868

 レックス・ハリスンは、名優といっていい俳優だった。
 「クレオパトラ」のシーザー、「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授といった役のレックスをおぼえている人がいるかも知れない。

 最初の夫人はコレット・トーマス。社交界のレディーだったが、レックスはかなり長い期間、離婚訴訟で苦労した。当時、ウィーンの女優、リリ・パーマーに出会っていた。

 第二次大戦が終わった1945年、レックス・ハリスンはリリ・パーマーと結婚して、ハリウッドに移った。
 「ハリウッドは気候が単調で、刺激がなかった。贅沢はひとの身をほろぼすね。いちばんよくないのは、仲間うちのお愛想笑い、いいかげんなヨタ話だった」

 ハリウッドは、レックスにまったく将来性を見なかった。リリーもおなじで、彼女はブロードウェイに移った。舞台に賭けたといっていい。
 リリーと離れたレックスは、キャロル・ランディスという女優とわりなき仲になる。しかし、キャロルが自殺したため、最悪のスキャンダルに見舞われる。
 リリーは窮地に追い込まれたレックスを救うために、ハリウッドに飛ぶ。レックスは警察の尋問を受けたり、リリーともどもジャーナリズムの執拗な追求にさらされるが、なんとか切り抜けて、ブロードウェイに脱出する。
 のちに、ランディス事件についてレックスは語っている。
 「何カ月も精神分析医に通って、自殺について語りあったよ。自殺する理由を探しながらね。結論は、キャロルは死への欲求に憑かれていたことになった」。

 レックスはブロードウェイで、つぎつぎに名作の舞台に立つ。マクスウェル・アンダースンの『一千日のアン』もその一つ。リリーとは、ジョン・ヴァン・ドルーテンの『鐘と書物と燭台と』で共演する。

 レックスとリリーが、もっとも幸福だった時期。

 やがて、リリーは語る。

 「英国人は女が好きじゃないのよ。少なくとも、イタリア人やフランス人が女好きという意味ではね。イギリス人は、女をほんとうに見ようとしないの。レックスが私にいってくれた最高のお世辞は、私といっしょにいると、ほんとうの親友といっしょにいるような気がする、ですって。彼って男の中の男なのよ、イギリス男ってやつ」

 レックスはリリーと離婚して、イギリス女優、ケイ・ケンドールと結婚する。

 小田島 雄志の劇評にあった――「このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていたら、久しぶりに「歯ごたえのある愛に出会うことができた」という一節。
 これを読んだ私は、レックス・ハリスン、リリ・パーマー、ケイ・ケンドールの「地獄」を思い出した。これだって「やわな愛」の例だろう。
 しかし、見方によっては、男女の修羅、すさまじい地獄相に見える。
 そこで、また思い出す。

    すべて人に一に思はれずはなににかはせむ。ただいみじうなかなかにくまれ、あしうせられてあらむ。二三にては死ぬともあらじ。一にてをあらむ。

    自分が愛している人には、いちばんに愛されなければ、どうしようもない。愛されないのなら、いっそ憎まれたほうがまし。二番や三番の愛なんて、死んでもいやだわ。

 『枕草子』(九七段)。

 男女の交情がどれほどお手軽でも、女が、二三にては死ぬともあらじ、と考えているなら、その恋は「やわな愛」ではない。
 舞台や、世間でどんなに「やわな愛」を見せられようと、それはそれでいい、と私は考えている。

867

 ある劇評の書き出し。

    このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていたら、久しぶりに「歯ごたえのある愛」に出会うことができた。

 宝塚星組の「赤と黒」(スタンダール原作)の劇評で、小田島 雄志の「芝居よければすべてよし」(「読売」/08.4.19)から。

 劇評についてはふれない。
 ただ、「このところ舞台でも世間でも『やわな愛』を見せられることが多い、と嘆いていた」といういいかたに、いささか疑問を感じた。というより、この劇評家はこういうふうに考えるのか、と私が考えただけのことだが。

 「やわな愛」といういいかたから、私はエリッヒ・フロムを思い出した。かつて、世界的に読まれた思想家である。彼の著作『愛するということ』は、わが国でもベストセラーか、ベタセラーになったはずである。
 その冒頭の部分に、

    愛は、誰でもが、自分の人間としての成熟の度合と関連なしに、手がるに耽溺できるような感傷的なものではない。

 とあった。この思想家の意見では――ある人の愛がみたされることは、その人が隣人を愛し得る力をもっていて、真の謙虚と勇気と信念と訓練を欠いていては到達できないもの、ということになる。私の曲解ではない。本人がそう書いている。
 だが、はたしてそうか。

