(つづき)
ところで――
「わたしはいったいどうしたらいいんでしょう?」
チェホフの「退屈な話」に出てくる老いぼれの大学教授は、養女で「恋人」のカーチャの問いに、ただ、
「私は知らない」
と答える。
私にはこのシーンがすばらしくドラマティックなものに見える。悲しいセリフだなあ。しかし、いいセリフだなあ。私が演出したら、どういうふうに演出するだろう。
きみからメールをもらって、こんなことを考えた。
またいつか私を思い出したらメールをくれないか。
(つづき)
ところで――
「わたしはいったいどうしたらいいんでしょう?」
チェホフの「退屈な話」に出てくる老いぼれの大学教授は、養女で「恋人」のカーチャの問いに、ただ、
「私は知らない」
と答える。
私にはこのシーンがすばらしくドラマティックなものに見える。悲しいセリフだなあ。しかし、いいセリフだなあ。私が演出したら、どういうふうに演出するだろう。
きみからメールをもらって、こんなことを考えた。
またいつか私を思い出したらメールをくれないか。
つづき)
八木 柊一郎の『三人の盗賊』のときは大川を演出助手に起用した。
『闘牛』のときは、舞台監督に使った。
きみも知っての通り、芝居の世界は稽古に入ったときから思いもかけないことの連続で、トチリや、失敗、仲間どうしのねたみや嫉妬、ときには日常では起きることのない昂揚、<Sternstunden>(たまゆらのいのちのきわみ)、それこそ笑ったり泣いたりをくり返してきた。
この芝居の稽古中にも、いくつも奇事、奇ずいめいたおもしろいことが重なって、みんなの泣き笑いのなかで、芝居の成功を確信した。芝居者の迷信に近いものだが、とにかく大川がいてくれたおかげで、この芝居はいつもと違うものになると思った。
そして成功した。それもこれも、大川がいてくれたおかげだった。
また別の芝居だったが、劇中のラヴシーンで、大川は、「先生、舞台いっぱいに綺麗な花を飾りましょう」という。それはいい。しかし、「キエモノ」の経費を考えただけで、はじめから不可能な話だった。
そこで考えたのは、費用をかけずに花がつくれないか、ということになる。大川といっしょに考えた。そして、考えたのは――現在の物価でも、せいぜい1500円程度で――それこそ百花繚乱のシーンだった。
われながらとてつもないアイディアで、大川とふたりで大笑いした。そうときまれば、こっちのもんだ。ソレっとばかりに役者たちを督励しながら「花作り」に精を出した。
舞台いっぱいとはいかなかったが、タテに5メートル、幅は2メートルの花のタワーを作ったのだった。
この芝居もなんとかうまく行った。
「木地のままの縁台(トントオ)が一つあれば、それでいいのだ」
と、コポオはいった。私は、このコポオを尊敬していた。
だから私はほとんどすべての舞台で、まったく赤字を出さなかった演出家だった。
大川というと、いつも元気に舞台を作っていた姿を思い出す。
その彼が、きみの土地でバレエの台本を書いていたことは知っていたが、一度も見に行けなかった。残念というより、おのれの不実がくやまれてならない。
村上君
きみが市民演劇のために戯曲を書きつづけていたことは知らなかった。
戯曲は、上演されないかぎり、人の眼にふれることはない。活字として発表されることが少ないため、残念ながら、そのまま忘れ去られることが多い。
いつか、私にきみの戯曲を読ませてくれないだろうか。
楽しみにしているよ。
(つづく)
村上君
きみから思いがけないメールがあってうれしかった。ありがとう。
こんなかたちで、とりとめもない文章を書いていると、ときどき思いがけない人からメールをいただく。ほとんどが未知の人からのものだが、きみのようにずっと消息がとだえていた人からのメールは、なつかしさと同時に、遠く離れた土地で私のブログを読んでくれる人がいることがわかってうれしいのだった。
「私のことをおぼえておいででしょうか」と、きみは書いている。
私が富山を去るとき、きみはわざわざ深夜の駅まで見送りにきてくれたね。夜行列車だったから、プラットフォームにはもう誰もいなかった。ただの旅行者といっていい私を、わざわざ駅まで見送ってくれたきみの好意は忘れるはずもなかった。
あれから、おびただしい歳月が過ぎてしまった。
お互いに共通の友人だった桜木 三郎も亡くなっている。大川 三十郎も。
自分の人生でめぐりあった貴重な友人たち。
