987

 
 雨が降っている。春雨。
 昔の映画のDVDを見ている。

     春雨や 火燵の外へ足を出し         小西 来山

 おなじ来山に、

     春雨や 降とも知らず牛の目に

 という句がある。昔、春雨が降る道路を、牛のひくオワイ屋の車が通って行くと、タプンタプンと音がしていた。その牛の大きな目が、霧のような雨滴に濡れていたことを思い出す。もう、こんな風景は日本のどこにもなくなっているだろう。
 ところで春雨といえば、やはり蕪村をあげなければならない。

     春雨や 小磯の小貝ぬるるほど

 こういう詩情も、もはや私たちが失ったものかも知れない。

     春雨や 暮れなんとして今日もあり

 昔の映画などを見て過ごしていると、この句にはなぜか別種の趣きが感じられる。

 1926年。
 スウェーデンからきたグレタ・ガルボという女優が、「メトロ・ゴールドウィン」で、第一回作品として、ブラスコ・イヴァニェズの原作の映画化「激流」The Torrent(モンタ・ベル監督)に出た。
 まだ、誰ひとり知らない。グレタ・ガルボが、ハリウッドの黄金期を作ることを。

986

 
 ときどき、俳句のようなものが頭をかすめる。
 たいてい、すぐに忘れてしまう。俳句ともいえない駄句ばかりだから、忘れてもいい。
 歳末、小雨の午後、何も仕事をしない一日。

       さし迫る用事もなしに師走かな

       落雷はげし 年の瀬の夜明け前

 そういえば、歳末に山に登ったことがある。ほかに登山者がいなかった。疲労しきって、やっと下山したのだが、ほとんど客のいないランプの宿で。

       山の湯は大つごもりの薄明り

 そういえば、病気で寝正月ということもあった。

       つごもりをつたなく病んで薄き粥

 最近の私は登山もできなくなっている。哀れというべきか。
 桜が咲いたが、お花見もしなくなった。

985

 古い小説をよんでいると、「細君」ということばにぶつかる。
 「妻君」という意味だということはわかる。どうして、「細君」なのだろうか。

 「広辞苑」では・・・・「細」は、小の意。「妻君」と書くのは当て字。
1) 他人に対して、自分の妻をいう語。
2) 転じて、他人の妻をいう語。

 ようするに、妻、奥さん。
 しかし、ほんらいは違うことばだったらしい。

 漢の武帝は、強大な匈奴の侵入に悩まされていた。そこで、烏孫(うそん)の王、昆莫(こんばく)に、姪の細君をつかわすことにした。兄の劉建の女(むすめ)で、後世、烏孫(うそん)公主として知られる女性である。もとより政略結婚であった。
 烏孫は今の新彊ウィグル地区という。

 清の歴史官、齊 召南の『歴代帝王年表』には、わずかに一行、
     元封六年 宗室の女を以て烏孫に嫁せしむ。
 と出ている。名前の記載もない。キリスト紀元前104年。
 昆莫(こんばく)は、しばらく公主と親しんだが、孫の岑陬(しんすう)に与えた。「細君」の名のように、ほっそりした美少女だったのだろう。

 烏孫公主の詩がつたえられている。「悲愁の歌」という。

     居常 土思(どし)して 心内 傷(いた)む
     願わくば 黄鵠(こうこく)となり 故郷へ帰らむ

 いつもいつも、漢土を思って、私の心は悲傷がこみあげる。願わくば、おおとりになって、遙かな故郷に帰りたい。

 いまでは、妻、奥さんの意味の細君は死語となった。しかし、こんなことばにも、女の歴史が秘められている。

984

 マリリン・モンローの出た「王子と踊り子」は、アーサー・ミラーと結婚したマリリンが、はじめて外国で撮影した映画だった。
 公開当時は、イギリスを代表する俳優、ローレンス・オリヴィエの重厚な演技に、マリリンの演技は拙劣に見えるという批評が出た。
 ところが、この映画では、ローレンス・オリヴィエの芝居がへんに重ったく見えるのに、マリリンの演技は、とても自然で、終始、オリヴィエを圧倒していることがわかってくる。
 これには、いろいろと考えさせられたものだった。

 ところで、この「王子と踊り子」は、ヨーロッパの(架空の国の)王子さまと、しがない劇場の踊り子の恋物語だが、なんとなくハプスブルグ的な雰囲気がただよっていた。
 むろん、なんとなくそんな気がしただけのことである。

 最近になって、昔のドイツ映画におなじ「王子と踊り子」Der Prinz und die Tanzerin という活動写真があることを知った。
 レオ・ビリンスキー原作。リヒアルト・アイヒベルク監督。主演は、ウィリー・フリッチュ、ルツィー・ドレイン。1926年の作品。

