546

アナトール・フランスについて、あまり関心がなかった。
もはや誰にも読まれない大作家であり、時代に対していつも一定の距離をおいて発言していた微温的な思想家、精神のエピキュリアン、おだやかなペシミストとしか見ていなかった。芥川 龍之介が影響を受けたということからの連想が働いたかも知れない。
ただし、芥川は知らなかったらしいが、日露戦争のあと、黄禍論をとなえたことも気に食わなかった。ようするに、アナトール・フランスに関心がなかった。

ある日、こういうことばを知った。

論証によって、「神」を支持し、自分は「神」を所有していると思い込み、「神」にもとずいて生活し、しかも「神」を利用し、神について自分と違ったイメージを抱く人々を危険な存在として弾圧し、自分ははかり知れない叡知を手にしていると断言し、その叡知なるものを拷問によってつたえようとする。そうしたことから、異教はほとんど関係がなかった。少なくとも、ギリシャにおいては。

私はいま現在進行しているイラクの悲惨な状況を思いうかべた。

アナトール・フランスについて知らなかった、むしろ、読み違えていたことに気がついて恥じている。

545

ある女性。30代。子どもがひとり。夫とのあいだは完全に冷えきっている。子どものためだけに結婚をつづけている。
今、40代の男性と関係がある。
しかし、最近、友人にうちあけたところ、「自己中心的で、自己陶酔しているだけ」といわれて、ひどく傷ついた。しかし、自分では、「彼」への思いはほんものだと思っている。
「大切な人と、純粋な気もちでつきあって行くことが、それほどまでに批判されることなのか。遊びや、いいかげんな気もちではなく、まじめで、ほんとうの恋だと思っているけれど、私は間違っているのでしょうか」

ある女流作家が答えていた。

あなたが彼を愛していることに偽りはないのでしょう。しかし、お友だちの言葉も、否定できません。
夫があなたと同じことをしたとき、あなたは許せるでしょうか。裏切りとは感じませんか。

そうなのだ。こういうケ-スで、夫を嫉妬しない女はまずいないだろう。いくら「夫とのあいだは完全に冷えきって」いても。
その女流作家はつづける。

「本気」であるなら、家族を傷つけ、周囲のひとを巻き込み非難されることも、お互い一身に負って、その「恋」を貫くのが、身勝手であっても「純粋」というものではないでしょうか。
また、夫との関係が「冷め切った」ものであるなら、彼の存在とは別に、結婚生活をつづけるかどうかを考える必要があると思いますが、いかがでしょうか。

私が回答しても、おなじようなことしかいえないだろう。
これは正論だが、この女性に、そういう「恋」を貫くほどの姿勢をもとめるのは無理だろうと思う。お互いの家族を傷つけ、周囲のひとを巻き込み、非難されることも辞さないというのはとてもできることではない。

ただ、離婚した場合、子どもが傷つかないとはいえない。誰よりも子どもが傷つく。

私がアドヴァイスすれば、一つ。このことについて、けっして口外しないこと。「人生案内」に投書するなどもってのほかである。世間的に、悪妻や浮気女と見られないこと。夫との関係が「冷め切った」ものなどと見られないように努力すべきである。

ほんとうに賢明で、善良な妻は、ひとりの男に出会って彼を愛したところで非難されない。夫との結婚生活はいずれ終わる。早く離婚したほうがいい。
もはや愛情のない夫とのうつろい行く日々のむなしさ、苦さをどゅうぶんに味わってきた。幻滅のさなかに「ほんとうの恋」に出会ったのは僥倖というべきだろう。つまり、彼女にはどこか大胆なところがある。

もう一つ、アドヴァイスしておこう。
ほんとうに大胆で、夫がおなじことをしても許せるほど賢明な妻は、相手の男性と別れることも覚悟したほうがいい。そのときにそなえて、自立できるように準備する必要がある。できるだけ早く、とくに「親しい」誰にも知られないように。

まかり間違っても、「冷えきった関係」を理由に、夫を殺害して、死体をバラバラにして、いろいろな場所に投げ捨てるなどという行為はしないこと。ああいう事件を起こす女は頭がよくない。

544

チュリッヒの駅はそれほど大きくない。東京駅の北口ほどの大きさだった。大理石のフロアに、女性がひとり、ホールの中央に大きなトランクを2個置いて、足を組んで腰をおろしている。ペール・グリーンのコート、黒と白のチェックのスカート。服装が派手で、遠くから見てもアメリカ人の旅行者とわかった。ブルジョアの奥方が、ヨーロッパ旅行のついでに、チュリッヒに立ち寄ったという感じだった。
平日の午後。ほかにあまり旅行者の姿はなかった。誰も彼女に注意を向けなかった。

私は、小形のトランクを引きずって、改札口を出た。まっすぐ歩いて行く。彼女のそばを通った。その顔を見た。なぜか、見おぼえがあった。

誰だったろう?