大川は、私の小さな劇団で、演出助手、舞台監督をやってくれた。私のように空想家で、実際の舞台ではとてもできそうもないことばかり考える演出家にとって、彼ほど有能で実際的な助手はいなかった。
私もそうだったが、彼も芝居のことしか頭になかった。しかも、じつにいろいろな本を読んでいた。いちばん好きな作品は、ドリュ・ラ・ロシェルの『ジル』だった。ドリュは、当時ひどく評判の悪い作家だったから、私は驚いたおぼえがある。
『ルイ・ジュヴェ』のなかで、しばしばドリュについてふれたのも、じつは大川を思い出して書いたのだった。
大川は、私の訳した『闘牛』が気に入っていた。登場人物が、30名。小劇団ではできそうもない台本だった。「先生、あのホン、ぜひやりましょうよ」といいつづけた。
私は、彼の熱意にほだされて演出を決意したのだった。 (つづく)
ぶさカワイイ。不細工だが可愛い。最近の新造語。
青森のオバサンが、ノライヌを育てている。このイヌは秋田犬(あきたけん)だが、顔つきがライオンに似ているので「レオ」と名づけた。
たまたま、よそのオバサンがこのイヌを見て「わさお」という名前をつけた。「わさおくん」は、なんともぶさカワイイ。彼はネットで紹介されて評判になり、多数のファンがアクセスしてきた。地元では「わさお」をデザインしたTシャツが作られたり、ファンクラブができたり。
近頃、ろくでもない話題ばかりが多い時代にこういう話を聞くのは楽しい。
私たちには「可愛い」モノに対する愛情がある。
やがて、そうした感情に別のファクターがくわわる。たとえば、グロテスクなもの、エグイもの、こわいもの、エロいものまでも、ひとしなみに「カワイイ」に変換させる。このファクターは「カワイイ」ものに対する崇拝 worship といってよい。
たとえば、少女マンガによく見られる。
前世紀末に、『ノンセクシュアル』、『ハンサムウーメン』、『カサブランカ革命』、『花になれっ』といったヤングアダルトや、少女マンガがぞくぞくと出てきて、これが何かの流れになりそうな気がした。私の予想は外れた。
9.11.の余波もあったのか。こうした傾向は、私の予想と違って綺麗に消えてしまった。いまになってみると、こうした作品も「ぶさカワイイ」例だったのかも知れない。そんなことを考えた。
テレビが、このイヌ「わさおくん」を紹介していた。(’09.1.20.NHK/総合 5:48.am)「青森」の若い女性アナウンサーが、秋田犬を「アキタイヌ」と呼んでいた。間違いではないが、ちょっとあきれた。
ぶさカワイイから、ま、いいか。
東京オリンピックのマラソンで、アベベが優勝した。このとき、日本代表だった円谷 幸吉は最後まで力走して、3位になった。
だが、その後、円谷 幸吉は自殺した。どうして自殺しなければならなかったのか。長いこと疑問に思ってきた。
東京オリンピックから、円谷 幸吉は岐阜の国体で、優勝を期待されながら2位。メキシコ・オリンピックをひかえて、不調がつづく。2年後、26歳の円谷 幸吉は自衛隊幹部候補生学校に在学中だった。
この頃、彼はある女性と結婚して、再スタートを切ろうと決心していた。相談を受けた父も、コーチも結婚に賛成だった。
ところが、思いがけないところで反対された。
自衛隊体育学校の校長が反対した。大事なときに、結婚とは何事か、という叱責だったらしい。
円谷 幸吉の家族と、相手の女性の家族が、福島県の郡山市で会ったとき、この校長も同席したが、その場で、「私は賛成できない」と放言した。
けっきょく、先方からこの縁談を断ってきたという。
円谷に結婚をすすめたコーチは、この直後、札幌のスキー訓練部隊に転属された。
1968年9月、円谷 幸吉は自衛隊幹部候補生学校を卒業。教官に任命されたため、ランナーとして鍛えるべき時期を教官という激務で制約された。
歳末、故郷の実家ですごした円谷 幸吉は、正月、自衛隊体育学校に戻って、松がとれてすぐに自殺している。
その後、この自衛隊体育学校の校長は平時の武官としては最高の栄誉を受けて退任したはずである。さぞ、ご満悦だったに違いない。
まあ、そんなことはどうでもいい。
作家としての私は、この自衛隊体育学校の校長が、円谷 幸吉の自殺を知ったときどう思ったかを知りたい。むろん、何を語るはずもない、とは思うけれど。
自分の勲功が、じつは円谷 幸吉に多くを負っていたことを考えたろうか。おそらく、そんなこともなかったのだろう。
もっとも嫌いな日本人をあげるとすれば、私は躊躇することなく、この自衛隊体育学校の校長をあげるだろう。おのれの権威を笠に、傲慢、低劣に人生をうまく立ちまわってきた典型的な軍人として。