 私は書いたのだった。
 ダンテのベアトリーチェへの愛や、バオロとフランチェスカの愛は、誰でもが手がるに耽溺できるような感傷的なものではなかった。だが、人は、いつもダンテスクな愛だけをもとめているはずはないし、手がるに耽溺できるような感傷的な愛であっても、当事者にとっては、まぎれもない人間的な真実なのだ、と。(『メディチ家の人びと』/第九章)
 私は、このエリヒ・フロムを軽蔑する。おなじような意味で、「このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていた」といういいかたに、いささか傲慢なものを見る。

 たしかに、「やわな愛」を見せられつづければ、いや気がさすことはわかる。しかし、『赤と黒』が書かれた時代、フランスの舞台や、世間には「やわな愛」ばかりだったに違いない。とすれば、どういう時代の「愛」だって、手がるに耽溺できるような感傷的な愛ばかりなのだと見たほうがいい。
 人間の一生は、食ってはひって、やって寝るだけ、という江戸の庶民の卑俗な人生観を軽蔑するのはたやすいが、そういう人生観のなかで、卑猥な川柳や猥雑な俗曲があらわれてきたことを軽蔑しない。まして、庶民の交情を、「やわな愛」などと私は見ない。

 この劇評家は、久しぶりに「歯ごたえのある愛に出会うことができた」などと書くべきではない。手ごたえ、たしかな反応というニュアンスで「歯ごたえ」と表現していることもいかがなものか。

866

私の好きな歌として、中国、晩唐の詩、「半睡」を引用したいのだが、私のPCには字がない。
 野口 一雄先生の読みを紹介する。

   眉山 暗く淡く 残燈に向かう
   一半の うんかん 枕稜に 墜つ
   四體 人に着(つ)きて 嬌として泣かんと欲す
   自家は 揉損す がりょうりょう

 以下は、私の訳。

   燭台の残んの火影に ウエヌスの丘も暗くほのかに見え
   頭がずれて ゆたかな髪の半分が枕からあふれ落ち
   四肢を相手にまきつけて よよとばかりに浪声をあげようとする
   その手は思わず 衾のあやぎぬを もみしだきながら

 場面は残燈一戔、おそらくはクレアシォンということになる。眉山は、山なす蛾眉ととるべきだが、あえてモンスとした。「うんかん」は、雲鬢(うんびん)をまるくまとめたヘア・スタイル。「がりょうりょう」の繚綾は、ヴェトナム産の絹という。「が」は字がないのだが、絹の輝き。今のタイ・シルクに似ているかも知れない。

   ひとすじにあやなく君が指おちて みだれなむとす 夜の黒髪

 与謝野 晶子の一首を思い出す。

865

 古典を読む力がない。残念としかいいようがない。

   おもかげの霞める月ぞやどりける 春やむかしの袖のなみだに  俊成卿女

 これも私の好きな歌のひとつ。
 俊成卿女の人生の起伏を思えば、「春やむかしの袖のなみだ」にも真実の傷みがこめられていよう。

   こひわびぬ心のおくのしのぶ山 つゆもしぐれもいろにみせじと

 こういう和歌にまったく心を動かされない。

   キミニチャリノッテカレタラボクニハモウ
        ハシルシカナイ キミノトコマデ
             ぴー(24歳)

   この星ではじめて走ったのはあなた
        私のもとから逃げ出すために
             ジョゼ(19歳)

 ある雑誌で見つけたケータイ短歌。
 NHKのラジオ番組「土曜の夜はケータイ短歌」の応募作という。こういう短歌なら、私にもわかる。

864

 文学専門の批評家なのに、古典を知らない。さらには、古典の詩歌を知らない。
 恥ずかしながら、私もそんなひとりだった。

 俳句を論じたことがある。子規からはじめて、大正期の俳句まで、二年間、講義をしたのだが、学生たちがほとんど理解できないと知って、この講座は中断した。

 短歌についていえば、「アララギ」以後の歌人のものはずいぶん読んできたが、古典、とくに中世の和歌についてはほとんど知らない。
 中世の和歌について語らない理由のひとつは――俳句なら即座に思い出せるのに、和歌となると、なかなかおぼえられない。思い出せないことが多い。

    月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして
 読みやすいように上下に わざと空間を置いたが この和歌はおぼえていても、

   里はあれて月やあらぬと怨みても 誰 浅茅生に衣うつらん     良経

   身の憂さに 月やあらぬとながむれば 昔ながらの影ぞ もりくる  讃岐

 という連想がはたらかない。

 だから、読むには読む。鑑賞もするけれど、和歌についてはまともに論じる教養がない。もうすこし勉強しておけばよかったと思うけれどもう遅い。

   はるかなる岩のはざまに独(ひとり)いて人目思はでもの思はばや  西行

 こういう心境になれないのも、和歌を理解することが少ないせいだろう。

863

 いつも400字詰めの原稿用紙を使っていた。
 原稿用紙の枡目を、万年筆で1字々々、埋めて行く。ひどく効率のわるい仕事だが、原稿料の単価が、400字1枚でいくらいくらときめられていたから、400字詰めの原稿用紙を使うのが自然だった。

