1007

 
 戦前の映画雑誌を見ていて(読んでいたわけではない)小さなアンケートを見つけた。 「松竹」、「東宝」、「大都」のスターたちがめいめい「私淑する俳優」をあげているのだが、「私淑する」というあたりがなんとも奥ゆかしい。

 大川 平八郎 → ポール・ムニ、スチュワート・アーウィン、ハーバート・マーシャル。
 大日向 伝 → ゲーリー・クーパー、スペンサー・トレイシー、小杉 勇。
 岡  譲二 → コンラッド・ファイト、ヴェルナァ・クラウス、ポール・ムニ。
 斉藤 達雄 → アレクサンダー・モイッシ。
 佐伯 秀男 → クラーク・ゲーブル、ゲーリー・クーパー、フランチョット・トーン、スペンサー・トレイシー。
 菅井 一郎 → ルイ・ジューヴェ、小杉 勇、原 節子。
 丸山 定夫 → 井上 正夫、曾我廼家 五郎、藤原 鎌足。
 見明 凡太郎 → 小杉 勇、河村 黎吉、スペンサー・トレイシー、ベット・ディヴィス。
                                        
 丸山 定夫は、移動演劇で公演した広島で原爆死した俳優。
 藤原 鎌足は、黒沢 明の「七人の侍」に出たから知っている人も多いと思う。ほかの俳優たちはもう誰もおぼえていないだろう。
 戦前、小杉 勇の演技が高く評価されていたことがわかる。「土」や、「裸の町」、「五人の斥候兵」といった映画が代表作。戦後はまったく姿を見せなくなった。一度、何かのコマーシャルで見たけれど。
 ハリウッド映画では、スペンサー・トレイシーをあげている人が多い。
 女優をあげているのは見明 凡太郎の、ベット・ディヴィス。菅井 一郎が原 節子。 私としては、斉藤 達雄がアレクサンダー・モイッシをあげていること、菅井 一郎がルイ・ジュヴェをあげていることに驚かされた。  (つづく)

1006

 ドイツ語がわからないため、ヘルマン・ケステンの作品はほとんど読んだことがない。それでも「現代ドイツ作家論」という評論は、何度も繰り返して読んだ。
 原題は「わが友/詩人たち」。
 作家論というよりも自分の知っている19人の作家、詩人たちについての回想というべきもので、ホフマンシュタール、ツヴァイク、トーマス・マン、ハインリヒ・マンといった著名な作家たち、トラー、ヨーゼフ・ロートといった、あまり知られていない劇作家、詩人たちがとりあげられている。

 この19人のなかで、ツヴァイクはブラジルで、トラーはニューヨークで、クラウス・マンはカンヌで、ヴァイスはパリで自殺している。そのほかにも、ロートはパリの施療院で、カイザーはスイスで窮死している。
 ツヴァイクは、日米戦争が始まって、日本軍がシンガポールを攻撃したことを知って自殺しているし、エルンスト・ヴァイスは、ドイツ軍がパリを占領したとき、浴槽のなかでいのちを絶っている。
 ほかの作家たちも、ドイツから亡命しなければならなかった人々ばかりだった。
 ドイツの文学者たちの、きびしい生きかたに較べれば、私などは、まるっきりのほほんと「戦後」をかいくぐってきたもの書きにすぎない。

 人並みに戦争で苦労はしたが、戦後になってから活動しはじめたため、ドイツの亡命作家たちの言語に絶する辛酸を知らない。だから、私はドイツの亡命作家について語る資格はない、といううしろめたさがある。それでいて、こんな悲惨な時代に生きた作家、おそろしく陰惨な時代にまつわっている苦難は、忘れてはならない。そういう思いから『ルイ・ジュヴェ』を書いた。私なりの決着のつけかただった。
 スターリンが死んだとき、わざわざ狸穴のソヴィエト代表部に出かけて、備え付けのノートに、「最も高潔な人の名に、人類の記憶よ、ながくとどまれ」などと、ベタベタに感傷的な弔辞を書きつけた中野 重治のような決着のつけかたではなかった。私は中野 重治に対して冷たい侮蔑しかおぼえない。

 いま、私がヘルマン・ケステンを読むのは、ドイツの作家たちに対する敬意を忘れないためと――自分の「戦後」をあらためてたしかめるつもりで読む。むろん、自分をケステンと比較するつもりはまったくない。もとより自虐の思いではない。

1005

 
 ヘルマン・ケステンのことば。

   すぐれた散文家かどうかは、書き出しの1ページを読めばわかる、わるい散文家かどうかも。

 これは本当のことだ。

 私のクラスから、かなり多数の翻訳家たち、けっして多くはないが、エッセイスト、作家が出た。自分のキャリアーについては語るべきこともないが、このことだけはうれしく思っている。
 私がクラスでいい続けてきたのは、じつに平凡なことだった。

     いい翻訳かどうかは、書き出しの1ページを読んだだけでわかる、おもしろくない翻訳かどうかも。原作者は、たぶん自分の作品をおもしろいと思って書いているのだから、きみもおもしろく訳さなきゃ。

 こういう私の考えかたは、

     いいか、きみの演じる人物には、劇場の色彩ゆたかな幕、脂粉の匂いが感じられなきゃ。お客は、自分が芝居小屋にいるっていうイリュジォンを味わうために金を払っている。……観客からその幻想を奪うってノは、間違いもいいところだぜ。

