748

 眼をさます。人日(ひとび)の寒い朝。

 アトリエと称する小さな部屋が寝室兼用。本、雑誌などといっしょにCD、DVD、ビデオなどが散乱している。こんな狭い板張りの部屋で寝起きしているので、ホームレスのようなものである。
 壁には、額に入れた絵や写真が不ぞろいに並んでいる。
 油絵、アクリル画、水彩。
 私が教えていた女子美の生徒たちが、私のために描いてくれた絵が多い。なかには、自分のヌードを描いた大きな油絵もある。

   水彩のヌード ほのかに 初あかり

 こうした絵や写真には、私の過去がびっしりと裏打ちされている。
 その過去は、遠ざかるにつれてますますはっきりと見えてくるのだろうか。それとも、その絵が描かれた時点、その写真が撮られた時点のまま、そこだけ切り取られた「現実」として残されているのだろうか。それは、いつしかセピア色に色褪せて、誰の想像力にも訴えかけなくなるのだろうか。

 私は、ピエール・ルイスが撮った写真や、ポール・レオトォの写真、オーギュスト・ロダンのおびただしい水彩のデッサンを思いうかべる。
 どれも彼らの本業の仕事とは思われていないが、それぞれの芸術家の特質をみごとに表現している。私はいつも彼らの、この仕事にひそかな感嘆を惜しまなかったものだが。

 残念ながら私の水彩や写真には何の意味もない。
 それでも、正月らしい俳句ができたから、ま、いいか。

747

 女性作家、ジョルジュ・サンドは、後輩の作家、フローベールにあてた手紙で、

    あなたの作品は悲しみをもたらしますが、私の作品は人をなぐさめます。

 と書いた。

 この一行から、ただちにいろいろなことを考える。

 「悲しみをもたらす」にせよ、「人をなぐさめる」にせよ、ふたりはそういう作品を書いた作家だということ。
 あるいは、アプリオリに「悲しみをもたらす」とか、「人をなぐさめる」などと考えなくても、結果として、そういう作品を書いているという強烈な自負をもっていたこと。
 現在の作家が、自分の作品は「悲しみをもたらす」とか、「人をなぐさめる」などと考えて書いているだろうか。

 小説は読者に「悲しみをもたらす」ために、または「人をなぐさめる」ために書かれる必要はない。現代小説は、はじめからそうした設問とは無縁な場所から出発している。
 その通り。
 だが、その小説を読んで、なぜか深い「悲しみをもたらす」ことに気がつく。または、これとは逆に、心のどこかで「なぐさめられる」。現在の読者にしても、そういう昇華作用、浄化といった感動をもとめているかも知れない。小説が読まれなくなったのは、そういう読者の素朴な期待にこたえられなくなっているからかも知れない。

746

正月二日を詠んだ虚子の句に、

    今年はや二日となりて翕然たり

 という句があるが、徳田 秋聲の作、

    正月の静かに暮る丶 二日かな

 と並べてみると、虚子の句のいたらなさは蔽いがたい。
 虚子、秋聲と、並べて、漱石先生の、

    一人居や思ふ事なき三ケ日

 となれば、虚子などよりはるかに落ちついた句になっている。

745

 旧作を並べてみよう。むろん、俳句と呼べるものではない。

    盃を手にして年のはじめかな

 年あらたまりて、初春となる。当然のように酒になった。それだけのこと。内藤 鳴雪に「七転八起のそれも花の春」という名句があるが、私は七ころび八起きの人生を花の春と観ずるほどの人間ではない。

    去年今年 日のかぎろいに 日のしずく

 そこで、まあ、こんなふうになる。去年今年(こぞことし)は季語。旧年でもいいし、初昔でもいいのだが、こういう季語はもう使えないような気がする。

      S.T.二十歳の誕生日。その名を詠んで、
    冬日静か この高みなる夢の橋

 S.T.は、私のファンになってくれた少女。会ったことはない。

      K.I.の訃。享年、56歳。
    春を待たず散るべき花にあらざりき

    春寒や ホテルの部屋に眼の疲れ

 大晦日に、正月の特別番組の台本を書いて、演出、録音して、まったく人通りのない赤坂から新橋まで歩いて、やっとタクシーをつかまえてホテルに戻った。

    坂道の平かならず 春の朝

 これはバカげた句だと思う。「坂道」が「平かならず」というのは当たり前ではないか。しかし、本人にはそんな実感があったのだろう。

    薄曇り ミモザの女に逢いに行く

 正月の句ではないのだが、なんとなくここに入れておきたい。「淑気」といったものを詠みたかったのだろうか。

744

 藤原 正彦先生は、小学校5年のとき、数学者になるときめたという。

    6年のとき、父が「大学案内」という本を買ってきて、東大理学部数学科の所を開き、「この『定員15人』が日本で一番頭のいいやつだ」と言った。単純でおめでたい私は、「ぼくは日本で一番だから当然ここに行く」と進路を決めてしまった。」(「数学と品格」)

