428

作家にもいろいろあって、世にときめく流行作家もいれば、ある一時期に多数の読者に読まれながら、やがて忘れられる作家もいる。
いっとき、もてはやされながら、季節が過ぎて人の口の端にのぼることもなく、かえって否定的な評価しか与えられない作家もいるだろう。

昭和初期に、たいへんな人気を博して、20巻ほどの全集や、10数巻の選集が出た作家がいた。当時、佐々木 邦とならぶユ-モア作家だった。
だが、いまや奥野 他見男は完全に忘れられた作家といってよい。

少年時代に奥野 他見男の『雨の降る日は天気が悪い』、『高い山から谷底見れば』といった作品を読んだが、内容はまったくおぼえていない。文章は雑駁、小説としての構成は投げやりで、当時はおもしろかったらしいユ-モアも、時代を隔てては無味乾燥といった作品ばかり。中学生でもおもしろいと思えなかったことはおぼえている。
最近、彼の作品を読み返してみたが、村上 浪六ほどにも文学史的に、批評的に論じる必要のない作家だった。ここでは中編小説『芳子さん』をとりあげてみよう。

『芳子さん』にはスト-リ-らしいものはない。身辺小説というべきか。
冒頭は、スランプ気味の作家が、雨の日に鬱屈している。
「此の広い東京、此の華やかな東京、此の広い東京、此の歓楽の東京、己(お)れはもう総てを尽くしてしまった。己(お)れは新しい何かを求めなくちゃならぬ。」
妻は夫に気ばらしに旅に出たらとすすめる。ところが、はげしい雨できゅうに中止になって、ひとりで旅に出ることになる。(ここまでを、品川~国分津間の列車のなかで書いている。)

出かけるので靴を新調する。愛娘の「静子(ちこ)」ちゃんに銀座で靴を買ってやったこと。靴みがき。(小田原軽便鉄道、停留所前、さかい屋待合所で書いている。)

品川から国分津行き。藤沢で乗り換える。(湯河原、天野屋旅館についた晩に書いている)流行作家だっただけに、よほどの速筆だったらしいことがわかる。
(つづく)

427

いつ、それがやってくるかわからない。
だが、誰しもそれぞれ、したたかに思い知らされる。まだ、未決定の将来を前にして、何ひとつ確実なものを手にしていない少年の頃。何も考えない。ただ、楽しいことがいっぱい。あるいは、もう少しおとなになって、少し考えはじめる。ただなんとなく漠然とした不安を感じたり。いつしか胸の底にひそむ、異性へのあわいあこがれが、やがて胸をえぐるいたみに変わることを知ってしまったとき。
そして、老いてゆく。もう、何も考えない。まったく若さがなくなって、自分にもとうに見切りがついてしまった年代に。

年齢や世代には関係がない。
だが、いつか、かならず思い知らされる。

この世に生きてあることのかなしみを。

426

さて、ここで、日本人、イギリス人、ついでにドイツ人の血液型を比較してみよう。

日本人   イギリス人  ドイツ人
O型     31.0     51.4     31.0
A型     38.2     34.8     44.4
B型     21.2     9.8     12.6
AB型     9.6     3.9     4.6
被調査人数 20,297     3,899   17,982

この比率は、現在、どうかわっているだろうか。

この資料は、西村 真次の論文「日本民族性の特徴」「中央公論」(昭和13年4月号)による。わざわざ探し出して読んだわけではない。
戦前の日本のイギリス観といつたものを調べようと思って、清澤 洌の「英国は戦えるか」という論文を読んだが、おなじ特集に西村 真次が書いていた。

この血液型の表を見ているうちに、きみたちが何を考えるかと思ってとりあげることにした。私がニヤニヤしたのは・・・イギリスの国会が静粛なのに、日本の国会がさわがしいのは、国会議員の教養の差にあるのではなく、体質的な原因がある、といった考えかたにひそんでいる偏りがおかしい。おかしい、というか、バカバカしいというか。
たしかに、現在のイギリスのブレア政権や、内閣をのたれ死にまで追い込もうとしている議会を見ていると、静粛どころではないし、日本とイギリスの国会議員の教養の差などは感じられない。それは別として、日本人が、相手の血液型を聞いて、それでおよその見当をつけ、何かがわかったような気になる。これがおかしなことだと思わないだろうか。
血液型で、たとえば作家、画家のことがわかるくらいだったら、批評なんか成立しなくなる。
日本民族の優秀性を問題にするのはいい。だが、その根拠として血液型が重要視されるような時代には・・・無意識にせよ、差別、劣等感がひそんでいる。

