628

 私はまとまったかたちで詩を訳したことがない。
 ロラン・バルトの短詩を短歌形式でパロディしたり、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、ファリンゲッティを少し、マリリン・モンローの数編を訳した程度。
 詩を訳さない理由は簡単で、私の語感、才能、語学力では訳せないからである。

 たとえば、イギリスの春歌を読む。
 どれもおもしろいのだが、江戸時代の俳句、川柳ほども理解できない。

 思想家、バートランド・ラッセル卿の作とつたえられる春歌がある。

   上海そだちの姑娘(クーニャン)は
   人目を気にする はずかしがりや
   夜は 紙燭を消してから
   裙子をぬいで もぐりこむ
   天帝さまのご覧になるのが こわいので

 私の訳ではせいぜいこんな程度。

627

 
 也有の支考批判は、俳諧史の小さな、小さなできごとにすぎない。いまの俳句の作者たちは誰も知らないだろう。也有が支考を論難しつづけたこと、その批評史的な問題は、私の眼には――遠く、正岡 子規の革新や、桑原 武夫の「第二芸術論」、はては虚子、秋桜子、さらには碧梧洞、井泉水の対立などと重なってくる。

 也有は、支考の「俳諧を以て日用を行へという邪説」に激した。許しがたい「邪説」であった。なぜなら師の芭蕉のいう「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用る所なし」という思想にそむくものと見えたから。

 也有の支考批判の動機には、もとより支考の「変節」があった。元禄、宝永期の支考の俳論は、正徳、享保にかけて、たしかに変化している。私は、支考が芭蕉の思想を自分の内部で発展させて行ったものと見る。もとより逸脱と見ない。逆にいえば、支考はそれほどにも大きく師の教えの影響をうけていたのである。
 ところが、也有は、芭蕉亡きあと、凡兆、路通はもとより、其角の大きな逸脱、許六の逃亡といった蕉門の人びとの離散をうれい、蕉風に還れと叫びたかったに違いない。

 されば蓮二はよし。蓮二をまねぶはあしからむ。

 いまの私には、也有の支考批判がにわかに悲劇的に見えてくる。
 そして、支考の非運も。

626

 也有が執拗に論難をくり返した相手、各務 支考のことを考えた。
 支考のどこが也有の非難をこうむったのか。

   世情の物に逢て物に感ずる事は、いにしへ猶今にたがふ事なし。

 市井に見られるもの、世間に行われることどもに心を動かされる、感動することは、昔も今も変わっていない。だから、

   さりとて世情にうとき人は 蛙の土中に冬籠りたるやうにて、それも物の理なかるべし

 世情、それもいろいろなできごとに目を向けない人は、蛙が冬眠しているようなもので、そういう姿勢は正当なものではないだろう、という。

   されば俳諧は平生をはなれず

 そして、

   俳諧の平生をはなれぬというは、平生を俳諧とおもふ事なるべし

 というのが、支考の制作理論だったと思われる。これのどこがいけないのか。むろん、支考にしても、ただ、世態人情を俳句にすればよいと考えていたわけではない。

   しかるに世の人の食くらひ酒のみ、灯をかかげ硯にむかひて、口にいひ紙に書きつけたれば、是を今宵の俳諧とおもへる。さるはなきにしもあらねど、ただ俳諧の日用といふべし。

 という。つまり、世情、それもいろいろなできごとに目を向けても、ただ見たもの、頭にうかんだことを、五、七、五にしたところで、例外はあるにしても俳句ではない、ということになる。
 私のような門外漢には、支考の説のほうがすっきりしている、と思う。
 では、なぜ也有は支考を執拗に攻撃したのか。
   (つづく)

625

  江戸中期の俳人、横井 也有(1702~83)は、いつも各務 支考(1665~1731)を批判しつづけた。
 彼の俳論を読むと、支考のことが徹底的に気に入らなかったらしい。
 性格的に粘液質というか、オブセッシヴなタイプ。固着的で、頑固な批評家らしい。こういう人が論敵になったら、こわいね。