 すごい小学生がいるなあ。
 藤原先生のご父君は、作家の新田 次郎。

 小学校5年の私は何をしていたのか。トム・ソーヤー、ハックルベリ・フィンよろしく、勉強そっちのけで遊んでいた。ところが、弟が病気で亡くなったときから、よくいえば内省的、ひらたくいえば暗い性格の子どもになった。
 この頃、父が一冊の本を買ってくれた。後藤朝太郎先生の「漢和辞典」である。紙質のよくない廉価本だったが、ほかに読む本もなかったので、毎日この本にかじりついた。

 現在の私が、漢字をよく知っているのは、この辞典のおかげである。その後、私が手にしたのは、簡野 道明先生の『字源』で、これまた紙質のよくない本だったが、私はかなり熱心に読んだ。
 後藤先生の「漢和」にない漢字が多いので、それを眺めるのが楽しかった。

 小学校5年のときにおぼえた漢字は、今でもだいたいおぼえている。私は、現在の教育でも「読み書きそろばん」だけはできるだけしっかり身につけさせたほうがいい、と考えている。
 「ゆとり教育」のツケがまわって、57カ国の、15歳の子どもたち(男女)約40万人を対象にした「国際学習到達度調査」(第三回)の結果が、世界同時に発表された。(’07.12.5)
 日本は、「数学的応用力」で、6位から10位に落ちた。「読解力」では14位から15位に。
 ちなみに、「数学的応用力」で1位は、台湾。2位、フィンランド。3位は、香港。4位は、韓国。日本は、1位だった前々回に比較して、34点も低下して、堂々の10位。
 しかし、まだ悲観する必要はない。さらなる学力低下が心配されている現在の初等教育でも、漢字の習得はかなりの程度まで可能なのではないだろうか。

 いまの私は、文章を書くのに、ワープロ、パソコンの変換にない漢字は使わない。それはそれでいいのだが、使わないせいで漢字が書けなくなってしまった。たとえば、漢詩を引用したいと思っても、漢字が出ないのでは仕方がない。

 扁旁冠脚の知れない漢字を思い出そうという努力もしなくなった。
 これも、老いぼれた証拠か。

743

 広瀬 淡窓(1782-1856)という漢詩人がいた。
 全国に子弟、4千人を越えたという。えらい人だったのだろう。

 淡窓の父は漢学者だったが、俳句が好きだった。ある日、父の門人がナマコを詠んだ句を見せた。

   板の間に 下女とり落とす 海鼠かな

 先生は道具だてが多いといって、この句を却下した。弟子は、

   板の間に とり落したる なまこかな

 と直して見てもらうと、だいぶ、よくなった。しかし、もう一息だといって、また返された。苦吟のはてに、弟子がもってきた句は、

   とり落し とり落したる なまこかな

 となっていた。
 善哉、はじめて先生はこれを許した、という。広瀬淡窓詩話にある。

 たしかに、「板の間に下女とり落とす海鼠かな」では、いかにも説明的で、月並みもいいところ。すこしもいい句ではない。
 安岡 正篤はいう。

 「が、分り過ぎて本当の処何を詠んだのか分からない。海鼠を詠んだにしては海鼠の海鼠たる所以(ゆえん)がちっとも躍動しておらない。板の間に娘の落すでも、板の間に童の落すでもまた好い。かなの二字で海鼠が主になっていることは分明だが、どうしても板の間や下女に気が散る。その板の間を去り、下女を除くに随って、海鼠がはっきり出てくる。掴みどころのないぬらりくらりとした、なまこらしいところがよく出てくる。ここだ。大切な詩の魅力といわれる”kinetic and potential speech”の好い例である。

 これを読んで、広瀬 淡窓の父君に俳句を教えてもらわなくてよかったと思った。
 ついでに、こんなエピソードをとくとくとつたえている広瀬 淡窓に軽蔑をおぼえた。
 さらに、安岡 正篤の説明にムカついた。こんな解釈のどこがいいのか。

 「とり落し とり落したる なまこかな」では、ただでさえ平凡な句が、もっともっとわるくなっている。こんな句のどこに「掴みどころのないぬらりくらりとした、なまこらしいところがよく出てくる」のか。この下女にナマコ三番叟でも踊らせるか。

