768

巫山の夢を結ぶ。説明の必要はない。

 ある日、『霍小玉伝』を読んでいて、「巫山・洛浦」ということばに出会った。

 主人公「李生」が美女と契りをかわす。「羅衣を解くの際、態に餘妍あり」という女性を相手に、幃を垂れ、枕を近づけ、その歓愛をきわめる。
 「李生」思えらく、「巫山・洛浦も過ぎず」と。

 「高唐賦」に、楚の「襄王」が巫山の神女とセックスしたことが出ている。だから、巫山の夢。
 もう一方は、魏の「陳思王」、曹植が洛浦の神女とセックスしたことによる。
「李生」は、「巫山・洛浦のよろこびも自分と『小玉』の性愛にはおよばない」と思う。
 私のような男には、なんともうらやましい話。

 真喜志 順子の訳した『神々の物語』(’07.12.31刊 3600円/ 柏書房)を読む。これは神話の世界をわかりやすく解析したもの。ユング派の精神分析が専門のリズ・グリーンと、同僚のジュリエット・シャーマン・バークの共著。
 その第三部は「恋愛」について。
 たとえば、「エコー」と「ナルキッソス」では、自己愛の悲劇。「キュベレ」と「アティックス」では、独占欲の危険。
 第二章では、「ゼウス」と「ヘラ」の結婚、「アーサー王」と「グウェネヴィア王妃」といった苦悩にみちた「関係」が描かれる。

 私は、気が向いたときに、おいしい料理を一品だけ食べるようにして、『神々の物語』を読み続ける。その合間に、ときどき「唐代伝奇」を読む。これは、おいしい酒を一杯だけ口にふくむようにして。

767

 2月10日、作家の高野 裕美子(翻訳家・長井 裕美子)が亡くなった。

 この思いがけない不幸を知らせてくれたのは、早川 麻百合だった。新聞に出ているという。いそいで、夕刊のオービチュアリーを見た。

    作家、高野 裕美子氏は、10日、くも膜下出血で死去。50歳。
    翻訳家を経て作家になり、1999年、「サイレント・ナイト」で第3回、日本ミステリー文学大賞・新人賞を受賞した。

 私は、しばらく茫然とした。
 長井 裕美子は、「バベル」という翻訳家養成を専門とするスクールで、私のクラスで勉強していた。同期に、羽田 詩津子、早川 麻百合、立石 光子などがいる。いずれも、すぐれた翻訳家として知られる。

 もともとフランス語が専門だったが、英語も堪能で、私のクラスには二年ばかり通っていたのではないかと思う。
 当時、私のクラスでは、毎月1編、さまざまなジャンル、さまざまな作風の短編を読んでいた。当然ながら、原文の難易度、スタイルも千差万別だった。私としては――それぞれの生徒がどういうジャンルの翻訳にも対応できるように、できるだけ多種多様な作家、作品を読ませたいと思っていた。翻訳する側の資質、文学的な好み、傾向といったものよりも、どういう作品であれ、翻訳を依頼された場合、それにまっこうから立ち向かうのが、若い翻訳者の必須条件なのだから。
 長井 裕美子も、それまで読んだことのない作家をつぎつぎに読み、かつ、訳すことで、たとえ漠然とであっても、おのれの方向性といったものを身につけようと努力していたはずである。

 私のクラスを出て、すぐにプロフェッショナルとして翻訳をはじめた。私は、彼女が着実に仕事を続けていることをよろこんでいた。
 やがて、思いがけないことに、小説、それもミステリーを書きはじめた。構成も文章もしっかりした、重厚な長編の本格的なミステリーで、私は彼女の才能のみごとな開花に驚嘆したのだった。私が教えた生徒たちから翻訳家は輩出している。私が小説を書くようにすすめて、小説を出版した人も多い。しかし、プロフェッショナルな作家になったのは、彼女が三人目だった。
 私は「高野 裕美子」にいつも関心と敬意をもって読んできたのだった。

 彼女が作家として、今後ともすぐれた作品を書きつづけるものと期待していたが、思いがけない訃報に打ちのめされた。今は追悼のことばもない。

 たまたま「NEXUS」(47号)の締切りだったので、追悼のことばを書く余裕がなかった。そこで田栗 美奈子、笠井 英子の努力で、「翻訳について」私が書いた小文をあつめた。これを発表する。
 長井 裕美子たちのクラスで、こんなことを考えていた私自身をあらためて見つめ直す意味で集めただけのことだが。

 長井 裕美子のご冥福を祈る。

 2008年2月15日

766

 さて、下戸だった話にもどるのだが――友人たちがそれぞれ結婚して家庭におさまった頃から、私も酒の味がわかってきた。からだがなれてきたせいもある。
 ようするに、自分が酒を飲んでいるのか、酒が自分を飲んでいるのかわからなくなってきた。人並みに、いろいろと苦労して、酒の味がわかってきたらしい。

 苦い酒も飲んだ。美しい酒も飲んできたし、つらい酒も飲んできた。もう、マケることもなくなった。
 ある人が、日本で外国の酒を飲むとどうもその土地で飲んだほどのコクがない、といっていた。私は、そんな通ぶったことをいう資格はない。

 どんな酒でも体調がいいときは、美味に感じる。自分が好きな相手と飲むだけで、酒の味はいやまさる。まして、好きな女と酒を酌むほどのよろこびはない。

 好きな酒はある。
 最近までたいせつにとっておいたドム・ペリニョンを、親しい友人にさしあげた。残念だが、私はもう飲めなくなっている。
 酒にまつわる思い出はいろいろあるが――ある日、澁澤 龍彦のところに遊びに行ったとき、ちょっとめずらしいウィスキーを持参した。このとき、松山 俊太郎さんもいっしょに、そのウィスキーを召し上がったが、松山さんが激賞した。
 松山さんは人も知る酒豪だから、このときお褒めのことばをいただいたのがうれしかった。