 也有さんは支考の俳論『続五論』(元禄12年)をほめそやしながら、『俳諧十論』(享保4年)を痛烈にこきおろしている。支考の実作についても、

 蓮二房(支考)の俳諧は名人なり。天下無双といふのみならず古今に独歩すともいうべし。

 と手放しでほめていながら、批評はただちに反転して、

 老後世法の偽作はいかなる天魔の入かはりたりや。おしむべし、嘆くべし。

 と非難している。「偽作」は盗作の意味ではなく誤った論旨の批評という意味。

 もっとも私にいわせれば、也有の批評上の論点にどうも誤解があるように見える。

 享保以後の支考の「文体」も大きく変化したらしい。これが也有には、師の芭蕉の教えから大きく離脱したように見えた。あるいは、路通、許六の逃亡に通じると見たのか。

 されば蓮二はよし。蓮二をまねぶはあしからむ。

 おもしろい。私のような平凡な批評家には真似しようもないが――批評上のダィアレクティックスとしておぼえておこう。

 さればピカソはよし。ピカソをまねぶはあしからむ。
 さればスタニスラスキーはよし。スタニスラスキーをまねぶはあしからむ。
 されば小林 秀雄はよし。小林 秀雄をまねぶはあしからむ。
 さればフーコーはよし。フーコーをまねぶはあしからむ。
 すごいね。批評として難攻不落の論理だよ、也有さん。
  (つづく)

624

萩原 朔太郎は音楽に造詣が深かった。ベートーヴェンの『月光』や、グノーの『ファウスト』などを聞いていた。

 「外国文芸に私淑し、洋画の心得があり、自ら新しいと称して居る最も進歩的の青年の仲間でさへも音楽に対しては驚くべき程鈍感無智である。」
 と書いている。

 私は『ショパン論』を書くことで批評の世界に入ったが、それ以後の音楽遍歴はごくありきたりのもので、とても音楽に造詣が深いとはいえない。好きな音楽、とくに好きな歌手にぶつかると、その人のものばかり聞いてきただけで、趣味も音楽鑑賞などではなかった。
 たしかに私は「外国文芸に私淑し」てきたが、「洋画の心得が」あるともいえない。朔太郎のいう「洋画」はむろん美術をさしているが、映画の「洋画」ならいくらかくわしい程度だろう。

 私たちは、朔太郎とは比較にならないほど音楽について知識をもっている。しかし、「最も進歩的の青年の仲間」の無知を嘆く詩人の内面の悲しみをもってはいない。

623

男はなぜ浮気をするのか。さまざまな要因がある。

 まず快楽がある。はじめての出会い、そしてさまざまな誘惑。べつにめずらしいことではない。そして、はじめての性行為。
 男にとって、その creation の瞬間こそが最大の快楽なのだ。
 未知の肉体。さまざまな発見がきみを圧倒する。相手がはじめて、きみにしかわからない真実の姿をあらわす。セックスのよろこびよりも、ときには、その「発見」のよろこびのほうが強い。

 相手にふれる。その肉体を受けとる。快楽はそれだけではない。この瞬間から、きみは相手を作りあげるのだ。
 これほど大きな快楽はない。

622

 BS11、「ティファニーで朝食を」をやっていた。(07/6/1)もう、何度も見ている映画だが、見ているうちに、いろいろなことを考えた。
 後年のトルーマン・カポーテイは『冷血』を書く。当時、NHKで『冷血』をとりあげたことがあって、出席者は、武田 泰淳、中村 光夫、開高 健、司会は私だった。
 当然、この座談会のテーマは、およそ、カポーテイのような作家には考えられない主題だったので、なぜこういうノン・フィクションを書いたのか、というあたりに集中した。このなかで、中村 光夫が私に嘲笑的な言辞を浴びせた。私は、このときから、中村 光夫を文学上の敵として意識するようになった。
 私は論争を好まない。文壇仲間の確執などに興味はない。しかし、トルーマン・カポーテイがきっかけで、それ以後、中村 光夫の書くものに侮蔑の眼を向けたのだった。