 この句の作者は、板の間に下女がうっかり海鼠をとり落としたことを詠みたかった。下女は、ナマコのように、えたいの知れないものに指をふれるさえおそろしかったのかも知れない。そうだとしても、ナマコを思わずとり落としたところにおかしみを見た作者の意図は、「とり落し とり落したる なまこかな」ではまったく消えているではないか。
 「大切な詩の魅力といわれる”kinetic and potential speech”の好い例である」とは大仰な。

 安岡 正篤の詩に関する発言を私はあまり信頼しない。

742

 ミケランジェロが男色者だったことは有名だろう。彼の生涯には女性の影が落ちていない、という。はたして、ミケランジェロの生涯に、女に対する性愛がまったくなかったのだろうか。

 ミケランジェロ自身は、「わたしは生涯愛せずには少しも過ごすことはできなかった」という。ルネッサンスの「男」の強烈な欲望が女性にまったく向けられなかった、とは思えない。
 彼の処女作と見ていい詩に、

   愛の神キュピッドよ、そなたの激情に誇らしく立ち向かうことのできた過去、
   わたしは幸福に生きてきた。しかし、いまは、ああ、わたしの胸は
   涙にぬれている、そなたの力が身にしみて
 
 とか、
 
   わたしをあなたにことさら惹きつけるのは誰だろう。
   ああ、ああ、しっかりとしばりつけられながら、
   それでもわたしが自由とは
 
 という。(1504年)

 ロマン・ロランは、「ミケランジェロの作品には愛が欠けている」といったが、これも私としては疑問で、じつは、ある女性に対する恋の苦悩に身を灼いていたのではないか。
 ミケランジェロは、うまれついてのホモセクシャルと見るよりも、むしろバイセクシャルだったし、コンパルシヴな女体探究者だったとみていいのではないかと思う。
 作家、ア-ヴィング・スト-ンは、メディチ家の令嬢、コンテッシ-ナに対する愛を想像しているが、それを裏づける資料はない。

 晩年のミケランジェロの、ヴィット-リア・コロンナに対する深い愛情も、肉欲とは関係のない純愛だったといわれている。
 私は、1520年から27年まで、ミケランジェロがあまり仕事に手をつけなかった不毛な時期に、女色にふけったのではないか、と見ている。
 若い男性に対するつよい関心は、1530年以後からで、初老にさしかかってからだったと見ているのだが。

741

 ル-ヴル美術館でも、ダヴィンチの「モナリザ」だけは、特別にガラス・ケースで保護されている。
 私は、モナリザだけを見る目的で、毎日ルーヴルに通ったことがある。それまで写真や画集で見てきたものと違って、実物の「モナリザ」はほんとうに世界最高の作品だと思った。絵の美しさに感動したが、想像していたよりずっと小さな絵だったことにも驚かされた。
 「モナリザ」を見たあとでは、すぐ近くの部屋いっぱいに展示されている巨大な「ナポレオンの戴冠」にも、隣の部屋に並べられているル-ベンスの連作にもまったく心を動かされなかった。

 私は、世にも短い「ダヴィンチ論」を書いたことがある。
 どうしようもない不勉強な作品だが、このエッセイを書いたことが後年、ルネサンスにのめり込むきっかけになった。
 私の力では、ダヴィンチについて書くことはできなかったが、ある時期、ダヴィンチについて書く準備をしたことがあった。むろん、しばらくして断念したのだが。

 「モナリザ」のモデルについては、いろいろな説がある。
 私ごときにはモデルが誰なのかわからない。もっとも注目すべき説は、田中英道氏の研究で、「モナリザ」のモデルを、マントヴァ侯夫人、イザベッラ・デステとしている。

 イザベッラは、ルネサンスきっての才媛だった。ダヴィンチに自分の肖像画を描かせようとやっきになったが、どうしても描いてもらえなかった。
 義弟の愛人、チェッチ-リア・ガッレラ-ニがダヴィンチに肖像画を描いてもらったと聞いたイザベッラは、半分口惜しまぎれに、ぜひ見せてほしいといった。
 ベルガミ-ニ伯夫人になっていたチェッチ-リアは、その絵はあんまり私に似ていないけれど、自分が愛に溺れていた娘時代ではなくなっているからです、と答えた。
 つまり、娘時代の私はダヴィンチが描いたとおりの美女だったというわけである。
 イザベッラはかなりむかついたらしい。じつは、イザベッラの肖像画を描くつもりになったダヴィンチは、イザベッラの横顔のデッサンを描いている。
 これもたいへんな傑作だが、中年にさしかかって、肥満しかけたイザベッラが描かれている。それがまたイザベッラには気に入らなかったらしい。

