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 1947年、シャルル・デュランは、本拠の「アトリエ」を人手にゆずらなければならなかった。
 戦後のデュランは、アルマン・サラクルーの芝居が当たっただけで、最後にはデュランのために新作を書いてくれる劇作家もいなくなった。デュランは気がつかなかったが、ガンがひろがっていた。それでも、デュランは悪戦苦闘を続ける。最後には、恋人のシモーヌ・ジョリヴェが脚色したバルザックの『継母』と、モリエールの『守銭奴』をもって、南フランスのリオン、サンテチェンヌ、グルノーブルの旅公演に出た。
 この巡業中のデュランは、病気が悪化して、幕間に、医師に栄養剤の注射をしてもらってやっと舞台に立つようなありさまだった。
 エクサン・プロヴァンスの劇場で、巡業の全日程を終えた。みんなをパリに帰してやって、やっとマルセイユに戻ったが、ここでたおれて、聖アントワーヌ施療病院にかつぎこまれた。

 デュランの友人たちが病床にかけつけた。ジャン=ルイ・バローが見舞ったとき、デュランは施療病院にかつぎこまれたのでは外聞がわるいと思ったのか、別の私立病院に移してほしいと訴えた。
 バローは、フランス随一の名医、モンドール教授に診察を依頼した。教授の診察では病気は重く危篤状態なので、絶対安静が必要だった。デュランはそのまま施療病院にとどまることになった。
 このとき、ルイ・ジュヴェも、パリからかけつけた。サラクルーやアヌイも。
 デュランは昏睡状態に陥って、ときどきわずかに意識が戻るようだった。
 「新聞を見せてくれ」
 苦しい息の下から、デュランがいった。
 病室には新聞もなかった。デュランは、頬にかすかな笑いをうかべて、

 「みんな、おれの死亡記事を読んで、きてくれたんだろう?」

 デュランは洒脱な役者だった。

 私は、マルセイユにしばらく滞在したことがある。ピカソのお嬢さん、マヤに会うためだったが、毎日、午前中にインタヴューするだけなので、あとの時間をつぶさなければならなかった。デュランが亡くなった施療病院に行ってみた。
 その後、マヤの案内で、ヴァローリスのピカソのアトリエに行ったが、このときは、名女優、ヴァランティーヌ・テッシェのお墓を探した。
 当時の私は、はるか後年、評伝、『ルイ・ジュヴェ』を書くなどということは、まったく考えもしなかったが。