 レオ・ビリンスキーは、この時期に「私はこの女を買った」というメロドラマの原作者だったという以外何も知らない。リヒアルト・アイヒベルクという監督についても何も知らない。
 ルツィー・ドレインという女優さんも知らないのだが、ウィリー・フリッチュなら私も見ている。

 マリリン・モンローの「王子と踊り子」が、活動写真の「王子と踊り子」のリメイクだったかどうか、にわかに断定できないが、おそらくそういうことだったのだろう。
 植草 甚一さんに伺いたいところだが。

983

 
(つづき)
 野村先生はこの質問を三人の中国人俳優に投げかけてみたが、「ノー」と答えなかったのは秋 夢子だけだった。
 「やめたいと思ったんです。もう使える物は全部使っちゃったという感じになって。これから充電しないとだめかなと思って……」
 そこをどう乗り越えたのだろう。
 「なんとなく乗り越えた気がする。そう、何となく乗り越えましたね」
 自分に言い聞かせるように言った。

 野村先生はいう。

    彼女の『キャッツ』への出演は、すでに七百回を超えている。三百回から七百回へ至るまでのあいだに、新しい革袋にはいった新酒が徐々に発酵して行くような時が流れたのかもしれない。

 さて、ここから私の「問題」になる。

 舞台に立つ俳優にとってロングランとは何か。上演回数が、三百回に達したとき、秋 夢子は語っている。

 「もう頭の中に何もなくなった」と思ったことがある、と。

 俳優が、もう、やりたくなくなった、と思った舞台が、はたして観客にとって最高の舞台といえるかどうか。

 ロングランの舞台に立つ俳優が、いつも安定した演技を見せる。これはすばらしいことだと思う。しかし、上演回数が三百回を越える舞台におなじ役で立ちつづけるというのは、かならずしもいい結果をもたらさない。
 ルイ・ジュヴェは、ジロドゥーの『シャイヨの狂女』で大当たりをとったが、まだいくらでも続演できるのに、あえて打ち切った。ジュヴェはいう。

    まだ当たっている最中だが、『シャイヨの狂女』を引っ込めるつもり。成功に溺れてはならないし、芝居は脚本(ほん)によって歪められてはならないと思う。それに、一年もおなじセリフをしゃべりつづけ、あえておなじ言葉を響かせる俳優というものを、どういったらいいのか。彼はどうなってしまうのか。それに、劇場はいつもおなじ芝居を演じるものなのか。それでは、<劇場>という一つの楽器であることをやめてしまう。

 「劇団四季」の俳優、女優たちの交代を見ていると、その後の、それぞれの身のふりかたが気になる。
 俳優、女優は、けっして expendable ではないのだ。

982

「本」(2009年2月号)の野村 進が、劇団「四季」のミュージカル、『キャッツ』に出ている女優について書いている。
 野村 進は、ジャーナリストで、拓殖大の国際学部の教授という。

 この人は、劇団「四季」に在籍している中国人の俳優が多いことから、彼らがどうして日本の舞台に立つことになったのか、に関心を抱いた。どういう困難に直面し、それをどのように乗り越えてきたのか。いま、何を考え、どんな夢をみているのか。

 私は、大きな興味をもってよんだが、じつは野村先生のテーマとは少しズレた論点で、少し考えさせられた。それを説明するために、先生のエッセイの一部分を私なりに要約しながら引用させていただく。

 「秋 夢子」という女優さんがいる。本名、鄭夢秋(ジェン・モンチュウ)。

 2007年3月、「四季」入団わずか三年半で、ミュージカル『アイーダ』の主役に抜擢された。もともと広東省で、少女歌手として数々のコンテストに優勝して、中央戯劇学院にすすみ、ミュージカルを専攻した。

 このエッセイでは、秋 夢子の経歴や、その後の「役」への取り組みが、要領よく紹介されている。

 私も、今回の取材中、幾度か疑問に思ったものだ。『キャッツ』や、『ライオンキング』のようなロングランでは、同じ役を何百回も舞台で演じる俳優がざらにいる。単純に言って、飽きないのだろうか。
  (つづく)

981

 私は、トウ子さんのファンである。
 トウ子こと、宝塚歌劇団。星組トップ・スター、安蘭 けい。おなじ宝塚のトップ・スターのなかでも、現在、もっとも注目すべき男役スターだと思っている。

 その安蘭 けいが、星組を退団するという。
 ファンとしては、かねて覚悟はしていたものの、実際に発表されてみるといささかショックであった。

 彼女の代表作は、「雨に唄えば」、「王家に捧ぐ歌」(03年)、トップになってからの「エル・アルコン」(07年)、さらには「スカーレット・ピンパーネル」(08年)あたり。ブロードウェイ作品としての「スカーレット・ピンパーネル」は、昨年度の各紙でもとりあげられ、「読売」演劇賞を受けている。