 松山さんは、その後、堀口 大学先生のところで、たまたま酒のことが話題になったとき、中田 耕治が持参したウィスキーのことをご披露なさったらしい。

 堀口先生は、にわかに興味を抱かれて、他日、中田 耕治なる痴れ者を連行せよ、と仰せられたとか。

 私は、そのウィスキーを探したが、ついに見つからなかった。ある日、登山に出かけたとき、池袋某所の酒屋でただ一本を見かけたが、帰りに買うつもりで立ち寄ったときは、もうなくなっていた。
 これも酒にまつわる思い出である。

765

もともと下戸のクチだった。などと書こうものなら、知人、友人たちが笑いだすだろう。しかし、これはほんとうのこと。江戸ッ子のやつがれ、ウソと坊主の頭はゆったことがない。

 酒が飲めないのだから、おそろしくヤボな人間ということになる。そこで、見るに見かねて、友人たちが居酒屋につれて行ってくれた。
 ひとくち、なめた。とたんに眼がまわって、顔から火が出た。異常体質だろうと思った。みんながニタニタして眺めている。悪い連中と友だちになったと後悔した。

 それから、毎日、友だちについて歩いた。苦行であった。なにしろビールをコップに二杯飲んだだけで、心臓がモールス信号を打ってくる。

 ある日、ビールを三杯半、飲んだ。世界の終わりがやってきた。まともに立っていられない。外に出て歩き出したが、地面がぐらぐらうねっているし、眼をあげるとネオンサインがサイケデリックに光り輝き、これもぐるぐるまわっていた。これやこの、天変地異でなくて何であろうか。

 このとき、田中 融二と都筑 道夫のふたりが、私を介抱してくれた。ふたりとも、有名な翻訳家になるが、当時はまだ、ふたりとも駆け出し。
 田中 融二は、私の背中をさすりながら、
 「まけろ、まけろ」と声をかけてくれた。ブチまけろ、という意味である。だらしのない話だが、私は路上に吐いた。
 その晩、都筑 道夫の部屋に泊めてもらった。

 翌日、眼がさめたら、都筑はもう起きていた。というより、一晩じゅう、私の寝顔を見ながら、原稿を書いていたらしい。私は、都筑 道夫の仕事ぶりにすっかり感心してしまった。実際には、都築の寝床を私が占領してしまったので、寝るに寝られなかったのかも知れない。
 もっと驚いたことがある。都筑 道夫の部屋は、ほとんどがミステリー、SFの原書ばかり。畳の上にだいたい20冊ほどの高さにならべられ、その上にふとんが敷いてある。つまり、ハードカヴァーのミステリーがベッドになっている。
 当時、私もミステリーをたくさん買い込んでいたが、ほとんどがポケットブックばかりで、ハードカヴァーのミステリーは買わなかった。
 それに、私はほかのジャンルの本も読まなければならなかったから、買えなかった、というのが、ほんとうのところだった。
 都筑 道夫は「ミステリー・マガジン」の作家について、解説、紹介記事めいたものを書いていたから、原書を多くもっていても当然だろう。しかし、部屋いっぱい、ベッドがわりに原書を敷きつめるというのは、私の想像を越えていた。

764

 えーと、中田でございます。年の瀬も、はるか遠くになりにけりで、みなさまいかがお過ごしでございましょうか。
 さて、今回、春頭スペシャル、ボツ特集ということで。あるんですよ、これが。やたら小むずかしいことを書いたやつ。あまりのくだらなさに、放り出しちまったやつ。捨ててしまえばいいのに、今日は書くことがないものだから、ワン・ポイント・リリーフ。

 戦後、もともと由緒ある地名がずいぶんと消えてしまいましたナ。
 東京の地名が変えられたことを哀惜してもはじまらない。私はとっくの昔にあきらめてます。
「江戸ッ子はあきらめに住するものなり」と、芥川 龍之介もおっしゃってます。
 あぁた、いいコトいうねえ。

 東京をぐるりと囲んでいる環状線が山手線。
 東京から北まわりに、神田、上野、日暮里、大塚から池袋。ここらあたりから、南にむかって新宿、渋谷。
 若い人たちのメッカ。なんのメッカか、ってーと、プリクラから、クレープ、ブルセラ、何でもそろってるって。
 東京から南まわりなら、有楽町、新橋、品川。ここから、五反田、大崎。目黒とくれば、渋谷はもうすぐ。
 若い頃から、一度はこの環状線、山手線でぐるぐるまわってみたい、と思ってきましたが、一度もやったことがない。なぜって。
 これには、深ーいわけがあるんザマス。

 戦後、「やまてせん」と呼ばれるようになっちまった。ヤだね。「やまてせん」だってサ。どこのどいつが、こんないいかたに変えやがったんでェ。私(あちし)は、ヤだね。誰が「やまてせん」なんぞというものか。「やまのてせん」といいますナ。

 「のて」ということばもなくなりましたネ。ついでに「まち」ってことばも。

 「のて」も「まち」もなくなっちまって、どこに行けばいいんだヨ。

 芥川 龍之介先生、堀 辰雄先生、先輩の植草 甚一先生なぞは、なんてったって「まちッ子」だい。私(やつがれ)と同年代の作家の北 杜夫あにさん、批評家の奥野 健男兄貴あたりは「のてッ子」て。おいらとは、氏も育ちもちがってましたネ。