 これが習慣になって、プロのもの書きとして、原稿の枚数という感覚が身についたと思う。たとえば、30枚の短編という注文があれば、ぴったり30枚で書く。630字のコラムを書く場合には、ぴったり630字以内で文章をまとめる。

 サイズの問題は、じつはきわめて大切なのだ。

 たいていの同人雑誌作家たちの大半は、まるっきりこういう制約を知らずに書いているだろう。ほとんどの人が、自分の書きたいことをズラズラ書いているだけで、枚数という感覚が身につかない。つまりは構成力が身につかず、ジャーナリズムに適応できない。

 書きあげた原稿をじかに編集者にわたす。
 自分の原稿が、眼の前にいる編集者に読まれる。このときの、なんともバツのわるさったらない。
 自分ではけっこういい原稿を書いたという自信もある。しかし、編集者が何をいうかわからない。わるくすれば、書き直しを命じられるかも知れない。そんな不安がある。
 たいていの編集者は、少しぐらい不満があってもパスさせてくれる。締め切りが迫っているから。
 私は原稿を書くのは早かったが、ほとんどの場合、締め切りぎりぎりになってから原稿を書くことにしていた。
 原稿のできがわるくても、編集者が原稿を受けとってくれるからだった。
 今となっては、みみっちい了見を恥じるばかりだが、同時に、そんな原稿を受けとってくれた編集者に感謝の気もちがある。なつかしさも。

862

 たとえば、サイゴンの夕暮れ。
 帰宅をいそぐバイク。シクロの列。外出禁止の時刻が迫っている。
 私は、ベン・バク・ダン(河岸)のホテル・マジェスティックの裏側、レ・ロイ通りのカフェで、通りすがりの若い娘たちを眺めたものだった。彼女たちのアオザイ(長衣)は、かろやかなブロケ、下着はブラジャーと純白のクーツ(ズボン)だけで、ほっそりしたからだにぴっちり張りついている。

 サイゴンの美少女たち。しなやかなからだの線が、薄いアオザイを透して、はっきり感じられる南ヴエトナムの乾季。ほかにどんなすばらしい眺めがあろうと、メコンの岸辺に、涼をもとめてゆっくり歩いてゆく若い娘たちほど、美しい眺めはなかった。

 サイゴンの娘たちは美しかった、などといおうものなら、友人たちはみんなにやにやしたが、東京にいて、ヴエトナムのやすらぎにみちた風景はほんとうに想像もつかない。

 私自身が、戦乱のサイゴンの絶望的な様相といったものを予期して行っただけに、戦争に明け暮れるヴエトナムの姿などどこにも見あたらなくてとまどったくらいだった。こういうチグハグな印象はどう説明してもうまくつたわらないので、私はいつも黙っていた。
 ヴエトナムからの帰り、香港で知りあった女性がいる。
 私がしばらくサイゴンにいたと知って、興味をもったらしかった。私は、彼女の案内で、ニュー・テリトリーや、シャーティン(沙田)で遊んだり、いろいろなナイトスポットに行った。ただ、このときはじめて香港ポップスの美しさに気がついた。シャーリー・ウォンが生まれたばかりの頃のこと。まだ、テレサ・テンも登場していない。私は当時の歌姫たちのテープを買い込んだ。

 いよいよ、香港から離れるという日に、彼女が
 「どうだった?」
 と訊いた。
 私が、にやにやしたことはいうまでもない。

 帰国後、彼女をモデルにして長編を書いた。旅行はたしかに私の想像を刺激したが、私にできたのは外から眺めただけで、香港の内側に入り込み、自分もその一部になるようには書けなかった。

861

 はじめて海外旅行から帰ったとき、友人たちからこういう質問を受けた。
 「どうだった?」

 どうだった、というのはどういう意味だろう。思わず、相手の顔をまじまじと見てしまう。すると、相手はきまってにやにやする。
 なるほど、そういうことか、と納得する。さて、どう返事をしたものかと考えてしまう。
 「何もしなかったさ」
 といえば、
 「ウソつけ!」
 ときめつけられる。
 「よかったよ」
 などといおうものなら、
 「そうだろう。やっぱりイイんだろうなあ」
 とか、
 「チェッ! うまくやりやがったなあ」
 などと、羨望ともひやかしともつかないことばを浴びせられる。

 この主の質問には、こっちもにやにやすることにした。相手がどう解釈しようとお気に召すまま、というわけ。うっかり返事をして、ウソつきにされたり、ひやかされたり、どっちにしろ、やりきれない。