 「ティファニーで朝食を」の主演女優は、オードリー・ヘップバーンだった。むろん、オードリーは可憐で、とてもいい女優だった。しかし、この映画のコールガールは、「娘役」(ジュンヌ・プルミエール)としてのオードリーに向かなかった、と私は思う。
 じつは、カポーテイ自身はマリリン・モンローを希望していたのだった。
 私のいう「マリリン」は「人生模様」に出たマリリン・モンローで、「ナイヤガラ」のマリリン、「七年目の浮気」のマリリンではない。このあたりは説明がむずかしいのだが、ふたりの演技、キャラクターから見て、オードリーでは無理だったと見る。
 たとえば、ソヴィエト映画の「戦争と平和」のナターシャ・サベリエヴァと比較しても、オードリーのほうがもっとすばらしかった、と思う。おなじ「戦争と平和」でアニタ・エクバーグがどんなに殊勝に演じていても、「8 1/2」ののびやかなエグバーグにおよばなかったように。
 結果として、「ティファニーで朝食を」は、世間の評価と違って、オードリーの代表作とまではいかなかった、と思う。

 映画俳優のトム・ハンクスがいっていた。

 「カサブランカ」のなかで、イングリッド・バーグマンは、酒場で黒人のひくピアノを黙って聞いている。それだけで、バーグマンはひと(観客)を魅了する。役者にはそれだけの力がある、と。

 「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘツブバーンにはそういうシーンがない、と私は見た。だいいちコールガールに見えない。
 私はいつも大方のみなさんの意見とは違ってしまうせいか。

621

 モリエールの『タルチュッフ』は、ルイ・ジュヴェの生涯をつらぬく劇的主題だった。私は評伝『ルイ・ジュヴェ』でも『タルチュッフ』をくり返しとりあげている。
 1950年の『タルチュッフ』には、それまでと違った異様な執念のようなものが渦巻きはじめる、と書いた。こんな一行にも私のジュヴェに対する共感があった。

 私たちのモリエール理解に大きな転換をもたらしたポーランドの演劇学者、ヤン・コットの『われらの同時代人モリエール』の主題は――あくまで私の推測だが、コットがルイ・ジュヴェの舞台を見たために、コット自身がジュヴェのテーマを発展させたもの、と見ている。コットは、ジュヴェによってモリエールを「発見」したのだ。
 ただし、ポーランド語ができない私は、コットの資料にあたることができなかったため、読む人が読めばわかる程度に書いただけだった。

 『タルチュッフ』は、モリエールの全作品のなかでもいちばんおもしろい。当然ながら、私は何度となく読み返した。その上演史にも眼をくばった。

 主人公、「タルチュッフ」はだれでも知っている。ジュヴェ以前にも、たくさんの名優が「タルチュッフ」を演じてきた。リュシアン・ギトリ、コクラン、コポー、デュランというふうに。
 その伝統のなかで、ジュヴェの「タルチュッフ」は画期的だったと思われる。

 最近、また『タルチュッフ』を読み返した。
 ふと、へんなことを考えた。モリエールが上演した当時の観客は、主人公の「タルチュッフ」にまず何を見たのか。

 しばらく考えて、あっと驚いた。
 ひょっとすると、そうだったのではないか。いや、間違っているかも知れないなあ。
 しかし、モリエールのことだからそのくらいの「いたずら」はやるだろう。

 しばらくこんな自問自答をくり返していたが、だいたい間違いないと推測した。むろん、小場瀬 卓三先生や、鈴木 力衛のような研究家は、こんなことを書いてはいない。世界のどこかに、私とおなじことを書いている学者はいるかも知れないが、不勉強な私はとてもそこまで手がまわらない。

 『仮名手本忠臣蔵』という外題に、作者(ひいては、民衆)のひそかな心情が隠されていたように、「タルチュッフ」という外題を見ただけで、当時の宮廷人(ひいては庶民)は、ただちにこの新作が喜劇だということに気がついたに違いない。

 「タルチュッフ」は、じつはじゃがいもである。まず間違いないと思う。
 フランス語でじゃがいもはポム・ド・テールだが、イタリア語でじゃがいもはタルトゥッフォロという。
 もし、私の説がただしければ、わが国の狂言の外題から内容が想定できるように、当時の民衆は、イタリアふうのコメディア・デッラルテふうの喜劇を思いうかべたはずである。おそらく、外題を見ただけでおもわずニヤニヤしたのではないだろうか。

 われながらくだらない「発見」だが、『検察官』のゴーゴリの「いたずら」や、チェホフの『かもめ』のチェホフの「いたずら」を知っているだけに、モリエールの「いたずら」も、「いたずら」好きな私をうれしがらせる。