 ただし、芥川 龍之介先生は、

   僕は先天的にも後天的にも江戸ッ児の資格を失いたる、東京育ちの書生なり。

 といってましたナ。
 オイラなんざ、たまたま東京の片隅に生まれたってェだけで、ものごころついてから千葉に移り住んだのだから、とっくに江戸ッ子の資格を失った、千葉のボテフリみてェなものってことになる。
 それでよござんすヨ。ただし、くたばるまで「やまてせん」とはいわねえ。「やまのてせん」といいつづけやしょう。

 うまれついてのあまのじゃく、一度きめたらテコでもボウでも動かねえ。
 ヤボがうりもので。イヒヒヒ。

763

 アメリカの映画女優、スザンヌ・プレシェットが亡くなった。(’08.1.19.) ロサンジェルスの自宅で。呼吸器不全。70歳。

 スザンヌ・プレシェットといっても、すぐに思い出せる人はいない。1937年、ニューヨークに生まれた。58年にハリウッドで、デビュー。
 「恋愛専科」(62年)、「鳥」(63年)などに出た。

 「鳥」は、ヒッチコックの代表作だが、主演のティッピー・ヘドレンの典雅な美貌の印象が強すぎて、友人の小学校教師をやったスザンヌ・プレシェットは、あまり印象に残らない。

 スザンヌの訃を知って、私は「鳥」を見た。ささやかな追善の意味で。
 いい女優だが、ティッピーのような「花」がない。
 あらためて、若き日のスザンヌを見ながら、女優の「運命」といったことをぼんやり考えていた。・・ 

 イギリスの女優、ナオミ・ワッツは「ザ・リング」(’02年)で知られている。原作は鈴木 光司のホラー、ハリウッド版リメイク。ただし、原作のヒロイン「貞子」が「サマラ」になっていたが。
 ナオミの生まれはイギリスだが、オーストラリア育ち。むろん、スザンヌ・プレシェットとは何の関係もない。
 ナオミは何かのオーディションで、当時まだ無名だったニコール・キッドマンと知りあう。ニコールはその後、ハリウッド女優として着実にスターダムにのしあがってゆくが、ナオミはずっと下積みの女優だった。やっと「マルホランド・ドライヴ」でブレイクしたときは34歳になっていた。

 あるインタヴュー(2002.11)。当時のナオミがニコールをどう見ていたか、という質問に、

  なるべく他人と自分を比較しないようにしていたわ。ついつい嫉妬したり、精神的に危険な状態になってしまうから。むろん、私も人間だし、いつもそういう心がけをまもった、というわけじゃないけれど。
   ただ、ニコールのことは、嫉妬するよりも、むしろインスピレーションというか、いい刺激だったわ。同郷の親友がブレイクしたんだから、私だってきっとうまく行くって。
   それに、彼女はいつも、
   「あなたはぜったいに成功するわ。あきらめないで」
   って、応援してくれてたし。
   だから、もし、他人と比較したくなったら、ほんのひと握り、幸運をつかんだ人と較べて、自己嫌悪に陥るよりも、逆の立場を考えるようにしてた。世間には、私の暮らしでさえ羨ましいと思う人がきっといるんだわ、って。

 私はこのインタヴューを読んで、ナオミ・ワッツに関心をもつようになった。

 スザンヌ・プレシェットはティッピー・ヘドレンをどう見ていたのだろうか。今となっては知るよしもない。ただ、「鳥」に出たあと、ティッピーはあっという間に引退してしまうのだが。

 スザンヌ・プレシェットの死から、すぐに別の女優の「運命」を考えたり、ひいては、芸術家の「運命」といったことを考える。へんなやつ。私。

762

二月三日、めずらしく雪が降った。積雪、4センチほど。
 鉄道のダイヤが大幅にみだれ、航空のフライトの多数に欠航が出た。関東各地の寺社では、節分の行事がとりやめになった。青梅マラソンも中止。
 首都圏では、30以上の大学、約100におよぶ小中学校の入試が行われたが、受験生たちにも影響したらしい。

   いざさらば 雪見にころぶところまで    芭蕉

 芭蕉の風流は私にはないので、炬燵にもぐり込む。いざさらば、雪見酒としゃれのめしたいところだが、あいにく禁酒。節分の豆まきもせず、私のアトリエには、日本じゅうの鬼さんがお集まりくださったものと思われる。

 奈良時代の奴婢(ぬひ)の食生活はひどいものだったらしい。正倉院の文書に、東大寺で使役していた奴婢に食べさせていた副食物の記録があって、ミソ、ショーユの外には、わずかな量のヒジキ、調味料はおスだけという。『万葉集』(巻16)に、

   香(こ)り塗れる塔にな寄りそ 川隈の尿鮒食(はめ)るいたき女奴

 という歌があって、当時の下層階級の人々の食生活がわかる。

 官吏が出張すると、一日、一升の酒が給せられた。現物給付だが、むろん、にごり酒。まさか、毎日、どぶろく一升を飲んだわけではないだろう。生活費に現金に換えたか、一部分を闇市に流したか。

 雪だるまを作るほどの積雪ではない。雪まろげ。雪ころばし。こんなことばも死語になった。私の住んでいる界隈も過疎化、少子化がすすんで子どもたちの姿も見かけない。
 つまりは、雪投げをする子どもも見ない。雪合戦などとっくにすたれてしまった。

   そなさんと知っての雪のつぶてかな     はぎ女

 こういう雪つぶてなら、ぶつけてもらいたいものだが、私には「はぎ女」のような恋人はいない。
 さはさりながら、二月、花の咲くのも間近い。

   万葉集にはなといえば梅の事ぞと定められし、桜を花と称するははるかに後の事ぞかし

 ご存じ春水、『梅暦』の書き出し。

761

 ある訳がほんとうに創造的な訳になっているかどうか、たとえば戯曲の訳を読むとはっきりわかってくる。

・Dorothy:   What a nice looking boy Pat is growing! You’ll have to keep an eye on him,darling.You know what women are.
Margery;    Oh,I’m not frightenrd.He’s absolutely innocent.And he tells me everything.