 ダヴィンチはイザベッラが嫌いだったらしく、とうとう肖像画を描かずにフランスに去って、皇帝、フランソワ一世につかえた。

 1519年、ダヴィンチはフランスで亡くなっている。

 ダヴィンチについて書かなかったことを、ほんのわずかだが後悔している。

740

媚薬について調べている。

 トリスタンとイズーの物語は、媚薬を飲んだ男女が宿命的な恋におちいる。
 この物語の媚薬は、どういうものだったのか。いっしょに飲んだふたりは、三年間、離れられない。この期間は、何があろうと、官能のかぎりをつくして愛しあう。一日たりとも離れてはならないし、昼も夜もお互いに見つめあわなければならない。一週間も愛の語らい(性交をさす)ができないと、ふたりとも病気になって、衰弱し、ついには死ぬことになる。

 おそろしい話である。
 だが、愛する女と、三年間、何があろうと、官能のかぎりをつくして愛しあう、という夢想は、たいていの男に共通しているのではないだろうか。

 ほんの三ヵ月も実行できないはかない夢想に過ぎないが。

739

 子どもたちが書く詩には、ときどき驚くようなきらめきがある。

   クラスのみんなをおかま中につめた
   ガギュツ、ガギュツ、音がした

   もうじきむさるころだ
   ふたをあけてみよう

   みんなをかまの中からだした
   みんな真っ赤だ

   魚屋へ せいぼのかわりに
   むし人間を三六人やった

   魚屋のおばさんは
   それを店に出した
   「むし人間」 小五  石川 せき子

 この詩が発表されると、生活詩を指導する教師たちから、はげしい非難が起きたらしい。「生活綴り方」を信奉する教師たちは、想像力を重視すると、こういう残酷な妄想を生む、といって批判した。
 私はこの詩を少しも非難しない。リアリズムの信奉者たちは、子どもが自分の身辺を詩にする生活詩などというものに、いわゆる「子どもらしさ」などを見ているらしい。そもそもこれを妄想などと見るほうがおかしい。この詩を不健康なものと見るほうが、よほど不健康なのだ。
 むしろ、あまりに子どもらしい、それこそげんなりするくらいに子どもの感覚を表現している、というべきだろう。
 教師たちが「生活綴り方」を指導するのはけっこうだが、そんな作文に、子どもの悲しみや、うまくことばにならない孤独感、おとなの常識では妄想と見えるような奇想があらわれるはずはない。その先生の気に入るような平凡な「綴り方」があきもせず書かれるだけのことだ。豊田 正子や、金 達寿の綴り方が、どれほどユニークなものだったか、考えてみるがいい。

 この小学生の別の詩をあげてみよう。

   ジュースをのんでいた
   うしろからバリバリ音がした
   春がせんべいになっていた
   夏がひきさいてたべていた
   たすけてさんはこなかった
   春はたすけてさん をにくんだ
   たすけてさんとは遊ばない
   春はおこっていった
   たすけてさんは夏と遊んだ
   夏は春にも遊ぼうといった
   でも春はおこって行った
   たすけてさんは春も夏も
   いっしょに遊ぶといいと思った
    「夏と春」  小六  石川 せき子
 
 じつにおもしろい。
 こうした詩は矢口先生のクラスから生まれてきたという。矢口先生がどういう先生なのか知らない。「すこやかな子どもはすこやかな詩を書く」などという旧態依然たる子ども観で指導される「生活詩」などは、実際に現実をとらえるのではなく、ほんらい子どもたちの生活や内面にひそんでいる色彩や輝きを消し去った、詩と称する、非詩的なものを、あきもせずに生産しているにすぎない。
 そんなものは、生活にも、子どもという人間存在にもかかわりがなく、日常の具体性のしがらみにからめとられているにすぎない。

   キラキラが光っている
   ザブザブのなみにのって光っている
   魚がキラキラをのんだ
   太陽がよびにきた
   キラキラの赤ちゃんははいあがって
   おかあさんのところへ帰っていった
   口の中へはいったキラキラは
   うろこになって
   光っていた
    「うろこ」  小五  石川 せき子
 
 せき子ちゃんがこれからも詩を書くかどうかわからない。しかし、この子の詩を読んだときの喜びを、私は心のなかにしまっておきたい。

 *引用は「詩的認識と散文的認識」 駒瀬 銑吾/「宇宙詩人」7号による。

738

あるコラムニストが語っている。

 京都で、「ぶぶづけでもどうどす?」と言われたら、「帰れといわれてるんだな」と解読する力が、品格として求められているのか知れない、と。

 それがわからなければ、ニブいヤツと思われる。だから、眼の動き、ことばの裏といった「ソシヤル・コード」に気配りが必要ということになる。

 私は京都という町の coldness (よそよそしさ)が好きではない。その理由は、相手に早く帰れという意味で「ぶぶづけでもどうどす?」というような表面の慇懃さ、その裏に酷薄なものが隠されているせいかも知れない。
 そんなものの解読が「品格」の条件なら、こっちから願い下げにしよう。