この人物のことをもっとも恥ずべき日本人として、憎悪をこめて心に刻みつけておく。
1作や2作、戯曲を書いたところで、劇作家として通用するはずはない。
小さな劇団でも結成して、自分で公演を企画するのでもないかぎり、自作を舞台にかける可能性はほとんどない。
せめて、読者に読んでもらいたいという思いも、雑誌に発表される可能性はない。
同人雑誌でも、戯曲を掲載する機会は少ないだろう。
たったひとりの観客も、たったひとりの読者も得られないまま、芝居を書きつづけてゆく、というのは、あまりにも過酷な試練になる。
むろん、それが表現者の宿命であるというのは――誤りなのだ。もの書きの孤独は、書くという営みの結果ではなく、条件なのだ、というのか。
少し古い統計だが、イギリスの避妊具メーカーが、’05年に41カ国を対象に実施した。年間、性交回数の調査。これによると、
トップはフランスで、平均、120回。
日本は、45回。最下位。
かんたんにいえば、フランス人はセックスがお好きということになる。
日本人は、もともと淡白で、あまりセックスが好きではない・・・ということにはならない。体力(精力)がないのか、セックスする時間がないのか、アセクシュアルな状況にあるのか。
おもしろいことに、フランスでは、昨年の統計で、婚外子率が52パーセント。
日本では、わずかに、2パーセント。
フランスでは、当事者が結婚していようといまいと、妊娠した子どもは生まれてくる。ところが、日本では、子どもは結婚してから生まないと、世間体がわるいという考えかたがつよい。だから、「デキちゃった結婚」が多い。
こんなことからも、フランスでは、女性が働きながらでも子育てができる環境が整備されていると想像できる。
日本の女性はそういう状況におかれてはいない。
活動写真のロマンスは、いつも性的に惹かれあう男女を描いてきた。ただし、その恋愛は、かならず未婚の男女のあいだに生ずべきものであって、ふたりのロマンスのゴールは結婚であった。
ところで、詠歌のなかにボーイ・ミーツ・ガール主題が登場する。
男と女は、そのまま結婚にゴールインできるわけではない。かならず、なんらかの障害にぶつかる。だが、世間の荒波にもまれた男は、ここで奮起して、さまざまな障害を乗り越えて、みごと女を手に入れる。これが、ダグラス・フェアバンクスの冒険活劇からハロルド・ロイドの喜劇まで、おきまりのテーゼだった。
その障害のなかで、少子化などはついに一度も問題になったことはない。
2兆円規模の定額給付金をめぐって、自民、民主、両党がすったもんだやったが、チイせえ、チイせえ。
いかがでござんしょう? どうせのことだ。いっそ、赤ちゃんから、中、高校生限定の定額給付金として、ドーンと月額、みんなに1万円給付というわけにはいきませんかね。おそらく、10兆ぐらいはかかるだろうが、経済効果は抜群だし、少子化に対する歯止めになる。
結婚、非婚にかかわらず生まれてくる子どもには援助する。そうでないと、現在の金融危機につづく時代に、日本の活力は大きく衰退する。
現在の金融危機は、100年に一度の危機という。
少子化は、100年におよぶ危機と認識したほうがいい。
麻生さん、小渕さん、枡添さん、いかがでしょうか。
男はどうして女に恋するのだろうか。そして、ヴァイス・ヴァーサ。
恋は、16カ月から3年しかもたない。
ラトガース大教授のヘレン・フィッシュー博士の説。
へえ、そうなのか。もっと早く教えてくれればいいのに。私は、本気でそう思った。もし、そういう恋の機微を知っていたら、失恋しても、あとあとまで悩んだり苦しむようなこともなかったのに。
2千人の夫婦のすれ違いを研究なさっているワシントン州立大のジョン・ゴトマン博士は、15分、こうした夫婦の会話のやりとりを観察していれば、その夫婦が別れるかどうか予測できる、という。
これは凄い。そこまでわかってしまうのなら、もう、小説なんか読むやつはいないよなあ。
1919年。
第一次世界大戦が終わった直後。
当時の活動写真は、チャップリンが「ミューチュアル」を離れて、「犬の生活」からはじまるあらたな喜劇を創造する。一方、「アメリカの恋人」、メァリ・ピックフォードが、すでに登場している。前年、はじめてのターザン映画が登場して、エグゾティックな冒険活劇から動物映画まで、活動写真の可能性がひろがっている。
この年、敗戦国、ドイツでは、ベルリンに高価な映画館「ウーファ・パラスト」が出現している。
