507

もう、ずいぶん前のことだが――テレビで、韓国ドラマ「忘れ物」を見ていた。ホ・ジノが出ているので。この俳優は、「火山高」、「シルミド」、テレビで、イ・ビョンホンの主演した「オ-ルイン」で見てからずっと関心をもってきた。
「忘れ物」では、少し若い頃のホ・ジノを見ることができた。

ところが、ドラマがはじまって間もなく、突然、画面が切り替えられて、津波警報が出た。(06.11.15.)
震源は、エトロフ東北東390キロ、シムシル島の沖合、深度、約30キロ。マグニチュ-ド、8.1。北海道各地の沿岸に津波警報が出され、さらに東北から静岡県までの太平洋沿岸に津波注意報が出た。
それからはこのニュ-ズだけで、当然ながら「忘れ物」は中断されてしまった。

さらに5年前、これもテレビで、たまたまドラマ「ウソコイ」の最終回を見ていた。王 菲(フェイ・ウォン)が出ていたから。
あと数分で終わるときに、突然、画面が切り替えられて、ニュ-ヨ-クの貿易センタ-に国籍不明の旅客機が突入したというニュ-ズが流れた。私はテレビを見つづけていた。 この日以後、現代史の流れが大きくはげしく変化したのだった。

あとになって、「ウソコイ」の最終回の再放送があった。ある女性からこのビデオを借りて、ドラマの結末を見たことを思い出す。
(王 菲(フェイ・ウォン)は、中国で、あるインタヴュ-で「こんなドラマ、誰が見るのかしらね」と語っていた。たしかにアホらしいドラマだった。もっとひどかったのは、チェ・ジウが出た「輪舞曲(ロンド)」だった。)

「忘れ物」もいつかもう一度見直したいと思う。何か忘れものをしているようで気になるので。

後記(「忘れ物」は06.11.26日、午前10時から再放送された。)

506

キ-ス・ジャレット。
「ぼくはピアノとともに育って、人間のことばとピアノの言葉を同時におぼえた」という。そういえば、一度だけ、キ-スについて書いたことがある。

キ-スの評伝を読んでいて、こんな記述にぶつかった。

ジャレットは何かひとつのことを探究しはじめると、いつも100%のめり込んでしまう。全面的に本格的な行動を開始する。彼の関心の所在をあきらかにできるまでには、いつも何年もかかってしまう。
おまけに、そこまで行くためには、一つの面に集中してしまうので、ほかのことはなおざりにしてしまう。こうして彼の活動のありかたが、そのつど変化するので、多くの批評家たちを混乱させる結果をまねいた。

私はキ-スのような天才ではない。だから、キ-スに自分をなぞらえることは出来ないが――どこか似たところがある。
何かひとつのことに関心をもつと、ひたすらのめり込んでしまう。ここ数年、江戸の遊女から明治、さらには戦後の娼婦のことを熱心に調べてきた。本格的に勉強をはじめたわけではない。ルネサンスの王女で、当時、最高級の娼婦だった女性について書こうと思っているうちに、そこまで関心がひろがってきただけなのだが。
ルネサンスの王女については、なんとか書けそうな気がしはじめたのだが、ここまでくるあいだ、一つの主題に集中したため、ほかの仕事がなおざりになってしまった。
けっきょく、まだ何も書かない。書くチャンスがないから書かないだけのことだ。
これから、私がどう変化したところで、批評家たちが混乱する気づかいはない。だいいち変化しようにも何ももうどうしようもない。批評家の私がいうのだから間違いはない。

582

小説の中で、一番早くラジオを登場させた作家は、菊池 寛だそうな。どういう作品にラジオが出てくるのか知らない。1923年、真空管ラジオを発明したマルコーニが、無線電信網が世界をおおうと宣言した時期、『真珠夫人』から通俗小説に転向して、圧倒的な人気作家になっていた菊池 寛が、いち早くマス・メディアとしてのラジオを自作に取り入れたとしても不思議ではない。

では、小説に一番早くテレビを登場させたのは誰だったか。
中田 耕治である。本人が言うのだから間違いない。『闘う理由、希望の理由』という短編にテレビ・カメラを登場させた。当時、敗戦国の日本は占領下にあって、まだテレビ放送も認可されず、現実にテレビなどどこにも存在していなかった。
そういう状況のなかで、ありもしないテレビを書きこんだ。この短編を「三田文学」に載せてくれたのは山川 方夫だが、彼はニヤニヤしながら、中田さん、いたずらですね、といった。