 ということばを私なりに(つまりは勝手に)発展させたものだった。
 ルイ・ジュヴェのことば。映画「俳優入門」から。

1004

 
 絶世の美女を見たことがある。至近距離で。「パリ・ソワール」の横の坂道に出たとき、車が坂を登ってきた。私は車をよけた。バック・シートの女性が顔をあげた。ダニエル・ダリューだった。まさか、こんな場所でフランスの美女とすれ違うとは予想もしなかった。一瞬、私の顔に驚きがひろがっていたに違いない。
 彼女はちらっと私を見ただけだった。車は私の横を通りすぎて行った。
 それだけのこと。私は茫然自失して彼女を見送っていた。
 ひょっとすると、あのダニエル・ダリューは白日夢だったのか。それとも、私の妄想だったのか。

 日本でもダニエル・ダリューはよく知られていたが、実際にはわずかな映画しか輸入されなかった。

 戦前の「うたかたの恋」(36年)も、日本では公開されず、戦後になってから見ることができた。戦後、「輪舞」(50年)などでダニエルの健在を知ることができた。

 私は「不良青年」(1931年)を、戦後すぐの池袋で見た。この映画は、戦後の混乱のさなか、突然単館で公開されたもので、わずか一週間で消えた。この映画を見たのは偶然だったが、私にとっては幸運としかいいようがない。
 だが、ダニエル・ダリューが、ハリウッドで撮った「パリの怒り」(38年)も、パリでとった戦争直前の「心のきず」(39年)、戦時中の「はじめてのランデヴ」(44年)などは見ることができなかった。
 こうした映画は、フランスではビデオにもなっていない。
 つまり、もっとも美しかった時期のダニエルを私たちは知らない。

 私たちの外国文化に対する理解はいつも偏頗なものなのだ。ダニエル・ダリューのことにかぎらないが、私の外国文化に対する理解が偏っているという自覚は、いつも私の心から離れない。

1003

 
 「私の愛した男たちは、みんな天才ばかり。これこそは、私が主張するただひとつのこと」と、イサドラ・ダンカンはいう。
 すごいね。さすがだなあ。こういうイサドラを私は尊敬する。と同時に、いささかあきれる。

 ロダンは、イサドラをモデルに彫刻を作った。このとき、イサドラのあられもない姿態を水彩で描いた。ロダンは終生、このデッサンを筐底に秘めていた。それはきわめてエロティックなものだったが、ポルノグラフィックなものではなかった。ロダンはほかの女たち、たくさんの貴族の女性たちや、下層の娼婦たちまで、ほんとうにエロティックなヌード・デッサンをたくさん描いている。
 20世紀の最後になって、ようやくこのデッサンは発表されたが、芸術家として女の本質をとらえようとしたロダンのすさまじい執念を見ることができる。

1002

 あきれ返ってものもいえねえ。そんな話を書いておこう。

 東京都の下水局が制服、20000着を新調した。やがて、できあがってきた。
 ところが、胸につけるワッペンが違っている。
「東京都下水局」という文字の下に添える水色の波線が、内規と違ったらしい。それを削ったという。
 この作り直しの費用が、3400万円。

 このニュースは、「読売」(’09・4・14)に出ていた。

 えらい! 「東京都下水局」を褒めてつかわす。
 現在、非常な危機といわれる経済危機のさなかにあって、よくぞ、ここまでアホウなことを仕出かした。「東京都下水局」、あっぱれである!

 東京都の「下水局」なのだから、所管の長は、石原 慎太郎ということになる。石原君が、これをどう処分するか。

 私が東京都知事なら、以下のように裁定する。

 胸につけるワッペンのデザインをしたヤツに、報償金、100円をさしつかわす。
 理由は「東京都下水局」という文字の下に添える波線などという、まぎらわしいものをつけた功績に対して。その氏名、身分を公表して、その功績を表彰しよう。

 つぎに、このワッペンを発注した係の者に、報償金、50円を与える。水色の波線というごとき内規を忠実にまもったコッパヤクニンの典型として表彰に値する。

 さて、このワッペンをつけた制服ができあがったとき、この水色の波線が内規と違ったことに気がついたコッパに、監督不行き届きとして、3千万円の罰金、または、それに該当する給与削減を行う。「下水局」だから水色などという発想がよろしくない。むしろ、ドロ水色をもって波線とすべきである。

 さてつぎに、このワッペンを取り替えるよう命令したコッパの上司に対して、3400万円に該当する額の退職金削減をもって、即日、ご退職をお願いする。これほどの輝かしい退職者として、その氏名を公表、都庁前に「下水局」全員が整列し、お見送り申しあげる。これは最高の栄誉礼である。

 最後に、「東京都下水局」局長に、在職中、ずっとこの制服の着用を命じる。デザインはいいし、綺麗なワッペンはついているし、どこに出てもはずかしくない。
 この制服の着用をこのうえなき名誉と心得るべし。

 石原都知事も、今後、せいぜいこの制服の着用に相つとめられるべきこと。

1001

 「コージートーク」は、その日そのとき、何かを見たり読んだりして、ふと心に浮かぶよしなしごとを書きとめてきたもの。書く材料はいくらでもある。ただし、自分ひとりでおもしろがっているようなことも多い。
 落花、紛々として、やや多きをおぼえ、美人、酔わんと欲して顔を赤く染める。そんな一日、「コージートーク」の1001本目を書く。(’09・5・5)