1919年、シカゴ。
ある映画関係の公聴会で、医師が証言した。
映画を見る人は、ノイローゼ、あるいは舞踏病を起こす可能性が大きい。
委員の質問に対して、
映画は観客の視覚をそこなうばかりか、間違いなくメガネの使用者がふえる。しかも、夜遅く映画を見に行くのは、必要な睡眠をへらして、人体に有害な結果をもたらす。何年にもわたって、映画を見つづければ、ノイローゼから器官に変調をきたす。
これに対する有効な処置はまったくない。
と、証言した。
そうだったのか。私が近眼になったのは、映画ばかり見てきたからだったのか。
しかし、私の知っている映画評論家でも、飯島 正、植草 甚一さんは、メガネをかけていなかった。映画監督だって、メガネをかけていない人は多い。
私の場合、夜遅く映画を見に行っても、ぐっすり眠れたし、かりに睡眠時間をへらしても、あまり有害な結果は出なかったような気がするね。
映画を見つづけたからノイローゼになったという気もしない。器官に変調をきたしたとすれば、もともと頭がわるかったせいか、ますますボケてきたぐらいか。
この医師は結論づけている。
映画を見る若者たちは、精神的に怠惰になってしまう。ゆえに、若者たちにはできるだけ映画を見せないほうがいい。
昔からこういう議論があきもせずくり返されてきたことが・・・私にはおもしろい。
それで思い出すのだが・・・私が中学生だった頃は、映画を見に行っただけで、停学、わるくすると退学処分になる、と脅かされていた。ところがどっこい、悪童どもはけっこう映画館に出没していた。
中学の校庭の隅っこで、三、四人の少年が、めいめい、自分の見たチャップリン、キートン、ジーン・アーサー、ディアナ・ダービン、そして高山 広子や、高峰 秀子の映画を語りあっていた。日米戦争がはじまる直前の風景が、今の私に幻影のように蘇ってくるのだが。
1947年、シャルル・デュランは、本拠の「アトリエ」を人手にゆずらなければならなかった。
戦後のデュランは、アルマン・サラクルーの芝居が当たっただけで、最後にはデュランのために新作を書いてくれる劇作家もいなくなった。デュランは気がつかなかったが、ガンがひろがっていた。それでも、デュランは悪戦苦闘を続ける。最後には、恋人のシモーヌ・ジョリヴェが脚色したバルザックの『継母』と、モリエールの『守銭奴』をもって、南フランスのリオン、サンテチェンヌ、グルノーブルの旅公演に出た。
この巡業中のデュランは、病気が悪化して、幕間に、医師に栄養剤の注射をしてもらってやっと舞台に立つようなありさまだった。
エクサン・プロヴァンスの劇場で、巡業の全日程を終えた。みんなをパリに帰してやって、やっとマルセイユに戻ったが、ここでたおれて、聖アントワーヌ施療病院にかつぎこまれた。
デュランの友人たちが病床にかけつけた。ジャン=ルイ・バローが見舞ったとき、デュランは施療病院にかつぎこまれたのでは外聞がわるいと思ったのか、別の私立病院に移してほしいと訴えた。
バローは、フランス随一の名医、モンドール教授に診察を依頼した。教授の診察では病気は重く危篤状態なので、絶対安静が必要だった。デュランはそのまま施療病院にとどまることになった。
このとき、ルイ・ジュヴェも、パリからかけつけた。サラクルーやアヌイも。
デュランは昏睡状態に陥って、ときどきわずかに意識が戻るようだった。
「新聞を見せてくれ」
苦しい息の下から、デュランがいった。
病室には新聞もなかった。デュランは、頬にかすかな笑いをうかべて、
「みんな、おれの死亡記事を読んで、きてくれたんだろう?」
デュランは洒脱な役者だった。
私は、マルセイユにしばらく滞在したことがある。ピカソのお嬢さん、マヤに会うためだったが、毎日、午前中にインタヴューするだけなので、あとの時間をつぶさなければならなかった。デュランが亡くなった施療病院に行ってみた。
その後、マヤの案内で、ヴァローリスのピカソのアトリエに行ったが、このときは、名女優、ヴァランティーヌ・テッシェのお墓を探した。
当時の私は、はるか後年、評伝、『ルイ・ジュヴェ』を書くなどということは、まったく考えもしなかったが。
明治45年、明治座に拠った市川左団次は、年頭から奮闘したが興行はあたらず、この夏、ついにドサまわりを決意した。
表向きは旅興行とはいいながら、はるかに遠い九州落ちであった。
昔の旅のことだから、停車場(すてんしょ)には、駅弁売りや、新聞売りが声をからして走りまわっている。
新聞! 新聞!
