ブラスコ・イバニェス(1867~1928)は、スペインの大作家だが、もう誰も読まない。日本では昭和初期に『血と砂』の翻訳が出て知られている程度だろう。
『裸体の女』という長編は、自分の芸術に対する無知な妻に愛情をささげ、そのヌ-ドを描く画家が、妖艶な伯爵夫人「コンチ-タ」を知って惹かれてゆくという物語。
大正13年に翻訳が出た。
当時、文学作品の翻訳のスタイルが、どういうものだったか。
「マリア-ノ、貴方は、妾を棄てちゃいけないわ。棄てないで下さい。ね、貴方、貴方」
もう、泣くのをやめた彼女は眼を閉じて居たが、彼の頑強な頸に熱い接吻をした。暗がりの中に彼の顔を探しながら、沈んだ瞳を光らして居た。ほの白く、姿も見えず、神秘的な黄昏は室の中に流れ、もの皆、夢の中にさまよって居た。濃厚な、そして暖かな、湯気のやうな肉香が、彼の身体を圧して居た。
突然、彼女は身を引いて、恐ろしい予感に、彼から飛びのいた。彼は、暗黒の中に、貪欲な手を戦かせ乍ら、じりじりと彼女の方に進んだ。
「いいえ、いけません。其れは、いけません。嫌やです。唯お友達だわ。お友達よ。唯常に其れだけよ。」
そして、当時としては、エロティックな描写がつづく。
彼女の狂わしく叫ぶ、声は努力して居るにもかかはらず弱々しく聞こえた。窓からはほの青い光りがさして、人魚のやうな寝衣姿の彼女を照した。幻のやうな豊艶な肉体からは、女性の爛熟期の芳醇な肉香が、其のあらはな腕から、其腰から、其両脚から、悩ましい女性の逸楽を漂はせ、蒸し熱い霧のやうに、彼の心を蕩かした。暗闇の中に残った画家は、砂漠の中の長い闇の飢餓に、獅子のやうな唸り声をあげ乍ら、原始的戦士の抱いた劇しい欲望を感じた。
ことが終わったあと。
コンチャは、彼の側で悲しんで居た。何んと、取り返しのつかぬ馬鹿な事をした事だらう!
ということになる。しかし、すぐに彼女は平静になる。
「貴方、到頭・・ねえ、ほヽほほヽヽヽ。」
彼女は、明瞭に笑った。
「事当に、危険な遊戯だったわ。だって、かうなったんですもの。仕方がなかったのだわ。妾は今、貴方を愛して居る事が、初めて解ってよ。事当に妾が愛して居る唯一人の方だわ。」
こういう翻訳で紹介されたためイバニェスが読まれなかったのかも知れない。
もし、そうとすれば、イバニェスにとっては不幸なことだったし、日本の読者にとっても不幸だった。
翻訳家の才能というものを考える。おもしろい原作をこれほどつまらないものにするのもひとつの才能かも知れない。