もうひとつ、それまで誰も使わなかった(セックス関連の)禁止用語を小説にはじめて書いたのも私だった。今では別にめずらしくもない名詞だが、これも私のいたずらだった。むろん、自慢になることではないが。

505

歳末、鈴鹿の藤田 充伯さんから蕷芋(とろろいも)をいただいた。
私がいただいた品種は伊勢いもという。
ベ-スボ-ルの硬球よりももっと大ぶりで、皮を剥いてすりおろす。伊勢いもはコシがつよくて、すりおろして箸をつけても、途中で切れない。ふつうのヤマノイモ、ナガイモは、これに較べると、水っぽくて、箸にべたべた貼りついてくるだけだが、伊勢いもは、塗りの箸ですくっても、しっかり形をとっている。
私は麦とろろが好きで、駒形はもとより丸子宿まで足をのばしてみた。とろろにするのは、ヤマイモ、ナガイモ、ツクネイモ、いろいろあって、それぞれにおいしいのだが、薯蕷芋(とろろ)としては、いずこも伊勢におよばない。
味は・・ただ、ひたすら風味絶佳としかいいようがない。

歳末になると、私は伊勢いもを酒菜に、信州は松本、亀田屋の銘酒、「大吟醸 アルプス正宗」を酌む。
人生、至福のとき。

504

この「人生案内」は、現在の私にさまざまな波紋をなげかけるようだった。
これに、作家、立松 和平が回答している。

短いお手紙の中で、一代記を読ませていただいた気がいたしました。誰でも自分の半生を振り返るものでしょうが、悲しいと思えば悲しみの色に染まり、うれしいと思えばうれしさの色に染まります。おなじ人生でも、気持ちによってどのようにでも変わるものです。
あなたのお年で、あなたより健康に恵まれていない人は、身の回りにたくさんいます。その人たちがすべて心まで弱っているとは私には思えません。死の床に横たわって余命幾ばくもなくとも、その日その時間その瞬間を、希望を持って生きている人もいます。
あなたがこれまでの自分の人生を否定的にとらえていることが、若輩で申し訳ないのですが、私には気になりました。生きたくとも80歳まで生きられない人は、たくさんいます。100歳まで生きられるというなら生きるべきではないでしょうか。死を自分で決めてはいけません。目や耳は誰でも年とともに衰えてきます。散歩が楽しみというあなたは、足がしっかりしているのですから、方々歩いて、一人でも多くの人に出会ってください。

私は立松 和平に敬意をもっている。かりに、私が答えたとしても、似たような答えになるに違いない。
短い紙数で何ほどのことも書けないと承知しているが、この老人ははたしてこの答えで安心するだろうか。
この老人は、散歩を楽しみにしている。足がしっかりしているのだから、方々歩いているだろう。だが、たかが散歩するくらいで、どれほど多くの人に出会えるだろうか。
私もよく散歩をする。近くの公園に集まった老人たちが、木蔭で将棋を楽しんでいる。しかし、ベンチに腰かけて、ただぼんやりしていたり、うつらうつら眠りこけている姿を見る。その老人たちは一人でも多くの人に出会うことはない。
私にしても似たようなものだと思う。

老人は長く独身だったが、ある女性と結婚した。子どもにも恵まれたが、不幸なことに5歳の子どもと死別。夫婦で悲嘆のどん底に陥った。
その妻も3年前に亡くなって、最近死にたくなってきたという。
ここに語られている孤独に、私たちはどう答えることができるだろうか。

生きているかぎりどのような人の愛別離苦も私たちに無縁なものではない。
この「人生案内」は、おなじ老人の私にさまざまな波紋をなげかけてくる。
むろん 私はこの老人に答えるのではない。そんな資格は私にはない。
ただ、立松 和平とは、まったく別の問題について考えてみようと思う。