私は案内所をさがすふりをしながら、彼女に近づいて行った。思い出した。私の顔には、かすかな驚きがあったと思う。

彼女が私を見た。その顔にかすかな驚きがあった。
見知らぬ東洋人が、どうして私を知っているのだろう? 一瞬、そう思ったのではないだろうか。しかし、この東洋人が私を知っていても、べつに不思議ではない。
そういう表情だった。

私は、きわめてわずかな瞬間、彼女を見ただけで眼をそらせた。心のなかで、
ハロー、アグネス!
と声をかけた。

彼女もそれに気がついたのではないだろうか。
私に向けた眼に、よく、私のことがわかったわねえ、という意味がひらめいたような気がする。
彼女はかすかに微笑して、バッグからサングラスを出した。
これだから困るのよ。どこに行っても、人の眼がうるさくて。

アグネス・ムアヘッドだった。

543

中学校の帰りに、駿河台下の「三省堂」で新刊書の棚に出ている本を見る。懐がピイピイしていたから、しばらく眺めて、一冊も買わずに外に出るだけのことだったが。
「三省堂」の前から市電に乗る。須田町乗り換えの、「柳島」行き。須田町で乗り換えずに、本所緑町に出て、ここから「押上」行きに乗っても帰れるのだった。

「三省堂」を出てから、神保町の友達の家に遊びに行くこともあった。
「神田日活」の前を通る。おおきな看板、スターのポスターを見たり、スチール写真をながめてから、少し先、表通りから一つ裏の通りに出る。神保町二丁目。
友人の家は、この通りのお菓子屋さんだった。
路地に入ると、焼きたてのパンのこうばしい匂い、あまいクリームや、シュガーの匂いがただよっている。
表通りに面したお菓子屋さんだが、典型的な家内作業で、店のすぐうしろに、パンを焼く大きなレンジや、作業台があって、ご両親がケーキを作っている。そのパンやケーキは、すぐ近くの有名なケーキ屋に卸している。ケーキも下請けの工場で作っていることをはじめて知った。

「Kく~ん」
と、二階をめがけて声をかける。とん、とんと階段を下りてきた年上の姉さんが、少年の姿を認めると、
「あら、中田くん」
美しい娘が立っていた。
その頃の下町娘らしい綺麗な顔だが、きりっとした眉の下には、はげしい気性らしい眼があって、少年を見ていた。しかし、すぐに弟の同級生とみて、
「遊びにきてくれたの? ・・・だけど・・・」
ちょっと二階を見上げるようにして、
「あがって待っててくださる? Kはお店にお品物を届けに行ってンのよ」
おとなびた、冷たくかしこい顔と見たのが、愛嬌のあるお侠ないいかただったので、少年の顔に、当惑のいろが見える。
「じゃ、また、明日きます」
「かまわないわ。あがってちょうだい」
「でも、なんだか・・」
「かまないのよ」
姉さんは、少年を二階に導いた。
眼の前の階段を、うっすらと紅いろのくるぶしがトントンとあがって行く。すっきり伸びた足の白さに、眼がくらみそうだった。
階段をあがって左側に姉さんの部屋があって、ハンガーにかけられた女学生の制服がちらっと見え、ワニスのきいた本棚に綺麗な本がずらりと並んでいた。
女学校上級の姉さんの姿は、少年の眼にはあやしいまでに美しかった。じっと、自分を見るそのまなざしのなんという charming な輝き!
「さ、どうぞ、お入りになってちょうだい」
友人の部屋は、小学生の弟といっしょで、机が二つ並んでいた。三人姉弟と分かった。
「中田くん、いろんな本を読んでいるんですって?」
まともに姉さんに見つめられた瞬間、くらくらと眼がまわるような気がした。

その日から、毎日のように友人の部屋に遊びに行った。姉さんに会うことはほとんどなかった。女学生で、しかも上級生なので、帰宅の時間も違っていた。夕方、暗くなりかけて、神保町の電停あたりで、帰宅する姉さんに会って、おじぎをするくらいが精々だった。しかし、姉さんの本を借りることができたので、それを返しに行くという口実で、友人の部屋に行くのだった。

ある日、友人に、さりげなくいってみた。
「きみの姉さん、ほんとうに綺麗だね」
そんなことをいっただけで、胸がどきどきした。
「あいつ、このごろ女になりかけているんだ」
Kくんがいった。