620

 「誰も書かなくなっちゃったわ……真劇を。(舞台に)出てくるのは、くだらないギャグばっかり」

 バーバラ・スタンウィックのことば。ハリウッド黄金時代の大女優のひとり。
 それで思い出した。子どもの頃、私は夏休みは毎日、浅草に遊びに行った。なにしろ、子どもの足で十数分、六区の劇場街に出られる。
 まさか、ガキの私が池のほとりにつっ立って、コイにフをちぎってやるはずもない。

 当時の少年としてはどこの劇場にもぐり込むだろうか。
 剣劇、とくに女剣劇を見物するはずはない。「萬盛座」や「玉木座」、まして「義太夫座」には入ったことがない。それでも「観音劇場」や「花月」にはときどき行った。
 エノケンが出ていれば文句なしだが、「笑いの王国」かオペラ館か、「金龍館」、「江川劇場」。祖母につれられて遊びに行くなら、五九郎か五一郎にきまっていた。ただし、芝居の内容はまるでおぼえていない。

 五九郎、五一郎は、人気が下り坂になってから合同で芝居をうつようになった。五九郎は、背が低くて、頭から毛が離れていた(つまり、ツルッ禿)が、モテることモテること、劇場(こや)を一歩出たとたんに、粋すじから素人の若い娘やら中年増が、黄色い声をあげて押しあいへしあい。たいへんな艶福家で、常時、二号さんから五号さんまでそろっていた。子どもだってそれぐらいは知っていたのである。
 五九郎の舞台には、モトカノの木村 光子、その頃つづいていた若月 孔雀、本妻の妹で、なにやらモヤモヤッとしたウワサの武智 桜子が出ていた。

 芝居の内容がよくわからなくても、子どもの私はおかしくて笑いころげた。

 「江川劇場」の橘 花枝はよくおぼえていない。木村 時子、桂 静枝などが出ていた。ここのシバヤ(芝居)もバカバカしくって、楽しくって。楽しくってバカバカしかった。それはおぼえている。
 今でも喜劇やファルスが好きなのは、こうした芝居を見て育ったからかも知れない。

 まだ、日中戦争が起きていなかった頃のこと。

619

仙花紙(仙貨紙)の本。
 くず紙をすき返して作った質のわるい洋紙で、戦後、印刷用紙がなかった時期に、この仙花紙に印刷された本があふれた。
 今では古本屋でもめったに見かけない。

 三好 一光という作家がいた。おそらく誰も読んだことがないだろう。いわゆる「倶楽部雑誌」の作家だった。作家といっても、無名に近いひとだった。
 「新派」が大阪の歌舞伎座で芝居を打つようになって、たとえば、山本 有三の『路傍の石』、田口 掬汀の『女夫波』と並んで、三好 一光の『戀すてふ』を出した。娘義太夫の世界の「いき」を描いた傑作という。
 当時、山本 有三は大劇作家だったし、『路傍の石』は片山 明彦の主演で映画化されてたいへんな人気だった。
 田口 掬汀は明治末期のベストセラー作家。作家、高井 有一の父君である。こういう作家と並んで、「新派」の芝居(喜多村 緑郎、花柳 章太郎)の初日、三好 一光の前途は洋々たるものだったはずである。だが、『戀すてふ』の上演は、不運だった。

 1937年(昭和12年)7月、一発の銃声が世界の運命を変えた。日中戦争の勃発である。

 戦争中の三好 一光は沈黙を余儀なくされた。ほとんど無名のまま。

 戦後、このひとの消息は友人の鈴木 八郎からよく聞かされた。
 鈴木 八郎も無名のまま終わったが、戦前の「劇作」の人々と親しく、内村 直也先生の門下といってもいい人だった。私よりもひとまわり以上年上で、ホモセクシュアルだった。仲間に、西島 大、若城 希伊子、山川 方夫たちがいた。

 鈴木 八郎も下町に住んでいたが、三好 一光は戦中戦後をつうじて、東京の下町に住んでいた 。
 戦後、二、三冊、小説を出した。仙花紙の本で、たいして注目されなかったと思われる。時代の激変のなかで、三好 一光は俗悪なカストリ雑誌に小説を書いて、かつかつに生活していたらしい。
 いくら戦後のクラブ雑誌、カストリ雑誌の安い稿料であっても、作家が原稿料をもらうのは当然であった。しかし、この作家は、年間、収入がある金額に達すると、それ以上、その年になにひとつ書かなかった。