425

あなたの血液型は何ですか。

たいていの場合、私はニヤニヤして答えない。うっかり答えると、ああ、やっぱりそうですか、などといわれる。私は、そうした概括をあまり信用しない。たかが4種類の血液型で、かんたんに分類されていいのか。そんな相手に、私の気質、性格、はては行動までわかったようなしたり顔をされてたまるか。

むろん、私にしても、民族性と血液型に関連が見られることを否定はしない。これまでにも、医学、心理学、人類学の分野で、研究がつづけられてきた。その成果を疑うわけではない。
哲学者のディルタイは人格を三つにわけて・・・感覚的な人、英雄的な人、思索的な人として、これを血液型に対比すると、B型、O型、A型にあてはまるという。
私はディルタイに関心がないので、ほう、そうですか、というだけである。

O型の多い民族は、理知的、意志的で、かんたんに感情にながされないという。日本人とイギリス人を比較した場合、イギリス人のO型は、51.4%に対して、日本人は31.0%。
B型は、日本人が21.2%だが、イギリス人はその半分にもみたない。
AB型も、日本人においては、イギリス人の2倍以上。

イギリスの国会が静粛なのに、日本の国会がさわがしいのは、国会議員の教養の差にあるのではなく、体質的な原因がある、という。

ここまで読んだきみは首をかしげるかも知れない。(じつは、私はニヤニヤしているのである。)
(つづく)

424

午後になって、南房総に大雨洪水警報が出た。台風が八丈島付近を北北西に進んでいる。このぶんでは、千葉も雨になるだろうと思っていたが、案の定、小雨が降りはじめた。 家にくすぶっていて、本を読んだり、へたな絵を描くのも気がきかない。とりあえず、どこでもいいから散歩してこよう。

雨のなかを歩いた。タオルを肩に。
つい先日、この界隈で古風な銭湯を見つけた。ゲタ箱にドタ靴を投げ込んで、ガラス戸を開けると、番台がある。金を払う。
裸になって、お湯と水のカランを押して、からだを洗う。湯のあふれたタイルを踏みながら浴槽にむかう。入っているのは、ジジイがひとり。
ジャグジイの熱い湯に首までつかって、のんびりした気分になる。銭湯に入るのは何年ぶりだろう。
神祇釈教、恋、無常、みな入り込みの湯屋・・といった風情はない。午後の明るい光が天井からさしてくる。湯舟にゆつたりつかりながら、

沈んで乳を隠す据え風呂

そんな句を思い出した。据え風呂だから銭湯ではないのだが。こんな風俗ももう見られなくなっている。「武玉川」にある。

帰りは雨がつよくなっていた。昔の江戸ッ子なら、近くの酒屋に立ち寄って升酒。へりにチビッと塩をのせてある。舌の先で塩をねぶって、冷や酒をクイッとやるところだが、コンビニで売っているピ-ナッツや、磯部巻きのおツマミで缶ビ-ルをあおる、などという図はいただけない。オケラ街道競輪帰りそっくりになる。

雨に打たれながら歩く。ずぶ濡れに近い。からだから湯気が立っていた。

423

ヤスナヤポリアナのトルストイの旧宅、そして墓に詣でたことがある。

墓に寄ったあと、近くのレストランに案内された。
ソヴィエト作家同盟の通訳、エレ-ナ・レジナさんが案内してくれた。いっしょだったのは、作家の高杉 一郎、畑山 博だった。
ヤスナヤポリアナには、各地から観光客が集まるらしく、トルストイの人気がわかるのだが、このときも二十名ばかりの客が、それぞれのテ-ブルについて談笑していた。
私たちは、朝、モスクワから車を飛ばしてきたので疲れていた。それに、トルストイの墓に詣でた感慨はそれぞれの胸にあったはずで、お互いに黙ってすわっていた。エレ-ナさんも、連日、私たちの相手をしていて、疲れていたと思う。
けだるい眠りを誘うような晩夏の午後だった。

ロシアのレストランに立ち寄って、注文したものがすぐに運ばれることは絶対になかった。早くて三十分、遅ければ小1時間は待たされる。コ-ヒ-一杯だろうと、その日の食事のメニュ-だろうと、そのくらいの時間は待たされるのだった。
老齢の高杉 一郎は、腕を組んで居眠りをはじめた。エレ-ナも眼を閉じていた。畑山君も眠っていた。
私は、見るともなく客たちを見ていた。
隣りのテ-ブルに二、三人の先客がいた。ひとりは黒いコ-トを着ていた。

不意に、フラッシュが光った。
隣りのテ-ブルにいた男のひとりが、カメラを出して、私たちを撮ったのだった。エレ-ナも眼をあけた。
時間にして、ほんの10秒くらいだったと思う。男たちは、コ-ヒ-を残してテ-ブルを離れた。まったく自然な動きで、そのまま出て行った。
そのとき、エレ-ナが私にむかって、低い声で、
「いま、(彼らが)写真、撮りましたか」
と、私に訊いた。
エレ-ナが真剣な声で訊いていることに少し驚いた。
「ええ、撮っていましたよ」

