688

 私はベストセラーを読まない。というより、その本がベストセラーでなくなってから、ゆっくり読む。

 アメリカのベストセラーとおなじことで、その作品がベストセラーでなくなってから読むのだった。ある時期のベストセラーを調べれば、その時期のアメリカの姿がはっきり見えてくる。
 ベストセラーの歴史は、そのまま20世紀のアメリカ文化史と見ていい。

 もともとベストセラーという名詞自体がアメリカの新造語だった。
 1897年、アメリカの雑誌「ブックマン」が新刊紹介と、その時期に売れ行きのよかった本をリストアップして「ベスト・セリング・ブック」と呼んだことにはじまる。
 これが作為名詞 agent noun の「ベストセラー」になったのは、20世紀に入ってからで、アメリカの資本主義の発達に関係がある。
 ジャーナリズム発達史の一側面とも見られるようになった。

 第一次世界大戦が起きた時期から1926年(大正15年)までに、日刊紙は2580から2001に減少している。
 日曜新聞の数も、571紙から541紙に減少しているが、発行部数は、2800万部から、3600万部に急増している。
 かんたんにいえば、読者層が飛躍的に増大しつづけていた。そういう読者たちは、ベストセラーに飛びつき、同時に、読者の欲求が、いつの時代でも「ベストセラー」を生み出して行った、といえる。

 ベストセラーは大別して、小説とノン・フィクションにわけられる。

 ノン・フィクション部門の「ベストセラー」は、さまざまな分野の有名人をとらえた伝記もの、実録もの、実用書、ありとあらゆる非小説を包括する。
 私の少年時代には、ピトキンの『人生は四十から』とか、ホグベンの『百万人の数学』といったベストセラーものを、父が読んでいた。
 その後、ヴァン・ルーンの『人間の歴史』、カール・サンドバーグの『エイブラム・リンカーン』などと並んで『クロスワード・パズルの本』(1924年)が、75万部、世界的な統計では300万部、売れていた。

687

 駿河台の近く、猿楽町の中学に通っていた。その後、戦後になって駿河台の大学で講義をつづけていた。私は今でも月に二、三度、駿河台下、神保町からお茶の水界隈を歩いている。
 「山ノ上ホテル」にもあまり立ち寄らない。スタッフがすっかり変わってしまった。好きな喫茶店は「クラインブルー」。「壱番館」。
 洋書の「北沢」、「松村」、和書の「一誠堂」、「小宮山」にはかならず寄って本の顔を見る。ただし、小川町、神保町でイタリア語の本を買わなくなった。

 人生の大半をおなじ土地で過ごしてきた。すっかり変わってしまった駿河台、お茶の水界隈を歩きながら、つまらない人生だったなと思う。
 それでも、ほかのどこの場所より、私にとってはなぜかノスタルジックな土地なのである。

 明治初年の頃、お茶の水南側の一帯が紅梅町。いまの「丸善」のあたりは幕府直属の伊賀者の長屋。「杏雲堂」の病院の横に、大久保彦左衛門の屋敷跡。

686

 神田、駿河台。

 昭和初期の高座で、駿河台を「あたり台」といった落語があったらしい。実際には聞いたことはない。最近、引退してしまった円楽ではなく、たしか、先代の三遊亭 円楽がやった。

 時は明治20年代。自動車もない時代。人力車が走っていた。

 客は、ネコ。ネコといっても動物の猫ではない。芸妓のこと。車夫が行き先を聞く。芸者の世界にかぎったことではないが、忌みことばがある。車上のお姐さんが、行き先をいわない。
 「わからないかねえ。ほら、神田の高いところだよ」
 車夫はいろいろと土地の名前をあげるのだが、お姐さんもいろいろと手真似でせつめいしようとする。
 とうとう姐さんが、じれったがって、
 「車屋のくせに、ほんと、カンがにぶいねえ。ほら、鎌倉河岸がら右に入って、ずんずん行くと・・」
 「ああ、ヤソのお寺のあるあたりですかい」
 「そっちじゃないの、右にいったら、こんどは左」
 さあ、わからない。
 最後になって、お姐さん、ハタと膝を打って、
 「ほら、アタリ台だよ!」
 車屋が、なるほどと合点して、
 「ああ、お出の水の下でござんすか」