 あるとき、ある本を企画した。ある編集者に話をもちかけた。関西出身という。
 「考えときまっさ」
 といわれた。
 当然、彼が企画を検討してくれるものと思った。
 しばらくしてまた会ったとき、先日の企画はどうなったのだろう、と訊いてみた。相手はきょとんとしていた。
 いくらニブい私でも・・・「考えときます」ということばが婉曲な拒絶表現なのだと理解した。すぐに話題を変えた。
 むろん、その本の出版は断念した。

 こんな小さなことにも関東と関西の違いがある。これをしも「品格」の問題ととらえるべきなのか。
 もう一度くり返しておく。
 そんなことばの差違を文化の違いとして理解するのはいい。だが、それが「品格」の条件というなら、下品な私としては足蹴にしてやる。
 くそッ、ケタクソがわりィや。

737

 ある古書展で尾崎 秀樹に会った。私はまだ小説も書いていなかった。
 帰り際に立ち話をしたのだが、
 「大衆小説を研究してみたいんだけど、どうでしょうか」
 尾崎 秀樹は、言下に、
 「よしたほうがいい。苦労するだけですよ」
 と答えた。
 素直に彼の忠告にしたがった。

 私はミステリーを書いた。やがて時代小説を書いた。
 ミステリーをふくめて大衆小説の解説や、ときには作家論めいたものを書くようになったが、研究として書いたわけではなかった。まして、大衆小説のイデオローグとして発言したり、批評したことはない。
 私の内面では、ミステリーや大衆小説の批評と、いわゆる文学批評に文学的な径庭はなかった。

736

 おでんがおいしい季節。

 ありきたりの具ばかりだが、好きなものをあげてみよう。ダイコン、サトイモ、こんにゃく、つみれ、昆布。そのかわり、ハンペンや、豆腐、キャベツ巻き、アブラゲに詰めものをするタカラ包みなどは、あとまわし。

 おでんは、もともと田植えの神事、田舞にはじまったという。田楽豆腐を、でんがくといったのは、田舞を舞う法師の衣裳に似ているから。
 昔の川柳に、

   田楽は 田で楽しむの 読みがあり

 という句がある。
 読んだだけでは意味がとれない。

 してみると、ここで「おでん」を酒菜に、木の升できゅっと一杯ひっかけてくり出す。行き先は、たんぼを越えてすぐ先の吉原。

 いい時代だったんだろうなあ。うっかりこんなことを書くと、たちまち柳眉をさかだてて噛みつかれそうだが、

   降ってきた なんぞどこぞにこぞろうか

 という川柳もある。

 これは、雨が降ってきたシーンというより、おそらくは雪の景色。行き先は、やはり吉原。
 あとの「こぞる」は、その場に居あわせた連中が、おなじ行動をとること。
 「こぞる」だけをとって見れば、いまの私たちの行動様式だってあまり変わらない。

735

 うれしいニューズ。
 新種と見られる恐竜の化石が発見された。アルゼンチン西部、ネウケン州。発見したのは、ブラジル、アルゼンチン古生物学者のチーム。(’07年10月15日)

 この恐竜は草食性で、ティタノコサウルス類の新種らしい。
 全長、32~34メートル。頭の高さは約15メートル。4階建てビルの高さ。

 化石は、7年前、湖のほとり、約8800万年前(白亜紀後期)の地層から発見された。全体の7割程度が、ほぼ完全に近いかたちで発掘されたという。

 先住民のことばで「トカゲの巨大なボス」という意味の「フタログンコサウルス」と命名された。

 フタログンは歩きつづけた。どこからきたのか。それはわからない。自分でも考えたことはない。なにしろ、巨大な図体なので、脚に怪我をして痛みを感じても、その痛みが脳につたわるまでに時間がかかった。思考回路が長いせいだろう。15メートルも先にある頭のほんの少しの脳が動き出しても、その反応が脚にフィードバックするのに、また時間がかかる。だから、彼は何も考えない。
 ゆったりした時間の流れのなかで、全長、30メートルを越えるからだが、つぎの一歩を踏み出している。そのときになって、やっと頭に届いた痛みは、脚を動かしたときにはもうどこかに消えている。