     君起舞   きみ 立ちて舞え
     日西夕   日 西に 夕づく

 うろおぼえの李白の一節を口ずさんで、一杯をもって咽喉をうるおす。

 思いがけず長生きしたおかげで、いろいろな人や、ものごとに接してきた。私なりに感動したこと、おもわず見とれてしまった女人のこと、あるいは、あきれたことなど、いろいろとある。
 今後もそんなことを書いてみようか。
 あるいは、もう少し別な工夫をしてみようか。格別、何も思いつかないのだが。

 感動したことを書く。もとよりもの書きとしての願いだが、自分が感動したことを書いて、人さまに感動してもらうなどという了見はもたない。そもそも不可能なことだから。「仕事をしている日が、自分には最高の日なのだ」と、ジョージァ・オキーフがいう。私は感動する。しかし、こういうことばはジョージァ・オキーフだからカッコいいのであって、私などがいうと冗談にもならない。

     胡姫貌如花   ハリウッド・スターの美貌 花のごとし
     笑春風     春風に ほほえみ
     羅衣舞     うすぎぬの舞

 こんな女人のことを書いてみたら、さぞ楽しいだろうと思う。これがなかなかにむずかしい。日本の狂言のように――美人に恋をするという趣向は、枕物狂いの老人が美少女に恋いこがれて、孫たちに心配をかける。
 もう一つ――天下に名を得た画工の金岡が、大内の女房を恋して、自分の妻君の顔に彩色してみるが、どうにも似た顔にならない。
 狂言には、せいぜいこのふたつのプロットしかない。
 私が女人のことを書いたら、おそらくファルスにしかならない。いっそ、芝居仕立てで書きたいものだが、そんな余力も残ってはいない。

 さて、これから「コージートーク」はどう変わるだろうか。
 感動したこと。女人のこと。あきれたこと。なんでもない瞬間のこと。白日夢であれ妄想であれ、日頃はすっかり忘れていながら、どうかして心のなかにまざまざとよみがえってきたことども。
 しばらくはそんなことを書きつづけよう。

 「コージートーク」を読んでくださる方々には感謝している。そして、田栗 美奈子、吉永 珠子のおふたりに、心からの感謝をささげよう。きみたちのおかげで、「コージートーク」は1001本目、つまり今日を迎えることができた。ありがとう。

☆1000☆

(つづき)
 ノエル・カワ-ドの“Shadows of the Evening”。幕切れ。
 「ジョ-ジ」は、愛人と妻の前で語る。

ジョ-ジ 人生は神さまがくれるすばらしい贈りもの、というならそうかも知れない。それに、人間はその発明の才や勇気、いとおしいまでの優しさで、さまざまな奇跡を起こしてきたかも知れないし、それが違うとはいわない。
     ただ、おれは嘆かわしいんだ。そうやってどんなに奇跡を起こそうと、理不尽なまでの冷酷さ、強欲、恐怖心やうぬぼれとかのせいで、どんどん帳消しにされてしまう。
     おれのいいぶんが100パ-セント正しいなんていってるわけじゃない。
     天国のどこかから、世界のあやまちを匡せ、なんて特命を受けているわけじゃない。
     おれなんざ、ただ、そこそこに注意深い男ってだけさ。
     もうじき死ぬけど、やれ神秘だのロマンティックな絵空事なんかにはぐらかされるのは、まっぴら御免、そう思っているだけの男だよ。

リンダ  そうとは言い切れないわ。神秘としかいえなかったことが、ある日、突然はっきりするかも知れないし、ロマンティックな絵空事が現実になることだってあるのよ。

ジョ-ジ そうかも知れない。天国、地獄、煉獄、わるい鬼とかサンタクロ-ス、お伽ばなしの夢ものがたり、みんなそうだ。
     何でもわかる人間だとは思っていない。何もわかっていないってことはわかっている。
     それにこの説明不可能なナゾの前に立てば、世界じゅうのどんな司祭だの哲学者、科学者、いや、手相見だって、おれとおなじくらい何もわかっちゃいない。
     結論の出ない憶測にかまけている時間なんか、ますますなくなる。だから、残された日々、ひたすら恐怖に負けないような心を鍛えて過ごそうと思っている。
     歴史を見てごらん、おれよかりっぱな連中は、みんな、勇気とユ-モアをわすれず、冷静沈着に、迫りくる死と向きあってきた。
     だから、おれも、せいぜい意志の力をつよくして、たぐいまれなご一統さまのひとりとして死ねればと思っている。
     臨終の床で悔恨にくれる、そんな甘ったれたことはしないさ。
     ごめんなさいをいう前に、忘れちまうさ。
     ひれ伏したり、すがりついてまで、魂の救済を祈りたい、とは思わないね。
     おれの魂ってったって、ナニ、核だの、染色体だの、遺伝子だの、もしかしたら霊魂みたいに実態のないものが、ゴニャゴニャまざりあっただけのものかも知れないさ。とにかく、いちかばちか、賭けてみるっきゃない。くたばってゆくこのからだだって、五十年も、ずっといちかばちか、賭けつづけてきたんだ。
     子どものとき、いよいよ夏休みがおしまい、って日がくる。今のおれが、そんな感じなんだ。
     まだ時間はある、楽しかったことをちょっとふり返ってみる。前にピクニックに行った入江に、もう一度行ってみてもいい。クラゲが浮いていた洞窟まで泳いでみるか。木の枝にぶら下げたブランコをこいだり、砂のお城を作ったり。
     今のうちに、食ったり飲んだり、そこそこいい気分になってみようか。
     バカラで大当たり、色とりどりのチップスをごっそり、なんていうのもいい。きみたちふたりが、ほんのちょっと力を貸してくれるだけでいい。
     どうしたって気弱になっちまう瞬間てのがあるだろうから、そいつを乗り越える手助けをしてほしいんだ。