 Dorothy:   They talk a lot of nonsence about the young nowadays.I don’t believe they know half as much as we did at their age.

 Margery;   I wish they wouldn’t grow up so quickly.When Pat came back from school this morning,it gave me quite a shock.
 Dorothy:   I don’t care.It’s not like before the war.People don’t grow old like they used to.When Dinah and I go out together we’re always taken for sisters.

 ――これは、ある英文解釈の練習に出ていた問題の一部で、サマセット・モームの戯曲からとられたもの。イギリスのブルジョア女性の会話だが、つぎに出題者の訳例をみよう。

ドロシー パットはなんてハンサムな青年になってきたのでしょう。あなた気を付けなければいけないわ。女がどういうものかって、御存知でしょう。
マージャリ あら、その点心配無用なの。あの子、それは無邪気なのよ。それになにもかも私に打ち明けて話しますの。
ドロシー 近頃は若い人についてずいぶん下らぬことを言う人がいますわね。でも私たちがあの子の年の頃と較べると、半分も知ってはいないと思いますわ。
マージャリ 体ばかりどんどん大きくなるのは、こちらに迷惑だわ。午前中にパットが帰省したんですけれど、その姿を見たら、とてもショックでしたよ。
ドロシー 私は気にしないわ。戦前とは違いますもの。近頃は昔と違って誰もおばあさんにならないんですよ。私なんか、娘と一所に外出すると、いつも姉妹だと思われるの。

 英文解釈の問題なのだから上演を目的とした訳になっていなくてもいい、と考える人がいたらそれは誤りだろう。戯曲として書かれている以上は、あくまで上演を目的として訳すべきではないか。
 短い部分ながら、イギリス風俗喜劇の女たちの何でもない台詞の背後に、さすがにモームらしい、のうのうとした、しかも一種傲然たる表情が見えてくる。ところが、この訳例は、はじめから上演不可能で、そもそも舞台の台詞になっていない。全体が、ひどく平凡な説明ばかりで、その人物(キャラクター)の姿が浮き彫りになるような台詞は一つもない。
 「女がどういうものかって、御存知でしょう」という台詞は、なかなか意味深長で、(いずれは)年上の女が「パット」のような美少年に目をつけるわよ、という、かるいが辛辣な揶揄と、かならずしも無邪気とはいえない恫喝まで含んでいる。ところが「女がどういうものかって、御存知でしょう」という訳では、さりげない台詞の裏にひそんでいるモームのおそろしさ、いやらしさ、凄さが感じられない。
 「女たちがほっとかないわね」と訳せば、「ドロシー」の揶揄ばかりではなく、いい息子をもった友だちに対する一種の岡焼きめいた感情も出せるだろう。
 ところで「近頃は若い人についてずいぶん下らぬことを言う人がいますわね」というのが、ブルジョア夫人の台詞だろうか。「でも私たちがあの子の年の頃と較べると、半分も知ってはいないと思いますわ」という訳で、読者(観客)に何がわかるのか。
 こういう訳は、いわゆる「こなれていない訳」だが、同時にドラマの緊迫を無視した、つまりはクリエーティヴではない訳。

 おもしろくない訳。

760

論文の一節。

   中世の選ばれた指導者である騎士たちは、文字を書くことは一介の書記の仕事で、自分の思想さえあれば充分であると考えて、自分の思想と他人の思想を混ぜ合わせることをいさぎよしとしない人たちから見向きもされないものであるとみなした。

 ある歴史論文の訳の一節。まるっきり読みにくいわけではないが、一読ただちに頭に入ってくる訳ではない。著者の論点の明確さも、訳者の個性も感じられない。
 たとえば、つぎのように訳したらどうだろうか。

   中世、選ばれたエリートとしての騎士たちは、文字を書くことは祐筆にまかせておけばいいと思っていたし、わが身におのれの思想を堅持すれば、他人の思想をおのれの思想に混ぜ合わせるなど笑止なわざくれと見ていたのだった。

 私の考える「クリエーティヴな訳」がどういうものか、少しはおわかりいただけるかも知れない。翻訳はほんらいきわめて創造的な仕事なのだ。

759

 名訳がある。と、かならずそれを越えようとする名訳が出てくる。ただし、大学の文学部の先生などが小説を訳すとどうしようもない名訳ができあがる。

 ほんとうの名訳はどういうものか。
 ある短編の書き出しの部分をみよう。

 「巴里は包囲され、糧道を断たれ、気息奄々としてゐた。屋根の上には雀も殆ど姿を見せず、下水の鼠もだんだんに絶えていった。人々はなんでもかまわず、捕って喰ふといふ有様だった。
 一月のある明るい朝、乗馬ズボンのカクシに両手を突っ込み、腹をすかして、場末の通りをしょんぼりとさまよってゐた彼、本業は時計屋で、時節がら閑人(ひまじん)の仲間入りをしてゐたモリソォ君は、これも同じやうな風軆の男の子とぱったり行き遭って、足をとめた。見覚えのある顔だと思ったら、やっぱりその友達だった。ソォヴァージュ君といって、河で知合いになった男である。」

 モーパッサンの「二人の友」の冒頭の部分。岸田国士訳である。悠揚迫らぬ筆致ながら、さすがにめりはりのきいた訳になっている。
 おなじ部分を青柳瑞穂訳で比較してみようか。