たとえば愛別離苦にかかわるエロスについて。

503

ある新聞の「人生案内」にこういう投書があった。

80歳男性。若いころは、就職も思うにまかせず、人里離れた土地で、養鶏の仕事をしていました。恋をしたこともなく、20年以上一人暮らしを続けました。
しかし時代とともに、採算が取れなくなり廃業。町に出て、商家の物置を借りて住みました。どぶ掃除などのアルバイトをしながらのその日暮らしでした。
そんなとき、ある女性と知り合い結婚しました。仕事も得て、44歳で子どもにも恵まれました。楽しい生活でした。しかし、子どもは5歳のとき海で水死してしまいました。夫婦で悲嘆のどん底に陥りましたが、何とか立ち直り、生きてきました。
その妻も3年前に亡くなりました。最近死にたくなってきました。健康診断を受けると、「あと20年は生きられる」と言われました。
でも目はだんだん見えなくなり、耳も次第に聞こえなくなっています。散歩は楽しみですが、他に趣味はありません。これからどうして生きていこうか迷っています。

三重県の老人の投書であった。(06.11.14.「読売」)私は、この短い文章に心を動かされた。

老年の孤独がまざまざと感じられたからである。

若いころは、就職も思うにまかせなかったというのは、おそらく「戦後」の激烈な混乱のなかで、就職したくても就職できる状況ではなかったのだろう。
都会には空襲で焼け出された人たち、敗残の復員兵があふれ、道義は地に落ちて、巷にはヤミ、誰もが犯罪におびえきっていた。庶民はタケノコ生活、若い女たちはストリップ。戦前のエログロなど比較にならないすさまじい時代になった。
「欲しがりません、勝つまでは」は「とんでもハップン」で、どこを見ても「てんやわんや」と「やっさもっさ」の時代だった。
私の大学の同期でも戦後になってから自殺した者が二、三名いるし、ヤクザになって惨殺された者もいる。

戦後、人里離れた土地で、ひっそりと養鶏の仕事をしていた若者の心情も、私には想像できるような気がする
この「人生案内」は、おなじ世代の私にさまざまな波紋をなげかけた。

(つづく)

502

出雲の阿国は別として、日本ではじめて女優になったのは誰だったのだろう。

演劇史は知らない。

明治16年、新富座で菊五郎(五代目)が実録ものの『千種花音頭花唄』河竹 黙阿弥・作)を出した。座主の守田 勘彌の企画で、これに花柳界総出の踊りを出すことになった。
新富町、葭町、霊岸島、日本橋、下谷、講武所、東京じゅうの花柳界がわき立った。
たちまち警視庁から「男女混合の芝居は規則の禁止するところ、芸妓の出演まかりならぬ」と横やりが出た。勘彌が動いた。
なにしろ、勘彌の二号さんは、新橋の「岩井屋」のお貞である。当時、お貞は・・・ 西園寺 公望のご贔屓が「蓬莱屋」のお玉、井上 馨が「窪田屋」の鳥介(とりすけ)、大倉 喜八郎が「田中屋」のお愛、堀田 瑞松が「若菜屋」の島次と並んで名妓五人にかぞえられていた。この女たちが、ちょいと耳うちしただけで、警視庁の幹部の首が飛ぶ。 そこで警視庁も黙認。

初日、楽屋に張り紙が出た。
「男女混合の芝居は其筋に於て許可されざりしを種々懇願の末、猥りがましき事の無きやう、十分注意せよとの厳命を受け、ここまで運びたるに付、一同其心得にて謹直に身を持すべき事」

いずれ名だたる美男美女が楽屋にごった返しているのだから、こんな張り紙一枚にききめがあるはずもない。
まっさきに禁を破ったのは、家橘(のちの羽左衛門)と葭町の米八。これが露顕して、あわれ、米八は芝居の途中から舞台からパ-ジされた。

ほかにもイロイロと隠れた粋な話があるのだが、この米八が発奮して、のちに女優として舞台に立った。だから、本邦最初の舞台女優。

千歳 米坡(ちとせ べいは)である。

501

戦後すぐに里見 敦が書いた随筆に、電車に乗っている女、あるいはカップルを見ただけで、その女なりカップルのことがだいたい想像がつくとあった。作家の眼はおそろしいものだ、と思ったおぼえがある。
たとえば、レストラン。
楽しそうにしゃべっているのもいれば、押し黙ったまま食べているのもいる。このふたりはどうして知りあったのか。男と女だから、どういうわけか親しくなって、現在にいたっているわけだが、ベッドの中ではどうなのか。作家でなくても誰しもそんなことを考えるだろう。