その年の冬、日本とアメリカの大きな戦争がはじまった。

542

著者は謹厳な哲学者。翻訳者はえらいドイツ文学者。ところが、いい翻訳なのに読んでいてすっきり頭に入ってこない。むろん、こっちのアタマがわるいせい。
しかし、頭になかなか入らない翻訳を読んでいると、つい、ふざけてみたくなる。

けっきょく、おれがいつも舞い戻ってゆくのは、ごくわずかな、ちょっと前のフランスの連中のところなんだ。おれ、フランスの知性しかしんじてないもんな。
ヨーロッバのやつらで、自分で知性とかなんとかほざいている連中、どいつもこいつも、ひどいヤブにらみだぜ。ドイツ的教養なんてノは論外だよ。・・ごく小人数だけど、ほんとに高い教養をもった方々に、ドイツで、会ったけど、どなたさまもみんなフランス系統ばっかしだったよ。
(中略)
おれ、パスカルを読むんじゃないいんだ、ぞっこんだよ。
モンテーニュの気まぐれ、いくぶんはおれの心に、いや、ひょっとすると、からだのなかにもってるかも知れないなあ。おれの芸術家のご趣味ってノは、モリエールとか、コルネイユとか、あ、ラシーヌとかさ、ああいうノを、シェイクスピアみたいなワイルドな天才の猛威に対する防衛ラインとして擁護するんだ。ちょっとムカつくけどさ。
だけど、こういう少し前のフランス人にぞっこんだっても、最近のフランス人が、おれにとって、最高に魅力あるダチだってことの邪魔になるってわけじゃないね。けっこう多いんだよ、これが。(中略)
名前をあげようか。ポール・ブールジェとか、ピエール・ロティとか、ジップ、メイヤックとか、アナトール・フランスさん、ジュール・ルメートルさん。こんなすげえご一統さまのなかで、たった一人をあげようものなら、おれが格別入れあげている、生粋のラテン人、ギー・ド・モーパッサンだなあ。

ふざけてごめんなさい、ニーチェ先生。

541

若き日のヴァレリーは、友人のピエール・ルイスにあてて、ユーゴー、ゴーティエの栄光も、フローベルの「黄金なす朱色の燃ゆる光に色褪せた」と書いた。
『聖アントワーヌの誘惑』(1849年)が、ヴァレリーの心をとらえていたことはわかるのだが、なぜ『ボヴァリー夫人』や『感情教育』のフローベルに関心をもたなかったのか。『聖アントワーヌの誘惑』に、あれほど心を奪われたのに、『サランボー』には眼もくれなかった。
私にとっては、これは難問の一つだった。

はるか後年になって、ヴァレリーは『聖アントワーヌの誘惑』と『さかしまに』 を、ほとんど同時に読んだと知った。

もっと後年になって、『聖アントワーヌの誘惑』の改稿が1908年になってから出版されたことを知った。ヴァレリーは、この『聖アントワーヌの誘惑』を読み返したのではないか。

そうだったのか。ヴァレリーは、もう30代も後半で、すでに詩作を放棄していた。かれの文学的沈黙はまだつづくのだが、『聖アントワーヌの誘惑』の改稿が『若きパルク』の制作になんらかの刺激になったのではないか、と思った。むろん、仮説にすぎないが。
私の内部には、いつもこうした、とりとめもない疑問がおびただしくころがっている。けっきょくは、わからずじまいに終わるのだろう。
しかし、すこしでもわかりかけてきた、と思えるときはうれしい。

540

へちゃむくれ。
人をののしることば。広辞苑には、そんな程度しか出ていない、むろん、今では誰もつかわない死語。転じて、おへちゃ。
いささか芳しからぬ面立ちの女の子のことを「おへちゃ」と呼んだりする。

少年時代に、よく聞いた。自分でもつかったことがある。
「あいつの姉さん、おへちゃだぜ。こないだ、遊びに行ったら出てきやンの」
どうして、へちゃむくれなのか。そも、いかなる語源からきたのか。知らないままに過ごしていた。まあ、知らなくても不都合はなかったが。

知らないまま長い時間がたった。ある作家の随筆を読んでいて、これが出てきた。
編茶目蓮。へちゃもくれん。
吉原の名代の茶屋に縁のある老人が教えてくれた、という。
江戸っ子が相手をバカにして、よくつかったもの。江戸といっても、山の手のものは江戸っ子ではない。ノ手っ子はやぼな「やの字」の屋敷者。江戸の者とはいわなかった。