 この姿勢は徹底したもので、戦後、この作家は、税金を国に払うことをいさぎよしとしなかった。つまり、課税される寸前のところで、その年度の執筆活動を停止する。
 だから、有名になるはずもない。
 こうした姿勢をとった理由を、三好 一光は誰にも語らなかった。どうやら、空襲でおびただしい人命が失われるのを見届け、敗戦という事態で、庶民に塗炭の苦しみをなめさせている国に対する憤りから、下町の隠士として過ごすことにきめたらしい。
 私は、鈴木 八郎から、その暮らしぶりを聞いて、この作家のものを読むようになった。クラブ雑誌の短編ばかりだったが、年季の入った仕事ぶりが感じられた。時代もの、それも情痴小説ばかりだったが、下町の人情、気風を描く、奇特な作家だった。

 奇人といってもよい。しかし、清貧の人といっていいだろう。

 三好 一光を読んでから、私は世に容れられないままに自分の世界を築きあげて行った人たちの仕事に関心をもつようになった。

618

 
 奇人、変人が好きである。

 いつの時代か忘れたが、中国に、赫隆という人がいた。非常な多読であった。それこそ万巻の書を読んだのだろう。
 七月七日の昼ひなか。赫隆さんは家の外に出て、気もちよさそうに昼寝をしていた。
 そこに、友だちのひとりがやってきた。
 「おやおや、赫隆先生。この暑い日ざかりに外に出て寝そべって、いったいどういう了見なんだ?」と訊いた。
 赫隆さんは、気もちよさそうに、薄眼を開けて。
 「いやぁ、おなかの本の虫干しなんだよ」

 夏の日中、読書に倦んで、樹陰に竹の腰掛けか何かを出して、のうのうと寝そべっていたら、さぞ気もちがいいだろうなあ。
 私は赫隆さんのように多読ではない。異常気象で、酷暑がつづいたりすると、本を読む気力もうせてしまう。ただ、ぐったりして、何を考えるでもなく喘いでいる。
 昔は夏が好きだったので、たいてい大きな仕事にとりかかっていた。『メディチ家の人びと』も、『ルイ・ジュヴェ』の、ラテン・アメリカ巡業も、真夏、汗を流しながら書きつづけていた。
 最近、また新しい仕事に集中しているのだが、日さがりの樹陰に竹の腰掛けか何かを出して、のうのうと寝そべっていられる余裕もない。

 七月七日。
 私は牽牛織女の物語よりも、赫隆さんの生きかたを羨むばかりである。

617

 
 十九世紀のイギリス。女性が小説や物語を読むことは道徳に反することときめつけられていたのは、ヴィクトリア時代だった。

 社会通念(イデ・レシュ)なるものが、どんなに脆い基盤の上に立っているものか私たちもよく知っている。

 フランスの銅版画に、うら若い女性が本を読みながら、思わず知らず、性器に手を当てているという構図のものがあって、小説や物語を読むような女は堕落すると見られていた。

 いまの日本の若い女性は本を読まなくなっているだろうか。小説や物語を読んで堕落する女の子などいるはずもない。もはや、小説や物語はそれほどの魅力がない。それに、若い女性がマスターベーションをしたところで誰が非難するだろうか。彼女たちはこの時代のオーガズムを「発見」しているのだ。

 ところで、ポーノグラフィーがいちばん盛んだったのはヴィクトリア時代だった。

616

(つづき)
 さて、いよいよ最後のテストだが、8)「身だしなみに無関心になる」というのも、ボケのはじまりなのか。
 私はまるで身だしなみに関心がない。最近はさすがに着なくなったが、大学の講義はジーンズにアメリカ軍放出のアーミー・ジャケットで押し通した。
 講師控え室には顔を出さなかった。私のような講師はいなかったから。