里見 敦という作家の眼力はすごいものだが、いまの私にしても里見 敦程度のことならいえるような気がする。

年配のふたりづれがテ-ブルで向きあって食事をしている。

沈黙の長さが、結婚生活の長さとほぼ正比例する。

☆500☆

教育改革が問題になって、教育再生会議なるものができた。「ゆとり教育」の見直しという観点から、全体に教員の質の低下とか、教育の現場に不適格な教員が多いということが問題になっている。
教員としての素質も適性もない人物が、生徒に教えている。だから、これからは教員の教育能力を向上させなければならない。ゆえに、ひろく検定試験を実施し、何年かごとに研修をさせよう。こういう議論が出てくる。

おいおい、冗談じゃねえや。
何かいまわしい事態が明るみに出ると、きまってこういう「正論」が出てくる。私が、もっとも軽蔑するのは、こういう「正論」なのだ。「正論」というやつは、正面きっては誰も反論できない。だから、こういう「正論」にぶつかると、歩いていてうっかり犬のクソを踏みつけたような気分になる。

数学だけに限定しても、各国の7~14歳の児童のうけている授業時間は、
フィンランド   2018時間
韓国       2182 〃
日本       2359 〃
しかし、成績のレベルは、1位が香港、2位がフィンランド、3位、韓国とつづいて、オランダ、リヒテンシュタイン、日本は6位。
つまり、日本の数学の授業は、授業時間に比して効率がわるいということになる。

では、日本の小学6年生の国語の授業時間は、
1970年代   245時間
2004年    140時間
哀れだなあ。言霊のさきわう国の国語力のいちじるしい劣化がわかるだろう。

教員の再検定とか、免許の更新ということが問題になっている。
これにも笑ったね。車の免許じゃあるまいし。そんなことが実施されたら、現場の教師は、検定のための「勉強」に終われるだろうし、いろいろ苦労させられるだろう。
そんなことを考えることにこそ、現在の教育システムの破綻があるのだ。
個人的な資質、教育に対する熱意、その人格の程度くらいは、教師よりも生徒のほうがはっきり見ている。私は小学校のときから、「わるい」先生に出会わなかった。私の出会った先生は、例外なく「いい」先生だったと思う。
今だって、小学生、生徒たちは、はっきり見ているはずなのだ。どの先生が、人格、識見に秀でているか。どの先生は、表面は「よくできる」先生だが、実際には、校長先生にとり入ろうとしてこそこそしているか。uu先生は誰それさんをヒイキにしている。vv先生は、ww先生とは仲がよくない。xx先生とyy先生はzz先生をめぐって鞘当てしている。etc、etc・・。
たいていの子どもたちは、いつだってかなり正確に「先生喜劇」を見届けている。

クラスにおける教師の才能はかならず生徒の成績の向上、低下に反映する。だから、研修、検定が必要なのだ、という議論は、短絡的であり、権威主義的であり、教育学的に誤りである。

私は教員のレベル・アップをはかることに反対するのではない。しかし、そんな小手先の改革で、ほんとうに教育の荒廃はあらたまるものなのか。
むしろ、府県単位の教員免許制度を廃止すべきである。ただし、全国共通の教員試験を実施せよ、というのではない。一府県で教員免許を取得した人は、どこの府県でも教育者として採用できるシステムを確立すべきではないか。

最近、いじめの問題が深刻化して、自殺する児童、生徒が出てきたが、これまで文部科学省には、そうした深刻な事例は一件も報告がなかったという。
そういう連中が、教育界を停滞させ、ひいてはレベルを低下させてきた。その責任を問うべきなのだ。
(「児童虐待防止法案」なるものは、すでに昭和4年に、当時の帝国議会に提出されているくらいなのだ。ウソだと思ったら調べてみるがいい。こういう「いじめ」が、戦前の日本の陸海軍にはびこっていたことは否定できない。下級兵にかぎらない。下士官クラスの新兵いじめ、部下いじめのひどさ、悪辣さ、陰湿さを思い出すがよい。)

教育問題については、いずれまたとりあげよう。

499

本を読むのにあきたり原稿が書けないとき、CDを聞く。

中国、韓国、香港、台湾のシンガ-もずいぶん聞いた。ただ聞いているだけだから、少し前の有名歌手も、最近の新人も区別がつかない。
好きなシンガ-もたくさんいるし、好きなCDも多い。

たとえば、子小 悦 を聞く。田 震、陳 明以後の歌手だが、とてもいい歌手だった。アルバムのタイトルは「快楽指南」(上海声像出版)。タイトル曲はあまり感心しないが、つぎの「情舞」から「新人愛語」を聞いて、関心をもった。
「黄昏放牛」でまるっきりのヨ-デルも歌っているのだが、「漂漂亮亮」あたりがいい。