 安蘭 けいの特質は、なんといっても抜群の歌唱力である。宝塚のトップ・スターなのだから歌がうまいのは当たり前だが、いろいろな過去や現在を背負って、いろいろなー役」をこなしてきたスターらしい存在感をもったひとは少ない。

 たとえば、今のブロードウェイに出て、即戦力として通用するミュージカル女優が「宝塚」にいるだろうか。大半の女優は、オーディションの段階で落ちるだろう。ブロードウェイ・ミュージカルどころか、地方のコミュニテイ・シアターあたりにも、タカラジェンヌ程度の女優は掃いて捨てるくらいいる。

 しかし、安蘭 けいなら、このままブロードウェイに出ても、圧倒的な存在感を見せるだろう。それほどにも器量は大きいのである。
 たとえば、「王家に捧ぐ歌」の「アイーダ」の可憐さ。
 エチオピアの王女として、敵将、「ラダメス」への愛、祖国への愛、親子の情の揺れる心を、華麗に歌いあげた。男役としての声域なのに、ほんらいの女性としてのソプラノをみごとに歌った。(私は、ゼフィレッリ演出の、マリア・グレギナを思い出しながら、これを書いている。)
 「スカーレット・ピンパーネル」では、彼女の声を聞いた作曲家、ワイルド・ホーンがわざわざ新曲を書いた。その一つ、「ひとかけらの勇気」は、観客の心にまっすぐ届くひたむきな歌声とともに、このミュージカルの名曲になった。

 むろん、彼女にも欠点はある。
 はっきりいって、安蘭 けいのセリフ、エロキューション、それも発声、ディクションに難がある。もっともっと、ことばをたいせつに、かつ、正確につたえてほしい。
 歌ではまったく気にならないが、セリフになると関西のアクセントが見え隠れする。以前よりは、ずいぶんよくなっているとはいえ、それでもそのアクセンチュエーションが耳ざわりである。
 「エル・アルコン」の「ティリアン」では、クールで冷酷な役柄のせいか、静かなモノローグが多く、正確さがもとめられる場面では、アクセント、エルキューションの弛緩は、どうしても気になる。感情の激発でこの欠点がはっきりしてくる。
 彼女自身は何も気がついていないかも知れない。演出家も、トップ・スターには何もいえないのかも知れない。しかし、この難点を克服できれば、もともとすぐれた資質にめぐまれているのだから、ミュージカルの名女優として記憶されるだろう。

 私たちは、あまりに多くの宝塚スターたちが、ついにおのれの欠点に気づくことなく、舞台を去って行ったのを見てきたのである。

980

 
 日本で、シャルル・デュランが知られたのはいつ頃だったのか。私は評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていた時期から、このことはずっと気になっていた。

 最近になって、ようやく、デュランに関して、もっとも早い記述と思われるものを見つけた。題も「Charles Dullin」である。

    サロスに入つたアンリ・デ、ブュイ・マジェル原作、レエモン・ベルナアル作品「狼の奇蹟」は大なる歴史物で知名の名優が雑然と入り亂れて沢山に出てゐる。がその混然たる中で一番よかったのは路易十一世である。これはまた他と比較して段違ひに巧い。それもその筈、路易十一世を演つたのは、別人ならずシャルル・デュランその人なのである。
    と云つた丈で合点が行かないのならもう一言云ひ添へやう。ジャック・コポオのヴィユウ・コロムビエ座の没落以来、新劇運動の為めに活躍してゐる唯一の劇団とも称す可き「アトリエ劇団」の総大将こそシャルル・デュランなのである。即ちデュランなのである。即ちデュランは座長並俳優として此の劇団をひつさげ、八面六臂の勇を振って、佛劇壇に悪戦苦闘を続けてゐる男なのだ。そこらにもゐる有象無象とは理が違ふ。

 わずかこれだけだが、おそらくこれが最初の記述だろう。(「キネマ旬報」大正15年2月15日号)

979

 
 日本に、ルイ・ジュヴェの名がつたえられたのはいつ頃だったのか。

 昭和初年の「英語研究」という思いがけない雑誌に、フランス演劇の紹介記事で、ルイ・ジュヴェの名前を見つけて驚いたことがある。
 大正時代の映画雑誌、「キネマ旬報」を読んでいるうちに、飯島 正の「ジャック・フエエデに就いて」(「キネマ旬報」大正15年11月1日号)のエッセイで、