 私は思い出す。
 戦後すぐに、定年で東大を退任した歴史の教授が私の大学に移られた。渡辺 与助先生である。痩せこけたご老体であった。
 戦後すぐのことで、ヨレヨレの中折れ帽子に、色褪せた上着、縞のズボンはツンツルテン。ズボンのすそと靴のあいだが10センチも離れていた。身のこなしがおかしくて、どう見ても無声映画のキーストン喜劇に出てくるような老人だった。
 いつも分厚な本や資料を数冊、小わきにかかえて、前にツンのめりそうな足どりで、本郷から駿河台までお歩きになっていた。電車賃を節約なさっていたという。
 私は歴史の専攻ではなかったので、直接に先生の講義を受けたことはない。しかし、この先生の著作も少しは読んでいた。
 だから駿河台の坂の途中で、先生を見かけると、いつも挨拶した。
 むろん、学生の私に見覚えがあるはずもない。
 渡辺先生は帽子をつかむと、真上にヒョイっとあげるだけで、そのまま研究室にいそがれるのだった。

 身だしなみに関心をもつ時間も惜しんで研究に没頭していた先生の姿は、戦後の学生だった私に、ほんとうの「学者」のありようというか、あらまほしき姿を教えてくれたといっていい。

 私はボケたせいで身だしなみに無関心になることはない。そもそも、はじめから関心がないのだ。

 さて、9)だが、目下のところ、私は「外出が億劫になる」ことはない。毎日、食料品を買いに行く。ときどき映画を見に行く。芝居は見たいけれど、チケットがなかなかとれないので、はじめから見に行かない。外出しても楽しいことはない。それでも神田の古本屋はまだ歩いている。

 もし、きみたちがどこかで私を見かけたら声をかけてほしい。もし、私が「ボケ」ていたら、さっそく近くの喫茶店に誘ってコーヒーの一杯でもふるまってくれればありがたいのだが。

615

(つづき)
 昭和初期の世代には、いくつか特徴があるという。
 たとえば、ダンスができない。語学ができない。スポーツが得意ではない。女心の機微がわからない。仕事に熱心でも、機械にヨワい。何かの器具を買っても、かんじんの説明書が読めない。
 私もその典型のひとり。私は機械にヨワい。
 だから、説明書を読むのが面倒くさいのではない。読んでもわからないのである。

 つぎに、7)の「理由もないのに気がふさぐ」。
 私の場合、これはあてはまらない。自分では「北方型」の陰鬱な性格だと思っているが、理由もないのに気がふさぐことはない。いつも、はっきりした理由がある。自分に才能がない、とか、失恋するとか、親しかった知人が亡くなるとか。はっきりいえば、この数年、私の心が晴れたことはない。いつも、暗澹たる思いで生きてきた。
 しかし、そんなぶざまを人さまに見せるわけにはいかない。ならば、いくらでもふざけてやろう。どうせなら、世間を茶にして阿呆陀羅経でも歌ってみよう。

 「そもそも、かかる鬱性の原因は、横隔膜のへこみの中に発生したる体液の刺激に起因するもので、その悪性を有するからして、とどのつまりは、オッサバンズス、ネクエイス、ネクサス、ポタリスム、クイブサ、ミルス、となるわけで。」
 モリエール先生の『にわか医者』、「スガナレル」の台詞。

 理由もなくて気がふさぐなら、こんなセリフでもつぶやくほうがいい。
   (つづく)

614

 (つづき)
 さて、物のしまい場所を思い出せない。
 こんなことは、しょっちゅうある。そのかわり、何かをさがしていて、思いがけず、別のものを見つける。おや、こんなものがここにあったのか。
 これはうれしい。
 自分の書いた作品が見つかったりする。へえ、こんなものを書いていたのか。くだらねえものを書いたなあ。また、そのまま放り込む。
 発表しないまま放り出した生原稿が見つかったりする。読む。げんなりする。燃しちまえ。油絵も焼き捨てた。
 4) 「漢字を忘れる」。ワープロを使うようになって、漢字を変換するようになった。ワープロを使うと漢字を忘れるといわれていたが、さいわい私の場合、それはなかった。そのかわり、字を書く機会がなくなって字がへたになった。
 最近、中国の女性が私の漢字を見てほめてくれた。これはうれしかった。