このひとの別のCDが入手できないのが残念だが、そのうちにまた別のシンガ-が見つかるだろう。

498

映画の撮影には困難をきわめた。クランクアップしても、打ち上げをする余裕がなかった。現地から逃げるようにしてスタジオに戻った。
撮影、録音、編集をすへて終わって試写にかけたとき、会社の人々は欣喜雀躍した。
だが、検閲が残っている。

「いい映画です」
ゆっくり担当官がいった。
「外国人にはウケるでしょう」
担当官はつづけた。
「しかし、外国人が喜ぶのはかならずしもいいことではない」
主演女優は、頭がくらくらして、担当官の声が遠のきはじめた。
「この映画は国外では上映してはならない。国内でならかまわない」

国内各地で上映された日、観客からは絶大な称賛の拍手が起きた。しかし、それも束の間、当局から、全国の上映館に、即日上映禁止、フィルムの回収が通達された。

中国の映画女優、劉 暁慶(リュ-・シャオチン)の回想を読む。
残念なことに、「芙蓉鎮」、「西太后」しか見たことがない女優さんだが、彼女は自分のスキャンダルを臆せずに語り、政治に翻弄されていた中国映画界の裏面を知ることができる。

497

バイロンの詩は好きではない。しかし、その女性観は興味深い。

「私に感心するだけの賢さはもっていてもらいたいが、自分が賛美渇仰のまとになりたいと思うほど利口であっては困る」という。

三島 由紀夫なら、おなじことをいいそうな気がする。

少し論点を変えれば・・・・自分が賛美渇仰のまとになりたいと思うほど愚かな女はいくらでも見つかる、ということになる。
たとえば、毎月の「プレイボ-イ」に出てくるヌ-ド。

496

明治時代の邦楽で、ほんとうの名人といわれたのは、常磐津 林中(りんちゅう)、七世、松永 鐡五郎、その義兄の三世、松永 和楓(わふう)といわれている。
和楓(わふう)は非常な美声だったという。

和楓(わふう)の独吟や、大薩摩とくると、声は劇場をつきぬけ、表通りを越えて、向こう側の芝居茶屋の奥座敷まで聞こえたという。体格がよくて、大兵(たいひょう)肥満だった。それだけに、声に深みがあって、腹に響く。オペラでいえば、最高のバリトンだったらしい。
当時の劇場建築は鉄筋コンクリ-トではないし、木戸は開けっ放し、大通りにしても狭かったから、前の劇場の長唄が聞こえても不思議ではないが、それでも和楓(わふう)の美声が聞こえては、向い側の役者の芝居もやりにくかったに違いない。

芸は日本一、性格のわるさも日本一。晩年、落魄したが、ずっと後輩の和風(わふう)たちが丁重に挨拶しても、返事もせず、ギロリと一瞥をくれるだけ。
傲岸不遜をきわめていた。

ある日、両国に花火を見に行った。
でかい図体(づうたい)に浴衣をひっかけたまま、座敷に大あぐら。
そこに、団十郎(九代目)の妻が通りかかった。
「まるで、破落戸(ごろつき)だねえ」
といったとか。和楓(わふう)はすかさず、
「なんでえ、河原乞食のくせしやがって」
とやり返した。

やがて、和楓(わふう)は大歌舞伎から去った。その後、流転をつづけて、舞い戻ったが、最後まで傲岸な人間だったらしい。大正五年に亡くなっている。

こんなエピソ-ドを、少年の頃、母から聞いた。
母は三味線をやっていて和風、佐吉を尊敬していたので、見たこともない和楓(わふう)のことも噂に聞いていたのだろう。
芸術家にもいろいろな人がいる。私は和楓(わふう)のような人に出会うことがなくてよかった。