 「パリは包囲され、飢餓に瀕していた。屋根の雀もめっきり減り、下水の鼠もいなくなった。人々は食べられる物なら何でも食べた。
 一月のある晴れた朝、本職は時計屋だが、時局がら、閑人になったモリソオさんが、普段着のズボンに両手を突っこみ、腹をすかせながら、場末の大通りをつまらなさそうにぶらついていたが、これも同様お仲間らしい男とばったり出会って、足をとめた。見おぼえのある顔だと思ったら、やっぱりそうだった。ソオヴァジュさんといって、河での知り合いであった。」

 読みやすい。岸田訳はもう半世紀以上も前の訳だけに、やはり古色蒼然たる趣きがある。これに較べて、青柳訳は昭和四十年代の訳で読みやすい。このあたり、現在の日本語の変化の大きさ、原作と翻訳のズレといった問題が伏在している。
 最近、昭和三十年代に出たドリュ・ラ・ロシェルの翻訳を読み直したのだが、大学の先生の手になるものとも思えないほど拙劣な訳だった。
 おかげで一日じゅう不愉快になった。

758

詩を訳したことがない。(マリリン・モンローが手帖にかきとめていた詩のようなものを訳した。これは、「ユリイカ」に発表した。)

 なぜ、詩を訳さなかったのか。詩を読むという単純な行為のうしろに、じつは大きな困難が横たわっていたからである。詩の翻訳は、訳者の感性、知性、あるいは文学的な読解力がいっぺんに見えてくるおそろしい領域である。

 具体的に例をあげてみよう。ただし、ここでは英語やフランス語の例をあげない。たとえば、オマール・ハイアムの詩の訳をみよう。

      樹陰下放着一巻詩章
      一瓶葡萄美酒、一点乾糧
      有爾在這荒原中傍我歓歌・・・
      荒原呀、阿、便是天堂!

 ごらんの通り中国語訳。若き日の郭沫若が訳したものという。
 おなじものの佐藤春夫の訳を並べて見る。

      荒野なれども 緑陰に
      詩(うた)の一巻 酒一壺(いっこ)
      糧一片(かてひとかけら) さてなんぢ
      わがかたはらに歌う時
      荒野もやがて ぱらいそう

 さすがにいい訳で、私などはうっとりしてしまう。芳醇な酒の匂い、まろやかな味が感じられてくる。
 私は中国語が読めないのだが、郭沫若訳も佐藤春夫訳も名訳というべきだろう。これを、別な人の原典訳で見ると、

    一壺の紅(あけ)の酒、 一巻の歌さえあれば、
    それにただ命をつなぐ糧さえあれば、
    君とともにたとえ荒屋(あばらや)に住まおうとも、
    心は王侯(スルタン)の栄華にまさるたのしさ!

 名訳とごくふつうの訳の違いはおわかりになるだろうと思う。
 私が詩を訳さない理由もおわかりいただけるだろう。

757

 私は翻訳をなりわいとしていた時期がある。そのうちに、なんとなく作家になってしまった。
 翻訳をやめるつもりはなかったが、何かのテーマを見つけると、どうしてもそれにひきずられてしまうのだった。もともと有名な作家ではないので、小説や評論を書くかたわら、長い期間、教育という仕事にたずさわってきた。
 いろいろな機会にいろいろと教えてきた。その仕事の一つに翻訳の講座があった。新人翻訳家の育成を目的とした講義だったが、私のクラスから、すぐれた翻訳家が多数登場している。
 この間、翻訳の世界も大きく変貌してきた。

 優秀な翻訳家がぞくぞくと登場してきた。大半が女性の翻訳家で、私のクラスからも優秀な新人たちが巣立って行った。すでに一流の翻訳家として仕事をしている人も多い。ほかの分野でもそうだが、翻訳という仕事でも女性がそれだけ大きく評価されるようになったといえるだろう。

 翻訳史の上では、若松賤子、八木さわ子、松村みね子、村岡花子といったすぐれた女流翻訳家の仕事がある。翻訳も、近代の日本人が文学にもとめてきたものを基本的にかたちづくってきた作業という意味では、上田敏、永井荷風、中村白葉、米川良夫、堀口大学、鈴木信太郎、中野好夫など--「悪の華」や「地獄の季節」、「黒猫」から「シャーロック・ホームズ」まで、すぐれた翻訳はほとんど男性の手になるものばかりだった。
 現在の翻訳は新しい意味で時代の感性をかたちづくるものになってきて、むしろ女性にむいているのではないか、とさえ思われる。翻訳という作業には、鋭敏な注意力、綿密な検証、さらには、何よりも文学的な感覚が要求されるからである。知的な意味で女性こそこうした天性にめぐまれているのではないか。

 翻訳はかんたんにいって外国語を日本語に置き換える作業だが、それがどういうものなのか、実際に説明するとなるとなかなかむずかしい。しかも、日本語の大きな変化がつづいている時代なのだから。

 私はじつは新人たちに何かを教えたわけではない。いつも、新人たちを「発見」してきたのだと思う。
 おこがましいが、これが私の教育の基本的な姿勢だった。

756

翻訳という仕事、外国語を日本語に置き換える作業とはどんなものなのか。

 一昔前だが、日本語はヨーロッパ系のことばとはじめから成り立ちが違うのだから、ほんとうのところ翻訳は不可能だという意見があった。なんと夏目漱石の門下だった野上豊一郎の「翻訳論」に、こういうアホウなことが書いてあった。