 彼は血を流していた。ティラノサウルスと遭遇して、必死に戦ったときの傷から血が流れている。固い鱗に蔽われた肌には、いくつも傷跡が残っている。
 その臭いをかぎつけた始祖鳥(アルカエオプテトリックス)の子孫たち、イクチオニクスや、ヘスペロルニクスたちがどこからともなく舞い降りてくる。あいつらのするどい嘴、かぎ爪は、肉に深く突き刺さるのだ。
 ティラノサウルスと遭遇したのは不運だった。
 巨大なシダの樹林から出たとき、あいつに出くわしたのだった。すぐに逃げようとしたが、あいつは盗み見るような眼を向けて、気のせいか、口もとにうっすらと笑みをうかべた。
 こいつ、何を考えてやがるんだ。
 脳が小さくて、ひどく性能がわるかったので、その考えが頭から尻尾の先まで届くより先に、ティラノサウルスが凶暴なやつだということだけはわかった。恐怖はなかった。
 攻撃されたら反撃するだけだ。そう思ったとき、すでにティラノサウルスに食らいつかれていたので、自分も長い頸をふりまわして、ティラノサウルスめがけてたたきつけていた。彼は食い入るようにティラノサウルスの眼をのぞき込んでいた。

 やがて、彼は荒涼とした岩石のひろがる土地にいた。
 歩きつづけた。傷は深いようだった。おびただしい血が流れているから。しかし、なぜ、こんな赤いものが流れるのか考えなかった。考えたにしても、つぎのことを考えたときには、もう消えている。
 しかし、これまで何も考えなかった彼が、ようやく自分に向けられた問いを考えているのだった。なにしろ、行けども行けども、荒れ果てた砂漠ばかりでわずかな草や灌木さえみえなかった。だから考えることは一つしかなかった。
 おれはどこに行こうとしているのか。
 この問いは、ティラノサウルスに食らいつかれて、引き裂かれた傷とおなじで、彼が自分につきつけた問いだった。だから、いやおうもなく、自分の身にひきつけなければならなかったのだ。・・

 いつの日にか、自分が化石になってしまうなどは考えもしなかったけれど。

734

 ある日、大学の研究室で、親友の小川 茂久に、
 「おまえは、オッチョコチョイだなあ」
 といわれた。私は素直にうなづいて、
 「うん、おれはオッチョコチョイなんだ」

 オッチョコチョイ。最近、聞かなくなった。これも死語だろう。
 語源辞典で調べれば出ているかも知れない。調べる気もなかった。

 明治四年、こんな歌がはやったという。

   諸所にトンネル切り開き
   山も 野山も 平地で 馬車や 人力車や 岡蒸気
   オヤ オッチョコチョイのチョイ
   オッチョコチョイのチョイ

 へぇー、明治時代にできたのか。
 してみれば、私のオッチョコチョイぶりは、土地開発や、新しい交通手段に眼をまわした文明開化に少しはかかわりがあるかも知れないナ。などと考えるのが、私のオッチョコチョイなところ。(笑)

   死んだあとでの 極楽よりも
   この世で らくらく暮らしたい
   アラ ほんと現代的だわネ

 これは大正四年。物価の高騰に、世界大戦、成金熱、プロレタリアの労働争議、それで起こった米騒動。

 いつの時代も「現代的」だから、不安材料がいっぱい。私もどうやらパイノパイノパイ。

733

 ヴァネッサ・パラデイが登場したのは、1988年だった。ファースト・アルバム、「M&J」を出したとき、15歳。
 ヴァネッサを聞いたのは、フレンチ・ポップスに関心があったからではない。表題作の「M&J」がマリリン&ジョンの頭文字と知って、興味をもったからだった。

   マリリンは口紅をつけながら
   ジョンのことを考える
   ジョンのことだけを
   微笑んで ふと ため息ついて
   口にする――歌

   悲しみもなく 楽しみもない
   二つ三つの――インタヴューのあいだ
   スウィングが 心に揺れて
   バスタブで・・おバカさんね
   マリリンは彼の名を歌っている
   ひとりでに心にうかぶ曲にして
   星(スター)とライオンの物語   
      (仮訳)

 実際にマリリンの映画を見たことのない世代の女の子が、マリリンを歌っても不思議ではない。マリリンのセクシュアリティーは、フランスでも、女性のリビドーと社会が共有する倫理のあいだに、大きな緊張関係をうみ出していた。60年代のブリジット・バルドー、70年代のソフィー・マルソー、80年代のジェーン・バーキンを思い出して見ればいい。
 ヴァネッサは彼女たちにつづく世代だった。
 当時、アメリカでは、ティファニー、デビー・ギブスンが登場していた。オーストラリアのカイリー・ミノーグ、台湾のターシー・スーといったティーネイジのシンガーが、ぞくぞくと登場してきた。
 私は、香港のシャーリー・ウォンを聞いて以来、アジア・ポップスにのめり込んでいた時期だった。シャーリー・ウォンは、数年後にフェイ・ウォン(王 菲)になる。

