1027

 小学校まで歩いて5分。土樋から荒町まで。

 通学の途中、かならず眼にするものがあった。活動写真のポスターである。横町の角の壁にとりつけられた木枠のなかに、その週に上映されている映画のポスターが映画館の数だけ貼られている。外国映画が2館。日本映画が4館。
 毎週、貼り変えられる。ポスターのうえに新しいポスターが貼りつけられるので、それぞれがかなりの厚みになっている。
 雨に濡れて、今週のポスターが剥がれて、前のポスターが見えたりする。
 行き帰り、毎日、おなじポスターを見ているわけだから、活動写真の題名や出演者の名前もおぼえてしまう。

 実際にはその活動写真を見たことがないのに、ポスターに描かれているシーンや、男女の姿が心に残った。
 大河内 傳次郎、阪東妻三郎、嵐 寛寿郎といったスターだけでなく、浅香 新八郎、ハヤブサ ヒデトといった名前や、伏見 直江、入江 たか子、山路 ふみ子、森 静子といった女優の名前もおぼえてしまった。

 昭和6年、満州事変が起きた。翌年、上海事変。その二月に、井上 準之助、三月に、団 啄麿、五月に犬養 毅首相が暗殺されている。
 私は何ひとつ知らずに、毎日、活動写真のポスターを見ていたのだろう。

 その頃に見た映画。内容もまったくおぼえていないのだが、最後に男と女が心中する悲劇を見た。題名もわからない。塩釜の活動写真館で見たことだけはおぼえている。
 幼い私には映画の内容も理解できなかったのだが、なぜか暗い気分になったことだけはおぼえている。男は河津 清三郎、女は高津 慶子。

 おなじ頃、私にとって、どうにも理解できないポスターがあった。「メトロポリス」という映画のポスターだった。
 金属製の巨大なアンドロイドが、無表情に私を見つめている。その人形が女だということはわかるのだが、そのまなざしに見られるだけで死んでしまうような気がした。それは、はじめて知った実存的な恐怖ともいうべきもので、自分が死にいたる存在なのだということを知らされたような気がした。

 そのポスターを見るのがこわくて、その学期、わざわざ遠回りをして、学校に行くようにした。電車の停留所ひとつぶんだけ遠くなるのだった。
 こうして、「メトロポリス」という題名が心に刻みつけられた。
 ずっと後年になって、これがF・W・ムルナウの無声映画で、1926年の作品だったことを知った。私がこのポスターを見たのは1930年の後半だったから、当然、リヴァイヴァル上映だったに違いない。
 このポスターに幼い私は恐怖をおぼえたのだった。

 はるか後年、DVDで「メトロポリス」を見た。少しも怖くなかった。

1026

 
 ある人生相談。

     20代男子学生。アルバイトで知り合い、2年前から付き合っている彼女がいます。彼女は学校を卒業し、地元に帰りました。私はもう1年、学生の身。
     「1年後に再会し将来は絶対に結婚しよう」と約束しました。
     ところが、私は、彼女の代わりにきたアルバイトの女性に一目惚れしてしまいました。これまで女性との出会いが少なかったので、今の彼女が一番だと思っていたのです。でも、新しく来た女性のほうが、彼女より好きになってしまいました。
     約束を破るのは私の性に合いません。それに今でも彼女は私のことを好きでいてくれます。そんな彼女に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
     女性に会うたびにすぐにほれてしまうようでは、将来、結婚しても長続きしないでしょう。そう思うと結婚が怖くなりますが、一生独身でいるのもいやです     。
     ほれっぽいこの性格を直すのには、どうしたらいいでしょう。今後、彼女や、一目ぼれした女性とはどのように接していけばいいのでしょうか。