 なんという、つまらない考えだろう。

 たとえば――シェイクスピアの『マクベス』の登場人物、マクダフが、冷酷なマクベスの支配する祖国の現状をなげいて叫ぶ、有名なセリフがある。
 原文は“O Scotland,Scotland!”である。誰が訳したって、「おお、スコットランドよ、スコットランドよ!」ぐらいしか訳せないだろう。

 この簡単な三語をとりあげて――イギリスの俳優がわきあがるような声量のなかに憤怒(ふんぬ)と痛恨をこめて大空に叫び上げる調子を想像してみたまえ。日本語のどんな言いまわしを考えてみたって、この英語における質と量に匹敵する効果は出てこない、といったヤツがいる。
 やれやれ、またか。
 なるほど、この三語のなかには母音が五つあって、その五つとも日本語よりも幅がひろいことは認めなければならない。日本語にはない強弱のアクセントのはげしい効果がある。シェイクスピアはすごいなあ。私にしても、イギリスの名優たちが、舞台で、このセリフを声に出しているところを想像しただけで胸がおどる。
 ところが「日本語のどんな言いまわしを考えてみたって、この英語における質と量に匹敵する効果は出てこない」となれば、シェイクスピアを翻訳したって仕方がないことになる。
 こういう考えかたは、表面は正しいように見えながら、じつは間違っている。もし、そういういいかたをすれば、私たちにはチェホフの戯曲もわからないことになるし、アメリカの映画だってほんとうはわからないことになる。

 冗談じゃない。
 いい翻訳、すばらしい翻訳は、こういうアホらしい考えかたからはうまれてこない。

755

 ある時期まで、私はミステリーの翻訳家と見られてきた。かなりたくさんミステリーを訳してきたせいだったろう。
 推理小説のおもしろさを知ったのは中学生の頃だった。戦時中のことで、勤労動員にかり出されたため工場の行き帰りにミステリーに読みふけった。
 とにかく何でも読んだ。黄色い表紙の「世界探偵小説全集」や、加藤朝鳥訳の「全訳シャルロック・ホルムス」、ルパンやファントマ、アメリカのミステリー、ヴァン・ダインやエラリー・クィーンまで。
 英語で最初に読んだのは、戦後になって、ハメットという作家のものだった。ハメットは「マルタの鷹」を書いた作家である。

 戦後すぐに神保町の近くで、路傍にゴザをしいて、アメリカ兵の読みすてたポケットブックを並べている古本屋が出た。
 アメリカ兵が読みすてたポケットブックや、古雑誌をゴザに並べて売っている古本屋、そこで新しい作家、作品を「発見」するよろこびなど、いまでは想像もつかないだろう。
 ここで本をあさっているうちに、ハメットを手にしたのだった。本をパラパラめくっている(読んだわけではない)うちに、やさしそうに見えたのがウンのつきだった。
 家に帰ってから辞書を片手に読みはじめたのだが、何が書いてあるのかまったくわからなかった。

 当時、そばが十七円、古本のポケットブックが20円。私は、いつも昼食をぬいて、本を買って読んだ。新刊のポケットブックが買えるようになったのは1947年からだが、一冊4百円もした。(当時、円の為替レートは対ドル、1ドル=360円。これほどの暴利をむさぼった輸入商の名は、チャールズ・E・タトルという。聞きおぼえのある人もいるだろう。)

 私は、ハメット「発見」から手あたりしだいに、アメリカ小説を読みはじめた。こうして読みつづけているうちに、その作家について、文体のやさしさ、むずかしさ、作風についてもなんとなく見当がつくようになってきた。
 やがて、ヘミングウェイという作家を「発見」した。私は、当時、すでに批評を書きはじめていた。ある劇団の俳優養成所の講師をやっていた。そこで、俳優の朗読用のテキストにヘミングウェイを訳したのだった。
 私の最初の翻訳は「キリマンジャロの雪」という中編だった。

◆ 2008/01/20(Sun)  754

 
--旧作句集--

 こんなものを発表するのはおこがましいのだが、ある時期、うろうろしていた私の姿があらわれているような気がする。

    春なれや 青楼残るいなかまち

 もう、どこの町だったかおぼえていない。ひどく古びた木造建築の前を歩いて、ふと、入口の破風作りに気がついた。ほう、ここに遊廓があったのか。

 友人の竹内 紀吉君と会う。すぐに自分の書きたい小説のこと、作家の誰かれのこと、最近読んだ作品のことを話してくれる。
 夏だったのか。「時の過ぎ行きのあわれさよ」と前書きして、
    炎天下 一寸の虫のうずくまる