それだけのことだった。しかし、私たちの知らないところで何かの動きがあるらしい、そういう気がした。
ヤスナヤポリアナにきて、わざわざ日本の旅行者のスナップショットを撮るというのもおかしな話だった。私は写真に凝っていた時期があるので、相手はキャンデッド・フォトを撮りなれていることが感じられた。カメラマンとしてもプロ級に違いない。
高杉 一郎も、畑山 博も、写真を撮られたことに気がつかなかったらしい。

それだけのことだった。
エレ-ナ・レジナさんは、日本語の通訳としては一流で、作家同盟では日本の担当だった。日本の文学作品もいくつか翻訳していた。
夫はKGBの大佐と聞いた。

422

竹内 紀吉君の思い出を書いたが、そのなかで、語学の研修でフランスに行ったときの竹内君のことにふれた。
→「竹内 紀吉君のこと」
彼が日本に帰国するとなって、それまで会話らしい会話もかわさなかったポ-ランドのおばさまが、彼に別れのことばをかけてきたという。
「お互いに異国で勉強している身で、まして当時のポ-ランドは共産圏に組み込まれていたから、フランスを去ってしまえばお互いに二度と会う機会はない。共産主義国家では旅行もきびしく制限されていたし、いくら語学の研修であっても交遊関係まで見張られていたはずで、その女性の孤独の深さが想像できるのだが、竹内君も少し涙ぐんで別れを告げたに違いない。」
これを読んでくれた人からいわれた。
「いくら、当時の共産主義国家でも、個人の、それも短期間の外国滞在まで、監視の眼を光らせるようなことはないでしょう」と。

1970年、大阪万博があった。このとき、現代美術の展示があって、当時の前衛画家、彫刻家の作品がならべられた。このとき、チェッコスロヴァキアの芸術家、スタニスラウ・フィルコも参加した。フィルコは一ヵ月ばかり日本に滞在したのだが、東京の美術館、美術展を見たいという希望をもっていた。政府から支給される滞在費はわずかで、ホテル代もなかった。どういうわけか、知人の知人の紹介で、スタニスラウ/マリ-ア・フィルコ夫妻が私の自宅に逗留することになった。
私はしがないもの書きで、大学で講義しながら通俗小説を書きとばして、その収入でちっぽけな劇団をひきいて芝居を演出していた。そんな生活をしていたが、外国の芸術家に寝室を提供するくらいの余裕はあった。
フィルコはニュ-ヨ-クの個展で成功していたため、大阪万博にはチェッコスロヴァキア代表に選ばれたのだった。当時の私は、フィルコのことを何も知らなかったが、このときの交遊から、現代美術の世界や、画廊について知ることになった。

私が驚いたのは・・・フィルコたちが、毎日、チェッコ大使館に当日の行動予定を通告したことだった。通告する義務があったらしい。その報告で、大使館員がそれとなくふたりの行き先に出むいて、誰に会ったか、どういう会話をかわしたか、監視するようだった。
宿泊先の私のことも調べたらしい。
ある日、私のところに帰ってきたフィルコは、少し表情が硬くなっていた。大使館の調査で、私がミステリ-を書いたり、ポルノも書くような「反動的な」作家と知ったらしい。そのようすから、私のことをいろいろ訊かれたらしい。

数日後、フィルコ夫妻は帰国することになった。私は、横浜港まで送って行った。

当時の共産主義国家は個人の旅行をきびしく制限していた。まして短期間であっても外国滞在となれば、当局が監視の眼を光らせないはずがない。

竹内 紀吉君に別れのことばをかけてきたポ-ランドのおばさまも、おそらく大使館に報告していたはずで、私が「その女性の孤独の深さが想像できる」と書いたのは誤りではないだろう。

421

カツギ屋と呼ばれるもの売りがくる。ほとんどはおばさんだった。
それぞれの縄張りがきまっていたらしく、月に二、三度、野菜や、魚の干物などを売りにくるのだった。

春になると、船橋からてんびん棒をかついで、ウナギを売りにくる老人がいた。痩せて、しなびていたが、肌が赤銅色だった。玄関ではなく、ずぃっと台所の横にきて、声をかける。
原稿を書いている途中でも、私がウナギ屋の相手をした。この魚屋のもってくるサカナやウナギは、いつもおいしいものばかりだった。
まるくて平たい桶から、ウナギをつかみ出す。背中の青墨いろ、腹の白い肌が、宙にくねったり、老人の手にまきついたりする。エラもとに指先をぐいっと当てて、大きなマナイタにのせる。ウナギがニョロニョロ動いても、老人が左の掌で撫でつけると、たちまちおとなしくなる。その手にはいつの間にか錐が握られて、つぎの瞬間、ウナギの頭につき刺さる。マナイタには、錐の跡がついていて、包丁の背でトントンと錐が打ち込まれる。
ウナギのエラ下から腹、尾の先まで、スッと刃が動く。肝(きも)と内臓がくり出されると、返す切っ先で首をはね、カシラ付きの背骨が剥がされる。両開きになっても動いているのをさっくりと切り別けてゆく。
ほんの数秒のことだった。