 この落語、新橋か赤坂の芸者の実話という。
 「する」(損をする)という言葉を避ける。お茶を「お出花」、「上がり花」という。この二つを使った落語。

685

 
 マリア・グレギーナは、旧ソヴィエト末期に登場しているが、少し先輩のリューバ・カザルノフスカヤとともに、私の好きなオペラ歌手。旧ソヴィエトが崩壊してから、世界的に知られる。

 1991年に「サントリーホール」のコンサートで、「デズデモーナ」、「レオノーラ」を歌った。当時、ソヴィエトが破局的な状況にあったとき、マリアの姿にロシアの未来を重ねてみた人も多かったのではないだろうか。
 私は、新国立劇場のコケラオトシで、『アイーダ』を見た。これは、フランコ・ゼフィレッリの演出だった。これを見たときの印象はまだ心に残っている。ゼフィレッリ演出とマリアについて、私の『ルイ・ジュヴェ』に書きとめてある。

 『マクベス夫人』(スカラ座)は、衛星放送で見た。
 マリアの「マクベス夫人」が、そこには存在しない亡霊を見すえるとき、自分ではなぜ亡霊があらわれるのか想像もできない状態を経験しながら、まるで彼女自身が存在していない場所からやってきたように見えた。いくら洗っても洗っても、掌についた血は洗い落とせない。このとき、私たちの恐怖が、そのシーンを演じ、私たちの夢がその恐怖をまざまざと現出するのだ。
 リッカルド・ムーティの指揮がすばらしかった。

 友人が亡くなったとき、いつも音楽を聴く。生前の彼が愛していた(と思われる)音楽を選ぶようにしているのだが、わからない場合は、自分が勝手に選んで聴く。

 この夏、亀 忠夫が亡くなったとき、私はモーツァルトを聴いた。
 そして、つぎにマリア・グレギーナを選んだ。オペラではなく、もう誰も聞かないロシア・ロマンスを。

684

 
 久しぶりにマリア・グレギーナを聴いた。
 オペラではなく、ロシア歌曲であった。

   きみといっしょにいて
   黙って きみの 瑠璃色の眸(め)に
   心を沈めるのは なんとたのしいことか

 ルィンジンの詩、グリンカ作曲。

   私はあのすばらしい一刻をおぼえている
   私の前に きみはあらわれた
   たまゆらの 幻のように
   聖らかな 美の化身のように

 プーシュキンの詩。私は、自分の「たまゆらの 幻」を思い出す。

   一生のうちに ただ一つの幸福に
   めぐり逢うのが 私のさだめ
   その幸福は リラの花のなかに住んでいる
   みどりなす その小枝
   なよたけの 香り
   ここに 私の幸せが花ひらく

 これはチャイコフスキー。詩はE・ベケートワ。

683

 私の趣味(?)は焚き火だった。

 ネコの額ほどの庭があって、わずかながら樹木、花などを植えている。秋になると落ち葉がたまる。それを箒で掃きあつめる。
 家の前の道路に、サルスベリ、ツタ、ツバキなどの枯れ葉を盛り上げる。古新聞に火をつけて燃やす。水分をふくんだ枯れ葉はいぶって、白い煙があがる。サツマイモを二、三本、アルミ・ホイルにくるんで放り込む。火のそばにつきっきりでヤキイモができるのを待っている。

 やむを得ない事情で、家を新築した。私の蔵書は、さる図書館三つに、それぞれ寄贈したり、古書店に売り払った。

 レンガ作りで、直径3メートル、深さ、60センチほどのまるいかたちの池に、キンギョ、コイ、メダカなどを飼っていたのだが、家を新築するので、ブルドーザーがきてこわすことになった。サカナたちを、近くの公園の大きな池に放してやって水を抜いた。
 ブルドーザーがくる前に、ここで、いろいろなものを燃した。池は、たちまちゴミ焼却場になった。

 手あたり次第に、原稿や、自分の手もとに残った校正のコピー、女の子たちからの手紙、芝居の演出ノートなどを火のなかに投げ込む。いらない原稿ならいくらでもある。自分の原稿を焼き捨てる快感はなかなかのものだった。
 なかなか燃えないときは、手あたり次第に、書き損じの原稿や、へたくそなデッサンを引き裂いて火をつける。紙屑ならいくらでもある。
 油絵やアクリルで描いた絵は、みんな焼き捨てた。
 アメリカの大学生たちが卒業式を終えたあと、校庭に出て、いっせいにテキストや、答案を燃して、放歌高吟するファイアーストームの気分に近いものがあった。