    これは又話の別になるが、今年の春、一夕、森 岩雄氏、内田君、佐藤君がわたくしの宅を訪れられた時のことを思ひ出す。森 岩雄氏の話は多岐に渉った。ミスタンゲットのこと、ガストン・バティのこと、ルイ・ジュウヴェのことなど。その時、話が「面影」に言及されたとき、「あの映画のよさが日本の見物にしつくりと分るだらうか少し怪しい」といふ意味のことを云はれた。

 という一節をみつけた。筆者は、飯島 正。
 エッセイに出てくる森 岩雄はプロデューサー、のちに「東宝」の重役、晩年は仏門に帰依した。内田は「キネマ旬報」同人の内田 岐三雄、佐藤はおそらく佐藤 雪夫だろう。ともに、戦前から戦後にかけての映画評論家である。
 このとき、バティ、ジュヴェの話が出たのだから、おそらくコポオ、デュランも話題になったのではないか。
 ミスタンゲットが、まだ少年のジャン・ギャバンを「若いツバメ」にした頃かも知れない。(私は、この頃のギャバンのシャンソンをたいせつにもっている。)

 飯島 正がルイ・ジュヴェの名をあげても不思議ではないが、私はこのことを知ってうれしかった。きわめて短い期間だったが、戦時中に、私は飯島さんの講義を聞いた学生だった。
 去年、「彷書月刊」という雑誌の「私の先生」という特集で私は飯島先生のことを書いたのだった。
 はるか後年、私は映画批評を書くようになって、試写室や、いろいろなホールで、飯島さんにおめにかかることがあった。
 私にとっては、なつかしい先生のおひとり。

978

  きぬぎぬや あまりかぼそくあてやかに  芭蕉
   かぜひきたまふ 声のうつくし     越人

 こういう情緒は、いまの私たちには想像もつかない。私は戦前の吉原を見ているし、戦中の吉原も知ってはいる。だが、こういう情緒は知らない。
 きぬぎぬは「後朝」と書く。「あてやか」は、貴やか。「あでやか」というと、いささかなまめいた匂いがたちこめるが、貴やかとなれば、上品でみやびやかな感じになる。
 私などは、つい、古川柳を思い出す。

   京は君 大阪は嫁 江戸は鷹

 (むろん、こんな古川柳も、いまでは通用しないよね。)。
 京都の四条、大阪の道頓堀ときて、いまの東京なら、新宿か渋谷、いや、原宿か。まさか、上野、浅草をあげる人はいないだろう。となれば、秋葉原だなあ。

 浅草。伝法院通り。この2月、東商店街のビルの壁や、店の屋根などに、大きな人形が出現したという。見に行きたいと思った。

 人形は、白浪五人男。
 河竹 黙阿彌が、この近辺に住んでいたことにちなんで。

977

 
 DVDで、イギリス映画「銀の靴」Happy Go Lovely(H・ブルース・ハンバーストーン監督/51年)を見た。主演、ヴェラ・エレン、デヴィッド・ニーヴン。

 国際演劇芸術祭で知られているエジンバラ。プロデューサー、「フロスト」はここの劇場で、つまらないミュージカルを上演しようとしている。
 稽古に遅れそうになった女優の「ジャネット」は、偶然、富豪「ブルーノ」の車に乗せてもらった。
「フロスト」は「ジャネット」を、大富豪の情婦とカン違いして、資金をださせようとする。一方、富豪「ブルーノ」は、新聞記者になりすまして、「ジャネット」に接近する。……

 「活動写真」時代の喜劇を見せられているような気になる。ヴェラ・エレンのダンス・ナンバー、「ピカデリー」はおもしろい。(ジーン・ケリーが、シド・チャリシー相手のダンス・シーンで、おなじテーマを発展させている。)

 ヴェラ・エレンは小柄で、大した美人ではないが、いつもキビキビした動き、ひきしまった体型で、「戦後」のミュージカルのトップだった。代表作は「On The Town」(49年)だろうか。
 50年代に入って、きゅうに出演作がなくなる。この「銀の靴」がイギリス・ミュージカルだったように、最後の「Let’s Be Happy」も、イギリス・ミュージカルだった。
 MGM相手に大ゲンカ。さっさと大富豪と結婚して、映画から去って行った。

 後年のデヴィッド・ニーヴンはそれこそ名優だが、この映画ではもっぱらヴェラ・エレンを引き立てている。ほんとうにいい役者だった。

 「彼は、それはそれは大根だった。しかし、そう演じることを絶対的に愛していた。」
 ニーヴン自身がそう語っている。

976

 
 アメリカの金融システム不安が再燃して、世界じゅうの株式市場が混乱した。
 ニューヨークで、ダウ平均が、いっきに7000ドルの大台を割り込み、一時、前週末から307・76ドル安。6755ドル・17ドルまで値下がり。(’09.3,3)  こういうシーンをテレビで見ていると、ワクワクしてくる。
 東京市場でも、みるみる大幅に下落して、一時、7088円47銭まで下がった。
 アジア市場もおなじ。香港のハンセン指数が、前日終値比、2・84パーセント安。シンガポールの指数が、1・56パーセント安ではじまり、いずれも、今年の最安値。
 韓国の指数は、2・45パーセント安で、取引がはじまり、一種の基準値である1000ポイントを下回った。