この老人は、背丈が低く、痩せて、しなびていたが、頑丈なからだつきで、眼つきにするどい輝きがあって、いなせな感じがあった。それとなく、話をむけてみた。
「若い頃は、ずいぶんさわがれたんでしょう?」
老人は眼をあげて、にやりと笑った。
「いろいろわるさをやってきやしたからね」
ウナギをさばき終わって、老人が立ちあがった。
「失礼でござんすが、旦那、ご商売は?」
「翻訳をしているんだよ」
「そうでしたか。・・いえね、いつも(家に)おいでになるんで、何をなさっているのかと不思議に存じておりやしたが・・何かお書きになってるんだろう、と思っていましたんで」
私はアメリカの小説を訳しているといった。
老人は遠くを見るような眼になった。
「毎日、お勉強でござんすなあ。・・わちしも、若い時分、アメリカに行ってみようかと思ったことがありましたよ。そのうちに徴用にとられちまって。マニラからペナンあたりしか行ったことはありやせんが」
「戦時中ですか」
「何もできやしませんよ。敵さんの潜水艦がうようよしてやがって。こっちは、大砲も載せてなくてね。ウナギみてえにニョロニョロ逃げまわってただけで」

四、五年ばかりきてくれたが、ある年から姿をみせなくなった。
その老人が売りにきたウナギほどおいしいウナギは食べたことがない。

420

私たちは、なぜ信仰をもつのか。
とてもむずかしい問題で、私には答えられない。

王 菲(フェイ・ウォン)がロサンジェルスで、キリスト教に改宗したらしいというニュ-ス(「華人週報」06.8.31)を知ったとき、不意に私の内面にこういう問いが浮かびあがってきたのは自然だと思う。
フェイ・ウォンは世界的なポップ・ア-ティストだが、出産をひかえて芸能活動を休止していた。産後、夫の李 亜鵬、新生児(女の子)、前夫とのあいだに生まれた小竇竇といっしょにアメリカで生活しているが、その理由についてはここでふれる必要はない。
ただ、人の子の親としての苦しみがかかわっていると想像していい。
フェイ・ウォンは熱心な信者として毎日、教会で神に祈りをささげているという。

それまで想像したこともないかたちで、人生の不条理に直面したとき、私たちはどうすればいいのか。
王 菲は何かにすがりつくようにして神に祈ったのかも知れない。
私はろくに信仰心もないもの書きだが、この王 菲を信じるひとり。

王 菲がなぜ信仰をもったのか。
むずかしい問題だが、私などが答えるべき性質のことではない。
少し別な問題だが、作家、ギュンタ-・グラスが、少年時代、ナチス親衛隊に所属していたことを、最近になって告白した。これがドイツでは大きな話題になって、作家が現在まで経歴を隠していながら、ナチに対してはげしい断罪をつづけてきた不誠実を非難されている。忌まわしい過去を伏せてきた作家なのだから、ノ-ベル賞を返上すべきだとか、新作の自伝の刊行の直前だっただけに、誠実な告白者の顔の下に阿世の徒のみにくい顔を隠しているといった非難が渦巻いている。
ギュンタ-・グラスの告白について、私などが意見を述べるべきではない。私はただ、作家が人生の最後にのぞんで告白したかったものと考える。この告白の重さを誰が非難できるのか。私はこのギュンタ-・グラスを信じる。
判断停止と見るやつが出てくるだろうことは承知の上で、私はそう考える。

419

フランソワ-ズ・ロゼェの「回想」に、ルイ・ジュヴェが出てくる。映画「女だけの都」(ジャック・フェデル監督/35年)に出たときのジュヴェについて、

「さすがの私も結婚のシ-ンでは、彼にすっかり気押された。彼のしぐさはどれも堂に入っているばかりではなく、ラテン語まで話した。おまけに、ミサまでやってのけた。
「どこで習ったの」
「ぼくは宗教学校で教育を受けたし、聖歌隊員だったんですよ」
ジュヴェの少年時代、フランスの中等教育ではギリシャ語、ラテン語がひろく教えられていた。これは、歴史、哲学をふくめた「文学」の研究、法律の研究にもっとも必要と考えられていた。
同時に、自然科学関係のエリ-トの養成にあたった理工科大学(エコ-ル・ポリテクニック)や、高等工業専門学校(エコ-ル・サントラル)、さらには医科大学も、ギリシャ語、ラテン語の古典の教養が必須課目だった。
古代史もまた、中等教育では重要とされて、7年間のうち2年間は勉強しなければならなかった。
歴史/地理の学士号や、いわゆるバカロレアの資格の取得には、少なくともラテン語が読めること、そして古代史の質問に答えられることが条件とされていた。