 ある大学教授の回答。

     恋愛関係で動きがあれば、誰かが傷ついてしまうことになります。
     まず、申し訳ないという理由で付き合いを続けるのはやめましょう。いい人であるというあなたの自己イメージは守られるかもしれませんが、このまま彼女と付き合い続けるのは彼女にとってかえって酷です。直接会って、あなた自身の気持ちを確かめてください。やはり彼女が自分にとって必要だと感じればそれでよいし、彼女に会っても新しい女性のほうが好きだという思いが強ければ、関係を解消したほうがふたりのためです。
     身近にいる女性がすてきに見えるのは自然です。ほれっぽいのがいけないのではなく、「ほれる」という感情に振り回されるのがいけないのです。ほれても元の相手が大切だと思えばその感情を表に出さない。ほれるほうに賭けるならアタックする。ただ、あなたが好きでも、相手があなたを好きになるかわかりません。その時は、潔く、寂しさを味わってください。

 さすがだね。この先生のソツのないお答えには、おもわず笑ったぜ。

 この学生は、自分を「惚れっぽい」という。好きな彼女ができて幸福だった。ところが、彼女は故郷に帰って行った。きみの前に別な女性があらわれた。きみは、たちまちその女性が好きになってしまった。そんなノは、「惚れっぽい」とか「惚れっぽくない」といった話ではなく、ごく当たり前のことなのだ。
 「惚れっぽい」というノは、自分のまわりにいる女たち、自分の前に姿を表した女たちに、たちまち反応して、すぐにおネツをあげる、言い寄る、そういう男のことで、きみのように、「2年前から付き合っている彼女」がいなくなったとたんに、新しい女が好きになる程度の男は「惚れっぽい」などというほどのモノじゃない。

 アーヴィング・シュールマンの青春小説に、そういうハイ・スクール・バブーンが登場する。やたら「惚れっぽい」若者で、テレビ・シリーズでも、毎週、違う女の子にいい寄ってはフラれていたっけ。

 ただし、この学生は、自分が「惚れっぽい」という。そういう自意識をもっているのはいい。

 私は「人生相談」を読むのが好きだ。私が回答者になったとして、いつも相談者の悩みに対して、あたたかいまなざしをもつかどうか。心理学でいう、相手の立場に立つ態度、カウンセリング・マインドなどは、はじめから私にはない。
 なにしろ、モンテーニュ、ラ・ロシュフーコーから、オスカー・ワイルド、サマセット・モーム、ヘンリー・ミラーなど、手あたり次第に読みふけってきたせいで、私なりの人生観ができあがってきた。だから、「人生相談」を読むのが好きなのは、えらい先生の「人生相談」を読むのが好きだということになる。
 笑えるから。

1025

 ある調査。6歳から89歳の男女、3000人のアンケート。

 昨年4月から、今年の3月まで、テレビで流されたCMは、総計、1万7765本。
 このなかで、好感をもったCMを、最大五つまで記入してもらったという。

 2019社のCM、1万147本は、まったく記載されなかった。このなかには、年間、最大、905回もCMを流していた企業もあった。笑ったね。これでは、CMを流しても、ほとんど成果がないことになる。

 この調査で、いちばん広く評価されたのは、ソフトバンクのCM。お父さんが白いワンワン、お母さんが女優の樋口 加奈子。兄が黒人のモデル、妹が上戸 彩。
 つぎが、コーヒーの「BOSS」。
 そのつぎが「任天堂」。

 せっかく有名タレントや、クリエーターを使っても、見ている側の意識、認識に、何も変化が見られないのでは、企業としてはたまらないだろう。
 この調査を行った「CM研究所」の代表も、「CMと販売二は関連性があり、印象に残らないCMは企業に貢献せず、日本経済のロ
スですらある」 とコメントしている。  (「読売」’09.5.15)

 またまた笑った。それなら、みんなCMなんかやめてしまえばいいじゃないか。

 この記事を読んで笑ったが、自分はどうなのかと考えた。

 なにしろボケているので、テレビで流されたCMのほとんどをおぼえていない。しかし、心に残ったCMは、ある。
 ただし、私の心に残ったCMは、おそらくほかの人にまったく印象が残っていないものばかりだと思う。