編茶目蓮。れんはおそらく連だろう。連中の略。
とにかく、長年の疑問がとけたような気がした。へちゃもくれんはわかったが、どうして、へちゃむくれになったのか。

むろん、見当はつく。ご本人は人並みの美人のつもりでいる。よせやい。へそが茶をわかさァ。お嬢、何かといえば、プイと怒って、むくれる。そこで、へちゃむくれ。

いまなら性差別だなあ。

539

私の住んでいる千葉市中央区。

私の住んでいる界隈だけでいうと、
人口、4287人。そのうち、0歳~14歳は、461人。10.8%。
65歳以上のみなさんが、769人。17.9%。(’06年3月現在)

典型的な過疎の町になってしまった。

私の住んでいる界隈で、警察のパトロールカーが走るようになった。ひったくりが多発している。被害者はほとんどが老人で、うしろからオートバイで走ってきて、いきなり籠、手提げなどをひったくって逃走する。

深夜の弁天町は、ゴーストタウンさながらのたたずまいで人通りが絶えてしまう。一昔前は、石焼きイモ、屋台の中華そばぐらいは出たものだが、この十年、見かけなくなってしまった。

近くに、少し大きな公園がある。わりに大きな池があって、春さきから夏にかけて、ボートをこぐ人もいたし、小魚を釣る子どもたちもいたものだった。小高い丘のあたりのベンチには、若い男女が寄り添う影もほの見えたものだった。
今では、ダートロードも舗装され、照明がぎらぎら明るくなって、夜の公園を散策する人もいなくなった。
ゴーストタウン。そうだよなあ。私のようなオバケが住みついているのだから。

538

和漢古典の教養がない。
自分ても恥じているのだが、これはまあ仕方がない。

「一寸法師」を読んでみた。
最後に、彼は鬼をやっつける。鬼に食べられるのだが、鬼の眼から飛び出して、あばれまわる。とうとう鬼は逃げ出す。

これはただ者ならず、ただ地獄に乱こそ出で来たれ。ただ逃げよ。」と言ふままに、打出の小槌、杖、しもつ、何に至るまでうち捨てて、極楽浄土の乾の、いかにも暗き所へ、やうやう逃げにけり。

そうだったのか。これで、地獄がどこにあるのかわかった。それまで、地獄は六道の最も下層、瞻部州の地下にあって、閻魔さまがおいでになる場所と聞いていた。むろん、鬼が罪人を呵責するおそろしい場所である。
そこでは、褌ひとつ、腰巻き一枚の男女の亡者が、鬼どもの手で首かせをはめられて、閻魔大王の前にひきだされる。そこにある照魔鑑に、生前の罪業がうつしだされる。それをごらんになった閻魔さまが、亡者たちの行く地獄をおきめになる。いってみれば、ダッハウ送りか、アウシュヴィッツ送りか、選別、分別されることになる。

ところが、鬼どもは、極楽浄土の乾の方角に逃げている。いぬい、すなわち西北である。「一寸法師」の話に出てくるのは、摂津、住吉神と見ていいとすれば、「いかにも暗き所」がどこあたりなのか。

それに、亡者が、性別のためとはいえ、たふさぎ、こしまきだけは身につけることを許されていたことはどういう理由からなのか。

せっかく古典を読みながら、ろくなことを考えないのでは地獄に落ちるのは必定(ひつじょう)。

古典の教養がないことを恥じているのだが、仕方がない。

537

島を描いた文学作品に、私の関心があった。
たとえば、『ガリヴァ-』の「リリパット」から、「ハックルベリ・フィン」まで、モ-ムの『雨』。ノ-ドホフ&ケ-ン。
さらにはオイゲン・ヴィンクラ-の『島』、アルジャ-ノン・ブラックウッドの『くろやなぎ』。
おそろしいSF、レジス・メサックの『滅びの島』。

『滅びの島』は、現代文明に対する暗澹たる絶望にいろどられた小説だが、作品の舞台になる「ヴァルクレタン島」が、女性性器のかたちをしている。

クレタンは、クレチン症(先天性の甲状腺機能低下)の意味で、作家のイメ-ジには小人があって、『ガリヴァ-旅行記』に通じる。同時に愚鈍な人間をさす。
これに谷間を意味する「ヴァル」を重ねたあたりに、図像学的に作家のヴァジャイナルイミジャリ-を想像できる。

愚者の谷間。あるいは、おろかなる亀裂。

福島 正実は、レジス・メサックについて、

ことによるとメサックは、科学・技術や、現代文明に汚される以前の人類――人間にも、すでに絶望していたのではあるまいか。人間の本来的に持つ攻撃性、偽善、悪辣さ、愚劣さに耐えられなかったのではないか。そうでなければ、あのクレタンたちの狂乱ぶり、暴行凌辱の徹底ぶりは、むしろ必然性を失ってしまう。人間そのものに絶望した上、迫り来る第二次大戦の暗雲に焦らだった結果の悪夢ととれないこともない。