 1枚のアルバム。それも未決定の未来にようやく歩み出した15歳の少女の、ファースト・アルバム。その最初の曲が「M&J」だったことに、現在の私は感慨をもつ。
 たいしたことではないが。

  *「マリリン&ジョン」 (ポリドール/88年、93年)

732

 良寛さんの名歌に、

   この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし

 春の日に、良寛さんは村の子どもたちと手毬をついてあそんでいる。春、日が長くなってきた。暮れなくてもいい。このまま子どもたちとあそんでいたいから。

 誰の胸にも村の子どもたちと無心にあそんでいる名僧の姿がうかんでくる。
 二度、三度と読んでいるうちに、ふと、別の読みかたができるような気がしてきた。
 良寛さんの感懐の重心は「春日は暮れずともよし」にあるけれど、読みかたによって、少しニュアンスが違ってくる。
 子どもたちと手毬をついてあそんでいる。だから「春の日はこのまま暮れなくてもいい」。つまり、暮れなければ、このままもっと子どもたちとあそんでいられるのになあ、という無心な願望がある。「子供らと遊ぶ春日は 暮れずともよし」。
 これに対して、私は「春日は暮れずとも よし」と読む。
 ある日、良寛さんは村の子どもたちと手毬をついてあそんでいる。日が長くなってきた。しかし、いずれ日が翳り、暮れてしまう。村の子どもたちとあそんでいられるのだから、暮れようと暮れまいと、春の日はいいものだ。

 むろん、どちらでもおなじではないか、と反論する人がいると思う。私たちは子どもたちと無心にあそんでいる名僧の姿に感動するのだから。
 たしかに、このまま日が暮れなければもっと子どもたちとあそんでいられるのになあ、という解釈は素朴でいいけれど、私には、子どもたちとあそんでいればこそ、春の日をよし、とする良寛さんがおわしますような気がする。

   願はくば花の下にて春死なむそのきさらぎのもちづきのころ

 という西行の歌は、春のうらやかな自然につつまれて、桜の花の下で日本人らしく死にたいという願望を歌った名歌と見ていいが、ほんとうはお釈迦さまが亡くなったその日に自分も涅槃に赴きたい、という仏教者としての覚悟を詠んだものと私は読む。

 日本人の絶命詩としては秀吉の辞世に、「露とおち露と消へにし我が身かな」がある。これにつづく浪速(なにわ)のことには、「何々の」、「なにくれとなく」、「なにやらの」などが隠されている。哀れをさそうが、私はあまり好きではない。

 良寛さんの天衣無縫の歌のほうがはるかにすばらしい。

731

 読者にはじめてドストエフスキーを読むことをすすめるとして、何をえらぶか。その理由は?
 ふつうの読者にドストエフスキーをすすめるなら、『作家の日記』にある「農夫マカールの夢」がいい。
 とても短いので、読みやすい。はじめから長編を読んで、途中で投げ出すよりは、こういう短編を読んで、ドストエフスキーをおもしろいと思ったほうがいい。

 相手が女性の場合、ドストエフスキーはすすめない。おそらく、つまらないだろうから。こんなことを書くと性差別とうけとられるかもしれないが。
 ドストエフスキーを読むくらいなら、トゥルゲーネフや、チェホフ、あるいはジェーン・オースティン、ブロンテ姉妹を読んだほうがいい。

 チェホフを読むと、たいていの人はこんな小説の一つや二つ、書けそうな気がしてくるかも知れない。だが、けっしてチェホフのようには書けない。
 そこで、かりにも作家になろうという人には、ぜひドストエフスキーをすすめる。『罪と罰』を読めば、たちまち小説の一つや二つは書けそうな気がしてくる(だろう)。
 そういう無邪気な錯覚から、作家になった人は多いのではないだろうか。

 たとえばジッド。劇作家のジャック・コポオ。
 たとえば、レオニード・レオーノフ。
 とても比較にはならないが、北条 民雄。

 ある程度、外国の文学に親しんでいて、まだドストエフスキーを読んでいない人には、『賭博者』あたりを読むことをすすめる。
 小説よりもノンフイクションに興味をもっている人には、チェーホフの『サハリン紀行』、ナターリア・ギンズブルグのシベリア強制収容所の回想を読むことをすすめる。もしおもしろいといえば『死の家の記録』を読むことをすすめる。

730

ドストエフスキー作品で、いちばん好きなキャラクターは誰だろう。

 日頃の私はこういうことを考えない。
 すぐに思い浮かぶのは、アリヨーシャ、ムイシキン公爵だが、ほんとうに好きなのかと訊かれると自分でもあやしくなる。
 ソーニャは好きなひとり。ただし、そういう私にはいやらしい願望が隠れているような気がする。
 『未成年』のリディア・アフマーコワ。
 キャラクターとして、いちばん関心があるのは、キリーロフ。
 『カラマーゾフの兄弟』に出てくるコーリャという少年。

