1001

 「コージートーク」は、その日そのとき、何かを見たり読んだりして、ふと心に浮かぶよしなしごとを書きとめてきたもの。書く材料はいくらでもある。ただし、自分ひとりでおもしろがっているようなことも多い。
 落花、紛々として、やや多きをおぼえ、美人、酔わんと欲して顔を赤く染める。そんな一日、「コージートーク」の1001本目を書く。(’09・5・5)

     君起舞   きみ 立ちて舞え
     日西夕   日 西に 夕づく

 うろおぼえの李白の一節を口ずさんで、一杯をもって咽喉をうるおす。

 思いがけず長生きしたおかげで、いろいろな人や、ものごとに接してきた。私なりに感動したこと、おもわず見とれてしまった女人のこと、あるいは、あきれたことなど、いろいろとある。
 今後もそんなことを書いてみようか。
 あるいは、もう少し別な工夫をしてみようか。格別、何も思いつかないのだが。

 感動したことを書く。もとよりもの書きとしての願いだが、自分が感動したことを書いて、人さまに感動してもらうなどという了見はもたない。そもそも不可能なことだから。「仕事をしている日が、自分には最高の日なのだ」と、ジョージァ・オキーフがいう。私は感動する。しかし、こういうことばはジョージァ・オキーフだからカッコいいのであって、私などがいうと冗談にもならない。

     胡姫貌如花   ハリウッド・スターの美貌 花のごとし
     笑春風     春風に ほほえみ
     羅衣舞     うすぎぬの舞

 こんな女人のことを書いてみたら、さぞ楽しいだろうと思う。これがなかなかにむずかしい。日本の狂言のように――美人に恋をするという趣向は、枕物狂いの老人が美少女に恋いこがれて、孫たちに心配をかける。
 もう一つ――天下に名を得た画工の金岡が、大内の女房を恋して、自分の妻君の顔に彩色してみるが、どうにも似た顔にならない。
 狂言には、せいぜいこのふたつのプロットしかない。
 私が女人のことを書いたら、おそらくファルスにしかならない。いっそ、芝居仕立てで書きたいものだが、そんな余力も残ってはいない。

 さて、これから「コージートーク」はどう変わるだろうか。
 感動したこと。女人のこと。あきれたこと。なんでもない瞬間のこと。白日夢であれ妄想であれ、日頃はすっかり忘れていながら、どうかして心のなかにまざまざとよみがえってきたことども。
 しばらくはそんなことを書きつづけよう。

 「コージートーク」を読んでくださる方々には感謝している。そして、田栗 美奈子、吉永 珠子のおふたりに、心からの感謝をささげよう。きみたちのおかげで、「コージートーク」は1001本目、つまり今日を迎えることができた。ありがとう。