と書いた。

私がアルフレッド・ベスタ-や、シァド-・スタ-ジョン、カ-ト・シオドマクなどを訳したのも、すべて福島 正実の依頼による。(ただし、フィリップ・K・ディックの翻訳は都筑 道夫が依頼してきた。)

今の私は、レジス・メサックから、福島君とは別のことを考えているのだが、若き日に福島 正実に出会わなかったら、少しでもSFに関心をもったろうかと、そぞろ当時の彼を思い出さずにはいられない。

536

愛について。きみは私に何を聞こうというのか。

愛することによってしか、愛について知ることはできないのだから。

535

戦時中、中学生は映画館に行くことを禁止されていた。
文部省推薦の映画なら父兄同伴で見に行ってもよかったし、学校側が、「ハワイ・マレー沖海戦」とか「陸軍航空戦記」といった映画を見せることはあった。
私は浅草が近かったし、近くに場末の映画館があったので、しょっちゅう映画館にもぐり込んでいた。警察や学校の補導も、そこまで眼が届かなかった。

「阿片戦争」という映画を見た。マキノ正博監督。主演、市川 猿之助(のちの猿翁)、青山 杉作、高峰 秀子。
映画の内容はイギリスの侵略を批判したもの。それほどいい映画ではない。しかし、戦時中、高峰 秀子という少女スターにあこがれていた中学生としては、ぜひにも見たい映画だった。

イギリス軍の砲撃に逃げまどう清国民衆のシーン。ロングショットで、建物から無数のアリのように人間があふれ出して、路上を埋めつくす。
当時の日本は映画の特撮技術も発達していなかったので、どうやって撮ったのだろう、と思った。
同時に、このシーンはどこかで見たような気がした。どこで見たのだろうか。

ある日、岸という同級生が声をかけてきた。「阿片戦争」を見たという。

「中田君、気がついたろ? あれ、すげぇなあ」
「何が?」
「ほら、中国人が逃げるとこさ」
「ああ、あのシーンか」
「やっぱり、気がついたか。きみなら気がつくと思った。アリス・フェイ。よかったなあ」
岸という少年は私の顔を見て、ニヤリと笑ってみせた。
その瞬間、彼のことばの意味がわかった。
アリス・フェイ。小柄だが、くらくらするような輝き。
この女優のことを知っているのは、クラスでも岸と私だけだったに違いない。
おそらく私は動揺していたと思う。
「阿片戦争」の群衆シーンは、アメリカ映画「シカゴ」の大火のシーンのワン・カットをつないだものだった。「シカゴ」。ドン・アメチー、アリス・フェイが出ていた。戦争がはじまる前に下町の場末の映画館で上映されていた。私は向島の場末で見たのだが、いまでは内容もよくおぼえていない。
しかし、シカゴの大火が「阿片戦争」で使われていたことは、ぜったい間違いではない。まったくのトリヴィアだが、このことは私の心に残っている。

このシーンのことは岸君と私だけの秘密になった。
中学生が映画館に行くことも禁止されていたのだから。

534

はるか後年になって、「リンゴの唄」が書かれた事情を知った。

じつは、この歌詞は戦争中に書かれたものという。

戦時中に軍歌や戦意昂揚の歌が歌われていたのは当然だが、庶民が好んで歌った流行歌には、戦争に関係のないメロディアスな曲もあった。

「湖畔の宿」、「伊那の勘太郎」、「狸御殿」、「お使いは自転車に乗って」といった流行歌である。わずかだが、これらの歌は、現在でもすぐれたものである。

サトー・ハチローは、戦時中の庶民のために「リンゴの唄」を書いた。ところが、「聖戦遂行」に反するものとして、軍の検閲に通らなかった。
当時の軍部の頭脳程度の低さ、横暴ぶりは、いまさら指摘するまでもない。「頭のわるいやつがごろごろしていた」ものだ。おそらく大本営/陸軍部の松村(大佐)あたりが激怒したのだろう。

検閲の忌避にふれたのは「赤いリンゴに 唇寄せて」という歌詞が、色情的、つまりエロティックだという理由だったらしい。
さらに、この非常時に、青い空を黙って見ているとは何事か、といった愚にもつかない叱責を浴びせたという。

サトー・ハチローの「リンゴの唄」はそのまま埋もれた。

戦争が終わって、レコード会社は、それまでの戦争協力の態度を一変する。
といって、すぐに出せるレコードがあるはずもない。とにかく、何かださなければならないので、オクラになった作詞、作曲をひっかきまわしていて、「リンゴの唄」が出てきた。とりあえず、これを新譜として出すことになった、という。