 まだ、公害がそれほど切実な問題になっていなかったから、こんなことも許されたのだろう。
 しかし、地球の温暖化に私もほんのわずかながら責任があるかも知れない。(笑)

 だから、焚き火もしなくなった。

682

 やがて幕府は倒れて、明治新政府が登場する。
 軍服や、太政官、官吏の制服がきめられたのが明治三年。公式の服装が洋装になったのが、明治五年。翌明治六年に断髪令が出て、ザンギリ頭が出現する。
 明治十六年に、当時の日本が苦しんでいた不平等条約の撤廃をめざして、鹿鳴館が作られた。いわゆる文明開化の時代であった。
 こうした日本人に対して、アメリカ人たちは、あからさまな模倣に眉をひそめた。アメリカ人にかぎらず、日本人が外国の文化の模倣ばかりしていて、さる真似の天才と見た人は多い。

 「もの真似の習慣がいま急速に日本に広まっている。これは在日外国人なら誰でも証言できると思う。

 日本製の生地で作ったヨーロッパふうのドレス、紐もなく黒く染めてもいないブーツ、ズボン吊りもボタンもついていない、だぶだぶのズボン。数多くのいかさまなブーム。
 こうした光景は、日本以外では見かけることはできないだろう」
 これは、明治二年十二月、在留アメリカ人の新聞に出た記事であった。

 今でも日本人に対して、こうした批判はあとをたたない。
 だが、冷静に見るがいい。今、アメリカではインド製や韓国製の「ヨーロッパふうのドレス」が氾濫しているし、「紐もなく黒く染めてもいないブーツ、ズボン吊りもボタンもついていない、だぶだぶのズボン」は、世界じゅうのファッションになっているではないか、などと野暮はいうまい。
 ただ、ここに見られる、日本人に対するいわれない蔑視には私たちも注意していたほうがいい。

 「彼らの洋服を着るマナーを見ると、スカートをはいたサルを思い浮かべざるを得ない。その行為になんらの美徳もなく、ショー・アップしたいという気もちだけなのである。グロテスクな身なり。外国人の衣服を着ることは、人形のパーティーとしかいいようがないではないか」
 これは明治三年に「アメリカ領事館公式機関紙」に掲載された記事の一節。

681

 さて、幕末の日本人は何でも見てやろうと思った。
 勝 海舟の咸臨丸がアメリカに行く。いろいろなものを見た。
 加藤 素毛の「夜話」にいわく、
 「其刻夜行して市俗を察(み)るに、至て静穏なり、妓楼を除くの外(ほか)、行歌の者なく、会飲する者曽(かつ)てなし、昼夜共に触売(ふれうり)の声を不問(とわず)、雖然男女の淫行甚厚く、街々の軒下或ハ、道路にたたずみ、又は野合し、傍人これを見懸(みかけ)るとも恥る色なし、惣(そうじ)て婦人は人に馴(なれ)易く、男子を見て喜ぶ風(ふう)あり」
 サムライが驚くのも無理はない。世態人情、風俗習慣の違いは、これだけの記述からもうかがえるのだが、「しかりといえども男女の淫行はなはだ厚く」という部分など、儒学教育を受けてきた加藤さんには、さぞ眼の毒だったろう。
 なかには、もっとおもしろい経験をした人もいる。ある大きな家にまぎれ込んでしまって、
 「其家ノ様子ヲ見ルニ、常体ノ商家トハ大ニ異ナリ、依テ楼上ヲ見シハ、年齢十六七ヨリ廿二三迄ノ婦人ノミ集テ何ヤラ唱歌ス、其女子又平人ヨリ風俗アシク見エ、依テ諸同遊初テ疑ヲ発シ・・」
 あわてて聞くと、これはホアハウス(妓楼)というので、一同大いにおどろき、暫時たりともこの家にあるときはその罪重かるべしと、ほうほうの態で逃げ出す。
 これは福島 義言の「花旗航海日誌」に出ている。

680

 
 ここで、ペリーのことにふれておこう。
 ペリーが再度来航したのは1854年で、このとき日米修好条約が結ばれた。
 その第一条は、
 ……日本と合衆国とは其人民永世不朽の和親を取結び場所人柄の差別無き事
 となっている。