 外国旅行で、いちばん印象が深いのは、なんといってもその土地、その土地の女のことである。ふと行きずりに見かけた女でさえ、旅人の心に淡い翳りを落とすことがあるだろう。
 私にしても、旅先の土地で知りあった女たち、ほんの行きずりの女たち、そうした女たちに興味をそそられたことは素直に認めよう。
 そういうことがなかったら、旅情を慰められることもなかったに違いない。

 そういうときだけは、作家になってよかったと思った。

860

ヴォルテールが、イギリスの大劇作家、コングリーヴに会いに行った。演劇論を聞くつもりだったらしい。
 コングリーヴはヴォルテールにむかって、私は劇作家というよりも紳士なのだ、と答えた。
 ヴォルテールは、少し頭にきたらしい。
 「あなたが紳士にすぎないというのなら、わざわざ訪問することもなかったのに」
 と、いったという。

 このエピソードは、サマセット・モームの『サミング・アップ』に出てくる。
 モームはいう。

   ヴォルテールは当代きっての頭の切れる人物だったが、ここでは理解力の不足をさらけ出している。コングリーヴの答えは、意味シンなものだったのだ。
   というのは、喜劇作家が、コメデイという観点からまず考察すべき相手は、劇作家ご本人だってことを、コングリーヴがはっきり自覚していたという寸法なのだ。

 わずかな引用では、あまりピンとこないかも知れない。しかし、これだけでも、私がモームの凄さに敬意をもっていることはわかってもらえるだろう。
 モームは、もともと劇作家として知られていた。モームの戯曲は、今ではふるい作劇法にもとずいて書かれているが、おもしろさは少しも薄れていない。
 どうすれば、いい芝居が書けるのか。
 モームにいわせれば、「独特のコツが必要なのだ」という。
 だが、この「コツ」はどういうものから成り立っているのか。誰にもわからない。しかも、「コツ」は習って身につくものではない、とか。

   この「コツ」は、文学的な才能とはまったく無関係なのだ。げんに、高名な作家が芝居を書いてみじめに失敗した例が多いことからもそれはわかる。楽譜なしで演奏する才能のようなもので、とくに精神的に高級なものというわけでもない。しかし、これが身についていないと、どんなに深遠な哲学があっても、どんなに独創的なテーマを考えていようと、どんなに的確に登場人物が描けていても、芝居は書けない。

 モームのいいかたはまるで不可知論だが、私はモームのことばのただしさを疑わない。ある時期まで芝居の演出を手がけてきたので、モームのいう通りだと思った。
 それに、私あてに直接送られてきた外国人の(手書きの生原稿、タイプ原稿を含めて)戯曲や、じつにたくさんの創作戯曲を読んできた。そのほとんどは、芝居の「コツ」もわかっていないものばかりだった。
 その結果、私は戯曲を書かなかった。芝居の「コツ」は、頭で理解できても現場で身につけないかぎり、どうにもならないものだと思ったからだった。

 戯曲を書けなかったのは、はじめから才能がなかったからだが、モームのいいぶんがよくわかったからだった。
 これだけでも、私がモームに敬意をもっている理由はわかってもらえるだろう。

859

 先日、親しい女の子たちが、気のおけない話をしていた。
 どうしてそんな話題が出たのか、よくおぼえてもいないのだが、私が、サマセット・モームが好きだというと、翻訳家の成田 朱美(「愛がこわれるとき」など)が不思議そうな顔をした。

 え、先生は、モームがお好きなんですか。

 この反問には、私のほうがおどろいた。私がモームを好きだというのはそんなにおかしいことなのだろうか。
 私がアメリカの小説ばかり訳してきたので、私のクラスの女の子たちにとっては、意外な発言に響いたかもしれない。
 私とモームの違いはじつに簡単に要約できる。モームは一流の大作家だったが、私はせいぜい四流か五流、しがないもの書きにすぎない。最初から比較にならないことを棚にあげていうのだが、モームのようなみごとな才能に恵まれなかった私は、なおかつモームに親近感をもって生きてきたような気がする。

 モームがたいへんな読書家だったことはいうまでもない。特に、哲学者のものをよく読んでいる。私は、モームがスピノザ、バークリー、ヒュームなどを、らくに読みこなしていることに驚嘆した。私は、鈴木 大拙、西田 幾太郎、和辻 哲郎などを、らくに読みこなしてきたことはない。

 「私は若い頃にたくさん本を読んだが、自分のためになると思ったからではなく、好奇心と向学心からだった」とモームはいう。
 私も、けっこうたくさん本を読んだが、ひたすら好奇心のせいだった。ほんとうはいくら読んでもよくわからなかったというのが、実情だったのだろう。