495

少年は黙りこくって、寒さにふるえながら人の流れに身を委ねている。クリスマスの近い季節。買い物のために混雑している人の流れはどこからきてどこまで流れて行くのだろうか。
母が死んだ。
「だれでも死ぬと、いちばん幸福なところに行くっていうだろう。ママはここで幸福だった。だからこの家にいるんだ」
少年は残された13人の弟たちにそういい聞かせる。
そして弟たちのためにクリスマスの七面鳥を手にいれようとしてロンドンの街をウロつきまわる。弟たちをひきつれて。
母のいないクリスマスの街の喧騒は、幼い子どもたちの心に空虚さと、同時に、みんながいっしょに生きて行こうとする勇気をもたらす。だが、師走の冷たい風は子どもたちの肌にまつわりついて離れない。
その夜、火をともしたキャンドルをかこんで、やっと手に入れた七面鳥の切れっぱしを見つめる28の瞳は澄みきっている。

イギリス映画「別れのクリスマス」(デヴィッド・ヘミングス監督)は、実話にもとづいた作品で、12人の男の子、2人の女の子たちが、都市計画でとりこわされることになったロンドンの貧民街のボロ家に立てこもり、福祉事務所のおばさん、おじさん、孤児を収容する修道院の尼さんたちを手こずらせる、愉快な、しかし、逆にいえば、深刻な物語だった。

もう忘れられた映画。誰もおぼえていないだろう。
この「別れのクリスマス」を見たとき、ディッケンズ以来のイギリスの少年小説を思いうかべた。少年たちの腕白ぶりに右往左往する姿に、発足まもないサッチャ-政権の社会政策のどうしようもない停滞ぶりを見せつけられるような気がしたっけ。

主演は、「小さな恋のメロディ-」のワルガキ、ジャック・ワイルド。見るからに下層階級の出身らしく、ふてぶてしい少年だったが、思春期の男の子らしい内面の翳りを見せていた。ラストで、少年たちは田舎の牧場にひきとられる。少年「レジ」は恋人の「リ-ナ」にいう。
「みんなで暮らせる大きな農場をもとう!」
田舎の美しい風景が次第に遠のいてゆき、自分たちの子どもをもとうとしている恋人たちの姿が、ふたりだけ世界から隔絶しているようにうかびあがってくる。

私がディッケンズを思いうかべたのは酔狂だが、イギリス映画には、戦後すぐのチビッコたちのすさまじいエネルギ-を描いた傑作、「ヒュ-・アンド・クライ」などがあって、この映画もその系列に入るだろう。
こういう映画を、ハ-トウォ-ミングな映画と呼ぶ趣味は私にはない。社会的な善意、福祉などが、少年少女たちの感情を少しも理解せずに行われる冷酷さは、あの時代に比較してずっと豊かになった私たちの社会でもおそらく変わらない。
「小さな恋のメロディ-」や、この映画から見てとれるものは、まぎれもなくイギリス社会の衰弱と混乱であり、それを克服しようとする意志というべきか。

戦前、(わずかに清水 宏のような映画作家、「生まれてはみたけれど」、「綴方教室」、「家に三男二女あり」といった作品を例外として)・・・日本でこうした映画が作られることは少なかった。
むろん、少年少女を中心にした映画なら、ファンタジ-からホラ-まで、無数に氾濫している。だが、80年代から急速、かつ広範囲にひろがったポルノ・ビデオとおなじようなもので、ほんとうに少年少女の姿をとりあげた作品は少ない。
それでも、「瀬戸内野球少年団」や「象にのった少年」まで、映画の主題として少年少女をメイン・テ-マとした作品が登場する。
テレビドラマの「おしん」が人気になったのは、じつは少女時代の「おしん」の姿に感動したからであって、「おしん」の波瀾万丈のサクセス・スト-リ-に共感したからではない。
私がここで思いうかべる少年映画は、たとえば「思春期」(ジャンヌ・モロ-監督)や、韓国映画「故里の春」(イ・グァンモ監督)のような作品である。

それにしても、「別れのクリスマス」の少年の夢は実現できたろうか。

494

長いあいだ知らなかったことがある。

何かの買い物をしておつりをもらう。
銀行や郵便局でも、紙幣や小銭をまるいお皿、ゴムのイボイボのあるまるい受け皿に入れてくれる。
あのお皿のことを英語で何というのだろうか。

Carton だそうな。そこで英和辞典でたしかめた。

Carton n ・ カ-トン ボ-ル箱;[牛乳などの]蝋紙[プラスチック]製の容器;カ-トン[ボ-ル箱]の中身;ボ-ル紙(cardboard)・ 標的の白星;的中弾          「リ-ダ-ス英和辞典」研究社

Carton n ・ [大きい]ボ-ル箱;板紙 ・ カ-トン箱入りのもの 〈a carton of cigarettes 巻きたばこ1カ-トン ・ 標的の白星;命中弾           「英和中辞典」旺文社