第二次大戦の「戦後」、フランスの教育改革で、ギリシャ語、ラテン語の必修は、完全に消えてしまった。
それでも、古代史は、中等教員免許(アンセ-ニュマン・スゴンデ-ル)や大学教授資格試験(アグレガシォン)では必須のものとされていた。

古典に関してジュヴェがたいへん造詣が深かったことは、『ルイ・ジュヴェ』に書いておいた。私は、これだけのことを調べてから書いたのだった。

→ 『ルイ・ジュヴェ』(第四部第二章)

418

思考とは幻覚をともなう欲望の代用物にほかならない。

おそろしいことばの一つ。代用物は、Erzsatzだから、代償と訳してもいいかも知れない。ジ-クムント・フロイト。

私にもフロイトのいう意味はわかる。ただし、私は無学なので反論できない。フロイトがきらいなので、こんなことをいわれるとむかつくだけだ。

417

TVで見た忘れられないシ-ン。

いわゆるバブル経済が破綻して、日本の政治、経済が迷走していた時期。のちに「空白の十年」と呼ばれる。おなじ時期、ロシア経済はさらに危機的な状況にさらされていた。タイ経済は、禿鷹のような金融ファンドの餌食になって、国家経済までか危機に瀕していた。
日本では無能な政治家がつぎつぎに首相になった。つぎつぎに短命内閣ができて、つぎつぎに倒れた。スタグフレ-ションの圧迫が私たちの生活をおびやかしていた。小泉内閣が登場してきたとき、日本の不況が世界に波及すれば、世界的な規模で経済危機が現実のものになりかねないとまで懸念されていた。
当時、ある日本の経済ジャ-ナリストが、ション・ガルブレイスにインタ-ヴュ-している。日本の経済はどうして破綻したのか、と。
残念なことに、ガルブレイスの答えを正確に引用することはできないのだが、1929年の大不況をひきあいに出してガルブレイスがいった言葉が忘れられない。
「人間は忘れるものだ」。
私は驚いた。ガルブレイスほどの人の意見としてはまことに平凡。さし迫った苦境に追い込まれている日本経済に対してこれでは何も語っていないにひとしい。ジャ-ナリストも苦笑した。
そこで、インタ-ヴュア-は別の問題に移った。そのひとつひとつにガルブレイスは、きちんと答えたが、驚くべきことに、彼はおなじ「人間は忘れるものだ」、「人間は忘れるのだ」、「人間は忘れてしまう」という意味のフレ-ズを四回くり返した。

これを見た私は、ガルブレイスの慨嘆はわかったが、日本経済の苦境の打開に関して積極的な提言をしていないと思ったのだった。もともと関心がないのだろう。失礼だが、もう老齢のガルブレイスには、苦境にのたうちまわっている日本などどうでもいいことなのかも知れない。そう思った。日本と違って、好況期に入っていたアメリカはグリ-ンスパンがみごとな判断を見せてアメリカを牽引していた。
私は、このガルブレイスにひそかな軽蔑さえおぼえたが、それでも、「人間は忘れるものだ」という事はは私の心に残った。

今の私は、当時のガルブレイスの慨嘆は正しかったと思う。彼の言葉には、長い人生を生きてきた人の叡知が秘められていたのだ。私はそれに気がつかなかった。そのインタ-ヴュ-で彼が語った日本の経済再建の見通しは、ほぼ正確に的中している。しかし、短時間のインタ-ヴュ-で、彼としては、たいしたことは答えられないと判断したに違いない。だからこそ、人間として忘れてはならないことがある、ということだけはいいたかったのだと推察する。
一度ではなく、二度三度、さらに自分にいい聞かせるように、おなじ言葉をくり返したとき、ガルブレイスの表情になぜか苦渋の色が見えた。

416

はら たいら(漫画家)が亡くなった。(06.11.10)