 「今しようとしていることを忘れる」。これもしょっちゅうなので、自分では気にならない。とにかく、何かをしようとしていたことは忘れないのだから。
 今、少し長い作品を書きはじめているのだが、ルネサンス関係の資料を読みつづけているうちに、それがおもしろくなって、自分が書こうとしているテーマも忘れてしまう。
 気分転換のつもりで、昔の本を読む。こんどはそれに心をうばわれて、ルネサンスなんかどこかに消えてしまう。
 為永 春水の『英對暖語』第一編を読みはじめたらおもしろくて、ついつい全部読んでしまった。自分が何を書こうとしているか、忘れてしまうのだから始末がわるい。
 だから、「物が見つからないと他人のせいにする」ことはない。
     (つづく)

613

認知症ケアの一つに、「ボケ予測テスト」というものがあるという。
 1)おなじ話を無意識にくり返す。
 2)知っている人の名前が思い出せない
 3)物のしまい場所を思い出せない
 4)漢字を忘れる
 5)今しようとしていることを忘れる
 6)器具の説明書を読むのが面倒くさい
 7)理由もないのに気がふさぐ
 8)身だしなみに無関心になる
 9)外出が億劫になる
10)物が見つからないと他人のせいにする

 これはおもしろい。さっそく、自分のボケ予測をテストしてみる。

 1)「おなじ話を無意識にくり返す」。たぶんその通り。ただし、自分では気がつかない。聞かされるほうはすぐに気がつく。そんなとき、私の周囲の心やさしい女性たちは、「また、おなじ話をくり返しているわ」と思っても、黙って聞き流してくれるだろう。 もっとも、私はときどき意識して、おなじ話をくり返す。
 「やれやれ、またおなじ話をくり返しているわ」と思っている相手に、「やれやれ、またおなじ話をくり返して話さなければわかってくれないのか」と、思いながら。

 2)「知っている人の名前が思い出せない」。
 私はこのところ「文学講座」めいたものをつづけているのだが、ひどいもので、自分ではよく知っている名前が出てこないことがある。
 『嵐が丘』に出ていた女優さん。えっと、誰だったっけ。オデコの女優さんで、綺麗なヒト。うーん、名前が……出てこない。ほら、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』の妖精とおなじ名前のコ。なんてったっけな」
 講義をおわってから、不意に、マール・オベロンを思い出した。こんなことがよくある。
 先日も、『富士に立つ影』のストーリーを説明しているうちに、「佐藤公太郎」の子どもの「城太郎」が父の仇「兵之助」を、湯島の境内で討ちはたすところで、「公太郎」だったか、「城太郎」だったか、いや「光之助」だったか、自分ではよく知っているはずの名前が思い出せなかった。
 私の講座にきてくれている人たちが教えてくれた。
 私のボケは、この程度に進行しているらしい。
     (つづく)

612

 
 朝、ロシアのニュースを見ていると、思いがけずソルジェニーツィンが出てきた。プーチン大統領が、ソルジェニーツィンに国家最高名誉章か何かを贈った。理由は、反スターリンの姿勢をつらぬき通した作家に対する評価であり、旧ソヴィエト体制の崩壊後の混迷のなかで、ソルジェニーツィンが真のロシア精神の復興を主張しつづけたことによる。(07/6/12)最近のソルジェニーツィンの仕事を知らないので、このニュースは私の関心を惹いた。

 とっさに私が考えたのは、プーチン大統領がソルジェニーツィンに何を見ているのだろうか、ということだった。いいかえれば、現在、プーチンはなぜソルジェニーツィンをあらためて評価しているのか。
 ここでくわしく論じるわけにはいかないが、ソルジェニーツィン受賞には、おそらく、プーチンの内面にひそむドストエフスキーいらいのロシア至上主義が響いている。かんたんにいえば、アメリカ文明の物質的優位に対して、ロシアの精神性の再認識、またはその使命の体現者を、プーチンはソルジェニーツィンに見ているのではないか。つまりは新しいスラヴ思想の再認識ではないかと考える。
 この思想では、ロシア人は、やさしさ、従順、敬意にみちて、キリスト教の理想においても一致している。
 こうした思想から、ドストエフスキーは「ロシアこそヨーロッパ(に対して)の公平無私な兄である」と考える。1876/77年の「作家の日記」に見られる熱烈なロシア民族主義の主張、しかも好戦的な姿勢が、おそらくプーチンにも潜在している。
 プーチンの内面には、ソヴィエト崩壊以後の「手のつけようもない腐敗、精神的な窒息のなかに座して、息もつまりそうになっている」(ドストエフスキーのことば)状態を打破しようとする意欲が脈打っている。それは、すでにソルジェニーツィンにおいて見られたものではなかったか。