では、日本で「カ-トン」という言葉が実際に使われたのだろうか。使われたとすれば、いつ頃からなのか。調べてみた。
私が調べたところでは、昭和8年には実際に使われていた。ただし、おつりを出すほうも、こんなものをいちいち「カ-トン」と呼ぶ必要もなかったから普及しなかったのだろう。
つまらないことでも調べてみるとおもしろい。なにしろヒマだからなあ。(笑)

ことのついでに、英和辞典の編纂者にお願いしておく。
Cartonの訳語に、釣り銭皿という訳語を補足してもらいたい。私のように、何も知らない、ただ好奇心のつよいアホもいるのだから。

493

自分史を書く。それが本になる。
自分がどういう人生を過ごしてきたのか、ふり返ってみることも必要かも知れない。
とすれば自分史を書くのはいいことだ。誰でも1冊は書けるはずだから。

自分史もまた文学作品なのだ。文学的にまったく無価値であっても、なおかつ、まぎれもなく文学と見るべきだろう。

本が読まれなくなっている。
最近の、読書に関する調査(「読売」06.10.30)では、この1か月に1冊も本を読まなかった人は、49パ-セントという。去年の調査より、3パ-セント減っている。
この数字は、過去10年、だいたいおなじレベルを推移している。
年代別では、20代で、本を読まなかった人は、48パ-セント。去年の調査より、7パ-セントも高くなっている。若者の「本離れ」という。いいねえ。もともとこの世代の連中、本を読みそうな顔をしていない。本を読む学力もないのだから。

中高年では、50代、60代で、「読まなかった」がそれぞれ49パ-セント。つまり、「団塊の世代」と呼ばれる連中が、平均して本を読まないことがわかる。これもいいことだね。はじめから何も考えない連中だから。
ただ、50代では、前年比、9パ-セント。60代で、10パ-セントが、本を読むようになっている。少しは余裕が出てきたということか。

本が読まれるといっても、脳を活性化するというハウ・ツ-本や、「団塊の世代」関連本が読まれているだけで、まともな本が読まれているわけではない。

私は日本人の本離れを心配しているか。
まったく心配していない。旧文部省の国語教育の結果が、こういう数字になってあらわれただけのことだ。
もの書きとして、自分の作品や翻訳が読まれないのは、少しだけ残念だが、私の書くものなど読まれなくても仕方がない。

いろいろな人が自分史を書く。だれも読まない本ができる。
しかし、誰かが読んでくれるかも知れない。他人がどういう人生を過ごしてきたのか、その本を読むことで自分の人生とひき較べてみるのも楽しいかも知れない。
とすれば自分史を書くのはいいことではないか。

492

最近、映画も見なくなった。
とくにハリウッド映画を。公開されてしばらくすると、DVDが出るので、わざわざ映画館に行く気にならない。
ハリウッド映画を見なくなったのは、つまらないからである。

世界的に話題になった「ダ・ヴィンチ・コ-ド」も見たが、こんなものか、と思っただけ。こんな映画よりも「パイレ-ツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」のほうがましだろう。
「オ-メン」も見た。旧作の「オ-メン」のリメイクだが、主演の俳優、女優に、前作のグレゴリ-・ペック、リ-・レミックほどの存在感がないので、まるで魅力のない映画になっていた。
ハリウッド映画の、シリ-ズもの、リメイクものを出すときは、もともと想像力もない連中が柳の下のドジョウをねらって企画するので、たいていはうまく行かない。映画監督がいくら前の映画と違ったものを出そうとしても、へたをすると二番煎じ。

「クラッシュ」は、アメリカの人種差別をとらえているが、スパイク・リ-のほうが、はるかにするどい映画感覚を見せている。

つまらない作品を見て、ああ、つまらなかった、と思うのが私の趣味である。はじめから、おもしろいにきまっている映画は見る必要がない。だから「ロ-ド・オブ・ザ・キング」のような映画は、歳末のテレビで見ればいい。
やっぱり、つまらない、と思ったのだが。