 私はドストエフスキーについて、何ひとつ書いたことがない。ただ、荒 正人編の『ドストエフスキー読本』に、短い短いエッセイを書いたことがある程度。
 ドストエフスキーの墓に詣でた。ヤスナヤ・ポリアナのトルストイ邸の寝室に、トルストイが家出する直前まで読みふけっていた『カラマーゾフの兄弟』のページが開かれたまま残されていたことに、つよいショックを受けた。
 私はドストエフスキーに対する尊敬をけっして忘れない。

729

 歳末、お茶の水からJR総武線、千葉行きに乗った。千葉まで、54分。

 夜、8時。ラッシュアワーは過ぎていたがすわれなかった。車内で立っているのは、私だけだった。つまり、私が乗る前に、空いていた席がふさがってしまったということである。

 「山ノ上」のロビーで友人に会っての帰りだった。彼は取材でロンドンに行く予定で、いろいろと話がはずんだ。楽しい話題がつづいて、知的な眩暈のようなものを感じたほどだった。こういう知的な幸福感は、近頃はめったに味わえない。そんな気分だったせいか、帰りの電車ですわれなくても、それほど苦痛に感じたわけではない。

 荷物を棚にのせて立っていると、すこし離れた席の若者が席を立って、どうぞと声をかけてくれた。
 私はちょっとおどろいたが、その若者の好意はありがたかった。

 いまどき老人に座席をゆずってくれるような奇特な若者がいるのか。そういうおどろきがあった。もっとも、そのときの私が、席をゆずってやらないと足元もおぼつかない老人に見えたのか。
 「ありがとう」と声をかけて、その席にすわった。

 総武線で人から席をゆずられたことはなかった。
 たいていひどく混んでいたし、帰宅をいそぐ乗客はほとんど例外なく眼を閉じている。昼の疲れから少しでも睡眠をとろうとしているのか。混雑している通勤電車のなかで、知らない他人と眼をあわせたくないので、眠ったふりをしているのか。日常どこでも見かける光景だった。
 私自身も電車に乗って席にすわると、千葉までは、たいてい眼を閉じているか、半分うとうとしながら過ごしてきた。『不思議の国のアリス』に出てくるウトウトウサギのように。最近は、電車で本を読むのも、眼が疲れるので億劫になってきた。

 大学の講義をやめてからは、東京に出ることも少なくなった。東京に出るのはいいのだが、古書店をいくつも歩きまわるのに疲れをおぼえるようになった。
 本を抱えて帰りの電車に乗る。以前なら、座席にすわれれば、さっそく買い込んだ本の一冊に眼を通す。千葉に着くまでに半分ぐらいは読めた。すわれなくて、終点の千葉まで立ち通したこともめずらしくない。そういうときは、すわれなかった不運を嘆いても仕方がない。

 私は、若者の好意に感謝しながらゆっくり腰をおろした。この若者のまなざしには、早く席をゆずってやらないと足元もおぼつかない老人に見えたにちがいない。そんな自分の姿を想像してみた。
 そうだろうなあ。どこから見ても老いさらばえたジイサマにしか見えない。

 ほんとうは、その若者と話をしたかった。たとえば、こんな時間に帰宅しようとしている君は、いったいどんな仕事をしているのか。きみは、どんなことに興味をもっているのか。ガールフレンドはいるのだろうか。さしつかえなかったら、どういう女性がきみの心をとらえたのか聞いてみたいのだが。

 むろん、実際にそんな質問をしたわけではない。

 ただ、そのときの私はほんとうにうれしかった。席をゆずってもらったことがうれしかっただけではない。いまの若者のなかに、見知らぬ老人に同情して、席をゆずってくれるような気配りが生きている。そのことがうれしかった。

 その若者は新小岩あたりで下りたが、そのとき私は走り書きのメモをわたした。若者は驚いたかおをしたが、うけとってくれた。
 そのメモに、私は「ありがとう。感謝をこめて」と書いて、このURLのアドレスを書いたのだった。
 何故、そんなことをしたのか。

 自分でもわからない。むろん、自己顕示ではない。ただ、そんなことでもしないと、自分の感謝の気もちがあらわせなかったからなのだ。

 話はこれだけである。
 きみには、二度と会うことはないだろう。しかし、きみの小さな好意をほんとうにうれしい、ありがたいと思った老人がいたことをつたえたかっただけなのだ。
 ありがとう。