 株式に無関係(つまり貧乏)な私が――こういうことを記録しておくのは、将来、誰かがこれを読んで、何か感じることがあるかも知れないと思うから。
 テレビで見ていてワクワクした。自分が、現実に大不況を見届けているような気がしてきた。こんな機会はそうそうあるものではない。

 12年ぶりに記録的な安値をつけたニューヨーク、その余波を受けている東京、アジア市場。ここに見られるのは、「この金融危機がいつになったら終わるのかわからない」という不安だろう。
 オバマ新大統領が登場して、AIG、シティーグルーブ、GMなどに、巨額の政府援助をあたえた。しかもなお、支援をうけた企業の低迷はとまらない。

 世界の市場で、消費の落ち込み、雇用の悪化、実態経済が雪崩をうってくずれ、しかも金融システムへの不安がからんでくる。
 日本の文学などどうでもいい。こういう時代に、アメリカ、ロシア、中国で、どういう作家が登場してくるか、つよい関心をもっている。

 こういう時代だからこそ、新しい作家の登場につよい期待が私の内部にはある。
 これまた老いぼれのたわごと、これまたなんとも滑稽な図柄ですが。(笑)

975

 
 シュテファン・ツヴァイク。もし、彼の作品を読まなかったら、私はずいぶん違った仕事をしていたと思う。つまり、私はツヴァイクを尊敬していた。
 彼の作品から影響を受けたわけではない。
 彼の「ジョゼフ・フーシェ」や、「メァリ・スチュワート」といった評伝を読んで、自分もいつかこういうジャンルのものを書いてみたいと思うようになった。むろん、はじめから関心をもつ対象が違うし、私にはツヴァイクのような知性、教養もなかった。ただ、どこか一点でもいい、ツヴァイクの評伝を越えようとおもった。
 私の『ルイ・ジュヴェ』で、シュテファン・ツヴァイクに何度もふれているのは、そういう思いがあったからだった。

 ツヴァイクは、第二次大戦に日本が参戦してから自殺している。
 自分の生涯は精神的なことのみにささげられた、と彼はいう。そして、自分の信じたヨーロッパの文明が崩れさる音を聞いたのだろう。
 最後にとりかかっていたのはモンテーニュの評伝だったが、これは完成しなかった。私たちの文学史にとって、ほんとうに残念なことのひとつ。

 ヘルマン・ケステンにあてた手紙で、ツヴァイクは

     あの神秘的な「のちの世界」にたどりつくまで、忍耐に変わらざるをえないあの勇気、私はもともと、その「のちの世界」を体験したいものとせつに願っているのですが・・

 と書いた。
 ケステンは、この「のちの世界」は死後の世界ではなく、戦後の世界をさしていたと考える。そうとすれば、神秘的と訳すよりは、「ミステリアスな世界」と訳したほうかいいだろう。あれほど明晰なツヴァイクが、何やら神秘主義的な作家のように見えてはよくない。

 いつか、ツヴァイクの『昨日の世界』を読み返してみよう。

974

 
(つづき)
 私が「劇団」を出たあと、彼女も別の有名劇団に移った。この主宰は、私もよく知っている人だった。(彼のことも、いつか書いてみよう。)
 その週刊誌の記事には、

    T.F.(劇団の主宰)も、これからよくなる役者と期待していたんです。テレビの脇役にも出ていた。ところが、ご主人がヒモみたいな人で、彼女、食べるために役者をやめて銀座に出たんです。(劇団員)
    銀座のクラブ「S」での彼女、「知的な会話が売り物」とかで、月収五〇万円。「Y.I.サンは、Sを働かせて自分はゴルフ、クルマ、釣りの遊び人。普段はペアルックなんか着て、年がいもなくべたべたしていたが、ひどいヤキモチ焼きでね。彼女が店の客と食事で遅くなるだけでバカヤローとどなる。Sが愛想をつかすのも当然」
    そして愛人ができた。Y.I.サンにバレて連日の大ゲンカ。そして<女優>は自ら人生の幕を下ろした。