 たとえば、昨年、こんなCMがあった。
 若い芸者(半玉)がふたり、相対してすわり、アッチ向いてほい。明るい部屋だが、なんとなく雪洞めいた感じの照明で、部屋は四畳半。着飾った半玉ふたりが、やわらかい座布団にくつろいで、お互いに、無心に遊んでいる。だが、最後に、そのひとりがキャッキャッと嬌声をあげて、顔をこちらに向ける。
 この美少女の顔がじつによかった。うき川竹の、流れを汲んで、人となりしか、そのまなざしに無量の愛嬌。未通女のあやうい美しさがかがやいた。こんなCMはめったに見られない。私は感嘆した。

 このCMは、わずか数週間つづいた。やがて、趣向も演出もほとんどおなじだが、別のふたりのCMと差し替えられた。やはり、若い半玉がふたり、相対してすわり、アッチ向いてほい。
 しかし、これはまったく魅力のないCMで、じきに消えてしまった。

 片々たるCMだって、誰かの心に深く刻みつけられることはあるのだ。
 すぐれた掌編小説が心に深く刻みつけられるように。

1024

 
 ときどき、江戸の小説を読む。
 テナことを書いているが――じつは私、あまり教養のない、スカタンなのだ。
 恋川 春町、朋誠堂喜三二なども、ほんの少し読んだだけ。山崎 北華はなんとか読んだが、芝 全交、市場 通笑、伊庭 可笑の青本にいたっては、まるで読む機会がない。
 馬琴はいちおう読んでいる。しかし、山東 京伝はほとんど読んでいない。これもむずかしくて読めない。
 『雙蝶記』のような勧善懲悪ものはまだしも(わかるから)いいが、深川の岡場所を書いた『大磯風俗 仕懸文庫』とか、色里の風俗をあつかった『通言総籬』、これも廓の女のあつかいようを描いた『艶話雑話 志羅川夜船』など、どうもおもしろくない。
 よくわからないので。
 山口 剛先生が『仕懸文庫』について、「一寸、黄表紙風のところがあっておもしろい」と書いているが、その黄表紙ふうのところが、やつがれにはおもしろくない。
 『通言総籬』にいたっては、「微に入り、細に渉って、息をもつかせぬ面白味がある」と仰せられているが、こういう批評がどうして出てくるのかまるで見当がつかない。
 先生は『志羅川夜船』の「西岸の世界」がおもしろいといわれるのだが、廓にあがったヤボ天の「武左の初會」のほうがおもしろかったのは、私がすかたんなせいだろう。

    さふしたきぎくとしら菊のおなじ流れの身じゃとてもコレむすこもなんぞうたは ツセエだまりんでありくと犬かほへるぜ

 「素見高慢」の書き出し。以下は、私の訳。

    そういう黄菊、白菊の、おなじ苦界にいきる女だからさ、(そんなつまらない顔をしていないで)ねえ、あなたも何か歌って頂戴な。(廓を)黙って歩いていると、犬に吠えられますよ。

 「ナニ公などは。本ぎょうが通だから唄を習ふよりちりからにすればいい。月見などはよし原へ行とがうてきに色ごとができるぜ」

「がうてきに」は、豪的に、だろう。こんなノはやさしいほうで、一度読んだだけでは、すっきり頭に入ってこないのだから、話にならない。

 近頃は聞かなくなったが、悪口に「すかたん」ということばがある。京伝は「すこたん」と書いている。
 これからは「すこたん」ということばを使おうか。

1023

 私は一茶をかなり読んだ はずである。
 ただし、読んでもすぐに忘れてしまう。

    雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る
    門の蝶 子が這へば飛び 這へば飛び

 こんな句ばかり思い出すのはわれながらあきれる。
 おなじ一茶の、おなじ蝶でも、

    蝶が来てつれて行きけり 庭の蝶

 といった句のほうが自然でいい。

    蝶 見よや 親子三人寝て暮らす

 この句、あまり好きではないが、何度か声にのせて読んでみると、一茶のふてぶてしさ、哀れさが見えてくる。おなじ蝶でも、丈草の

    大原や 蝶の出てまふ朧月

 こうなると一茶にはない趣向。おぼろ月夜に蝶が舞うかどうか、そんな詮索はヤボの骨頂。花のファンタジーとして読んでもいい。

1022

 いろいろ資料を読んでいるうちに飽きてくる。
 気分転換に散歩する。雨が降っていると、散歩もおっくうなので、ビデオを見たりDVDを見たり。途中まで見て、おや、これは前に見たような気がするなあ、と思いはじめる。しかし、最後まて見ることもあれば、別のものを見たり。
 それにも疲れると、適当に本をひろってきて、読み始める。

