歳末、お茶の水からJR総武線、千葉行きに乗った。千葉まで、54分。
夜、8時。ラッシュアワーは過ぎていたがすわれなかった。車内で立っているのは、私だけだった。つまり、私が乗る前に、空いていた席がふさがってしまったということである。
「山ノ上」のロビーで友人に会っての帰りだった。彼は取材でロンドンに行く予定で、いろいろと話がはずんだ。楽しい話題がつづいて、知的な眩暈のようなものを感じたほどだった。こういう知的な幸福感は、近頃はめったに味わえない。そんな気分だったせいか、帰りの電車ですわれなくても、それほど苦痛に感じたわけではない。
荷物を棚にのせて立っていると、すこし離れた席の若者が席を立って、どうぞと声をかけてくれた。
私はちょっとおどろいたが、その若者の好意はありがたかった。
いまどき老人に座席をゆずってくれるような奇特な若者がいるのか。そういうおどろきがあった。もっとも、そのときの私が、席をゆずってやらないと足元もおぼつかない老人に見えたのか。
「ありがとう」と声をかけて、その席にすわった。
総武線で人から席をゆずられたことはなかった。
たいていひどく混んでいたし、帰宅をいそぐ乗客はほとんど例外なく眼を閉じている。昼の疲れから少しでも睡眠をとろうとしているのか。混雑している通勤電車のなかで、知らない他人と眼をあわせたくないので、眠ったふりをしているのか。日常どこでも見かける光景だった。
私自身も電車に乗って席にすわると、千葉までは、たいてい眼を閉じているか、半分うとうとしながら過ごしてきた。『不思議の国のアリス』に出てくるウトウトウサギのように。最近は、電車で本を読むのも、眼が疲れるので億劫になってきた。
大学の講義をやめてからは、東京に出ることも少なくなった。東京に出るのはいいのだが、古書店をいくつも歩きまわるのに疲れをおぼえるようになった。
本を抱えて帰りの電車に乗る。以前なら、座席にすわれれば、さっそく買い込んだ本の一冊に眼を通す。千葉に着くまでに半分ぐらいは読めた。すわれなくて、終点の千葉まで立ち通したこともめずらしくない。そういうときは、すわれなかった不運を嘆いても仕方がない。
私は、若者の好意に感謝しながらゆっくり腰をおろした。この若者のまなざしには、早く席をゆずってやらないと足元もおぼつかない老人に見えたにちがいない。そんな自分の姿を想像してみた。
そうだろうなあ。どこから見ても老いさらばえたジイサマにしか見えない。
ほんとうは、その若者と話をしたかった。たとえば、こんな時間に帰宅しようとしている君は、いったいどんな仕事をしているのか。きみは、どんなことに興味をもっているのか。ガールフレンドはいるのだろうか。さしつかえなかったら、どういう女性がきみの心をとらえたのか聞いてみたいのだが。
むろん、実際にそんな質問をしたわけではない。
ただ、そのときの私はほんとうにうれしかった。席をゆずってもらったことがうれしかっただけではない。いまの若者のなかに、見知らぬ老人に同情して、席をゆずってくれるような気配りが生きている。そのことがうれしかった。
その若者は新小岩あたりで下りたが、そのとき私は走り書きのメモをわたした。若者は驚いたかおをしたが、うけとってくれた。
そのメモに、私は「ありがとう。感謝をこめて」と書いて、このURLのアドレスを書いたのだった。
何故、そんなことをしたのか。
自分でもわからない。むろん、自己顕示ではない。ただ、そんなことでもしないと、自分の感謝の気もちがあらわせなかったからなのだ。
話はこれだけである。
きみには、二度と会うことはないだろう。しかし、きみの小さな好意をほんとうにうれしい、ありがたいと思った老人がいたことをつたえたかっただけなのだ。
ありがとう。