 下品な記事だったが、これを読んだ私は、ほんとうに胸が痛んだ。

 研究生だったS.Y.を、はじめて舞台に出したのは、私だった。八木 柊一郎の『三人の盗賊』という芝居だった。このとき、彼女がなかなか勉強していることを知った。どことなく、さびしそうな翳りがあった。おそらく、貧しい生活をしていたに違いない。
 そのあと、劇団員に昇格したのも、S.Y.がいちばん早かった。
 私は、テネシー・ウィリアムズの『浄化』という芝居で使った。その後、レスリー・スティーヴンスの『闘牛』という芝居で、大きな役をふったのだが、S.Y.は辞退した。ここには書く必要はないが、ひどく恥ずかしそうに理由を語った。これも私にはショックだった。
 私が、小さな劇団をはじめ、S.Y.を誘いたかったのだが、いまさら弱小劇団で苦労するよりも、もっと大きな劇団のオーディションを受けたほうがいい。私はそう思った。だから、私はS.Y.を誘わなかった。

 その後、S.Y.は、NHKのテレビで子ども番組にレギュラーで出演していた。私は、彼女のためによろこんだ。生活も安定しているらしく、表情もいきいきとしていた。
 彼女の舞台も何度か見たおぼえがある。

 S.Y.の死は、ほんとうにショックだった。これから、かなりいい女優になれたはずだった。その彼女が、突然、こんなかたちで人生に見切りをつけるなんて、ぜったいあってはならない。私の胸にあったのはそういう悲しみだったのだろう。
 ひとかどの才能に恵まれて、美貌で、自分でもずいぶん努力してきたはずの、だが、それほど有名ではなかった女優が、おもいがけないことで死を選んだ。
 もし、あのとき私がS.Y.を誘っていたら、という思いもあった。

 もう25年も前の3月14日のこと。

973

 
 その当時、私はもう演出の仕事から離れていた。雑誌に短編を書いたり、ある新聞に評伝小説のようなものを連載したり、翻訳をしながら明治の文学部と、ある女子大で講義をつづけ、翻訳家養成センターで実践的な指導をつづけていた。

 そんな多忙ななかで、ある週刊誌に、こんな記事を見つけた。

    「女房とケンカした。生きがいがないから死ぬ」と、酔った男の声が一一〇番に入ったのは、先月末の夜十一時。警察官が中野区中央のアパートヘ駆けつけると、室内では首を切った女性がフトンの上で失血死。やはり首を切った男性が倒れていた。
 女性は<元女優>のS.Y.。男性は自称シナリオライターのY.I.サン。ふたりは十五年前から内縁関係に。
    警察は当初、S.Y.の男性関係に悩んだY.I.サンが無理心中をはかったものとみた。ところが調べてみると、事実は逆で、新しい愛人とY.I.サンとの三角関係を清算するためにS.Y.が、登山ナイフで、Y.I.サンを刺したが、結局、自分だけ死んでしまった。

 この記事を読んで、胸を衝かれた。驚きがあった。こともあろうに、あのS.Y.が愛人と無理心中をくわだてて、自分だけが死んでしまうなんて。

 私は彼女を知っていた。演出家と女優というだけの関係だから、親しいとまではいえないにしても、ある程度まで知っていた。小さな劇団で一つ釜のメシを食った仲間、といった感じといえばわかってもらえるだろうか。
 はじめは研究生のとき、つぎには劇団員に昇格した彼女を芝居で使った。稽古場で会えば、いつも明るい声で挨拶する女の子だった。短い台本をとりあげて、稽古をつづけたこともある。したがって、ある時期まで、彼女を見まもってきたといっていい。
 やがて、劇団の内紛にまき込まれて「劇団」を離れた私は、自分で小さな小さな劇団をひきいることになった。経済的な基盤が何もないのだから、なにもかも私の肩にのしかかってくる。この時期の私は、芝居の公演をつづけるために、ただひたすら雑文を書き、小説を書きとばしていた。
 S.Y.の自殺の記事といっしょに当時の私のメモが残っている。

    「五木寛之全集」田近さん、「SES」本田さん、督促。
    川久保さん、「ボルジア家」問い合わせ。私あての礼状。
    五木寛之氏に、豆本「風に吹かれて」の礼状。
    「集英社」からジャニーヌ・ワルノー。
    「北沢書店」からパトリックの『ピカソ』。グィツチャルディーニ、18万円。
   「週刊XX」今夜、12時まで。北原君、くる。

 私が連載を書いていた週刊誌に、S.Y.の事件が出たのだった。
     (つづく)

972

 いまの女性は、19世紀から20世紀にかけての女性たちとは、比較にならないほどの自由を獲得している。
 クラフト・エービングは、女が個人としての存在になることを期待していた。その当時は(20世紀初頭)まだ、女性の社会的な地位は男性よりもはるかに低いものであっても、次第に女としての権利をもち、自立的に行動できるようになれば、自分から求めるのでなければセックスをしなくなる。そうなってはじめて、性生活は洗練された発達を見るようになる、と考えた。