     (外の湖から、サイレンが三回きこえる)

     汽船が出る。何時も出航10分前に鳴るんだ。乗り遅れないように合図する。さあ、二人とも、パスポ-トはもってるね。おれのもある。まだ期限切れじゃない。

    ジョ-ジはアンがコ-トを着るのを手つだってやる。それぞれ持ち物をたしかめて、三人が出てゆく、同時に 幕が下りる

 私の訳だからあまりうまくないが、これを読んでくださった方は、自分の声にのせて、このセリフを全部読んでみてほしい。
 役者ではないのだからうまく声に出せなくていい。ヘタでもいいのだ。

 私の「コージー・トーク」は、今日で1000回に達した。つたない私の「一千一夜ものがたり」を、今後ともつづけるべきや否や。
 江戸の作者の口まねをしようか。

 中田 耕治これを稿じ終わるの夕(ゆうべ)、灯(ともしび)を掲げ、案を拊(ふ)し、ひとり嘆じていわく、
 才の長短と、ものの巧拙は旦(しばら)くいわず、HPに雅俗あり、また流行あり。そり流行は人にあるか、はた我にあるか。われいまだこれをしらず。呵々。

 このブログをはじめるに当たって、いつも私を励まし、書きつづけさせ、あわせて管理の労をとってくれた田栗 美奈子、吉永 珠子のおふたりに心から感謝している。また、私の「文学講座」を推進してくれている安東 つとむ、真喜志 順子、竹迫 仁子、私を中心にしたグループ「NEXUS」と、私塾「SHAR」のみなさんには、どれほど感謝していることか。
 そして、これまで私のブログを読んでくれた人々、いろいろ連絡してくれた方々、老いのくりごとにつきあって下さったみなさんにあらためてお礼を申しあげよう。

 ほんとうにありがとう。

999

 少し前に、私のクラスで、ノエル・カワ-ドの戯曲、“Shadows of the Evening”を読んだ。
 いろいろなテキストを読んできたが、カワードをとりあげたのは今回がはじめて。
 いかにもカワードらしい手だれの劇作で、底の浅い芝居。いわゆるウェル・メイド・プレイだが――ラストで、観客はつよい感銘を受けるだろうなあ、と思う。劇作家の技巧もさることながら、やはり年輪というか、成熟を物語っているだろう。幕切れに近く、ぐっと感動がやってきて、観客は、いい芝居を見たことに満足して劇場を出るだろう。
 こういうところ、ある時期の劇作家はみごとに見せている。私はみんなにこまかく説明してやる。わかってもらえたかどうか。この幕切れは、もうチェホフだよ。

 第二場の「トガキ」だけを引用してみよう。

     第一場から1時間が過ぎている。窓の外に夕闇がひろがっている。湖の対岸にちらほら明かりがともり始めている。高い山の彼方の空だけが、まだわずかに明るい。

    召使が、シャンパンの壜を入れたアイスペ-ル、グラスをのせたトレイをもって、ドリンクテ-ブルの仕度をととのえる。
    ややあって、寝室からリンダが出てくる。イヴニング・ドレス。腕にイヴニング・コ-ト、白い手袋。

 こんな「トガキ」だけでは、何も見えてこないだろうが――湖畔の避暑地、「リンダ」は、まさにノエル・カワ-ド・ヒロインである。そして、ジョ-ジが登場する。タキシ-ド。胸に赤いカ-ネ-ション。

 「リンダ」は、リリー・パーマー。「ジョン」は、レックス・ハリソン。
 これだけで舞台にぐっと立ちこめてくるものが想像できる。    (つづく)

998

 ビョーキの話。

 文化9年(1812年)、小林 一茶は、茨城から、下総(千葉県)流山に入った。途中の部落で、若い娘を見かける。

    十二日、まれの晴天なれば、籠山を出てあたご町といふ所を過るに、いまだ廿にたらぬと見ゆる女の、荒布(あらめ)のやうなるものを身にまとひ、古わらじ、馬の沓(くつ)のたぐひ、いくつともなく腰にゆひつけつ、黒髪に箸あるひはきせるなどさして、かくす所もかくさず、あらぬさましてさまよふ者あり。人にとへば、おすが気違ひとて、此里のものなるとぞ。何として仏紙に見はなされたるや、盛りなる菖蒲(あやめ)の泥をかぶりて折る人さへもなく思はれて哀也。汝、父やあらん。母やあらん。

 これに説明の必要はないだろう。
 一茶は、父母の愛を知らずに育った人だった。その一茶が、若い狂女をどういう思いで見たのか。年端もゆかない哀れな狂女をとらえた一節に、一茶のまなざしのきびしさ、やさしさが、まるでミニマリズムの短編でも読むような緊張を感じる。

 ここで、十七、八の若い狂女がヒロインの、中村 吉蔵の喜劇、『檻の中』を思い出した。たしか大正末期か、昭和2、3年頃の作品だったはずである。喜劇というよりファルスといっていい芝居だが、劇中のあらわな女性蔑視、「キチガヒ」に対する無理解など、その眼の低さは隠すすべくもない。
 中村 吉蔵は、いっとき真山 青果と並び称された劇作家だったが。

