進化してゆく。

そうか。そうなのか。おれの先祖はネズミであったか。こいつはいいや。
何がいいのかわからない。しかし、こういうことを知って笑えるから、それだけでうれしくなる。

つい最近、京大の再生医科学研が、マウスの皮膚細胞から、胚性乾細胞(ES細胞)に似た性質をもつ「細胞」を作ることに成功した。(アメリカの科学誌「セル」に発表された。06.8.11.)生命医学も、発生工学も、何もわからない私でも、このニュ-スには驚かされた。

そういえば・・・韓国のハン教授は、人間の卵子、受精卵を使ってES細胞を作ったという論文を捏造したが、京大の研究者はこれとはまったく違う発想から、誘導多能性乾細胞(iPS細胞)を作ったらしい。たいへんなことだと思う。この成果は、おそらく人間の未来にかぎりない可能性をあたえるだろう。
たちまち、私のニヒリズムはどこかに消えてしまう。

今年の夏も、幕張メッセでやっている「大恐竜展」を見に行った。

374

女の浴衣すがたは美しい。
幼い少女から成熟した女まで、浴衣を着ているときにこそ、日本の女は輝きを見せる。
毎年、おどろくほど新奇なデザインが多くなって、昔ながらの古風な模様は少なくなっているが、それでも紫の矢絣(やがすり)などは、浴衣の模様としてもっとも美しいもののひとつ。

歌舞伎の「お軽」、「勘平」は誰でも知っている。三段目、「お軽」の着付けが矢絣(やがすり)である。梅玉の「勘平」につきあった松蔦(しょうちょう)の「お軽」、矢絣(やがすり)がよかった、という。それにひきかえ、羽左衛門の「勘平」のときに、仁左衛門は矢絣(やがすり)の変わり模様にしたがよくなかったという。
先代の仁左衛門はすこしでっぷりしていたから、振り袖にわざわざ変わり模様を工夫したのだろうがかえってよくなかったらしい。(この仁左衛門は戦後の混乱のなかで横死している。)

これも先々代の梅幸が工夫した腰元ふうの矢絣(やがすり)は、梅幸の丈(たけ)が高いのと、白地が淡白にすぎて似あわなかった。菊五郎(六代目)は、濃紫がよく似あってこれが流行した。

こんなことももう忘れられているが、ハイティ-ンの女の子が紫の矢絣(やがすり)を着ていると思わず見とれてしまう。
江戸の女たちのもたなかった美しさ。

373

この「中田 耕治ドットコム」を読んでくれる人からメールをいただいた。
渡辺さんという方である。
そのプロフィールに、趣味、好きな食べ物、嫌いな食べ物、好きなクラシック、嫌いなクラシック、好きな古典コメディ、嫌いな古典コメディ、好きなマンガ、嫌いなマンガ、といった項目が並んでいる。
おもしろい。私の好みと正反対ではないが、渡辺さんの好き嫌いは、私とかなり違うところがあって、その違いを考えて楽しかった。

たとえば、渡辺さんは好きな飲みものとして、ウィスキー、野菜ジュース、嫌いな飲みものに、ワイン、果物ジュースをあげている。
私ときたら、ウィスキー、ワイン、日本酒、焼酎、なんでも好きなので、とても一種類にしぼれない。いちばんおいしかった一つは、台湾の三鞭酒。これこそまさに破天荒、驚天動地! 風味絶佳、春風駘蕩、青年一朶花剛開!(なんだか開高 健ふうになってきた)李白になったような、いや、胡蝶になって雲の上を歩いているような気がした。

マヤ・ピカソ(ピカソのお嬢さん)に会いに行ったときは、南フランス各地の地酒、つまりワインばかり飲みまわったが、どこの土地のワインも、安くておいしいものばかり。パリに戻って、ヘミングウェイが好きだった「シャトオ・デ・パプ」を飲んだが、値段は比較にならないほど高いのに、それほどおいしいとも思わなかった。
野菜ジュース、果物ジュースは、よく知らない。あまり飲んだことがないので。

渡辺さんの好きな古典コメディは、ダニー・ケイとマルクス兄弟。私も大好き。もっとも、ほかのコメディも好きなので、エディ・カンターや、ロイド、キートン、ローレル&ハーディ、ジョー・E・ブラウン、みんな好きだった。日本にはあまり紹介されなかったW・C・フィールズまでまぜると、誰を選んでいいかわからなくなる。
もう誰もおぼえていないけれど、ミッシャ・アウアや、アンディ・デヴァイン、エヴァレット・ホートン、さらには“シュノッズル”ジミー(ジミー・デューラント)といった「さしたることのない名前」(注)の喜劇役者たちを思い出すだけで、私は数分から数時間、幸福でいられる。
だから、嫌いなコメディはない。

渡辺さんのHPには、「政治的思想の話題を主に、哲学・文学論などを織りまぜた日記・論文」が掲載されるという。渡辺さんのお人柄がわかるような気がする。
その最新作は、「性愛」の世界について。
原稿用紙で50枚以上の堂々たる大作。私にはちょっとむずかしかった。

しかし、渡辺さんのものを読んで――いつか近い将来、私も「性愛」の世界について考えてみようか、と思いはじめた。

――「未知の読者へ」No.9

*(注)チャールズ・ラムのことば →『ルイ・ジュヴェとその時代』(第1部第12章)

372

今年の夏は暑かった。夏が好きな私でさえ、何もしないでゴロゴロしていた。

めでたきも女は髪の暑さかな     太 祗

Althou ’tis beautiful,
How hot is woman’s hair!