 日本とアメリカの最初の条約の冒頭に、国籍や人種の違い、つまり差別をしてはならない、ときめられていることはやはり感慨深い。
 ペリーは、幕府当局に汽車の模型、ダゲレオタイプの写真機、電信機一式、時計、望遠鏡、測量器具などを寄贈した。幕府側は返礼として、漆器、反もの、陶器類を送ったが、このプレゼントの交換も日本とアメリカの違いをたくみに象徴している。
 模型ではあったが、ペリーの贈った汽車や、写真機、電信機、時計、望遠鏡、測量器具などは、まさに先進国のものだった。だが、現在、日本の鉄道は、世界で最高の正確さ、速度を誇っているし、写真は日本が完全にアメリカを越えている。時計や通信機器、はては宇宙衛星の利用による測量技術、ハイ・テクノロジーの面でも、日本はアメリカに劣らない。記憶素子の生産についても、日本は、アメリカを凌駕しようとしている。これもまた感慨深いものがある。

679

 幕末に、江戸、吉原の遊女、桜木が、

  露をだにいとう大和の女郎花(おみなえし)
     ふるあめりかに袖はぬらさじ

 という歌を詠んだ。
 日本の女性の心意気を見せたという。

 この歌は、横浜の傾城(けいせい)、花扇の辞世という説もあって、ちょっと信用できない。是枝 柳右衛門という人の日記によると、十六夜(いざよい)という下関の遊女が、アメリカ水兵と寝るのを拒否して、

  かずならぬ身も日の本の女郎花
     ふるあめりかに袖はぬらさじ

 と詠んだという。

 こうした歌に、遊女の真情があらわれていたにしても、当時の尊皇攘夷派が反アメリカ宣伝に利用したにすぎない。
 ただ、幕末から日本人はいつもアメリカを意識しなければならなくなったのだった。

678

(つづき)
 サラ・ブライトマンが「エビータ」をカヴァーしている。「ジーザス・クライスト・スーパースター」をロシアのリューバ・カザルノフスカヤがうたっている。これまた堂々たる歌唱力で。サラの「エビータ」は、いささか宗教音楽のような清純さを感じさせるが、リューバのほうは、かなりねっちりした感じがある。イタリア語と、ロシア語の違いだけではなく、ソプラノとしての資質の違いまで想像させる。

 私はリューバのファンだが、おなじ「ジーザス・クライスト・スーパースター」なら、ブロードウェイ・オリジナル・キャストのイヴォンヌ・メリマン(ハワイ出身)のほうがずっといい。

 艾 敬(アイジン)が、加藤 登紀子の「川は流れる」を「河在流」として、沖縄の「島唄」を「島上」として歌う。
 フェイ・ウォンが、まだシャーリー・ウォンだった頃のCDを聞いて、はじめてアジア・ポップスに関心をもったが、フェイ・ウォンは中島 みゆきをカヴァーして、一躍、人気を得た。
 もう、誰の記憶にも残っていないだろう。

 やや遅れて、田 震(ティエン・シン)が、吉川 晃司をカヴァーして、歌手として大きな展開を見せるのだが、もう誰もおぼえていないだろう。

 ただ、私は考える。いま、日本のポップスをカヴァーする歌手がどこかにいるのだろうか。
 

677

 
 ある歌手の「歌」を別の歌手がうたう。カヴァー。「元歌」が流行しているときは、あまり関心をもたないが、しばらくして別の歌手がカヴァーしたものを聞いてみるのが「趣味」なのだ。たとえば、・・・

 ヴェトナム系のイーランが、エディト・ピアフの「ラ・ヴィー・アン・ローズ」をうたっている。ヴェトナム語で。これがすばらしい。越路 吹雪のカヴァーなど、可哀そうだが比較にならない。
 イーランは、日本ではほとんど誰も知らないだろうと思う。しかし、かつてのフランスのシャンソンのあまやかな美しさが、イーランの、美しい声のもつすばらしいフラグランスは、私を惹きつけてやまない。

 台湾の張 恵妹(ア・メイ)が「タイタニック」や、「ボデイガード」の主題歌を歌っている。セリーヌ・ディオンとはまったく別のものだが、ア・メイが、アジアの最高の歌手のひとりであることがわかる。
 彼女の歌う「マンマ・ミア」や「Ain’t no Sunshine」のみごとなこと!
 ア・メイとおなじように、「タイタニック」のテーマをサラ・ブライトマンがカヴァーしている。イタリア語で。たいへんな美声だが、私はア・メイのほうが好きだ。
   (つづく)