    行水や 手首とりまく白き肌

 これもどこで詠んだものか、おぼえていない。

    日ざかりを 恐竜展にいそぎけり

    大ホールに 恐竜をさす手の扇子

    フラッシュに「恐竜」ほえて 子らの夏

    白日の夏 恐竜の群れほえ 動く

 これは、幕張メッセの「恐竜展」。私は恐竜が好きで、「恐竜展」が開催されればかならず見に行くのだった。

    夏の日の彼方 はるかに思うこと

    炎天にきて きらめくや美女ひとり

    雲はやく動いて 昼の蝉しぐれ

    一天にわかに かき曇りつつ蝉の声

 この年、初秋、伊那は高遠、平家の落人の里に行く。ある医師の先生の別荘に遊びに行った。この先生のおかげで、いのちびろいをしたのだった。

    日まわりの 葉の萎れゐる線路わき

    秋空と 路肩頽れし甲斐路かな

    停止信号に 庚申塚や ダムの秋

    山路きて 平丞相の墓と会う

    秋日ざし 絵島の墓というを見る

 吉沢正英、集中治療室に入るという。暗澹たる思いがあった。

    大手術 風の動かぬ残暑の日

 竹内 紀吉君に招かれて、

    山々に風立つ秋や 「煕吉庵」

    内房の曇り空には 鷹の翔ぶ

    秋雨に カラスの翔ぶや 蔵の町

 この年の私はよく旅をしていた。山に登らなくなっていたせいもある。
 磐梯熱海。志田浜から雨にけむる猪苗代湖の一部を見る。

    湖に紅葉のけむる午後なりき

    時雨るるや その名も中山峠とか

    落ち葉舞う 真昼に 餌を鳩にやる

754

--旧作句集--

 こんなものを発表するのはおこがましいのだが、ある時期、うろうろしていた私の姿があらわれているような気がする。

    春なれや 青楼残るいなかまち

 もう、どこの町だったかおぼえていない。ひどく古びた木造建築の前を歩いて、ふと、入口の破風作りに気がついた。ほう、ここに遊廓があったのか。

 友人の竹内 紀吉君と会う。すぐに自分の書きたい小説のこと、作家の誰かれのこと、最近読んだ作品のことを話してくれる。
 夏だったのか。「時の過ぎ行きのあわれさよ」と前書きして、
    炎天下 一寸の虫のうずくまる

    行水や 手首とりまく白き肌

 これもどこで詠んだものか、おぼえていない。

    日ざかりを 恐竜展にいそぎけり

    大ホールに 恐竜をさす手の扇子

    フラッシュに「恐竜」ほえて 子らの夏

    白日の夏 恐竜の群れほえ 動く

 これは、幕張メッセの「恐竜展」。私は恐竜が好きで、「恐竜展」が開催されればかならず見に行くのだった。

    夏の日の彼方 はるかに思うこと

    炎天にきて きらめくや美女ひとり

    雲はやく動いて 昼の蝉しぐれ

    一天にわかに かき曇りつつ蝉の声

 この年、初秋、伊那は高遠、平家の落人の里に行く。ある医師の先生の別荘に遊びに行った。この先生のおかげで、いのちびろいをしたのだった。

    日まわりの 葉の萎れゐる線路わき

    秋空と 路肩頽れし甲斐路かな

    停止信号に 庚申塚や ダムの秋

    山路きて 平丞相の墓と会う

    秋日ざし 絵島の墓というを見る

 吉沢正英、集中治療室に入るという。暗澹たる思いがあった。

    大手術 風の動かぬ残暑の日

 竹内 紀吉君に招かれて、

    山々に風立つ秋や 「煕吉庵」

    内房の曇り空には 鷹の翔ぶ

    秋雨に カラスの翔ぶや 蔵の町

 この年の私はよく旅をしていた。山に登らなくなっていたせいもある。
 磐梯熱海。志田浜から雨にけむる猪苗代湖の一部を見る。

    湖に紅葉のけむる午後なりき

    時雨るるや その名も中山峠とか

    落ち葉舞う 真昼に 餌を鳩にやる

753

ロ-マ帝国が滅亡して、ギリシャ人、アラビア人がイタリアに流れ込んできたが、ここに科学の基礎が生まれた。
 占星術がイタリアにつたえられたのは、ビザンチンの学者、プレト-がフィレンツェで講義してからだが、錬金術はそれより先にエジプトからつたえられた。
 これが、やがて気象の研究や、植物の生成の観察など、さらに医学、天文学、植物学、鉱物学などに発展してゆく。
 錬金術は、先史時代からあって、鉱物や、金属の精錬にまつわる魔術を得意とした部族が、神聖な森に集まって、踊ったり祈ったりする秘儀から起こった。この錬金術の秘法に、ルネッサンスの人びとの強烈な欲望が重なった。
 いつの時代でもおなじだが、宝石が珍重され、金が欲望の対象となった。
 宝石は、人間の手にかからない自然の生んだ神秘だった。その神秘に憧れる気もちが、さまざまな護符や、幸運の指輪、金属のメダルなどの流行を生み、さらには人間の手で、この神秘を生み出そうという夢をもたらした。
 これが一方では、手相学、骨相学などにつながり、また、一方では、不老不死の秘法の探究に発展してゆく。
 水銀を凝固させて純金にする、とか、ほかの卑金属から金を作る技術がある、と信じられていた。そのためには「賢者の石」が必要なのだ。その「賢者の石」は、エリクサ(連金薬)とか第五元素と呼ばれているが、その精製は秘中の秘だった。ヴァチカンにも、この研究に熱中したロ-マ教皇がいる。
 『ロミオとジュリエット』に出てくる修道士は、ジュリエットに秘薬をあたえるが、あれも錬金術の一つと見てよい。
 トレヴィ-ソ伯は、「賢者の石」の発見に夢中になって、城も領地も売りとばし、ついに最高の秘法を発見したが、うれしさのあまり、病気になって乞食同然の死にかたをした。死んだとき、口から金の塊を吐いたという。

752

中世にくらべれば、ルネッサンスの時代ははるかに高揚した気分が見られる。
 フィレンツェの隆盛を代表するロレンツォ・デ・メディチの時代は、まさにハイ・ルネッサンスとよばれるにふさわしい最盛期だった。
 この時期、ルネッサンスによって、はじめて人間が血肉を得た、といわれる。
 ルネッサンスの人びとには、独立の人(ウォモ・シンゴラ-レ)、個の人(ウォモ・ユニコ)、他に抜きん出ようとする野望が共通していた。
 自分は他人とは違うのだ。こういう気もちは、君主も、傭兵隊長も、芸術家も、女たち、乞食、みんなに共通していた。女は、自分と寝る男がほかの女とは違うからだといってくれるように、セックスにもいそしんだ。