 ニュースに出てきたソルジェニーツィンは、きびしい修行を続けた修道僧のように瞑想的な顔をしていた。ただし、無表情で、ビュッフェの描いた道化のような顔にも見えた。 一方、プーチンはこの作家と親しく話ができることがうれしかったらしい。とてもいい顔をしていた。このシーンは私の心に刻みつけられた。

 (このプーチンのニュースを日本の新聞はまったくとりあげなかった。私にはきわめて重大なもの、ロシアの今後を暗示するほどの「意味」があったと見た。しかし、日本のジャーナリズムは、現在、ソルジェニーツィンの受賞に興味をもつ読者はいない、と判断したのか。)

611

 ふと思い出す。詩の一節というか、ある夜明け、眼の裏に映った夢の残像。

    ほとんど裸の女
    その足が 本を踏みつけている
    片隅に <ひとで>
 マン・レイの映画、「ひとで」のオープニング・シーン。原作はロベール・デスノス。1924年、当時はまだ無声映画の時代だった。映画という表現形式に、若い芸術家、詩人たちは大きな可能性を見ていた。

 「アンダルシアの犬」、「秋のメランコリー」、「貝殻と血」。

 若い芸術家、詩人たちにとっては幸福な時代だったに違いない。

 世界の終末が近いと信じた中世の修道僧たちは、まなじりを決して、必死に「悔い改めよ」と叫びながら、街路を走りまわった。その信条、心情に一点の曇りもなかったに違いない。

 若き日のジェルメーヌ・デュラック、ジャン・エプスタン、マルセル・レルビエ、キルサノフ、マン・レイたちも、中世の修道僧たちとおなじような表情をしていたかも知れない。
 今の私にはそれが羨ましい。

610

 「コージートーク」を書く。

 亡くなった亀 忠夫が最後の手紙に書いてきた。

    毎日、あれだけのことを書くのは、たいへんなエネルギーですね。

 そんなご大層なものじゃないよ、亀君。

 毎日、心に浮かぶよしなしごとを、そのときそのときに書きとめる。どれほどのエネルギーが必要だろうか。
 あとになって、ほう、あの頃はこんなことを考えていたのか、とか、あい変わらず、くだらねえことを書きやがったなあ、とか、そんなふうに思えるだけでいい。
 だから、ほとんど推敲もしない。
 はじめから、いい文章を書こうという気もない。推敲したところで、いい文章になるはずもないし。

 だが、この「コージートーク」を読んでくれるきみは、わかってくれるかも知れない。
 私のかてになるものは、わずかな思い出にすぎない。
 それでも、過去はすべて語りつくされたわけではない。
 私たちに、現在がある、ときみはいうだろうか。それはそのとおり。しかし、私たちの現在は、それぞれ違った、それぞれに遠くへだたった現在にすぎない。

 こんなものを書いているとき、私はかつてないほど、自分がスタンダールや、ルイ・ジュヴェに近いと感じている、と。

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 「文学講座」めいたものを続けている。

 たとえば――ヴォルテールは、20世紀の読者が『カンディード』を読むなどということは考えもしなかったろう。
 その一方で、『ザイール』が上演されないと知ったら、ひどく驚くにちがいない。
 ボードレールは、後世、自分の詩が読みつがれているばかりか、研究者たちが、自分の詩の一行々々まで克明に分析したり、自分とジャンヌの性生活まで調べあげられるとは夢にも思っていなかったはずである。
 スタンダールはまったく売れない作家だったから、自分を理解してくれるはずの「幸福な少数者」のために書いたといっていい。しかし、彼の『赤と黒』や『パルムの僧院』は、世界じゅうで読まれている。
 そのスタンダールは、昂然として書いていた。ラシーヌの生命は終わった、と。
 しかし、「コメデイ・フランセーズ」は、いまでもラシーヌを上演している。

 日本の作家は……いや、よそう。

 そういえば、『神曲』について、ヴォルテールが語っている。「世界でもっとも有名で、もっとも読まれない名作」と。
 どこの国の文学史にも、こうした「お笑い」がいっぱいつまっている。