 「旅行も、おもしろいのと、作家としての資料収集に役立てるためだった」という。

 私はあまり旅行をしなかった。暇もなかったし、旅行の費用も捻出できなかった。だから、作家としての資料収集の旅行など考えもしなかった。それでも、わずかな旅行の経験が、自分に大きな影響をおよぼしたと思っている。

 モームが南海を旅行して、はじめて書いた短編は『雨』だったが、最初にもち込んだどの出版社でも断られた、という。
 モームほどの作家でも、そういう屈辱に耐えてきたと思うと、私などは出版社に原稿をもち込む気になれない。実際、出版社に原稿をもち込んだことはない。べつに気位が高かったからではない。断られるとわかっていて、原稿をもち込み、実際につき返されたときの屈辱には耐えられないと想像したからだった。

 いずれにせよ、私はモームが好きなのだ。

858

 私の机に本が積みあげられている。

 『変愛小説集』岸本 佐知子訳(講談社 2008年)、『孤独なアメリカ人たち』アースキン・コールドウェル著/青木 久男訳(南雲堂 1985年)、『映画都市 メディアの神話学』海野 弘著(フィルムアート社 1981年)、『ハリウッド殺人事件』中田 耕治編・監修(ミリオン出版/1987年)、『スター』エドガール・モラン著/渡辺 淳・山崎 正己訳(法政大学出版局 1976年)、『セックス・シンボルの誕生』秋田 昌巳著(青弓社/1991年)、『ヌードの歴史』ジョージ・レヴィンスキー著/伊藤 俊治・笠原 美智子訳(PARCO出版 1989年)、『宿命の女 愛と美のイメジャリー』松浦 暢著(平凡社/1987年)、『The Great Movie Stars <The Golden Years> 』by David Shipman(Hamlyn/1970年)、 ”What Every Lover Should Know”by Marquis Busby(Motion Picture Classic)June 1929.

 今、この瞬間に、私の机の上にある本と雑誌。あるエッセイを書きはじめるために、私がかき集めてきたものばかり。
 このほかに、私が読み続けている単行本、文庫本、友人の個人雑誌などが、所狭しとばかり散らばっている。
 岸本 佐知子訳の『変愛小説集』は、毎日、短編の1つを読んでいる。どの作品もおもしろいので、いっきに読んでもいいのだが、少しづつ読んでゆくほうが岸本 佐知子の訳のみごとさをゆっくり味わうことができる。こういう仕事ができる翻訳家は、いまや貴重といってよい。ある有名な文庫で出たサマセット・モームの新訳、かつて中村 能三の訳にあったモームの凄さがまるで消えている。翻訳という仕事はむずかしいものだ。

857

 
(つづき)
 このとき、椎野 英之は、私にシナリオを見せてくれた。はじめてアメリカ映画のシナリオ作法にふれて私は驚嘆した。私は「東宝」で、シノブシスを書いたり、ほかのライターの書いたシナリオのセリフを書き直すダイアローグ・ライターといった仕事をしていたので、このシナリオ作法には大きな刺激をうけた。

 この映画でヒロインを演じる女優に新人が選ばれた。日劇ダンシング・チーム出身。根岸 明美。キワモノ映画だったし、内容がエロティックなものだったので、当時、有望だった新人女優を使うわけにはいかなかったのだろう。
 その根岸 明美が、つい最近、亡くなった。(’08.3.11.)73歳。
 黒沢 明の「どん底」、「赤ひげ」などに出ているが、女優として大成したとはいえない女優さんだった。

 芸術家は、自分ではどうしようもない非運にさらされることがある。

 映画女優、根岸 明美は、スタンバーグの「アナタハン」出演で、大きなチャンスをつかんだ。映画としては駄作だったが、根岸 明美は強烈な魅力を感じさせた。当時のスターレットとしてはめずらしいほど恵まれた肉体や、エロティックなマスクをもっていた女優だった。
 1953年(昭和28年)に、谷口 千吉の映画、「赤線基地」に起用された。この映画では、まだ、十七歳の新人だった根岸 明美は、アバズレのパンパンガールの役で、外地から帰国した素朴な青年(三国 連太郎)を相手に、エロティックな演技を披露した。むろん、今見ればエロティックでも何でもない映画の一つ。
 ところが、この映画は、アメリカ軍基地の周辺にむらがるパンパンガールを描いていたため、反米的な映画と見られて、九月の公開をめぐって論議が起こり、当時の小林社長の裁断で公開が中止された。
 映画監督、谷口 千吉はこれで挫折した。そして、女優、根岸 明美の魅力を生かした映画は作られなかった。「どん底」や「赤ひげ」などに出たといっても、黒沢 明は、いい女優を育てるようなタイプの監督ではない。たとえば、中北 千枝子を見ればわかるだろう。「どん底」や「赤ひげ」などは女優としての根岸 明美の可能性をひろげたものではなかった。