 一茶の日記を読んでいて、

    太田屋仕出屋に入中食
    ワンワン喜太郎ト云者来
    仙台侯の舟ニ大竿
    千人塚 イカイ根に有

 という記述が出てきた。ざっと読んで、さて、何のことかわからない。
 一茶は、銚子の俳人、大里 桂丸を訪れて、いっしょに浜の見物に出かけた。「太田屋」という割烹旅館でお昼を食べた。桂丸は気をきかせて、芸者を呼んだらしい。
 千人塚は、銚子の、飯貝根(いがいね)にある。これはわかったが、「仙台侯の舟ニ大竿」というのがわからない。
 「ワンワン喜太郎」という芸者の名がおもしろい。「ワンワン」はイヌを連想させるのだが、客がワンワン(いっぱい)くるという含みもあるのか。田舎芸者なので、こんな名がついたものだろうが、別のことも想像させる。

 一茶はこの日記に、

    丘釣を女もす也 夕涼み
    釣竿を川にひたして 日傘かな
      浄国寺村に入
    下闇や 精進犬のてくてくと
    松の木に 蟹も上りて 夕涼
    涼涼や 汁の実を釣る せどの海

 といった句を書きとめている。さすがに、いい句が多い。
 精進犬という語もはじめて見た。犬が「てくてくと」歩いているのもいい。涼涼は、どう読むのだろうか。ほら、わからないことが出てきた。
 そんな詮索はどうでもいい。
 こういう句から、昔の房総の風景を思いうかべる。銚子の海辺を散歩しているような気がして楽しい。私の気分転換法。

1021

 (つづき)
 つい最近、テレビで、カザフスタンの若い女子学生たちの、日本語による弁論大会を見た。(’09・4・23。4チャンネル/8:45 P.M.)

 カザフスタン、アルマテイの国際関係外国語学校、東洋語学、日本語科の生徒たち、42名が、日本語を勉強している。
 (この大学では、17ケ国の語学科コースがあるという。)

 いうまでもなく・・・日本は、かなり長期にわたって、鎖国をつづけてきた。鎖国がよかったかどうか、これは問わないとして、結果的には、いちおう一国家、一民族、一言語、一文化という、まとまりのいい等質的な状態を保持してきた。
 このため、お互いに何もいわなくても、阿吽の呼吸で、暗黙に理解しあえるような、いわばラコニック(寡黙)なものを身につけてきた。
 そういう態度は、mutual dependence ともいうべきもので、外国人、とくにアメリカ人のような self-reliance は、私たちがもたないもの、とされてきた。だが、もはや、そんな概括は成立しない。

 このアルマテイの、日本語科の生徒たちが、弁論大会で選んだテーマは、 「子供の教育」、「(現代人の)将来をおびやかすこと」、「私が大学を作るとしたら」、「私はカザフ人」、「ほほえみの秘密」、「父の教えに」、「カザフスタンの教師(のおかれた)状況」、「ことば(自国語)をなくしたら自分もなくなる」、「流行と伝統のバランス」……
 いずれも20歳から22歳の、若い女子学生のスピーチで、日本語の学習歴は、2、3年。そのスビーチの論理的な展開に、彼女たちのしなやかな感性が裏打ちされていた。
 むろん、今の私たちもさまざまな外国語も勉強しているし、戦後は、外国の圧倒的な影響をうけて、かつてのように、それほど「まとまりのいい等質的な状態」を維持しているわけではない。