左団次は、その呼び声を聞いていた。売り子がプラットフォームを走って、左団次の車窓までやってきた。
「新聞を買ってくれ」
左団次は同行した興行主任に頼んだ。
「いや、新聞なんかつまらねえ」
興行主任が、にべもなくそう答えたという。
このエピソードが私の心に残った。というより心を揺さぶられた。
当時の左団次は、亡き父の借財に苦しんでいたし、本拠の明治座は不入りがつづいて、まったく動きがとれなかった。この八月、先代いらいの由緒ある明治座を、新派の伊井 蓉峰に売りわたしている。左団次の胸に、深い挫折の思いが刻まれていたと想像しても、それほどあやまりとはいえないだろう。
都落ちを決意して乗り込んだ汽車のなかで、一部の新聞が買えないほどの貧乏を味わうことが、どんなに屈辱的だったか。
人間の一生には、自分でもどうしようもない挫折、破綻がつきまとうことがある。
ドサまわりから戻った十月、左団次は、ついに松竹に膝を屈した。大正時代に入って、八百蔵(のちの中車)と組んで、演劇史にかがやく仕事をつづける。
最近、全国で3月までに失業する非正規労働者が8万5千人になるという。サラリーマンの平均年収は、97年(467万円)から、9年連続で下落している、といった話を聞く。これは、とり返しのつかない事態で、日本の政治のどうしようもない停滞を物語っている。
これと左団次の悲運には何の関係もないのだが・・・私たちも不運に見舞われた場合、まずはその悲運にまっこうから立ち向う気概、姿勢が必要な気がする。時代の変化よりも、私たちの変化のほうに解決の可能性があるような気がする。
(つづき)
1) 世界経済・政治の重心は、あきらかに、アメリカから東アジア、太平洋地域に移りつつある。特に、中国、インドの重要性がまして、アメリカの重みが減少してきた。
この大前提は、いちおう間違いはない。たしかに今後の政治・経済状況の動きで、中国、インドの重要性がましてくる。かんたんにいえば、パクス・アメリカーナの終焉ということになる。
しかし、現在、世界経済・政治の重心は、あきらかに、アメリカから東アジア、太平洋地域に移りつつある、とまではいえないだろう。
アメリカの重みが相対的に減少してきたのは、イラク戦争の終息過程に大きな誤算があったからだし、これに金融経済の破綻が重なったからであって、これを切り抜ければ、ふたたび、アメリカの重みが上昇してくる。
2009年の年頭に、たくさんの人々の現状分析、未来への予測を読んだ。
ほとんどの意見は、妥当なもので、いろいろと 教えられるところがあった。
元/西ドイツ首相、ヘルムート・シュミットは語る。
1) 世界経済・政治の重心は、あきらかに、アメリカから東アジア、太平洋地域に移りつつある。特に、中国、インドの重要性がまして、アメリカの重みが減少してきた。
2) 内政上で、不測の事態がおきなければ、中国は今後40-50年で、テクノロジー面では、最先端に到達すると思う。
3) 私(ヘルムート・シュミット)は、21世紀に世界的影響力をもつ大国の顔ぶれを「アメリカ、中国、ロシア」と予測してきた。
EUは、すくなくとも、21世紀前半には、こうした世界的な大国の一角をしめることはない。
4) デモクラシー、人権といった、いわゆる西側の価値観は、もっぱら西側諸国のもので、アジアでは通用してこなかった。日本は例外である。今後も、西側の価値感は、アジアでは大きな役割を果たさないだろう。中国には、四千年の文化があり、儒教や道教が受け継がれてきた。21世紀の世界で、異なる価値観が存在することは、事実として受け入れるべきだろう。
5) 日本の未来を考えるうえで、ドイツと比較したい。両国はともに、第二次大戦後の半世紀で、当初想像もできなかった経済的成功をおさめた。大きな相違点は、ドイツがEUの中に根づいているのに対して、日本は近隣諸国から孤立していることだ。政治家をはじめ、日本の指導者は、隣人と友好的な関係を打ちたてようとする努力が不足していたと思う。ドイツは、戦後、近隣諸国とのあいだで、ある程度友好的な関係を構築できた点で、日本より幸福である。
6) 中国と比較した場合の日本の経済的先進性は、20年もすれば意味がなくなるだろう。日本は自国の経済的優位にあまりに長く依拠してきたのではないか。その優位は消滅しつつある。
これは、現在の日本に対する弔鐘のように響く。
ヘルムート・シュミットの意見は、おそらくアメリカにも共通してみられる日本観だろうと考える。(数字は、反論のために私が便宜的につけたもの)。
親しくなったばかりの友だちの姉さんの裸身を見てしまった。窓は、まるで汽車の寝台のようにカーテンが吊ってあり、若い娘の部屋らしいデザインのチュリップの花の刺繍に、白い鳩が差し向きになっている。私はそこまで見届けていた。