いい訳だとは思うけれど、私がこの句を読んで思い描く「おんな」と夏の暑さと、欧米の俳句作者の想像するシーンとは、ずいぶん違うだろう。「めでたさ」に、愛らしい、賞すべき、うるわしい、美しい、祝うべき、慶(よろこ)ばしい、などの意味があって、なお“beautiful”としなければならなかった訳者の苦心を思うと、私はいまさらながら、翻訳による伝達のむずかしさをかんがえる。

夕涼み よくぞ男に生まれける    其 角

I am enjoying th’ even’ng cool,
How lucky I was born a man!

このcoolは、涼しいという形容詞ではなく、cool airという意味の名詞。ただし、夕涼み、納涼といった生活習慣がないはずだから、この句のおもしろさを出すのはむずかしい。宮森 麻太郎先生は「この句を外国人に示すには、女は夏でも着物をつつましやかに着なければならないが、男は自由であるということを説明する注解が必要である」といわれた。
今年の夏、男どもはクールビズとかでいくらかラフな服装になったが、若い女性たちは夏になって着物をつつましやかに着るどころか、思いきり肌を露出して、「よくぞ女に生まれける」とばかりに人生をエンジョイしていた。
私が夏の季節が好きな理由は、このあたりにあるのだが。

Taking the cool at eve, I do
Rejoice that I was born a man.

これは、ベイジル・H・チェンバレンの訳。
「よくぞ男に生まれける」にぴったりこない、というが、私にはこの訳のほうがずっといい。

371

老作家になって、偶然、自分の若かりし頃の声を聞く。こういう経験をした人は、あまり多くないだろう。
テレビ、ラジオで、自分の出た番組を見る人はめずらしくない。何年か後に、ビデオやPCで見直すことだって、それほどめずらしくはないはずである。
映画化された自作を見て、懐旧の思いにふける作家がいても不思議ではない。
しかし、40年も前の自分の「声」を聞く。当の本人にすれば想像もつかない経験だろう。これが映画俳優か何かなら、若き日の自分の姿にうっとりしても不思議ではない。
私が聞いたのは、かつて「私」だった男の声だった。むろん「亡霊」ではない。

私が、NHK・FMで、イギリスBBCのミステリ-“The Same River Twice”の解説をしたとき、それをテ-プにとっていた人がいる。この話を聞いて田栗 美奈子は、
「先生はほんとうにいろいろな仕事をなさったんですねえ」
といった。
「旧悪露顕だなあ」
美奈子は笑った。私も笑った。
たしかにいろいろな仕事をしてきた。しかし、この「中田 耕治」はまだ自分が何であるかを知らなかったし、自分が何であるかを知ることもできなかった。
もともと文壇に通用するような仕事をする気がなかった。だから、外国のドラマの解説でも何でも気がるに引きうけていたはずである。どんな仕事でも、わるびれずにやってきた。そうしなければ食えなかったのだから。
いろいろな仕事をつづけていた「中田 耕治」は、やがて小説を書きはじめるだろう。「レオナルド・ダヴィンチ論」めいたものを書いて、ルネサンスにのめり込み、手はじめにボルジア家の歴史にとり組むことになる。
ある日、ヴェトナムに行く。やがてロ-マ、フィレンツェ、パリに行くだろう。
やがて、少数ながら、ほんとうに信頼できる友人たち、「恋人たち」にめぐりあうことになる。

“The Same River Twice”・・

久保 隆雄さんのメ-ルには、
「あの中田先生のテ-プは当時何回も聴いて、英語以外にもサスペンスドラマの組み立てなどいろいろ勉強になり、私の青春時代の一コマが詰まっている感さえしています。」 とあった。
私にとっても「青春時代の一コマが詰まっている」のだが、このドラマは、いまや、老年の私にとっては「Same River Twice」にほかならない。

久保 隆雄さん。
あなたにはどんなに感謝しても足りない。ほんとうにありがとう。
あなたが送ってくれた「声」は、かつての私の青春の声だった。しかし、現在の私にとって、もはや返らぬ夢ではなく、未決定の未来に向けて歩こうとしていた見知らぬ若者の「声」だった。
やがて、私はさまざまな挫折と打撃のなかで、そのつど、なんとか歩みつづけることになる。この「中田耕治ドットコム」もまた、私の血と汗と涙、そして笑いなのだが、もし、誰かの「青春時代の一コマ」であり得たら。
それこそが私の願いなのだ。

――(「未知の読者へ」No.8)

370

私にかぎらず、40年前の自分の声を聞くような経験はめったにないことだろう。
思いがけず自分の声を聞いて驚いた。というより、想像もしなかった経験だったことに混乱したといっていい。
“The Same River Twice”
それにしても、なんという皮肉な題名だろう!