レコード制作の現場のいい加減さ、オポチュニズム、コンフォーミズムは、昔も今も変わらない。だが、結果的にこの歌は空前のヒットになった。

このことを知ったときから、私の「リンゴの唄」に対する嫌悪は消えた。というより、私の内部にひそんでいる大衆に対する不信が、どんなに軽薄なものだったか、したたかに思い知らされたといってよい。
そして、「検閲」のおそろしさを。

533

戦後すぐに「リンゴの唄」という明るい曲が流行した。サトー・ハチロー作詞。歌手は並木 路子。今は、由紀 さおりが歌っている。

私は、これまで一度も歌ったことがない。

あの戦争が終わったあと、たちまち大ヒットしたが、私には悲しい唄に聞こえるのだった。敗戦後、日本がどうなって行くか見当もつかない。焼け野原になった東京の、庶民は、食料の配給さえ滞って、飢えていたし、明日のこともわからない。とにかく、これからどう生きて行くかわからない。そんな生活のなかで、

赤いリンゴに 唇寄せて
黙って見ている 青い空

などと口ずさむと、焼け野原になった東京の、やりきれない無力感にぴったりだった。そのくせ、奇妙に明るい空虚感がまつわりついているようだった。

リンゴはなんにもいわないけれど
リンゴの気もちは よくわかる

私は「リンゴの気もち」など、わかりたいとも思わなかった。リンゴだって、自分の気もちを、そうやすやすとわかられたら、たまったものではないだろう。

戦争が終わってすぐに、まるで戦争などどこにも存在しなかったような、ただ空虚に明るい歌を書くサトー・ハチローの大衆迎合に、侮蔑をおぼえた。

私は「リンゴの唄」がきらいだった。少年だった私は、この唄をほとんど憎悪したといってよい。
(つづく)

532 〈東京大空襲 その4〉

三浦 哲郎の『忍ぶ川』のヒロイン、「志乃」は、戦前、州崎遊郭のなかにあった射的屋の娘だったが、州崎も3月10日に爆撃され、多数の女たちが焼死した。

戦後、ほぼおなじ地域に「州崎パラダイス」として、売春地帯になった。
「志乃」は、恋人を生まれた土地につれて行く。
これが州崎橋といってから、

志乃は、焔になめられたあとが黒い縞になっている石の欄干を、なつかしそうに、手のひらでぴたぴたとたたいた。

戦後、50年以上もたってから、私はやっと吾妻橋から押上、ぐるりとまわって向島、州崎、小梅と歩いたが、業平橋の大理石まがいの橋をなつかしそうに手のひらで、ぴしゃぴしゃたたくことはできなかった。

低い橋桁にこびりついている、小さな、黒い縞のような斑点を見ているだけで、あの日の焦熱地獄の阿鼻叫喚が胸にたぎり、あふれてくるのだった。

当時、業平橋に住んでいた関根 弘は、この晩にまだ幼かった妹を失っている。彼はこのことをただ一度だけ、短い文章に書いている。おなじように、業平橋に住んで、戦後に作家になった峰 雪栄も、悲惨な体験をしているが、ついに一度も書かなかった。

これまで私は、業平橋の黒い斑点のことを人に話したことはない。むろん、一度も書いたことはない。

531 〈東京大空襲 その3〉

業平橋のたもとに、模造大理石らしい低い橋桁がついている。誰も気がつかないだろうが、よく見ると最下部のあたりに、黒い斑点がひろがっている。
ただの汚れにしか見えない。斑点は輪郭がぼやけて、小さな黒点も飛び散っている。
こんなものに気をとめる人はいないだろう。

1945年3月10日の深夜、私たちは猛火に包まれながら、業平橋の橋桁にとりすがって、焦熱地獄のなかを這いずりまわっていた。私は何度か意識を失ったと思う。はっきりおぼえているのは――自分は何もすることなく死ぬ、と思ったことだった。何かをなしとげたかった。しかし、このまま何もせずに死ななければならないのか。ぼんやり、そんなことを考えていた。

夜明け。私は眼を火と煙にあぶられて、睫毛もなくなってほとんど失明状態だった。やっと眼が見えるようになってからも、あたりがぼんやりとしか見えなくなっていた。
押上から柳島、北は向島、すべて焼け跡になって、まだ煙のたちこめる中に異様な赤みを帯びて太陽がのぼった。
私たち一家はなんとか生きのびたが、私たちといっしょにおなじ業平に逃げた隣組のひとたち、十数人のうち、4人が死んでいる。隅田公園に逃げた人たちは全員が焼死した。