 現実に、いまの女性は性的にも自由を獲得している。クラフト・エービングの希望、期待は果たされたと見ていい。
 だが、論理的にいえば、ここにもう一つの論点が生じる。
 男におけるマゾヒズムという問題である。なぜなら、男が自分の動物的な情動・・・リビドーといっていいかも知れない・・・が女によって抑えつけられる場面を演じたいという、コンパルシヴな欲求が、まさにこのクラフト・エービング原理をささえるからである。つまり、女性は性的にも自由を獲得した状況は、マゾヒスト(男)にとっては、願ってもない場所ではないか。

 ジョン・K・ノイズの『マゾヒズムの発明』を読んで、私は、あらためてドストエフスキー、ザッヘル・マゾッホ、谷崎 潤一郎などについて考えはじめている。
 (女のマゾヒズムについては、ある映画女優の生涯にふれて書くつもり。)

971

 
 あるとき、芝居の劇評を書いた。雑誌の「テアトロ」に書いたのだが、雑誌の劇評なので、芝居を見てから、しばらく時間的な猶予があった。
 当時、私は週刊誌や雑誌でいろいろな仕事をしていたので、けっこう忙しかった。毎日、仕事に追われていたので、いつしか自分の見た芝居の印象が薄れてしまった。締め切りがきたので、あるホテルのロビーまで編集者にきてもらって、その場で書いた。
 うっかり、主役の名前を書き間違えた。劇評で出演者の名前を間違えるなど、言語道断だろう。
 編集者は、その場で私の誤りに気がついたが、そのまま掲載したのだった。締め切りをすぎていたので、時間がなかったということになる。
 私の劇評が出た翌月、その俳優が抗議文を投書してきた。
 私は、すぐに編集部に電話をかけて、謝罪文を載せてほしいとお願いした。そして、その俳優に対する謝罪の文章を書いた。

 私と関係がないエピソードを思い出す。
 明治時代の作家、翻訳家だった森田 思軒が、「宮戸座」の劇評を読んで、『縮屋新助』を見に行った。九蔵(七世・團蔵)の「新助」、栄次郎の「美代吉」だった。
 栄次郎が、桟敷に挨拶にきた。

 思軒が栄次郎に向かって、
「美代吉がハンケチを持って居るのは変だと言った評を見たがハンケチじゃないね」
 というと、栄次郎は、
 「あんな無茶な評を書く先生があるから、口惜しう御座います。私は此の役をするので辰巳(深川)の芸妓のことをいろいろと聞きました。縮みの汗鳥を持って居たと聞きましたから、それを使ったのをハンケチと見られたのは弱りました。」
 と答えたという。

 鶯亭 金升の資料に、こんなエピソードが出ていた。
 栄次郎は、いっとき五代目(菊五郎)の養子になった役者。
 これを読んで、私は劇評など書かなくてよかったと思うようになった。

 その後、劇評はいっさい書かなくなった。
 私の原稿を読んでカン違いにすぐ気がつきながら、おもしろがってその原稿を載せた編集者に対する不信は心にくすぶっている。私は自分の非をじゅうぶん認めるけれど、その編集者が私をはずかしめようとしたことを忘れない。
 もう何十年も昔のこと。

970

 前に書いたことがある。
 もう一度、くり返しておこう。
 「俳優という職業はつらいものだ」と、サマセット・モームはいう。モームがいっているのは、自分が美貌だからという理由だけで女優になろうとする若い女性や、ほかにこれといった才能もないので俳優になろうと考えるような若者のことではない。

     「私(モーム)がここでとりあげているのは、芝居を天職と思っている俳優のことである。(中略)それに熟達するには、たゆまぬ努力を必要とする職業なので、ある俳優があらゆる役をこなせるようになったときは、しばしば年をとり過ぎて、ほんのわずかな役しかやれないことがある。それは果てしない忍耐を要する。おまけに絶望をともなう。長いあいだの心にもない無為も忍ばなければならぬ。名声をはせることは少なく、名声を得たにしてもじつにわずかばかりの期間にすぎない。報われるところも少ない。俳優というものは、運命と、観衆の移り気な支持の掌中に握られている。気にいられなくなれば、たちまち忘れられてしまう。そうなったら大衆の偶像に祭りあげられていたことが、なんの役にも立たない。餓死したって大衆の知ったことではないのだ。これを考えるとき、私は俳優たちが波の頂上にあるときの、気どった態度や、刹那的な考えや、虚栄心などを、容易にゆるす気になるのである。派手にふるまおうと、バカをつくそうと、
    勝手にさせておくがいい。どうせ束の間のことなのだ。それに、いずれにしろ、我儘は、彼の才能の一部なのだ。」

