詩を訳したことがない。(マリリン・モンローが手帖にかきとめていた詩のようなものを訳した。これは、「ユリイカ」に発表した。)
なぜ、詩を訳さなかったのか。詩を読むという単純な行為のうしろに、じつは大きな困難が横たわっていたからである。詩の翻訳は、訳者の感性、知性、あるいは文学的な読解力がいっぺんに見えてくるおそろしい領域である。
具体的に例をあげてみよう。ただし、ここでは英語やフランス語の例をあげない。たとえば、オマール・ハイアムの詩の訳をみよう。
樹陰下放着一巻詩章
一瓶葡萄美酒、一点乾糧
有爾在這荒原中傍我歓歌・・・
荒原呀、阿、便是天堂!
ごらんの通り中国語訳。若き日の郭沫若が訳したものという。
おなじものの佐藤春夫の訳を並べて見る。
荒野なれども 緑陰に
詩(うた)の一巻 酒一壺(いっこ)
糧一片(かてひとかけら) さてなんぢ
わがかたはらに歌う時
荒野もやがて ぱらいそう
さすがにいい訳で、私などはうっとりしてしまう。芳醇な酒の匂い、まろやかな味が感じられてくる。
私は中国語が読めないのだが、郭沫若訳も佐藤春夫訳も名訳というべきだろう。これを、別な人の原典訳で見ると、
一壺の紅(あけ)の酒、 一巻の歌さえあれば、
それにただ命をつなぐ糧さえあれば、
君とともにたとえ荒屋(あばらや)に住まおうとも、
心は王侯(スルタン)の栄華にまさるたのしさ!
名訳とごくふつうの訳の違いはおわかりになるだろうと思う。
私が詩を訳さない理由もおわかりいただけるだろう。