あるとき、私がキャスタ-だったテレビで、マンガの特集を企画したことがある。このとき、「少年ジャンプ」の編集者だった桜木 三郎に相談した。
私がこんな企画を立てた理由は、ここには書かない。当時はまだマンガに対する評価が不当に低かった時代で、私はそうした流れを変えたかった。
桜木 三郎は、私のために奔走してくれて、松本 霊士といっしょにはら たいらが出てくれた。ほかにも出てほしかった漫画家はいたのだが、ことわられた。 みなさん、多忙だったせいだが、私の司会というので敬遠したようだった。
このト-クはおもしろかった。ビデオ録画が残っていないのが残念だが、松本 霊士は『戦艦ヤマト』を連載中だったし、はら たいらはTBSの「クイズダ-ビ-」に出て人気があった。
終わったあと、おふたり、桜木 三郎と酒を飲みながら雑談したのだが、このときの雰囲気は楽しいものだった。私は、見ず知らずの私の番組に出てくれたおふたりに感謝していた。
はら たいらの作品に「モンロ-ちゃん」がある。モンロ-ちゃんは可愛い女で、いつもかろやかなお色気をふりまいていた。こういうエロティシズムは、はら たいらのおだやかな語りくちに、とてもいい香(フレイヴァ-)を添えていた、と思う。
マンガというむずかしいキャリア-を選んで成功した彼は、とてもいいエッセイを書きつづけていた。

桜木 三郎を思い出す。自然な連想で、いつも、はら たいらのことを思い出す。

415

マリ-・ルイ-ゼ・カシュニッツというドイツの女流作家について何も知らない。旧プロシャの貴族出身。夫はウィ-ン出身の考古学者、美術史家。
戦後に作家として登場し、ゲオルグ・ビュヒナ-賞など多数の文学賞を受けた。
『死の舞踏』という戯曲があるという。戦時中に書かれて、1946年に初演。ドラマとしての盛り上がりと緊迫感に欠け、テ-マもはっきりせず、退屈な芝居だったという。 だが、ほんとうに失敗作だったのか。戦後のドイツ演劇の傾向にあわなかったために、失敗作と見られたのではないかと思う。
なにしろブレヒト、ツックマイヤ-程度の劇作家がドイツ最高の劇作家でまかり通っていた「戦後」、オット-・フリッツ・ガイラルト、マキシム・ガレンティン、オット-・ラングなどが最高の演出家だった時代に、カシュニッツのような、精緻、繊細な作家の芝居が注目されるはずがない。

なぜ戯曲を書いたのか、そのあたりは想像がつく。芝居が成功して、舞台に並んだ役者たちにソデからひっぱり出されて、万雷の拍手に迎えられ、ぎごちなく頭をさげる。そういう夢が、別の短編で語られているから。だが、舞台の夢は果たせなかったにせよ、放送劇の分野で成功した。
カシュニッツには、15編のラジオ・ドラマがあるという。彼女の短編を読んでから、こうしたラジオ・ドラマをふくめて、ほかの作品を読みたいと思う。

人間の悲劇を見つめ続けた作家。だが、それを前面に打ち出すのではなく、いつも非在や、あやかしに眼を向けながら、みごとな密度で短編が成立している。

カシュニッツは、1974年、ロ-マで亡くなっている。

私にとっては忘れられない作家になった。

414

夏から秋、マリ-・ルイ-ゼ・カシュニッツの短編をいくつか読んだ。

ロンドンのオ-ルドヴィックで『リチャ-ド二世』を見たときのこと。結婚して6年目の夫婦が劇場に行く。妻はたちまち芝居に惹きこまれるのだが、夫は舞台にまったく関心がなく、聞こえてくる台詞にも上の空で、前列の席にいる若い女に眼をうばわれている。妻は、夫が美しい女性やわかい娘を眺めるのが好きで、自分からいそいそと彼女たちに近づいて行くことを知っているので、べつに嫉妬は感じない。
幕間に、席を立った夫妻の前を、その若い娘と、透きとおるような蒼白な顔をしたつれの若い男がとおり過ぎてゆく。娘の手からレ-スのハンカチ-フが落ちて・・

これ以上、作品を紹介するわけにはいかない。まるで十九世紀のロマンスめいて、古風なイントロダクションに見える。だが、私はこの短編『幽霊』のみごとさに驚嘆した。これまで読んだ短編のなかで、ベスト20に入れてもいいほどに思った。

怪奇/幻想をモチ-フにした小説に関心をもってきた。理由のひとつは・・・ホラ-小説というジャンルは、小説ほんらいの想像的な形象をもっていると信じたからだった。しかし、マリ-・ルイ-ゼ・カシュニッツの短編はホラ-小説ではない。
生きて在ることに、ふとやってくる何か説明のつかない怖れ。ふだんはまるで気がつかないが、おのれの内部にひそんでいて、何かのことがきっかけで、いきなり姿をあらわす不安。それがカシュニッツの短編に見られる。
彼女もまた若くして地獄を見てしまった作家ではなかったか。私が関心をもつのは、そのあたりのことなのだ。
ただし、全部がみごとな短編というわけではない。『白熊』などは、あまりに頭脳明晰な作家にありがちな計算違いが見られて、この作家の弱点が見える。