 一茶は、この文化9年、二度故郷を訪れる。二度目は冬であった。

    これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺

 あまりにも有名な句だが、ただの慨嘆、自嘲を見るべきではないだろう。

 翌年1月、父の法要をすませ、異母弟と和解する。故郷に帰ってちょうど一年目に、皮膚にできものができて、6月から75日も病臥した。
 このときの皮膚病は、文化13年(1816年)の「ひぜん」とは違うだろう。私は、なんとなく帯状疱疹ではなかったかと想像している。一茶の「ひぜん」は、おそらく、栄養失調によるもので、敗戦後の私たちも苦しんだ「カイカイ」ではないかと思う。皮膚科の専門の先生にお尋ねしたいことなのだが。

 私はめったにビョーキの話をしないのだが――つい最近、帯状疱疹になったのでビョーキの話を書く気になった。一茶さんに同情をこめて。(笑)

997

 若き日の尾崎 咢堂が、福沢 諭吉に会いに行った。大先輩のご意見を伺うつもりだったらしい。

    そのとき、先生は、毛抜きで鼻毛を抜きながら、変な目つきで斜めに私の顔を見て、『おめえさんは、誰に読ませるつもりで、著述なんかするんかい』と問われた。私は、その態度やことばづかいにおもわずムッとしたが、つとめて怒気をおさへ、エリを正して厳然と『大方の識者にみせるためです』と答へた。すると、先生は、『馬鹿! サルにみせるつもりで書け! おれなどは、いつもサルにみせるつもりで書いてゐるが、世の中は、それでちょうどいいのだ』と道破したのち、例の先生一流の、人をひきつけるやうな笑いかたをされた。私はしかられたのかほめられたのか、なんだかわからなかったが、その後はなるべく先生を訪問しないやうにした。だが、これは私の誤りで、先生は、このとき、実用的著述の極意を示されたのであった」

 という。
 おもしろい話だ。さすがは、福沢 諭吉、おサツに印刷されるほどの大人物である。
 私たちも「サルにみせるつもりで」書かかなければならない。
 だが、ひるがえって考えてみれば、尾崎 咢堂と福沢 諭吉のどちらが、奇人、変人に見えるだろうか。私には、ふたりともごくふつうのお人柄のように見える。もっとも、私がサル並みの平凡なもの書きだからだろう。

    世間ではよく<音楽家は誰しも少しばかり頭がいかれている>という。これを、正規のドイツ語でいうと、一般社会で、奇人、変人といわれる連中が、音楽史にはうじゃうじゃいるということだろう――そして、こんにちまで、誰ひとり、音楽史におけるこの方面の研究をしたひとはいない。

 これは、W・H・リールという人のことば。

 最近は、リール先生のいう「音楽史におけるこの方面の研究」もけっこう多く書かれているような気がする。おなじように俳句の世界の奇人、変人の研究も多い。
 私が俳句が好きなのも、俳句の世界にかなり奇人、変人が多いせいかも知れない。そのくせどこにでもいる程度の奇人、変人には、あまり関心を惹かれない。
 その程度に私も奇人、変人に近いのかも。いや、サルに近いのかも。(笑)

996

ふたりの中国人留学生(女性)に中国語の初歩を教えてもらった。
 そのおひとりは、イギリス人と結婚して、現在ロンドンに住んでいる。
 もうひとりの彼女は、日本の国立大の工学部で、コンピューターの最先端の研究をしていた。在学中に発表した論文で、工学博士号をとったほどの女性だった。
 ある日、彼女が浮かぬ顔で、
 「大学の図書館が、私の専門分野の雑誌の講読をやめたんですよ」
 といった。
 彼女の話によると、その専門誌を読まないと、世界の研究のレベルにとても追いついてゆけないらしい。私は訊いた。
 「大学の学生たちも読むの?」
 彼女の説明によれば、高度な内容の学術雑誌なので、実際に読めるのは10人程度。
 個々の論文を完全に理解できるのは、ほんの数人にかぎられるというのだった。
 大学当局は、利用者がきわめて少ない学術雑誌なので講読を打ち切ったらしい。
 彼女は、ちょっと悲しそうな表情で、
 「日本の研究は、これで遅れますね」
 といった。
 このことばが私の心に重く沈んで行った。

 せっかくこんな優秀な女性に教えてもらったのに、私の中国語の勉強は途中で挫折してしまった。彼女がある研究所に入ったため、中国語を教えるどころではなくなったから。
 つい最近、(09.2.1)知ったのだが、理論物理学の論文を掲載する雑誌に、「プログレス・オヴ・セオリティカル・フィジックス」という学術雑誌がある、そうな。
 この雑誌は、敗戦の翌年、湯川 秀樹博士が呼びかけて創刊されたもので、ノーベル物理学賞の小林 誠、益川 敏英先生の論文も発表されたことがあるという。しかし、現在は赤字がつづいている。そのため、存続できるかどうかというところまで追つめられているらしい。

 一方、国内の科学研究者の論文の8割までが、外国の雑誌に発表されているという。国立大学で最先端科学の雑誌さえ、講読を打ち切ってしまうような国の教育に、はたして未来はあるのだろうか。
 20年後、30年後に、小林 誠、益川 敏英先生のような俊英があらわれなくなる可能性があると考えるだけで、この国のみじめさ、憐れさがひしひしと感じられてくる。