 ミラ-ノのルドヴィ-コ大公は、愛妾、チェッチ-リアに暇を出した(別れた)とき、「この女性(にょしょう)、性技、天下第一等」という証明書を書いてやった。
 こんなふうに、いつもシンゴラ-レであろうとして、ユニコをめざして、他に抜きん出ようという野望は、政治、経済、外交、戦術にもあらわれる。
 フランチェスコ・スフォルツァ大公は、臨終の床で、
 「もし三方に敵あらば、最初の敵と和を結び、つぎの敵と休戦し、さてつぎなる敵に打ちかかり滅ぼすべし」と、遺言した。

 銀行家も、商人も、経済戦争をつづけて、自分だけは生き残ろうとした。芸術家も、レオナルド・ダヴィンチをはじめ、いろいろな分野に手を染めて、ほかの芸術家に負けない仕事をするのが理想だった。ダヴィンチ、ミケランジェロ、もっとあとのベッリ-ニまで、ひとしなみにこの理想を追い求めた芸術家なのである。
 だが、こうした気概のうしろには、ロレンツォ・デ・メディチの詩にあるように、

    きたらむ時を な怖れそ。
    乙女うるわし 恋人うれし
    何思うべき 今日より先を

 といった、どこか悲哀にみちた予感がただよっている。

 万能人(ウォモ・ウニヴェルサ-レ)は、こうした時代に、不屈の気概をもって生きた人たちのことで、ダヴィンチほかの少数者だけをいうわけではない。

751

 
 1411年、「知識人」の指導者が、カンブレーの司祭によって告発され、断罪された。ジル・カントール、および、ヒルデルヘッセンのウィリアムという。
 カンブレーの司祭は、修道女、ブレマルダンの説く「天使の愛」を堕地獄のものと糾弾した。そして、ジル、および、ウィリアムの両名が、ブレマルダンと関係があったと断じた。
 異端審問官はこの二人をきびしく糾問して、ふたりがブレマルダンと淫らな行為にふけったと認めさせた。むろん、はげしい拷問の結果であった。

 ジル・カントールは、聖霊が訪れたことを告白し、キリスト教の四旬節、ほかの大斉日を守らぬように、この聖霊から命じられたと語った。
 ウィリアムは、イエスが十字架にかかって死んだのだから、告白、贖罪、人類に対する罪の赦しはいっさい無益になったと語り、よってこれらの秘蹟は放念してもよい、とのべた。しかも、聖霊にみたされた人間は、聖職者よりもただしく聖書を読みとくことができるし、人智を超えた説教ができると主張した。

 こういう神学的な問題になると、私にはわからないことばかり。

 ただ、私にもわかるのは――「知識人」の思想が、キリスト教異端のベギン派の修道院の思想とかさなりあっていることである。「知識人」の行状、教理を記録したピエール・ダイイの記録では、性行為をこばんだ仲間の女は、みんなから辱めをうけたという。この集団では、性交は、祈りにひとしい霊的行為と見なされていた。

 ただし、ウィリアムは、仲間どうしの乱交を外部に秘匿するように言明したという。
 人間の考えることは、あまり変わらないらしい。

750

 最近は、知識人ということばもあまりきかなくなった。
 私自身は、知識人ということばをほとんど使ったことがない。『ルイ・ジュヴェ』のなかで、ジッドに関して、知識人ということばを使った程度。

 ラテン語で Homines Intelligentiae.英語なら、intellectual だが、私たちが使っていたことばは、ロシア語のインテリゲンツィアからきたらしい。

 ラテン語の Homines Intelligentiae が、教養人に違いないが、14世紀、ベルギー、ブリュッセルに「ホモ・インテリゲンティアェ」という集まりが生まれる。
 中心になったのは修道女のブレマルダンという自由心霊派の女性だった。彼女の思想は、どういう行動をしても、罪とは見なされない恩寵の状態に達することができる、というものだった。そういう恩寵を受けてこそ、人は霊において自由であり、もはや人間のすべての法はおよばない、という。
 彼女の教えの核心に、天使の愛という、それまでになかった愛のかたち、というか、徹底した自由恋愛があった。
 最近の私は、宗教とエロスの問題を考えている。むずかしい。

749

今ではまったく使われない数えかたがある。

 イチジク、人参、山椒に、シイタケ、ゴボウに、剥きネギ、菜ッぱに、ヤツガシラ、クネンボウに、トウナス(かぼちゃ)。

 野菜をズラズラ並べたダケに見える。じつは、1から10までの数詞が符牒化されている。最後のトウナスは、唐茄子南瓜(かぼちゃ)と重ねることが多かった。
 縁日などで茶碗を買うと、商人(あきんど)がこれで茶碗を数える。

 昭和30年代の下町情緒を描いた映画、「3丁目の夕日」が、なぜかノスタルジックな感傷を喚び起こしている。
 戦前の下町育ちの私は、この映画にあまり下町情緒を感じないのだが、この映画よりも少し前、昭和10年代には、どこの町にも、その下町にぴったりの肉屋、魚屋、酒屋、お菓子屋、小料理屋などがあったものだ。

 呉服屋、下駄屋、足袋屋、饅頭屋、荒物屋、雑貨屋、ブリキ屋。現在は、見かけない職種の店。ほとんどが廃業してしまった。
 私の育った戦前の下町は、1942年までは、戦争の影響もまだ大きくなかった。それでも、糸繭の仲買とか、車屋(人力車)、馬力屋、草箒屋、棒屋となると、もうまったく消えてしまったはずである。

 棒屋といっても、テンビン棒や、農家がつかうクワの柄(え)を作る棒屋と、大八車や手車を手がける車大工の棒屋とあった。

 いまでも棒屋はあって、SMプレイ用の道具を作っていると聞いた。なるほどねえ。