 私はモームに賛成する。だから俳優や女優のスキャンダルを書きたてる芸能ジャーナリズムにはげしい嫌悪をおぼえる。

 ある女優(というより、タレントといったほうがいい)の不審死。
 名優といわれていた俳優の死。
 それぞれの死に対する、私の思いはここに書く必要はない。ただ、この女優の死に、私たちの時代をおおっている何か忌まわしいものを重ねた。そして、この俳優の死を悼みながら、ほんらい舞台人だった彼が、映画やテレビに力をふり向けなければならなかったのは、私たちにとって不幸なことではなかったか、と思った。

 俳優や女優の死は、本人の不幸というよりも、私たちにとって不幸なのだ。

969

 
 『出世景清』のなかで、獄につながれた「景清」を「十蔵」がおとしめる。「景清」はあまりの雑言(ぞうごん)に「二言と吐かば掴み挫いで捨てんず」と睨みつける。

    十蔵かんらかんらと笑ひ、「其の縛(いましめ)にあひながら某(それがし)をつかまんと。腕無しのふりづんばい、片腹痛し事をかし。幸ひ此の比(ごろ)ケンピキ痛きに、ちつとつかんでもらひたし」と空うそぶいてぞ居たりける。

 ケンピキの「ケン」は、病だれに玄。「ピキ」は、癖。肩凝りという。「十蔵」は、小手も固く縛(いましめ)られている「景清」を嘲っている。
 古語を知らぬかなしさ、この「ふりづんばい」がわからない。

 けれども、かんらかんらと笑うとか、「片腹痛い」とあざけるといった表現は、私の内部に生きている。少年時代に読みふけった講談や落語、あるいは歌舞伎のおかげで、そんなことばが心に残ったらしい。

 若い頃は他人の批評が気になるもので――自作があしざまに批評されたとき――かんらかんらと打ち笑ひ、よくもよくも、腕無しのふりづんばいが、某(それがし)の作を罵りおったナ。片腹痛い、とはこのことだわ。
 と、空うそぶいているうちに悪評など気にならなくなった。

 残念ながら、自作に使ったことは一度もない。作中人物がかんらかんらと笑いつつ、「うぬめら、片腹痛いわ」とドスのきいたセリフを吐くや、腥血淋漓、悪人輩(バラ)をバラリンズンとまっこうからたけわり。

 もう、遅すぎるか。ムフフフ。(笑)

968

 近所の古本屋の棚に、岩田 豊雄の『フランスの芝居』があった。昭和18年2月20日発行。生活社。定価。二圓。つまり、戦時中に出た本で、初版、1500部。
 なつかしいので買ったのだが、150円。

 この本が出た当時、私は明治大学の文科に入ったばかりで、著者が、作家、獅子 文六だということも知らなかった。ただ、この本で、はじめて現代フランス演劇を知ったのだった。何度もくり返して読んだ。空襲で焼いてしまったので、戦後になって買い直した。この本もくり返して読んだ。

 私の内部に、この本に出てくる多数の演劇人の名前とその仕事が重なっていた。

    巴里の前衛劇場と目すべきものに、ルイ・ジュウヴエの劇団、シャルル・デュランのアトリエ座、ガストン・バチイのモンパルナス座、ジョルジュ・ピトエフの劇団の四つがある。
    ジュウヴエの一座はコメデイ・シャンゼリゼエに立籠り、舞台と座員の充実せる点で、一歩を抽ん出てる観がある。この一座の特徴は、純粋に、仏蘭西的な新興舞台芸術を示すことで、ジュウヴエはただ一回ゴオゴリの『検察官』を採用したのみで、嘗て外国戯曲に手を触れたことはない。また彼自身の手になる舞台装置も、意匠に於て色調に於て、独露のそれと全然別種の近代性を持ってゐる。それは彼の明朗な、快活な、多彩な演出法についても窺はれる特色である。彼はいかなる国外の影響すらも免れた。ただ、仏蘭西劇壇の二大恩人の一人ジャック・コポオの理論は、多分に彼の芸術のなかに享け継いだ。彼はコポオのヴイウ・コロンビエ座で共に働き、やがて現在の一座をつくった。ファンテェジイと機智(エスプリ)を、彼ほど巧みに舞台に生かす演出者はあるまい。

 当時の私は16歳。はるか後年、評伝『ルイ・ジュヴエ』を書いた。
 はじめて、岩田 豊雄を読んだときとは比較にならないほど多くの知識を身につけていたが、私の書いた評伝は、岩田 豊雄が書いた部分からそれほど遠いものではなかった。
 私の評伝の出版がきまったとき、女の子たちといっしょに岩田 豊雄の墓に詣でた。
 生前の岩田さんの知遇を受ける機会はなかったが、自分なりに感謝をこめて挨拶したのだった。