491

晩年の宮さんの日記には、私がしばしば「登場」する。自分でも不思議だが、およそ社交的でない私が宮さんに親しくしていただいたのは、おたがいにヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーに関心があって、宮さんが私に好意をもってくれたからだった。
宮さんは完全な「西欧派」だった。何であれ、ユーロピアンを基準にする。日本の俳句などにまったく関心をもたなかった。
「夜。われパリを愛す! この都の魅力に酔どれのように毎日パリを夢みる。やっぱりいいものはいい。」
晩年の宮さんにとって、パリはひたすら憧れと愛情の対象であり、文学、芸術、すべての美の基準なのだった。『パリ詩集』を読めば、宮さんの「パリ」がよくわかる。
フランスの美女のモデルが出ているというだけで、わざわざ新刊の雑誌を私に送ってくれたりする。
そのくせ、女優ではジュリア・ロバーツが大好きだった。これも、わざわざ私のためにジュリア・ロバーツのビデオを送ってくれるのだった。
シャンソンではマリアンヌ・フェイスフル。

私が、マリアンヌとミック・ジャガーの話をすると、眼をまるくしていた。

大阪の同人雑誌作家が、宮さんを天衣無縫の作家と批評したとかで、さっそく自分の日記を「無縫庵日記」とつけた。私は宮さんを天衣無縫の作家とは思わない。ただ、こういう無邪気なところが好きだった。

490

宮 林太郎の日記を読み返していて、こんな短歌を見つけた。

新宿の樽平という酒場にて友と語りし春の宵かな

昭和十年、「星座」という同人雑誌の創刊号に掲載された石川 達三の『蒼氓』が、第一回、芥川賞をうけている。宮さんは、翌年、石川 達三の知遇を得て、「新早稲田文学」に参加して、作品を書きはじめる。二十二歳。「星座」に参加したのは、さらに翌年だった。
新進評論家だった矢崎 弾が、上海に旅行して、帰国したとき、宮さんは神戸に迎えに行った。お互いに初対面だった。
下関から急行が着いたとき、宮さんは矢崎 弾とすっかり意気投合して、そのまま列車に乗ってしまった。東京駅に着いたのは、つぎの日の朝。
その日の夜、新宿の樽平で開かれた「星座」の同人会に加わって、「星座」の同人に迎えられたという。

その晩、同人の秋山 正香が新聞記者とケンカをはじめ、矢崎 弾と中井 正文がケンカをはじめた。宮さんは、中井をなだめて下宿まで送った。当時、中井は東大の独文の学生で本郷に下宿していた。下宿に着いても腹のムシがおさまらない中井が、あまりうるさいので、宮さんも腹をたてて、「勝手にしろ!」とどなってホテルに帰った。
秋山は、ケンカ相手と吉原の土手のドジョウ屋で夜明けまで飲みつづけ、やがて隅田川の土手で着物をぬぎ、いきなり川に飛び込んだ。
新聞記者は着物をかかえて言問橋をわたった途中で、警官の不審尋問にあってしまった。「どうしたのか」と聞かれて川を指さした。その先に抜き手をきって泳いでゆく秋山の姿があった。
警官はあきえて、「早く行ってやれ」といった。
このときのことを、のちに秋山は小説に書いた。この作品は、芥川賞の候補になったが、受賞できなかった。秋山 正香はのちに自殺している。

この話は宮さんから聞いた。
私は「星座」を読んだことがない。(昭和12年、私は小学校の低学年だった。)むろん、石川 達三は読んだし、矢崎 弾も読んでいる。
その頃の文学青年の生きかたも想像できた。

宮さんが、若い頃、こんな短歌を詠んでいたと知って、なにか不思議な感動をおぼえる。そこで、私もざれ歌を。

祐天寺ヘミングウェイ通りの春の宵 宮 林太郎の語りしことども

(つづく)

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歳末、テレビを見ていた。
ある番組で、ティレクタ-がアフリカに行く。現地で出会った人々に声をかける。そのやりとりをビデオに収録する。ありきたりの番組だが、知らない土地の人々の生活、風俗、習慣が見えてくるのでおもしろい。

路傍というか、道ばたで、小刀で木彫りの人形を作っている現地の人に声をかける。
真っ黒な顔に笑いがひろがる。そして、挨拶のことば。

ナカダデブ!

驚いた。中田でぶ! 相手は何度かくり返した。「ナカダデブ! ナカダデブ!」

セネガル語で「お元気ですか」という意味だという。

笑ったなあ。

私は「デブ」ではない。しかし、この挨拶はすぐにおぼえた。さっそく使うことにしよう。

みなさん、ナカダデブ!