戦後になって、50年以上、業平橋界隈に行くことがなかった。吾妻橋までは何度か行ったし、源森橋までは行っても、業平橋まではどうしても足を伸ばすことができなかった。
(つづく)

530 〈東京大空襲 その2〉

3月10日のことは私の内面に深く刻みつけられている。
私は作家なのに、この夜のことは書けなかった。いくら書こうとしても書けない。あまりにもおそろしい、悲惨なできごとだったから、いくら書きたくても私の手にあまるものだった。思い出すことはできる。だが、いくら思い出そうとしても、何かが欠落しているのだった。私の内面には絶望しかなかった。

吾妻橋二丁目に住んでいた私たち家族四人は、隣組の人たちと、一カ所にかたまりあうかたちになって、渦まく炎と風にあぶられつづけた。前後左右、とくに背後から猛火に追いつかれ、前に進もうとしてももはや1メートル先は、ごうごうと音をあげる火の渦だった。
火に巻かれた人間は火を吹く髪をむしり、虚空をかいて爪を剥がし、われとわが身を破り、手足をひきちぎって、血と、煙と、火炎といっしょにすさまじい叫びを、口から噴きあげる。生きながら燃えあがって人間が倒れ、みるみるうちに炭化してゆく。

私たちは防火用水の水をかぶって、熱した地面を這いずりまわった。
業平橋から先の、わずか数分前に焼け落ちたあたり、猛烈な劫火にあぶられ、火焔の飛沫が、縦横無尽、滝のように襲いかかってきた。炎のなかに黒い影が動く。つぎの瞬間には、この世のものとも思われない悲鳴が聞こえる。それは人間の声というより、野獣が咆えるような声だった。それはつぎつぎに起きては、すぐにとだえた。

母が、必死に防火用水のへりにしがみついて、毛布をたたき込み、やっと水にひたした毛布を頭からかぶせてくれた。火の粉が頭上から降りそそぐ。というより、無数の火のかたまりが瀧のようになだれ落ちてくる。
父と母、私と妹の四人は橋の上を這いずりまわりながら、数十分かけて、やっと業平橋をわたり終えた。途中、市電のレールに手や頬がふれると、火傷するほどの熱さだった。
業平橋界隈が、ほんの数分前に猛火につつまれ、火が風を喚んで、みるみるうち押上方面に延焼した、という偶然が――結果として、先に焼け落ちた場所に逃げるしかなかった私たちに幸いしたのだった。
(つづく)

529 〈東京大空襲 その1〉

芥川 龍之介の「本所印象記」に、

「椎の木松浦」のあった昔は暫く問はず、「江戸の横網鶯の鳴く」と(北原)白秋の歌った本所さへ今ではもう「歴史的大川端」に変ってしまったといふ外はない。
いかに万物は流転するとはいへ、かういふ変化の絶え間ない都会は世界中にもめずらしいであらう。

「本所印象記」が、彼の死後に発表されたことを思うと、私には格別の思いがある。

1945年3月10日の大空襲で、深夜、空襲を知らせるサイレンに飛び起きて、闇のなかでゲートルを巻き、防火用水の水をたしかめたとき、すでに深川、両国あたりが炎上していた。本所の吾妻橋二丁目に住んでいた私たちは、この空襲が尋常いちようのものでないことを直感した。火とともに、暴風のような風が吹き荒れて、下谷、浅草の空も真赤に燃えあがっている。私たち一家は業平橋方面に逃げようとした。横川、緑町、さらには深川の空が赤く炎上し、その中をB29が白くうかびあがって飛んでいる上野、浅草方面には逃げられない。私たちは、四方八方を火に囲まれて、逃げ場を失っていた。
私の家族や、近くの十数人は折り重なるように身を屈め、這いずりまわって業平橋方面に逃げて、燃えさかる炎を避けようとした。だが、ここが地獄の入口だった。

すでに業平橋の角にあった医院が炎上していた。吾妻橋側から、北十間川支流の堀割をへだてただけの距離で、業平橋界隈から押上、柳島までが猛火につつまれている。
私の見たものは、絶望が燃えさかっている姿だった。
(つづく)

528

ブラスコ・イバニェス(1867~1928)は、スペインの大作家だが、もう誰も読まない。日本では昭和初期に『血と砂』の翻訳が出て知られている程度だろう。

『裸体の女』という長編は、自分の芸術に対する無知な妻に愛情をささげ、そのヌ-ドを描く画家が、妖艶な伯爵夫人「コンチ-タ」を知って惹かれてゆくという物語。
大正13年に翻訳が出た。