アナイス・ニン、ア-シュラ・ヒ-ジ、シャンヌ・ロランスなどに惹かれるのも、そのあたりのことがあるのではないだろうか。

(ただし、原題“Gespenster”を『幽霊』と訳すべきだろうか。)
(つづく)

413

ニュ-・ジャ-ジ-州の裁判所が・・・男と男、女と女の婚姻を合法的なものと認める決定をくだした。(06.10.25)同性愛のカップルにとっては朗報だろう。
私は『ルイ・ジュヴェ』のなかで書いのだった。

現在の私たちは同性愛に対して、さして反感をもたない。ただし、ジッドが     『コリドン』の注に書いたように・・・《はじめのうちは知らないふりをして     いたこと、あるいは、知らないほうがよいと考えていたことを、以前ほどおそ     れをなさず、冷静に見るようになってきた》だけのことだろう。

こう書いたとき、私なりに感慨があった。
戦後すぐに、内村 直也先生が指導した「フイガロ」という、劇作を中心にした若手のグル-プの人たちと親しくなった。後年、〈青年座〉の劇作家になった西島 大、作家として女流文学賞をうけた若城 希伊子たちがこのグル-プにいたのだが、リ-ダ-格のひとり、鈴木 八郎がホモセクシュアルだった。
鈴木 八郎はたいした作品も残さなかったが、私よりひとまわり以上も年上で、その頃の演劇界ではけっこう名の通った存在だった。ホモセクシュアルだったことを隠さなかったせいもある。

彼の話は驚くべきものだった。鈴木 八郎は陸軍に配属されてアリュ-シャンに派遣された経験があった。アッツの日本軍が「玉砕」したため、「キスカ」から撤退した部隊にいたらしい。その体験も驚くべきものだったが、戦時中の軍隊内で、ホモセクシュアルであることで受けた侮辱や、冷遇、苦しみや、上官のいじめ、おなじ内務班の兵たちによるきわめて反社会的ないじめ、制裁のきびしさもつぶさに教えられた。
ただし、鈴木 八郎は、まったく深刻な顔をせず、まるで浅草の軽演劇や、ドサまわりの芝居の話でもするようで、こういう話をきいて私たちはゲラゲラ笑いころげた。

それまで同性愛についてまったく知らなかった私は、鈴木 八郎と親しくなってから、はじめて同性愛について性科学的に考えるようになった。
それだけではなく、同性愛に対する社会的な偏見や差別が牢固として存在することを知ったのだが、現実にも、犯罪、とくに同性愛にからむ殺人事件が多いことを知った。

私は日本でも男と男、女と女の婚姻を合法的なものと認めるべきだと考える。
ただし「美しい日本」では、まだまだ同性愛の人々が、ホモセクシュアルであることを秘匿して生きなければならない。私たちのいじめや差別がなくなるとも思えない。

412

安倍 晋三さんが首相に就任したとき、「美しい日本」というスロ-ガンを強調した。 笑ったね、こいつはいいや。安倍 晋三さんは川端 康成さんを読んだらしい。

日本はみにくいから美しくしようというのか、それなら日本の美しさとは何なのか、と考えた。同時に、美しい日本がある、日本の美しさなどというものはない、と思わずパロディ-レンしたくなったが。

こういうことばを聞くと、日本という国がまるで無価値な見本みたいな気がしてくる。美しいスロ-ガンに対して、いつもはげしい拒否反応をもつひとりなのだ。私は。

われわれを「美しい日本」と見るかどうかは、他国のまなざしによる。どういう女でも、どこかしら自分を美しいと思っているだろう。世間では、みんな好き勝手に、あいつはいい女だとか、ブスと呼んでいるだけのことだ。いい女なのに性格ブスというノもいるし、本人たちは美人と思っているらしいが、ちっともそそられない女もいる。

「美しい日本」といういいかたには、なぜか途方もないうぬぼれが見える。

存在しないものほど美しいものはない。

411

「ワールド・トレード・センター」、「16ブロック」、「スネーク・フライト」。
どれも見たいと思わない。「カポーテイ」は見るつもり。
ろくに見たい映画もないときは、少し古い映画、それも公開当時、評判にならなかった映画を見直すことにしている。今見てもけっこうおもしろいものもある。