私がこれを聞いたときの感想は、われながら皮肉なものだった。

40年前の自分の声を聞いた。これが、いちばんの驚きだった。現在の私の声とはまるで違っている。
さすがに声はわかわかしかった。しかし、これがおれの声なのか。
自分でも中田 耕治として知っている誰かが、いかにも翻訳家にふさわしい「声」でしゃべっている。えっ、きみが中田 耕治なのか。こんなエラそうなことをしゃべっているのが、まさか、おれじゃないよナ。
「解説」の内容はたいしたものではない。なんだ、こんな程度の「解説」しかできなかったのか。可哀そうに。
そのくせ、まっさきに感じたのは、「中田 耕治」がなんとか自分の思い、自分の考えていることをリスナ-につたえようとしている、ということだった。
聞いているうちに、その頃の私のことがつぎからつぎによみがえってきた。「中田 耕治」が手がけた芝居のこと、小さな劇団をひきいて、ただもう稽古に明け暮れていたこと、親しかった友人たち、徹夜でテープを聞いてメモをとり、NHKのスタジオに向かったことなどが、堰をきったように押し寄せてきた。
なつかしさとは別の感情だった。むしろ恥ずかしさが胸の底にこみあげてきた。

まるっきり無名ではなかったが、中田 耕治は自分がほんとうにやりたい仕事も見つからず、つぎからつぎに安易な仕事ばかりをこなしていた。この「解説」にしても、けっこう苦労はしたが、やはり安易な仕事の一つだった。
自分の声が魅力的に響く人はいい。しかし、自分の声にどうも魅力がないことに気がつく。聴いていてはずかしい。だから新任の講師が、はじめて教室で学生を相手に緊張しながら講義している、そんな感じだった。それが可愛らしい。
普通の講演とか大学や、俳優養成所の生徒を相手の講義と違って、外国の言語によるドラマの解説で、しかもミステリ-というしゃべりにくい部分で、なんとかおもしろさをわかってもらいたい、という気もちがよく出ていた。そういう部分は、あえてしゃべろうとしてもなかなか言葉にならない。そのあたりにけなげさがあった。自分でいうのも、へんな話だが。
(つづく)

――(「未知の読者へ」No.7)

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“The Same River Twice”
原作は、エドワ-ド・ヴォイド。私の知らない作家だった。
主人公「ジョニ-・マクセン」(ゴ-ドン・ジャクソン)は、別れた妻の母、「ヘレン」からの手紙でパリから急遽帰国する。そして、妻だった「ジュリア」が失踪していることを知らされる。
「ジョニ-」が、捜索をはじめると、娘の死にかかわりのあった「サンドラ」とその恋人「トム」が殺されている現場にぶつかる。
「サンドラ」の死を捜査している「ワ-ドロ-警部」は「ジョニ-」を容疑者と見て追跡しはじめる。
「ジョニ-」は、毎回、奇妙な人物に出会っては、あらたなナゾにぶつかってしまう。
なんとかスト-リ-だけはわかったが、堂々とした展開で、なまなかな翻訳家などに解説できるはずもなかった。今ならネットで調べることもできるだろうが、BBCに問い合わせる時間もなかった。原作者のエドワ-ド・ヴォイドがどういう作家なのか紹介することもできない。
もともとミステリ-の解説は、けっこうむずかしい。解説のなかで、犯人を暗示することも許されない。ましてラジオ・ドラマの前説なので、リスナ-に真犯人をさとられてはいけない。
私に届けられるテ-プは毎回2回分だけで、これを聞くだけで時間をとられてしまう。むずかしい仕事を引き受けてしまった、と後悔した。

おまけに、当時のスタジオ録音だから、NHKまで通わなければならなかった。今なら、全部の解説を録画、録音するにしても、おそらく1回、時間がかかったとしても、せいぜい1時間もあればすむだろう。しかし、2回分の録音で、ドラマのアタマに入る解説なので、ディレクタ-のサイン通りに、きっちりおさめなければならない。
日比谷にあったNHKのスタジオに4回ばかり通ったはずである。

私は、戦後しばらくして内村 直也さんの連続放送劇「えり子とともに」のスタッフ・ライタ-として、2年ばかり、毎週、NHKに通っていたことがある。だから、スタジオに通うのは苦労ではなかった。
制作室の廊下を歩くと、当時、出会ったり、ただ見かけただけの出演者、演出家、裏方のスタッフたちを思い出した。
しかし、1949年のスタジオと、1967年のスタジオは、すっかり違っていた。
(つづく)

――(「未知の読者へ」No.6)