当時、文学作品の翻訳のスタイルが、どういうものだったか。

「マリア-ノ、貴方は、妾を棄てちゃいけないわ。棄てないで下さい。ね、貴方、貴方」
もう、泣くのをやめた彼女は眼を閉じて居たが、彼の頑強な頸に熱い接吻をした。暗がりの中に彼の顔を探しながら、沈んだ瞳を光らして居た。ほの白く、姿も見えず、神秘的な黄昏は室の中に流れ、もの皆、夢の中にさまよって居た。濃厚な、そして暖かな、湯気のやうな肉香が、彼の身体を圧して居た。
突然、彼女は身を引いて、恐ろしい予感に、彼から飛びのいた。彼は、暗黒の中に、貪欲な手を戦かせ乍ら、じりじりと彼女の方に進んだ。
「いいえ、いけません。其れは、いけません。嫌やです。唯お友達だわ。お友達よ。唯常に其れだけよ。」

そして、当時としては、エロティックな描写がつづく。

彼女の狂わしく叫ぶ、声は努力して居るにもかかはらず弱々しく聞こえた。窓からはほの青い光りがさして、人魚のやうな寝衣姿の彼女を照した。幻のやうな豊艶な肉体からは、女性の爛熟期の芳醇な肉香が、其のあらはな腕から、其腰から、其両脚から、悩ましい女性の逸楽を漂はせ、蒸し熱い霧のやうに、彼の心を蕩かした。暗闇の中に残った画家は、砂漠の中の長い闇の飢餓に、獅子のやうな唸り声をあげ乍ら、原始的戦士の抱いた劇しい欲望を感じた。

ことが終わったあと。

コンチャは、彼の側で悲しんで居た。何んと、取り返しのつかぬ馬鹿な事をした事だらう!

ということになる。しかし、すぐに彼女は平静になる。

「貴方、到頭・・ねえ、ほヽほほヽヽヽ。」
彼女は、明瞭に笑った。
「事当に、危険な遊戯だったわ。だって、かうなったんですもの。仕方がなかったのだわ。妾は今、貴方を愛して居る事が、初めて解ってよ。事当に妾が愛して居る唯一人の方だわ。」

こういう翻訳で紹介されたためイバニェスが読まれなかったのかも知れない。
もし、そうとすれば、イバニェスにとっては不幸なことだったし、日本の読者にとっても不幸だった。

翻訳家の才能というものを考える。おもしろい原作をこれほどつまらないものにするのもひとつの才能かも知れない。

527

戦後すぐの昂揚した気分のなかで、いちばん盛んになったのは草野球だった。

ある日、「近代文学」の人びとが、ほかのグループと親睦を深めるため、(みんなで八方手をつくして集めた酒、ビールの「飲み会」が目的で)野球をすることになった。しかし、メンバーが足りない。安部 公房から連絡があって、きみも参加するように、といわれた。
相手は「中国文学」の人たちが中心で、ほかに画家たちも加わった強豪チームという。
当時、私は肺浸潤でスポーツどころではなかったが、それでも、安部 公房の頼みでは断れない。大宮から上井草まで出かけて行った。
球場は見るかげもなく荒れ果てていた。
すぐに試合がはじまった。私は補欠だった。
このときの「近代文学」のメンバーは、埴谷 雄高、平田 次三郎、佐々木 基一、安部 公房、関根 弘にまじって、寺田 透、栗林 種一など。三十代ばかり。
相手の「中国文学」の人たちは知らない人が多かったが、武田 泰淳、千田 九一など。ピッチャーがなんと岡本 太郎だった。
日頃、バットをもったこともない選手ばかりなので、試合は大荒れ。好プレイ珍プレイの続出に爆笑、哄笑。最後まで笑いが絶えなかった。しかし、岡本 太郎のピッチングで「近代文学」側はきりきり舞いをさせられた。
安部 公房がホームランを打った。拍手喝采。それでも、「近代文学」は負けた。

私はピンチヒッターで出してもらったが、最初のバッターボックスは三振。そのまま二塁をまもったが、つぎに打順がまわってきたときヒットを打って塁に出た。しかし、せっかく塁に出たのに、岡本 太郎の牽制に刺されて、あえなくアウト。

試合のあとは、ビール(当時アルコール飲料は貴重品だった)で乾杯。私は、いちばん年少だったし、大宮に住んでいたので早く帰った。疲れが出た。

その晩、私は発熱して寝込んでしまった。母が私を叱りつけた。

1947年。みんな若かった。私は20歳。

私にとっては、「よごれた古着を洗濯するみたいな昔の文壇の楽屋ばなし」ではない。若き日の貴重な思い出なのだ。