(つづき)
中尾さんによれば――
その一九四九年であるが、富士(正晴)は一〇月二〇日に出発、二九日に帰阪している。この一週間あまりの滞在中、原 通久と富士 正晴のあいだに応酬があったのは、富士の手帳に<ランボオ>(午後三時)スルガ台下/コレ以後1時スギ/佐々木、本田、/山室)と記された一〇月二五日のことと見ていいのではないだろうか。
中尾さんは、私の手紙によってこう推測なさっている。私としては、これで間違いないと思うけれど、それでもあらたに疑問が浮かんできた。
<ランボオ>(午後三時)という記述と、富士 正晴が会った人々のことである。
ふたたび、中尾さんのエッセイを引用しよう。
林哲夫の『喫茶店の時代』によれば、神田神保町の昭森社ビル一階で開業されていた「らんぼお」は、(昭和二十四年の四月頃、<潰れ>、また、中田耕治の手紙に出る「ラドリオ」は、<昭和二十四年>に<狭い露地を挟んで>昭森社ビルの<向かい>に開業したとのことである。 一九四九年秋の富士 上京には、すでに「らんぼお」はなく、一〇月二五日の富士手帳にでる<ランボオ>は、<ラドリオ>と見てよさそうだ。(誤記であるか、場所の勘違いであるか分からないが。
<ランボオ>は、もし戦後文学史などというものが書かれるとすれば、その一ページを飾る喫茶店だが、昭森社ビルなどというと、コンクリート建築の堅固なビルを想像するだろう。実際は、その界隈にめずらしくない仕舞家(しもうたや)の作りで、外側に西洋風の窓、入口が扉という、よくいって和洋折衷の、じつにちっぽけな喫茶店だった。
この<ランボオ>を経営していたのが、神田のバルザックと称された昭森社の社主で、<ランボオ>の二階、八畳間に、いろいろな出版社が机ひとつ置いて間借りしていた。
「近代文学社」は、その階下、つまり<ランボオ>の入口の隣り、せいぜい三畳ぐらいの小部屋を借りていた。
なにしろ狭いので、執筆者、他社の編集者がくると、すぐに<ランボオ>に案内する、という状態だった。
ある日、ここに美女があらわれた。武田 百合子である。いろいろと恋のさや当てがくりひろげられたが、ここに書く必要はない。
<ラドリオ>は、当時の島崎書店のすぐうしろの路地を入って<ランボオ>の斜め前。<ランボオ>からほんの数歩。
島崎書店のすぐうしろの路地だが、<ラドリオ>までほんの十歩。いつも陽のあたらない路地なので、足もとがジケジケ湿っていた。<ランボオ>にどこかの編集者がきていて、別の編集者と打ち合わせる場合、<ラドリオ>を使うことになる。
だから、富士 正晴が午後3時に<ランボオ>にいたとして、<ラドリオ>に移り、また<ランボオ>に戻ったとしても不自然ではない。
なぜ、<ランボオ>ではないかというと、<ランボオ>は、店の中央に大きな(正方形に近い)テーブルがあって、横に長いテーブルは置いてなかったからである。
私の記憶では、入口にちかいほうから、右側に、原 通久、平田 次三郎、本多 秋五、佐々木 基一、埴谷 雄高、荒 正人、山室 静。
それと相対して、(入口にちかいほうから)安部 公房、中田 耕治、富士 正晴、野間 宏、中村 真一郎、椎名 麟三とならんでいた。
いまになって、このときの話を記録しておけばよかったと思うのだが、いちばん後輩だった私は、そうそうたる文学者のやりとりについて行くのがせいいっぱいだった。荒 正人と中村 真一郎は、それこそ談論風発で、野間 宏は何もしゃべらない。本多 秋五がときどき何かいう。佐々木 基一が熱心に石川 淳の話をする。埴谷 雄高は座談の名手。うまくこの場の空気をもり立てるのだった。富士 正晴は、あまり発言はしなかったと思う。
雑談のなかで、原 通久がまっすぐ背をのばして笑いながら「VIKINGと近代文学とどっちが後までつづきますかねえ」とたずねた。
富士 正晴が書いている。「とにかく最後にはなはだ疑わしそうな微笑をうかべ、私の顔を見おろしながら『どうですかね』といった。」
これはあり得ない。原は、長身の美男だから、富士 正晴の顔を「見おろしながら」話ができたと思う。私は、小柄で、誰よりも身長が低かったし、「VIKING」という雑誌がどういう雑誌なのかさえ知らなかった。
一時間ほどたって、私は安部 公房といっしょに外に出た。当時、私は「世紀の会」を作るので、安部 公房とその相談で頭がいっぱいだった。そのとき、安部がにが笑いしながら、「原のやつ、なんで富士 正晴にあんなことをいうんだろう」
私も同感だった。
たとえば、「世紀の会」が「近代文学」と、どっちが後までつづくのか。そんなことは考えもしなかったから。原としては、戦後文学の旗手というべき「近代文学」の編集に携わっているという気負いがあったのか。
しばらくして「世紀の会」は発足した。しかし、はじめての会合に出たあと、体調がよくないので、「世紀の会」にも出られなくなった。私の挫折であった。
<ランボオ>は閉店すると、そのまま「ミロンガ」という、これはラテン・ミュージックの店になった。
私は「ミロンガ」になってから、この路地に足を向けなくなった。