 根岸 明美の訃報が出た日に、歌手の沢村 美司子が亡くなっている。沖縄出身。66歳。戦後、マーロン・ブランドが日本人を演じた映画、「八月十五夜の茶屋」(57年)に出た。

 この日、なぜか「めっちゃくたばりそう」な気がした。

856

 友人の椎野 英之は戦後すぐに「時事新報」に入社したが、やがて、「東宝」に移って、製作の仕事をするようになった。
 ある日、私をつかまえて、スタンバーグ(映画監督)を知っているか、と訊いた。
 椎野 英之はあまり知らないようだった。私は「モロッコ」を見ていたので、スタンバーグがディートリヒを撮った映画について話してやった。

 数日後、びっくりするようなことを教えてくれた。

 「スタンバーグが、日本で映画を撮りたいっていってきたらしい」

 スタンバーグが「東宝」で映画を撮る可能性を打診してきた。このニュースに私は驚いた。
 ジョゼフ・フォン・スタンバーグは、私たちには「モロッコ」だけで知られていたが、映画が無声からトーキーに転換した時期、すでに映画界を去っていた。はっきりいえば、過去の名声だけを身にまとった最後の巨匠、あるいはラテだった。
 戦後、イギリスの女優、アン・トッドを使って、「超音速ジェット機」を撮ったが、演出にまるで切れがなく興行的にも失敗した。
 スタンバーグが「東宝」で映画を撮るという。おそらく映画監督としての再起をかけた仕事になる。
 この交渉には、東宝側は重役の岸 松雄、「東和」の川喜多 長政などがあたったのだろうと思う。ただし、おそらく記録はない。

 スタンバーグが日本で撮った映画は「アナタハン」という。
 南方戦線の孤島で、敗残の日本兵十数名のなかに、沖縄出身の女性がひとり、という実話にもとずいたものだった。
 スタンバーグの映画監督復活を期待したが、残念なことにこの映画はほとんど問題にならなかった。
   (つづく)

855

  (つづき)
 現在の私たちの環境で、ツヴァイクほど痛烈に学校教育をこきおろす人はいないだろう。当然ながら、ツヴァイクは二十世紀の教育を受ける子どもたちを心から羨望している。
 二十世紀になってからの子どもたちは、幸福に、自由に、独立して子どもじだいを過ごせるようになっている。そのことにある種の羨望を禁じえない、とツヴァイクはいう。
 子どもたちはなんのこだわりもなく、先生たちと対等に話しあっている。誰も不安をかんじないで通学している。しかも、若くて好奇心にみちた魂からはっする願いや好みを学校でも家庭でも公然と口にできること、そのようすを見ると、私(ツヴァイク)自身は、あり得べからざることに見える、と。

 そんなふうにいわれると、私などは、なんとなく居ごこちがよくない。

 学校の先生に対しても、ツヴァイクの見方はきびしい。

    彼らはよくもなくわるくもなかったし、暴君でもなければ、助けになる味方でもなく、哀れな連中だった。前例や、文部省で予定された教科の課程に、まるで奴隷のようにしばりつけられて、生徒が自分たちの「課題」を片づけなければならなかったように、先生も自分たちの「課題」を片づけなければならなかったのだ。

 と憐憫とも侮蔑ともつかないことばを投げつけている。先生は生徒を愛してもいなかったし、憎んでもいなかった。「なぜかというと、彼らは、われわれについて何も知らなかったからである」と。

 私たちの環境でも、こういう先生がいないとはかぎらない。

854

 教育は、それぞれの国によって違う。
 たとえば、十九世紀ドイツでは、いわゆる良家の子弟を大学に進学させるアカデミックな教育が必要と考えられていた。しかし、小学校とそれにつづくギムナジウムの8年間は、ある人々にとっては、けっしてバラ色のものではなかった。
 ステファン・ツヴァイクの回想、『昨日の世界』を読んだ人は、十九世紀の教育がどんなに陰惨なものだったかを知らされる。

 ツヴァイクについて説明する必要はない。私は、若い頃、ツヴァイクの評伝、『ジョゼフ・フーシェ』や、『マリア・ステュアート』、『バルザック』を読んだことから、のちに『ルクレツィア・ボルジア』や、『メディチ家の人びと』といった評伝を書こうと思った。その意味で、私がもっとも敬愛する作家のひとり。
 そのツヴァイクが断言している。

    私のすべての学校生活は、正直にいって、たえず退屈きわまる倦怠以外の何ものでもなかった」と。

 ツヴァイクにとって、学校とは何だったか。

    学校とは、私たちにとっては強制であり、荒涼たる場所であり、退屈なところ、「知るにあたいしないものの勉強」をことこまかに別れた科目別に習得しなければならない、しかも実際的な関心や、おのおのの関心とは何の関係もない場所だった。