995

 私は、もはや「死とか病気とかを超えている」つもりなので、1931年に亡くなった人のことを調べてみた。別に理由はない。ただ、おもしろそうなので。
 ディヴィッド・ベラスコが78歳で亡くなっている。ほう。おなじ年に、ロン・チャニー、フランク・ハリス。
 ロン・チャニーの映画は何本か見ている。
 フランク・ハリスは作家。彼の本も読んでいる。
 チャールズ・E・マンチェス。この人のことはあまり知られていない。アイスクリーム・コーンを発明した人。あのコーンは、じつはコニー・アイランドの象徴、ってご存じでしたか。まさか、知らないよね。(笑)

 DVDで、古い映画を見る。「巨星ジーグフェルド」を見ていて、フローレンツ・ジーグフェルドの亡くなった年のことが気になった。
 映画でも、彼の生涯のアップス&ダウンズがえがかれているが、大不況で、ショー・ビジネスと、ウォール・ストリート、両方の富を失った。当時の金額で、200万ドル。
 最後の公演、「ハッチャ!」HotーCha! が失敗したため、急遽、以前に出した「ショー・ボート」にさし替えた。これで、破産はまぬかれたが、1932年7月、ジーグフェルドは失意のうちに亡くなっている。

 おなじ年に、ウィリアム・モリスが、没。(イギリスの思想家、ウィリアム・モリスとは別人)。ブロードウェイの、それもヴァラィエティーの世界で、終生の敵、E.F.オールビーと戦いつづけた、ショー・ビジネスの雄。「ブロードウェイ最高、もしくは最高でないにしても、最高のエージェント、マネージャー」といわれた。享年、59歳。
 私は、モリスvsオールビーの争いをを書いてみようと思ったことがある。

 この年、女優のフィスク夫人(ミニー・マダーン・フィスク)が67歳で亡くなっている。チョーンセイ・オルコットが71歳、ビリー・ミンスキーが41歳、ジョージ・イーストマンが77歳で。イーストマンは、「イーストマン・コダック」の創業者。

 作家の、エドガー・ウォーレスが56歳で亡くなっている。
 その生涯に、長編が200冊。戯曲が23曲。
 残念ながら、エドガー・ウォーレスは読んだことがない。たしか、私の先生だった吉田 甲子太郎がミステリーを1冊、訳していたはずだが。

994

 (つづき)
 ある雑誌で、大槻ケンジがファンキー末吉と対談している。(「週刊アスキー」’09.2.24号)私は、作家としての大槻 ケンジに敬意をもっている。
 ところが、ふたりの話は病気のことばかり。
 大槻 ケンジは、ライブに出演したとき、ヒザの調子が悪くて楽屋でひっくり返っていたという。ファンキー末吉は、病院で診察を受けたが、ある有名な病気……というか、バイ菌がみつかった。

  大槻  え、菌!?
  ファンキー  ピロリ菌が! 「この世の中にピロリ菌をもってる人なんているんだ!」と思ったら、実は大人の3分の2はもってたりするんだって。
  大槻  へえー! もともとなにか、ピロリ菌が原因の不調があったんですか? 
  ファンキー  うーん、飲みすぎると胃が痛いなとか。(後略)

 ふたりは楽しそうに病気談義を続けているが、最後の部分で、

  大槻  こないだムッシュかまやつさんや、マチャアキさんがトークしている番組を見たんだけど、70代になると、また違いますよね。なにかを超越してるというか、霊界の話みたいになってました。
  ファンキー  ハハハ!
  大槻  雲の上の会話のよう。
  ファンキー  50でだれそれが死んだっていう話になるんなら、60、70ではまたいろいろあるんでしょうね。もう、死とか病気とかを超えているんだね。

 これには笑ったね。

 40代になった大槻 ケンジが、ファンキー末吉といっしょになって楽しそうに病気の話をしている。
 大槻 ケンジでさえこうなのだから、もっとご高齢のデーモン小暮閣下なんかも、病気の話をしてくれるといいのに。
 病気の話もヤッパおもしろくなきゃ。

 私も「死とか病気とかを超えているんだ」よなあ、きっと。(笑)

993

 
 私がとりあげなかったテーマは、食べものと病気。
 そこで病気の話。

 その前に――なぜ病気の話をしなかったか。私なりの理由があった。

 ずいぶん昔のことだが・・・・「近代文学賞」というささやかな文学賞をいただいたことがある。
 受賞式に、先輩批評家のみなさんが集まってくださった。私が30代だったのだから、みなさん50代で、いちばん若い荒 正人さんも、やっと50代に入ったばかりではなかったか。
 この賞は藤枝 静男さんの援助によるものだったので、藤枝さんも出席なさった。
 この席でみなさんが話題になさったのは、もっぱら病気の話ばかり。藤枝さんは有名な眼科の先生だったから、みなさんも気軽に医学的なことを相談なさったのだろうと思う。
 平野 謙が藤枝さんをつかまえて、いろいろな病気の話をはじめたが、たちまち話題は病気のことに集中した。みんな、楽しそうに自分の病気の話をする。
 いろいろな病気の話が出た。