私ははじめて女の乳房を見たのだった。ただし、女の乳房を見たという思いはなく、U君の姉さんの胸に見たこともない白いふくらみがあるということに気づいて、ぼんやり眺めていただけだった。
そのふくらみの先には、ほのかなピンク色の蕾がついていた。そこまで見て、私はそれが乳暈で、その先に小さな乳首がついていることに気がついたのだった。
時間にして、ほんの二、三秒ぐらいではなかったか。
いつものように、U君がくぐり戸から出てきた。私はU君か出てきたことに気がつかなかった。まだ、二階の窓に眼を向けていた。U君の姉さんは、くぐり戸をぬけたU君にも、まったく気がつかなかったらしい。
U君の姉さんは何かを手にして、それを胸に当てた。まだブラジャーということばではなく、乳当てと呼ばれていたものだった。姉さんが乳当てを胸もとに当てがうと、たちまち綺麗な乳房が見えなくなった。
U君は私の視線を追って、私が何を見ていたのか気がついた。U君の顔が真っ赤になった。
姉さんがブラジャーをつけるところを友だちに見られた。その恥ずかしさが、U君が赤面した理由だった。私は顔を真っ赤にしているU君の反応に驚いた。
その頃に、ブラジャーということばはなかった。ほとんどの場合、「乳おさえ」、あるいは「乳バンド」といっていたはずである。それも、日常の会話でこうしたことばが使われることはなかった。
だから、顔を真っ赤にしたU君が「行こう」とだけ声をかけて、いきなり走り出したとき、姉さんがブラジャーをつけるところを友だちに見られたというふうにU君が考えたとは思えない。ただ、どうしようもない羞恥に混乱していたのだろう。私は少しうろたえていた。
U君が「行こう」と声をかけて、停留所まで走り出したので、あとを追った。
電車に乗ってからも、U君は私に眼をむけなかった。
それからあとのことは、よくおぼえていない。
翌日から、U君は私を避けるようになった。
翌朝、いつものように門の外から声をかけたが、意外にも、
「もう出かけちゃったのよ。ごめんなさいね、中田君」
姉さんが返事をした。
私はU君の姉さんの顔を見なかった。こんどは、私が乳房を見てしまったことを思い出して、ひどい羞恥にいたたまれない思いで路地から離れた。
そんなことが、二、三度続いて、U君か私をきらっているらしいと気がついた。
それからはU君を誘って学校に行くことがなくなった。
姉さんの二階の窓も二度と開け放しにされなくなった。
それまで親しくしていた友人が不意に離れてしまった。私はそのことがショックだった。U君は私をきらっている。彼にも私にも、うまく説明のつかない理由で。
翌年、父が外資系の会社から国策会社に移ったため、一家をあげて東京にもどった。
私は神田の中学に転校した。その後、U君のことは思い出さなかった。
いまの私は、U君の姉さんの顔もおぼえていない。ただ、真っ赤になったU君の顔を忘れてはいない。あの日はおそらく夏休みの少し前だったのではないだろうか。さわやかな朝、U君の姉さんの綺麗な乳房を見たことだけが切り離されたように心に残っている。まるで、何かのまぼろしのように。
若き娘の窓辺に立ちし胸もとに
白き乳房をあらわにも見つ
後年、こんな歌を詠んだ。
とるに足りない小さなできごとなのに、私の内面に意外に大きなものを残したできごとのひとつ。
正月、テレビで「寧々(ねね)おんな太閤記」を見た。
昭和56年、NHKで放送された「おんな太閤記」のリメイクで、テレビ東京開局45周年の記念作品という。
主演は、仲間 由紀恵、市川 亀治郎。
おもなキャストをあげておこう。
「秀吉の母/なか」 十朱 幸代。「織田 信長」 村上 弘明。「お市の方」 高岡 早起。「前田 利家」 原田 泰造。「明智 光秀」 西村 和彦。「徳川 家康」 高橋 英樹。「石田 三成」 中村 俊介。「淀殿」 吹石 一恵。「大蔵卿の局」 池上 季実子。
昔の作品と比較したわけではないが、市川 亀治郎は、あたらしい「秀吉」を描き出している。仲間 由紀恵はこれから先が楽しみというところだろう。
残念なことに、十朱 幸代はミス・キャスト。これ以外、それぞれの俳優、女優の芝居が、前作よりも格別すぐれているとか、劣っているという印象はない。前作ほどの感銘は受けなかった。
全編のナレーションを森 光子がやっている。これがひどかった。
森 光子は名女優といわれているが、こういうドラマのナレーターとしては不適格で、声は沈んでいるし、滑舌がおかしいため不明瞭に聞こえた。
このドラマがもう一つあざやかな印象をもたなかった理由の一端は、拙劣なナレーションにある。