 あれほど博識をもって知られている作家が、学校教育に対して、これほど否定的な姿勢をとっている。それも、ただの否定ではない。「もっとも美しく、もっとも自由であるべき生涯の一時期を、徹底的におもしろくないものにした、あの単調で、無慈悲で、活気のない学校生活で、一度たりとも、愉快だったとか、幸福だったりしたことは思いだせない」という。
    (つづく)

853

 古雑誌の整理。自分の書いたものが掲載されていたりする。焼き捨てる前に読み返す。こんな文章があった。

   久しぶりで、「近代文学」が機会をあたえてくれたので、しばらく勝手な仕事をさせて頂くことになった。
   自分でもまるで自信がなく、もしかすると、途中で力つきて、あるいは、あきて投げ出すかも知れないが、かなり長いあいだ書きたかったものなので、思いきって手をつけてみた。こういう仕事は、どこでも歓迎してくれないし、にもかかわらず書きたいとなれば、今のうちに手がけておいたほうがいいと思う。
   もう、数年前に、ロドリゴに関してエッセイを書いたことがあった。ある雑誌のために書いたものだったが、これは発表されずに終わった。私は、そのときから、何度か断念したり勇気をふるい起こしたりしてきたが、「近代文学」の好意がなければ、こうして、チェーザレ、ルクレツィアという人間の姿をとって、ルネッサンスにあらわれる異様な情熱を描く決心もつかなかったろう。この連載が終ったとき、資料を列挙するつもりだが、私の読み得たかぎりでは、イタリアのマリア・ベロンキ、アメリカのジョーン・ハスリップの評伝が学問的には重要らしく、そのいずれにも、私は多くを負うものだが、文学的には、フランスのリュカ・ブルトンの評伝がいちばんおもしろかった。
   しかし、私のものは評伝ではなく、むしろへんな小説として読まれてもいいと思っている。
 --「近代文学」(1963年5月号)。連載、第一回の「あとがき」。

 この連載は「近代文学」廃刊のため、残念ながら中断した。
 当時、「近代文学賞」というものがあって、私の『ボルジア家の人々』も、この賞を受けたが、これは「近代文学」の人びとが連載を中断しなければならなかった私を憐れんで、あたえてくれたものではなかったか。

 のちに『海』の安原 顕が連載の機会をあたえてくれたので、あらためて『ルクレツィア・ボルジア』として完成した。

 今の私なら、マリア・ベロンキや、ジョーン・ハスリップよりも、むしろグレゴロヴイウスや、サバティーニをあげるだろう。評伝を書くむずかしさが身にしみてくると、グレゴロヴイウスや、サバティーニが立ち向かった時代のほうが、ルネサンス研究の進んだ現在よりも困難ははるかに大きかったと見ていい。
 この「あとがき」には、私なりの覚悟が語られている。若気の至りで、評伝を書くほんとうの困難に気がついていない。こうまで自分を納得させなければ仕事にならなかった自分が可哀そうな気もするが、一方では、若かったなあ、という感慨もある。

 長いものを書こうとすると、きまってさまざまな困難がやってくる。その都度、あっさり断念したり、ときには未練たらしくこだわったり、ときには必死に勇気をふるい起こしたりして、仕事をつづけてきたものだった。

 戦後すぐに私を認めてくれた「近代文学」の人びとに、あらためて感謝している。

852

 (つづき)
 戦後、私がいちばん多く読んだのはイギリスの戯曲だった。理由は簡単で、神保町の洋書専門の古書店では、たいていイギリスの戯曲が棚ざらしになっていた。誰も読まないらしい。
 英語を勉強する気で戯曲をあさった。なにしろ値段が安かったから。おかげで、戦前のノエル・カワードはほとんど全部読んだ。戦後すぐに、アメリカの民間情報局が日比谷にライブラリーを開設したが、つづいてイギリス占領軍もおなじようなライブラリーを作った。私はこの図書館に通ってはイギリスの演劇雑誌を読みふけった。

 はるか後年、私は映画批評を書くようになった。

 試写室で会う先輩の映画批評家たちに挨拶した。植草 甚一さんと親しくなって、いろいろ話をうかがうことも多かった。
 飯島さんにおめにかかって、いつも挨拶するようになった。
 戦争中に、先生の講義を聞いたとつたえると、飯島 正は驚いたような顔をした。まさか、当時の学生のなかから、もの書きになったやつがいるとは思ってもみなかったのだろう。

851

戦争中にノエル・カワードを読んだ。少年時代、あの空襲の日々に、ノエル・カワードを熱心に読んでいた少年。自分でも信じられない。
 たしかに、16歳の私はノエル・カワードを読んでいた。原書を読んだわけではない。『若気のあやまち』(飯島 正訳/昭和10年/西東書林)で、はじめて彼の戯曲を知ったのだった。
 翻訳した飯島 正の名前も心にきざみつけた。