676

 私は、小島 なおのファンである。
 東京生まれ、20歳の歌人。

    暗闇に椅子置かれあり一脚の椅子であるという自意識もちて
    英単語書き並べいる青ペンの滲んだところノートに夏が
    地底にも夏はきにけり雨粒の滲みて溢れている音がする
    「星の王子さま」読み終えてうわばみがわたしのうちに棲みはじめたり
    踏み切りのここでお別れ真夏には断片的な思い出ばかり

たいていの子どもが、ある時期、ノートに詩のようなものを書きつける。やがてそういう時期があったことも忘れてしまう。以前と変わらないが、たいていの女の子は、ただ綺麗なだけで、頭のカラッポなオンナになって行く。
 小島 なおは、そうはならずにこのまますぐれた歌人になってゆくだろう。
 ただ、目下の彼女にないものは、幻想、残酷さ、ヒューマーなどである。資質的に、そうした要素をもたないのかも知れない。もし、そうだとすると、彼女は、もうひとりの『サラダ記念日』の歌人として知られるだけのことになる。

 私としては、彼女が挫折することなく、その感性と才能が、じゅうぶんにのびてゆくことを願わずにいられない。

675

(つづき)
 中尾さんによれば――
   その一九四九年であるが、富士(正晴)は一〇月二〇日に出発、二九日に帰阪している。この一週間あまりの滞在中、原 通久と富士 正晴のあいだに応酬があったのは、富士の手帳に<ランボオ>(午後三時)スルガ台下/コレ以後1時スギ/佐々木、本田、/山室)と記された一〇月二五日のことと見ていいのではないだろうか。

 中尾さんは、私の手紙によってこう推測なさっている。私としては、これで間違いないと思うけれど、それでもあらたに疑問が浮かんできた。

 <ランボオ>(午後三時)という記述と、富士 正晴が会った人々のことである。
 ふたたび、中尾さんのエッセイを引用しよう。

   林哲夫の『喫茶店の時代』によれば、神田神保町の昭森社ビル一階で開業されていた「らんぼお」は、(昭和二十四年の四月頃、<潰れ>、また、中田耕治の手紙に出る「ラドリオ」は、<昭和二十四年>に<狭い露地を挟んで>昭森社ビルの<向かい>に開業したとのことである。                  一九四九年秋の富士 上京には、すでに「らんぼお」はなく、一〇月二五日の富士手帳にでる<ランボオ>は、<ラドリオ>と見てよさそうだ。(誤記であるか、場所の勘違いであるか分からないが。

 <ランボオ>は、もし戦後文学史などというものが書かれるとすれば、その一ページを飾る喫茶店だが、昭森社ビルなどというと、コンクリート建築の堅固なビルを想像するだろう。実際は、その界隈にめずらしくない仕舞家(しもうたや)の作りで、外側に西洋風の窓、入口が扉という、よくいって和洋折衷の、じつにちっぽけな喫茶店だった。
 この<ランボオ>を経営していたのが、神田のバルザックと称された昭森社の社主で、<ランボオ>の二階、八畳間に、いろいろな出版社が机ひとつ置いて間借りしていた。
 「近代文学社」は、その階下、つまり<ランボオ>の入口の隣り、せいぜい三畳ぐらいの小部屋を借りていた。
 なにしろ狭いので、執筆者、他社の編集者がくると、すぐに<ランボオ>に案内する、という状態だった。
 ある日、ここに美女があらわれた。武田 百合子である。いろいろと恋のさや当てがくりひろげられたが、ここに書く必要はない。
 <ラドリオ>は、当時の島崎書店のすぐうしろの路地を入って<ランボオ>の斜め前。<ランボオ>からほんの数歩。
 島崎書店のすぐうしろの路地だが、<ラドリオ>までほんの十歩。いつも陽のあたらない路地なので、足もとがジケジケ湿っていた。<ランボオ>にどこかの編集者がきていて、別の編集者と打ち合わせる場合、<ラドリオ>を使うことになる。
 だから、富士 正晴が午後3時に<ランボオ>にいたとして、<ラドリオ>に移り、また<ランボオ>に戻ったとしても不自然ではない。
 なぜ、<ランボオ>ではないかというと、<ランボオ>は、店の中央に大きな(正方形に近い)テーブルがあって、横に長いテーブルは置いてなかったからである。

 私の記憶では、入口にちかいほうから、右側に、原 通久、平田 次三郎、本多 秋五、佐々木 基一、埴谷 雄高、荒 正人、山室 静。
 それと相対して、(入口にちかいほうから)安部 公房、中田 耕治、富士 正晴、野間 宏、中村 真一郎、椎名 麟三とならんでいた。