たとえば、「シリアル・ラヴァー」(ジェームズ・ユット監督/98年)。ミッシェル・ラロックという女優さんを見るつもりで見直した。
35歳になった「クレール」(ミッシェル・ラロック)は、誕生日の夜、自分に関心をよせている3人の男をディナーに招待する。この夜、彼女は結婚の相手を選ぶ決心をしていた。3人そろって彼女に求婚するのだが、彼女にはきめられない。そこで、3人の話あいできめさせようとするのだが、偶然というか必然というかその1人を、「クレール」が、殺害(?)してしまう。おまけに、彼女のアパルトマンでは、折りしも強盗事件が発生して、その捜査に警視庁の刑事がやってくる。
「クレール」は死体を隠さなければならないのだが、ほかの男たちがつぎつぎに死んでしまうから話がややこしくなる。おまけに、彼女の誕生日のお祝いに、妹が仲間の、わけのわからない連中をひきつれて乗り込んできてから、ますます事態は紛糾してしまう。
まるっきりフランスのおバカ映画。ハチャメチャ・ミステリー・コメデイ・スプラッターとしては「毒薬と老嬢」などの系列に属する。
おなじハチャメチャ・ミステリー・コメデイでも、「オースチン・パワーズ」のような下司な作品ではないので、私としてはけっこう気に入っている。

この秋、ニコラス・ケージや、ブルース・ウィリス、サミュエル・L・ジャクスンなんかの映画を見るより、「エリー・パーカー」のナオミ・ワッツ、「サラバンド」のリヴ・ウルマン、「チャーミング・ガール」のキム・ジスを見たほうがよほど勉強になる。

そして、少し昔の映画、公開当時、評判にならなかった映画を見直すのは、自分の映画感覚、ひいては批評意識を問い直すことになる。

410

眠る前になにかしら読む。これは、長年の生活習慣になっている。活字中毒だろう。
むずかしい本を読むと、眼がうろうろして何度もおなじ行をたどったりする。すぐに眼を閉じる。

眠る前に、うっかり翻訳ものを読む。私には危険なことなのだ。おもしろければおもしろいで心停止は間違いない。つまり、いのちにかかわる。
そういうときは、すぐに本をほうり出して、眠ることにする。だからよく眠れる。

寝る前に俳句を読むのもいい。できれば昔の女性の俳句を。

傾城のすてし扇や 閨のそとなみ

こういうのを読むと、いろいろ想像が働いて楽しい。作者がどういう女性なのか、まるで知らないのだが、なみさんの句には、

押し入れや ふとんの下に秋の蚊帳
菖蒲刈る水のにごりや ほととぎす

もう、どこにも見られない風景。
千代といえば加賀の千代女だろう。読んでみよう。

縫い物に針のこぼるるウズラか
売られても秋を忘れぬウズラかな
虫の音や 野におさまりて庭のうち

この千代さんは有名な女流だが、すぐに眠くなるからいい。

セミ鳴くや 我が怠りを思うとききせ
セミ鳴くや あぶら流るる 呪いクギ 花讃

こわい。これ以上読むと危険。この花讃という女性の句に、

ムクドリや 夜も白川の関の上

こういう句を読むと、すぐに白河夜船。おっと、いけねえ。こんなことばも、もう誰も知らないよなあ。

409

今日は私の誕生日である。

別に感想も思いうかばないのだが、正直のところ、自分ではこれほど長生きするとは思っていなかった。
誕生日だからといって誰も祝ってくれるわけではない。自分で自分を祝うつもりもない。ただ、今日の一日、無事に過ごせればそれだけでありがたい。

当然ながら、記憶がわるくなった。
外国語を読むのが億劫になっている。どうかすると、よく知っている単語がわからなくなる。しばらく思い出そうとしているうちに、あ、そうだったっけ、なんてこった、などとつぶやく。
どうしても思い出せない場合は辞書を引く。なあんだ、こういう意味だったのに。しっかり記憶していたはずのことばを忘れている自分にあきれる。腹立たしい。

老いてくるとどうして記憶がわるくなるのか。あるいは、新しい記憶が身につかず、かえって昔のことばかり、よく思い出すのか。
蒔絵の箱が古くなる。塗りがはげてしまって、下塗りが見えてくるようなものだ。その下塗りも、しっかりしたウルシでも使ってあればまだしも、いい加減な材料をいい加減に塗っただけだったら目もあてられない。

ときどきテレビで、昔見た映画をやっている。内容もおぼろげなので、新作映画を見るようなものだ。内容にあらためて感心することはないにしても、その映画を見た頃の自分を思い出したり、その映画に出ていた俳優、女優たちがそれぞれたどった運命を見届けているだけに、いたましい思いにかられることがある。

ひそかな楽しみがないわけではない。
なつかしさという感じではない。もっと別の思いなのだが、自分の感性が少しはみずみずしかった(はずの)頃の記憶が不意にまざまざとよみがえってくる。

私の人生にあらわれた「花」を見ることと変わらない。