 本多 秋五さん、佐々木 基一さんまでが、病気の話をひどくたのしそうに話しあっている。「最近、階段の上り下りがつらくてねえ」といえば、「ぼくも、膝にヒビがはいっちゃって、走れないんだよ」とか、「それゃあ、オスグッド・シュラッター病だよ」とか、「最近になって、どうもアレルギーじゃないかという気がしてきた」とか、「いやぁ、ツーフーってノは、痛いモンだねぇ」とか。
 当時はまだ、バイアグラは出現していなかったが、もし、バイアグラが実用化されたとして、埴谷 雄高さんはじめ先輩の方々が、それを話題になさったかどうか。
 おそらく話題にもならなかったに違いない。

 私は先輩の方々から受賞理由なり、講評なりを聞かされて、かなり突っ込んだ批判を受けるものと覚悟していたが、まったく話題に出なかった。最初から最後まで、和気あいあいといった雰囲気でひとしきり病気の話で盛り上がってから、山室 静さんが、
 「はい、これ、副賞です」
 といって、見事な堆朱のタバコ入れを下さった。

 ある世代、またはある年齢になると、病気はけっこう社交的に有効な話題になり得るだろう。その場合、いくら病気を話題にしたところで、あるいは生きることに対してシニックに、自虐的になるわけのものでもない。
 現在なら、自分がホモセクシュアル、またはレズビアンなどとカミングアウトしても、非難されることはない。それとおなじことだろう。
 まして、平野さん、本多さん、藤枝さんはお互いに親しい友人だから、いくら病気の話をしたところでかまわない。

 しかし、私は決心したのだった。自分からはけっして病気の話をしないこと。

     (つづく)

992

 登山の帰り。やっと山から下りて麓にたどりつく。とっぷり日が暮れている。
 ラーメン屋か一膳飯屋があれば、ビールを一本飲む。無事に下山できた自分を祝福する意味もあった。
 ラーメン屋もない土地。しばらく歩いていれば豆腐屋ぐらいは見つかる。そこで豆腐を一丁、地酒を一本買って、誰も通らない道ばたで、湯ドーフを作る。

 トーフの水切りは、ガーゼにくるんでマキスで巻くのがいいのだが、非常用のガーゼではなく、登山用に持っている三角巾でくるむ。
 だしコンブは15センチばかり、非常食としてザックに投げ込んである。
 アメリカ軍の放出品のフライパンにだしコンブをしいて、最後まで残しておいた水を張る。登山用のアルミカップに、醤油、ダシ汁、ミリン、削りブシのツケ醤油を入れて、フライパンに据える。
 このとき、カタクリコをほんのひとツマミ、ふたツマミ入れておくと、おトーフが固くならない。

 日本酒のお燗もできるけれど、フライパンが小さいので冷やで飲む。お燗の火加減もむずかしいので。

 湯ドーフが煮えてくる。
 真っ暗ななかで、ガスコンロの炎を見つめながら、その日の登山ルートを思い出したり、つぎはどこの山に登ろうかなどと考えながら、グビリグビリ。まっくらな山裾で、湯ドーフで一杯、われながらオツなものだった。

991

 
 私がとりあげなかったテーマは、食べものと病気。
 たまには食いものの話もしないといけないね。ただし、お惣菜の話。

 きんぴらごぼう。

 ゴボウを片手でつかんで、タワシでごしごしやる。綺麗になったヤツを、斜めにササ切り。歯がわるくなってきたから、タテに細切り。そいつをしばらく水にひたして、アクを抜く。

 ニンジンも、おなじ。

 フライパンでいい。お鍋にアブラをしいて、熱をくわえる。熱くなったら、水気をとったゴボウを放り込む。しんなりしてくる。そこで、ニンジンも投げ込む。いためているうちに、こっちもしんなりしてくる。

 お砂糖をひと振り、ふた振り。ちょいと息をととのえて、ミリンを少々、お醤油、だし汁、まあ大さじに2杯ってところか。

 シャキシャキしなきゃ、キンピラじゃない。だから、弱火でトロトロはいけない。
 山に登っていた頃、アメリカ軍の放出品のフライパンでキンピラを作った。時間をかけずに豪快にいためる。ゴボウは前の晩にタワシでみがいたヤツ。雪に突っ込んで、アクを抜く。だしのミリン、醤油、だし汁は、フィルムのプラスチック容器にいれておく。歩いているうちに、よくまざって、味もねれてくる。

 飯盒でメシを炊いていたから、このキンピラがお惣菜。飯盒の蓋でお湯をわかして、インスタント・ラーメンを1/3ばかり放り込む。これがスープ。七味をブチ込む。

 コンニャクを刻み込むのもいいが、時間がないので2品ですませた。お砂糖のかわりに、ミソをまぜてキシメンを放り込めば、キシメンのミソ煮になるが、これは別のお惣菜。 ブタ肉のこまぎれ、トリのささみ、何を放り込んでもいい。雪の中から頭を出しているフキノトウもいいけれど、アク抜きがちょっとむずかしい。

 雪山のきんぴらごぼうのおいしかったこと!