 いまになって、このときの話を記録しておけばよかったと思うのだが、いちばん後輩だった私は、そうそうたる文学者のやりとりについて行くのがせいいっぱいだった。荒 正人と中村 真一郎は、それこそ談論風発で、野間 宏は何もしゃべらない。本多 秋五がときどき何かいう。佐々木 基一が熱心に石川 淳の話をする。埴谷 雄高は座談の名手。うまくこの場の空気をもり立てるのだった。富士 正晴は、あまり発言はしなかったと思う。
 雑談のなかで、原 通久がまっすぐ背をのばして笑いながら「VIKINGと近代文学とどっちが後までつづきますかねえ」とたずねた。
 富士 正晴が書いている。「とにかく最後にはなはだ疑わしそうな微笑をうかべ、私の顔を見おろしながら『どうですかね』といった。」
 これはあり得ない。原は、長身の美男だから、富士 正晴の顔を「見おろしながら」話ができたと思う。私は、小柄で、誰よりも身長が低かったし、「VIKING」という雑誌がどういう雑誌なのかさえ知らなかった。

 一時間ほどたって、私は安部 公房といっしょに外に出た。当時、私は「世紀の会」を作るので、安部 公房とその相談で頭がいっぱいだった。そのとき、安部がにが笑いしながら、「原のやつ、なんで富士 正晴にあんなことをいうんだろう」
 私も同感だった。
 たとえば、「世紀の会」が「近代文学」と、どっちが後までつづくのか。そんなことは考えもしなかったから。原としては、戦後文学の旗手というべき「近代文学」の編集に携わっているという気負いがあったのか。

 しばらくして「世紀の会」は発足した。しかし、はじめての会合に出たあと、体調がよくないので、「世紀の会」にも出られなくなった。私の挫折であった。

 <ランボオ>は閉店すると、そのまま「ミロンガ」という、これはラテン・ミュージックの店になった。
 私は「ミロンガ」になってから、この路地に足を向けなくなった。

674

(つづき)
 戦後すぐに「近代文学」の人々と知りあった。1948年春までは、毎週のように「近代文学」の事務所に顔を出していたが、「『近代文学』の編集を手伝っていた」こともなかった。1948年、肺浸潤が進行して、寝込むことが多くなっていた。原稿を書いても発表できる場所がなく、前途に不安をおぼえていた。(安部 公房といっしょに「世紀の会」を考えたのも、とにかく原稿が発表できる場所を作ろう、というのが動機だった。)
 私が富士 正晴に出会ったのは、1948年か、49年か、じつは思い出せない。1948年ではなかったはずである。後年、「1948年夏まで」と題して、当時の私にあてた先輩たちの手紙を「近代文学」(終刊号)に発表した。その当時(1948年夏まで)のことを思い出しても、富士 正晴とは面識がなかったと思う。

 うかつな話だが、当時、私は「VIKING」という同人雑誌の存在さえも知らなかった。野間 宏とは親しくなっていたから、富士 正晴を紹介してくれたのが野間 宏だったことは間違いない。

 当時「近代文学」の編集を手伝っていたのは、もっとも初期に、神谷さんという若い女性だった。(後年、画家、フランス人形の研究家として知られる。)彼女が結婚したあとで、村井さんという女性が入り、さらに、中村 真一郎の遠縁の松下さんという女性が加わった。(後年、作家の三輪 秀彦夫人)。
 1948年春あたりから、宮田君(後年、児童書の翻訳、ユニ・エージェンシー)が、実務にたずさわり、やや遅れて、平田 次三郎の紹介で原 通久が入った。
 原は作家志望だった。

 中尾さんのエッセイで、50年代(おそらく1954年)に、「VIKING」の木内 孝さんが「近代文学」の編集をなさっていたというが、私は木内さんを存じあげない。「俳優座」養成所の講師になったため、「近代文学」の人々から離れて、芝居の世界にのめり込んでいたからである。
    (つづく)