舞台の名女優をナレーションに起用すべきかどうか、それは演出家がきめることだ。森 光子より下の世代の女優たちは、ディクションなりディクラマシォンをきちんと身につけている。山岡 久乃、初井 言枝、奈良岡 朋子、文野 朋子、加藤 道子などをあげただけで、それぞれのみごとなナレーションが思い出せる。
いい役者だから、いいナレーターになれるとはかぎらない。
新しい大河ドラマ、「天地人」のナレーションは、宮本 信子。さすがに、森 光子よりはいいが、ドラマ自体、精彩がないだけに、この先どうなるか、まだわからない。
70代になって「ロクサーヌ」をやる女優がいてもいい。私としては、あわれを催すけれど。しかし、声が衰えてから、大きなドラマのナレーションはやるべきではない。
新年早々、イスラエルが、ガザ地区で大規模な地上戦を開始したことは、私の心を暗くした。
ガザ地区はイスラーム原理主義の組織「ハマス」が支配している。昨年12月27日からの攻撃で、死者はすでに500名におよんでいる。この地上戦が、「ハマス」のロケット弾発射拠点を制圧して、「ハマス」の攻撃を阻止することにある。
これに対して「ハマス」側は、ガザはイスラエル軍の墓場になるだろう、と言明した。
イスラエル、「ハマス」の対立、衝突は、今後もつづくと見るべきだし、はるか後代の歴史家は、人間の愚行としてこれを記述するだろうと考える。つまり、私はパレスチナ問題に関するかぎり、きわめて悲観的なのだ。
文明の衝突といった観点から、この問題をとりあげるつもりはない。宗教的な対立という観点も、はじめから私の手にあまる。
文明も宗教も、たしかに私たちの良心をうごかす原動力になっている。しかし、年齢を重ねてくれば、そんな考えにかならずしも確信がもてなくなってくる。
後期高齢者ともなれば、たいてい混乱しはじめるし、さまざまに矛盾したことをいい出すだろう。誰だって、何十年もかけて、自分の人生を何かしら調和のとれたものにしようと努力する。しかし、いくら努力しようと人生はたいしてよくもならなかった。
そうなったら、もうどうしようもない。
人間なんてそんなものだ、と覚悟をきめるしかない。厳しい正義などというものを信じるよりは、むしろ寛容をもとめるほうがいい。
ところで、寛容などというものを、きみはもちあわせているか。
イリノイ州立大学の医学研究チームの報告。
「ステイン・アライヴ」のメロディーにあわせて、心臓マッサージを行うのが、いちばん効果的という。
アメリカの心臓協会は、心肺機能蘇生時にほどこす心臓マッサージでは、1分間に、100回のペースで、胸部を圧迫することを推奨しているが、「ステイン・アライヴ」のメロディーにあわせると、ほぼ このペースになるとか。
私は、こういうトリヴィアをみると、すぐにメモしたくなる。
このニュースには、別の意味で関心をもった。
ジョン・トラボルタ主演の映画、「ステイン・アライヴ」は、日本でも公開されているが、原作を翻訳したのは――私であった。
出版社側は、日本でもヒットした「サタデイナイト・フィーバー」の続編なので、翻訳すれば売れると思ったのかも知れない。しかし、映画の公開日時が迫っていた。まともな翻訳家なら、誰もこんなノベライズものの翻訳を引き受けない。
映画の公開まで、せいぜい2週間やっと。そんなせっぱつまった状況で、翻訳を引きうける物好きはいないだろう。そこで、窮余の一策、中田 耕治に押しつけようということだったのではないか、
私は、その日の夜から「山ノ上」にカンヅメになった。ホテルにはワープロを届けてもらって、部屋に入った瞬間から、夜を日についで仕事をつづけ、予定より数時間遅れで、翻訳を終えた。さすがに疲れた。
試写で「ステイン・アライヴ」を見た。ジョン・トラボルタの相手をやった女優さんはブロードウェイ・ミュージカルの舞台女優だったが、まるで魅力のない、はっきりいえばいやなタイプの女優で、映画を見ながら、この映画は当たらないだろうなあ、と思った。当たりそうもない映画の原作を訳すほど味気ないものはない。早く訳してしまおう、と思いながら訳していた。
ある時期から、年に一冊のペースで、翻訳をすることにきめていた。翻訳以外の仕事がふえていた。翻訳だけではもの足りなくなっていた。それでも翻訳はつづけていたかったので、毎年一冊だけでも翻訳をつづけたほうがいい。
「ステイン・アライヴ」以後、私はこのペースで翻訳をつづけてきた。
編集者たちも、私を「山ノ上」にカンヅメにしてしまえば、期日までに間に合うと安心していたらしい。
「ステイン・アライヴ」のメロディーにあわせながら、翻訳をつづけたわけではなかったが。
浮世絵は、無数の遊女を描いてきた。