990

 好きなことば。

  ぼくはことばを音楽的に見るだけだ。ことばを歌うものとして見るだけだ。ことばが歌いだされるのは曲があるからなんだ。ぼくが歌をつくるのは、何か歌うものが必要だからだよ」
――ボブ・ディラン。

 うっかり読めば、このことばはほとんど何も意味していない。しごく当たりまえのことばに聞こえるだけだ。しかし、「ジョン・ウェスリー・ハーディング」の直後(1968年2月)に語られているこのことばに、私はひとりのシンガーの、じつに明快、率直な確信を聞きとる。
 ことばを歌うものとして見るだけだ、という無類に単純ないいかたには、なぜ、山に登るのかと聞かれて、そこに山があるからだ、と答えた登山家のことばに近い、あふれるような自負さえ感じられる。

 ほんとうのアーティストたちは、その発展の折りふしに、私たちの心にきざみつけられる、なぜかわからないけれど、間違いなくその時代にふさわしいイメージをもつ。
 当の本人が風のように転身すると、あとに残された映像は、たちまち明確な像をむすばなくなり、やがては拡散して、やがてばらばらな記憶になってしまう。
 たとえば、ビートルズ。

 ジョージ・ハリソンは語っている。
 「大衆が変わろうとしているとき、ぼくたちが出てきただけさ」と。
おなじ時期に、ジョン・レノンはいった。
 「ぼくたちの音楽をほんとうに理解してくれるやつなんて、百人もいないさ」と。
 ビートルズは大衆を変えた。彼らの音楽をほんとうに理解したのは、百人ではなかったからだろう。
 おなじことは、ボブ・ディランだっていえたはずだ。だが、ジョージとジョンの言葉のあいだにある深淵にも似た距離は、ジョージとボブ、ジョンとボブのあいだにもあったはずなのだ。

 ボブが歌を作るのは、なにか歌うものが必要だからだった。ボブの「風に吹かれて」は、いま青春をまっとうに生きている若い人たちに、なんらか痛切な思いを喚び起さずにいない。それはやがて「ジョアンナのヴィジョン」になってボブにまつわりつく。一瞬ののち、私たちもまた風からめざめるのだろうか。

989

 
 私は大学、その他で講義したり、いまも「文学講座」のようなものをつづけている。しかし、一度も自分を教育者だと思ったことはない。
 私のようにずぼらで、いいかげんな人間は、教育者としては不適格だろう。
 最近の教育改革の論議を見ていて、大きな問題になっているのは、教える側に不適格者が多いということだ。
 私の教えた人たちからも、教育の現場にいる教師が多い。その人たちからいろいろと話を聞くのだが、教師のなかには、精神的に追いつめられて鬱に陥る人が少なくないという。それとは別に、教員としての素質も、適性もない人物が、生徒に教えている。だから、これからは、教員の教育能力を向上させなければならない。
 ひろく検定試験を実施したり、少なくとも何年かごとに研修をさせよう。こういう議論が出てくる。

 私は疑問をもっている。何かの事態が起きると、きまってこういう「正論」が出てくる。私はこういう「正論」に反対はしないが、こうした対症療法がはたして有効なのか、と疑う。こういう「正論」にぶつかると、歩いていてうっかり犬のクソを踏みつけたような気分になる。

 私は小学校から、ひとりも「わるい」先生に出会わなかった。私の出会った先生は、例外なく「いい」先生だった。

 小学生たちは、はっきり見ているのだ。どの先生が、人格、識見に秀でているか。どの先生は表面は「よくできる」ように見えて(見せて)いるが、実際には、校長先生にとり入ろうとしてこそこそしている、とか、あの先生はどの生徒をヒイキにしている。vv先生は、ww先生とは仲がよくない。xx先生とyy先生はzz先生をめぐって鞘当てしている。
 子どもたちは、かなり正確に「教育喜劇」を見届けている。

 個人的な資質、教育に対する熱意、その程度のことは、教師よりも生徒のほうがはっきり見ている。そして、教師の才能はかならず生徒の成績の向上、低下に反映する。(だから、研修、検定が必要なのだ、という議論は、短絡的であり、かつは誤りである。)
 教員たちの個人的なレベル・アップをはかることに反対するのではない。しかし、そんなことで、ほんとうに教育の荒廃はあらたまるだろうか。
 問題は、教員たちの個人的な資質や、努力にはない。
 現在の教育システムの破綻にあるのだ。

たとえば――ジャック・ラカン。

     教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所につれてこられると、少なくとも見かけ上、 誰でもいちおうそれなりの役割は果たせます。(中略)無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねにじゅうぶんに知っているのです。
       「教える者への問い」

 これは、教育について私がこれまで読んだ言葉の中でもっとも正しい言葉である。
(内田 樹/「教育に惰性を」 「本」07/2月号)

988

 子規の批判いらい、談林の俳句はあまり高く評価されない。なにさま貞門の句の低俗な趣きはあまり歓迎されないが、私はいっこうにこだわらない。
 談林の句にもいい句はいくらでもころがっている。もしや、談林の句がおもしろくないのは、こちらに教養がないせいでもあって、私は近代の写実ばかりを俳句の王道とは思わない。

    花むしろ 一見せばやと存じ候       宗因

 お花見。花を見るのにいい場所は、先にとられて、幔幕などで隠されている。そのなかに、どんな美人がきているのだろうか。ひとつ、ぜひにも見たいものだ。
 そんなところだろう。
 むろん、お花見の客にまざって、私も一緒に花を賞でよう、ということでもいい。しかし、この句には、男なら誰でももっている、いたずらな voyeurism めいた、うきうきした気分がある。むろん、「一見せばやと存じ候」は謡曲のパクリだが、これだけで、花にうかれ、いささか酒に酔った男の、かすかないたずら心まで見えてくる。

 近代俳句が身につけなかった遊び。