673

 作家の富士 正晴が、「文学」(1967年2月号)に書いたエッセイがある。

   十何年か前になると思うが、当時「近代文学」の編集を手伝っていた中田耕治と東京の多分、神田のどこかで出会った時、中田耕治が笑いながら「VIKINGと近代文学とどっちが後までつづくとおもいますか」とたずねた。わたしは「それはVIKINGやね」と答えた。「何故ですか」と中田耕治が更にたずねたかどうかは忘れてしまったが、もしたずねたとしたら、「VIKING」が「近代文学」より無思想で、ずぼらであるからだと答えたかも知れない。
   とにかく中田耕治ははなはだ疑わしそうな微笑を浮べ、わたしの顔を見おろしながら「どうですかね」といった。中田耕治は「VIKING」が「近代文学」がもう任務は終ったという宣言と共に廃刊になった後もつづいて出るなどということは想像しなかったと思う。

 このエッセイを読んだとき、私は少しとまどった。富士 正晴が、私のことをこういうかたちで記憶している。富士 正晴が書いたのだから誰でもこの記述を信じるだろう。
 困ったなあ、と思った。しかし、反論するほどのことではないし、それっきり忘れてしまった。

 2003年1月、思いがけない人から手紙をいただいた。中尾 務という方で、富士 正晴の研究家だった。
 手紙の内容は――中田 耕治が富士 正晴に、「VIKINGと近代文学とどっちが後までつづくとおもいますか」と訊いた時期、場所を教えてほしい、というものだった。
 この手紙を読んだときは、ほんとうに驚いた。
                           (つづく)

672

 しばらく前に、小林 一茶についてふれた。
 一茶は八歳の女児が、妊娠、出産したことを日記に書きとめている。この俳人が、なぜこうしたニュースを書きとめたのか、私は不審に思った。

 偶然だが、ある著作にとりあげられていることを知った。
 候文なので、読みやすいように、段落、句読点をつけて紹介しておく。

   下総の国、相馬郡、藤代宿・・・土屋侯領分・・・百姓、忠蔵といふものの娘、八才にて男子を生む。母子つつがなし。御代官、吉岡次郎左衛門より届出。
   右、忠蔵儀、私当分預かる所、常州(常陸/ひたち)筑波郡、城中村、百姓、忠兵衛次男にて、久右衛門叔母、かな(の)婿養子に相なり、同人(之)娘、よのと夫婦に相なり、八ケ年以前、女子出生。
   とやと名付け、育て置き候うち、四才の節より、同人(とや)儀、月水に相なり、実事(じつごと)とも存ぜず、病気と心得、薬用いたし候へども、其詮これなく、不思議と存じ居り候うち、

   当、正月頃より月水止み、三、四月頃より、懐妊の体(てい)に相見え候へども、小児の儀、ことに密通などの様子かつて見聞におよばず、

   何にても幼年の者の所業に相替わる儀これなく候あいだ、これまた病気の所為と存じ、打ち過ぎ、月重り候ても同様ゆえ、不安につき、医師相呼び、とくと次第をも咄(はなし)し聞け候上、見させ候ところ、懐妊に相違なしと申し聞け候へども、

   聊(いささか)も色情の体(てい)これなく、八才の小児、懐妊すべき様これなく、いずれにても信用いたしがたく、しかし、医師も其の通り申し聞け候に付、疑惑仕(つかまつ)り候。

   所々にて占わせ申し候ところ、狐狸の業、または懐妊にこれあるべきなど種々(くさぐさ)の判断いたし、一様にこれなく、旦夕、神社の加護を祈り候ほか、他事なく相過ごし候うち、

   当、三日、六ツ時、安産いたし候。家内一同、驚き入り申し候。ことに男子にて丈夫に御座候。
   其節より乳も沢山出申し候とか。
   八才には見増し、十才くらいには見え、芥子坊主に御座候。右は御用ついでに手代ども見聞の趣、書面の通りに御座候。

 これは、原 武男著『奇談珍話 秋田巷談』による。

 八歳の女児が、妊娠、出産したのは、文化九年(1812年)九月三日である。
 信州在の一茶は、この噂を日記に書きとめている。

 秋田藩の俳僧、松窓 美佐雄の選で、「たまげたたまげた」に付けた一句、

    子を生んだ娘は 柿とおないどし

 がある。嘉永三年の作。
 「柿とおないどし」というのは、「桃栗三年、柿八年」を踏まえている。文化九年(1812年)から嘉永三年(1850年)、この事件はひろく人口に膾炙したものと思われる。セックスにかかわるこうした奇事が、私たちの性意識にどう影響しているのか。
 こうしたウワサの伝播が、どういうふうに私たちの感性に根づいてゆくのか。