それぞれ時代の違い、あるいは美意識の違いによって、遊女たちの絵姿がことなる。これは当然のことだが、現在の私たちが毎日見ている女性像、あるいは顔の目鼻だちとは、ずいぶん違っている。
その時代、全盛を誇った女たちを描いたに違いないのだが、私にはあまり魅力が感じられない。どうしてだろう? その前に、そもそも美女とはいったいどういうものなのか。
私が読んだなかで、この問題に明快な答えを出している人がいた。張 競という中国の学者で、比較文化論を専攻なさって、日本語による著作も多数ある。
日本と同じように、昔中国の絵画、彫刻にあらわれた美人は例外なく一重まぶたであった。ところが、明代以降になって、二重まぶたの美人が描かれるようになった。(中略)ほかの年画でも二重まぶたは美貌の象徴として描かれている。むろん、二重まぶたが一重まぶたよりも美しい、という審美観がすでに成立していたかどうかは断言できない。少なくとも二重まぶたも美しいとされ、しかもそれは近代西洋文化の影響と関係がなかったことはまちがいない。
『美女とは何か』(第三章)角川文庫版 P.111
これを読んで、モンゴロイド系に属する日本人が、一重まぶたの女性を美しいと見てきたことを納得した。
一般に、日本人が、二重まぶたの女性を美しいと認識するようになったのは、明治30年代後期、ないしは40年代に入ってからかも知れない。
明治40年代、赤坂の名妓、「万龍」や、新橋の名妓、「清香」をえがいたポスターでは、ふたりともはっきり二重まぶたの美人である。
その後、初期ハリウッドの無声映画に登場したマック・セネットの水着美人、ジーグフェルド・フォーリーズの美女たち、さらに、メァリ・ピックフォード、ノーマ・タルマッジ、MMM(メァリ・マイルズ・ミンター)といったニンフェットたちが、例外なく二重まぶただったことから、私たちの美人観は確立して行ったのだろう。
張 競先生のおかげで、今年は、そのあたりのことを考えてみようか。
日頃、まるで縁がないのだが、たまに銀座、新宿、渋谷などを歩く。外国のファッション・ブティックの進出に驚かされる。つい最近も、青山に「ステラ・マッカートニー」がオープンしている。
外国の街を歩いていて、ふと、孤独な旅行者でしかない自分に気がつくときがある。自分でも意外なのだが、渋谷、青山などを歩いて、そんな気分に襲われることがある。
むろん、理由はあるだろう。
最近の私は、浮世離れした「文学講座」などをつづけていて、とくに昭和初期の文学、映画、風俗などに眼をむけることが多い。そのせいで、現実と自分の世界のあまりの懸隔にただとまどっている。
ふと、思い出したメロディーがある。
シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で逃げましょか
昭和4年(1929年)、西条 八十作詞。中山 晋平作曲。
東京は銀座、丸の内、浅草、新宿という四つのアミューズメント・センターが形成されていた。西条 八十は、それぞれの土地をとりあげている。
松がとれたら、荷風の『日和下駄』でも読み返そうか。
お正月のうららかな日々。
何か読もうと思いながら、明治の浮世絵などを見てのんびり過ごしている。
応需 勝月の「教育誉之手術」という絵。明治も20年代の作。三曲。
前景に6人の女たち。後景に10人の女たち。(私が数えたのだが)。
前景、右手、日本髪に前櫛、コウガイの3人の娘が、お裁縫をしている。
中央に、黒のローブ・デコルテの女性。髪に赤と紫の花(二輪。ブーケだろうか)を挿した貴婦人。ほっそりした体型なので、洋装を着こなすセンスも感じられる。腰はフープ。大きな花の飾り。西洋バサミを手に、赤いドレスをカットしている。
左に、おなじく束髪に赤い造花、赤の洋装に羽織のようなコートを着た女性が、手動のミシンで何かを縫っている。それを、ローティーンのお嬢さまが熱心に見ている。
後景、右は和室。女が、若い娘の髪をととのえている。おなじ部屋で、別の女たちが何か話をしている。
奥は別棟。ここでは、三人の女がお茶をたてている。お点前だろう。
左、遠景は低い連山。空にわたり鳥の列。低い山系の手前に大きな池。その池のほとり、絵の左端、洋装にハットのご婦人が散策している。
こんな説明では何もわからないだろうが、世は鹿鳴館の時代で、和洋折衷というか、和洋混合の風俗が描かれている。
応需 勝月という画家については知らない。ただ、この絵の「教育誉之手術」という題に興味をもった。明治20年代に「手術」ということばが使われていたことがわかる。私たちは、外科の手術という意味でしか使っていないが、明治の人々は、手の作業、工作、運用法といった意味で訳したものと思われる。
お正月、ぼんやり一枚の版画を眺めて、いろいろなことを考える。
楽しい。