 戦局の悪化にともなって、中学生も上級の学校にスキップできることになって、私は、中学4年(いまの高校1年)から大学に入った。
 そして、幸運にも飯島 正の講義を聞いた。週に1コマ、リュミエールからの、おもにフランスを中心にした映画史の講義だった。私はもっとも熱心な学生のひとりだったと思う。
 ある日、教室に入ってきた飯島先生は、私たちの顔を見つめながら、
「今日の講義は……ほんとうはふれてはならないとされていることなのですが……映画史としては落とせない部分なので、とりあげておきます」
 と語った。
 飯島 正はエイゼンスタインの「戦艦ポチョムキン」を紹介しながら、ソヴィエト映画の大まかな歩みを教えてくれた。
 このとき、私は、知識として、ジガ・ヴェルトフや、プドフキンといったロシアの映画人の仕事をはじめて知った。飯島 正は分厚な本に出ている写真を学生たちに見せてくれたのだった。
 そのときまで何ひとつ知らなかった私は、ロシアでは何かまったく違った種類の映画がおびただしく製作されているらしいと思っただけだった。
 この講義の内容を警察なり憲兵に密告するような学生がクラスにいたら、飯島 正は検挙され、治安維持法違反で、ただちに投獄されたはずだった。

 今の私は、当時の少年たちに何かをつたえようとしていた飯島 正に感謝する。少なくとも、何も考えなかった少年に、はじめて外国にはまったく違ったイデオロジックな映画が存在することに気づかせてくれたのだから。
   (つづく)

850

 私は陳 明(チェン・ミン)のファンだった。広州のポップスのシンガー。
 しばらくして、日本には同名で二胡の奏者の陳 明(チェン・ミン)が登場する。
 この二胡の奏者も好きだが、ポップスの陳 明(チェン・ミン)のCDは、なかなか手に入りにくいので、最近は聞いていない。

 香港ポップスに小雪(シャオ・シュエ)という少女が登場した。なかなかいい歌手だった。
 やがて日本に、同名の小雪という映画スタ-が登場する。「ラスト・サムライ」のヒロインといえば、誰でも知っている。あるエッセイで、「小雪(シャオ・シュエ)のことを書いたが、ある日、「先生は、小雪みたいな女性がお好きなんですね」といわれた。
 このとき、はじめて日本に同名の映画スタ-がいると知った。

 一昨年あたり、私は範 冰冰という女優さんを知った。なにしろ、範美女在博客上也極盡“酸甜”という美女である。
 おなじ時期に、李 冰冰という女優さんも見た。こちらのほうは、“小女人”的な女優だった。名前が似ているので、字面だけでは区別がつかない。しばらく前に、台湾の白 冰冰という女優さんがいた。日本で、ひどいスキャンダルに巻き込まれて、その後の消息をしらない。

 韓流のドラマや映画では、女優さんの名前が似ているのでなかなかおぼえられない。
 チェ・ジウや、ソン・イェジンのように有名な女優さんなら間違えっこないが、私が好きなイ・ジーウォンなんて誰にもわからない。

849

 
 横浜、「KAORI」のクッキーは、世界じゅうどこの外国に出しても遜色のない高級品だが、これを召し上がりながら、野木 京子の詩を読む。おいしい。
 ついでに、英語の詩。テニソン、ワーズワースから、ボブ・ディランまで。ただし、英語の詩を読むといっても、一編だけ読むのだから詩の鑑賞などというものではない。
 つまみ食い。

    Innocent was she,
    Innocent was I,
    Too simple (were) we!

 こんな詩句を見つけるとうれしくなる。というより、ニヤニヤしたくなる。これが、ハーデイの作。
 ハーデイについては、いつか別に考えることにしよう。

 ついでに、アメリカの女流詩人を。
 ガートルード・ルイーズ・チェニーの詩。どういう詩人なのか知らない。

  All people made alike,
  They are made of bone.flesh and dinner
  Only the dinners are different.

 そりゃあ、そうだよネ。ガートルードさん。
 彼女の詩とは関係なく、別のことを考える。ものを食べるという行為は、人間のあらゆる行為のなかで、いちばん即物的なものだ。ところが、世間には、食通という人々がいて、「美味」という観念を頭につめ込む。
 グルメなどと称する連中は、ものを食べるという行為をはたしてどこまで徹底して考えているのか。

 おカキをかじりながらミルトンなんか読む。ほんの数行。
 けっこういい気分になる。
 カキのタネなら、詩よりもチョーサーだな。バリバリ音を立てて食べよう。
 チョーサーは「ことばは行動のいとこでなければならぬ」といった。なんとなく、カキのタネを食べたくなる。(笑)