 一茶が日記に書きとめたのは、好奇心からだが、あらためてホモ・エロティクスとしての一茶に、私は注目する。

671

私の「文学講座」にきている女の子から、おもいがけない知らせをもらった。
 声帯をいためて、医者に「仕事以外ではなるべく声を出さないように」といわれたという。心配した。

 さいわい、もう病院通いをしなくてもすむらしい。

 女の子といっても、剣道三段。しかも、熱烈なシャーロッキアン。マンガ、アニメを語らせれば他の追随をゆるさない。
 この夏、きっと甲子園か世界陸上、声をからして声援したか、「アリオン」、「オリジン」から「デスノート」(完全決着版)まで徹夜で読みふけったせいだろう。
 せっかくの美声が聞けないのは残念。

 すぐにお見舞いを出した。赤塚 不二夫の「ウナギイヌ」が半欠けの月を見ている絵ハガキ。

    名月や とはいふものの 籠見かな

 じつは、一茶の句のパクリ。原作は、稲見かな。
 この句では「や」と「かな」を重ねている。切れ字の重なりは、俳句でもっとも忌むべきものとされている。一茶が知らないはずはない。それを承知の上で、一茶は使っていると見てよい。このあたりに、一茶の傲岸を見る人もいるだろう。
 私はむしろ、一茶が世の常識を踏みやぶって、ささやかな反骨ぶりを見る。

 ゆかりさん、はやくよくなってください。

670

 友人の竹内 紀吉は、私の顔を見るとすぐに切り出す。
 「先生、・・・・をお読みになりましたか。あれはいい作品ですねえ」
 私たちの話はいつもそんなふうにはじまるのだった。

 その作品に不満があっても、私はたいてい黙っている。彼の批評を聞いて、はじめて自分の判断が誤りだと気がつくことがあるから。
 私が不満をもっているのに、作家がまるで不満をもっていないことがわかるような場合、私はたいてい黙って彼の批評を聞いている。そして別の作品に話を移す。

 こっちが満足しているのに、作家としては、けっして満足していないらしいことがわかるような作品。そういう作品に対しては、私は極力ほめるようにする。

 そうなると、竹内君はちょっと不満そうな顔をするのだった。

 竹内 紀吉が亡くなって、もう三周忌になる。

(注)竹内 紀吉(元・浦安図書館長。千葉経済大・教授)
   ’05年8月23日、急逝。

669

 井上 篤夫が、イングリッド・バーグマンについて書いていた。(「週刊新潮」07.9.6日号)とてもいい記事だった。

 「ある日、プールのベンチに腰かけていて涙があふれてきたことがあるの。何不自由のない暮らしなのに満たされない。胸が張り裂けそうでした。」

 井上君は、バーグマンのことばを引用して、

 「女優としてじつに3度のオスカーに輝いたバーグマン。そのバーグマンにして、そうした問いかけを胸の内で反芻していたという事実は、私の心を静かに打つ。」

 このことばから私は別のことを想像した。

 バーグマンは、スクリーンだけでなく、どこでも男の注意を一身にあつめる。ハリウッドでも、ローマでも、パリでも。
 世界的なスターだから当然なのだが、彼女自身も、ある時期まではそういうことを楽しんでいたに違いない。なんのために? べつに目的があったわけでもないだろう。ほんの一瞬のよろこび、ほんの少しでも男性の関心を喚び起そうとする快楽。女優でなくても、たいていの女は、人生をつうじて、そうしたよろこびをいつも気にかけている。
 だが、女優にはいつかかならず、そうしたことが許されなくなる時期がやってくる。いわば、自分の魅力が無残に自分自身を裏切るような瞬間が。

 それこそがひどく孤独な瞬間として、立ちはだかってくる。プールのベンチに腰かけていなくても涙があふれてくるだろう。それは、ことばではつたえられないほどの孤独感だったに違いない。

 きみはいくつなの、マリアンヌ? 十八歳? ひとに愛されるのはあと五、六年。きみがひとを愛するのは、八年か、十年。あとは神に祈るための年月……
 これは、ミュッセの芝居に出てくる。
 私は、マリリン・モンローが死ぬ十日前に、「ライフ」のインタヴューで語っていたことばを思い出す。
 バーグマンもマリリンも、女としてのぎりぎりの声をあげていた。それを思うと、なぜか、いたましい。

 むろん、女優でなくても、こうした瞬間は誰にでも訪れるかも知れない。しかし、ラッキーなことに女はたいていすぐに忘れる。