 ただ、テレビで、外国人で日本語を勉強している若い人たちを見ると、ありがたいと思う反面、ひどくむずかしい未来を選択したのではないか、という懸念もおぼえる。

 カザフスタンの女子学生たちが、近い将来、日本語に関係のある職業について、いっそう日本に親しみをおぼえてくれますように。
 彼女たちの self-reliance は美しい。

1020

 小学校5年、6年から、英語の学習が必修になる。小学校から英語の勉強にとり組む。わるいことではない。
 私などの場合、中学時代から英語教育にはほとんど無縁だった。その後、英語にかぎらず、他の外国語も学習したが、いつも独学だったから、現在の学校教育には基本的に賛成する。
 「外国語を読む」ことから、「外国語を話す」教育への転換は、21世紀のグローバルな社会への適応として、社会の needs を反映したものと見ていい。

 しかし、私はこうした教育に大きな懸念をもっている。

 「外国語を読む」には辞書さえあればいい、いちおう意味がわかればいい。「外国語を話す」ためには、ネイティヴの発音からしっかり身につけたほうがいい、という考えかたに、私は危険なものを感じる。

 こういう考えかたは――確実に外国語の読解力を退化させる。

 書物ばかりではなく、インターネットなどによる思想、知識、情報等の伝達手段としての「ことば」の機能をスポイルすることになる。

 じっくりと本を読むことで身につくものがあるのだ。

 「外国語を話す」教育が何をもたらすか。
 ほとんどの人が、カタコトながら外国語を話せるようになる。それはいい。しかし、ほんとうに、外国の人と心からの会話をかわすことはできないだろう。コミュニケーションによる意志伝達の機能としての言語は、たかが、小学校5年、6年からの英語の学習で身につくものではない。

 もし、外国語をほんとうに理解し、ほんとうにコミュニケートが可能な教育をのぞむなら、別のコースを想定すべきだろう。

 私は、その具体的な例を外国、たとえばカザフスタンの日本語教育に見る。
        (つづく)

1019

 
 人生の出会いのありがたさは知っているつもりである。現在の私が在るのは、けっして数多くはないけれど、人生のそれぞれの時期に、いろいろな人に出会えたからだった。

 もの書きとしては、荒 正人、埴谷 雄鷹、佐々木 基一、本多 秋五、山室 静、平田 次三郎といった先輩批評家たち。野間 宏、安部 公房たち。

 芝居の世界では、内村 直也、原 千代海といった劇作家たち。この人たちのことを、書いてみようか。
 そして、たくさんの役者たち、女優たち。これは書けないだろう。

 年をとってからは、やはり出会いはなくなってくる。
 まして、刎頸の友というほどの友だち、知友は少なくなってくる。もはや、幽明境を異にしてしまった友だちが多い。

 エディット・ピアフは、アメリカに行ったとき、たくさんの有名人と知り合ったが、そのなかで、ただひとり、マルレーネ・ディートリヒとは、一目見たときからすっかり意気投合して、親友になったという。
 こういう出会いは、運命的なものかも知れない。

 私は、芸術家どうしの反目、確執に興味がない。そうではなく、死友というべきかかわりをもつ芸術家どうしの出会いに関心をもつ。
 そういうかかわりを『ルイ・ジュヴェ』で書いたが、いま書き続けている仕事でも、それがひとつのテーマになる(と思う)。
 いつ完成するのかわからないのだが。

1018

 ジャニス・ジョプリンは、27歳で亡くなっている。
 パッツィ・クライン、享年、31歳。
 マリリン・モンロー、享年、36歳。
 ダイナ・ワシントン、享年、39歳。
 ヘレン・モーガン、享年、42歳。
 ベッシー・スミス、享年、44歳。

 みんな、若くして亡くなっているなあ。可哀そうな女たち。
 彼女たちは、それぞれが輝かしい栄光のなかに生きた。だが、そういう人生が、現実には、悲惨といっていいほどの苦しみにさいなまれて、それぞれの人生を終えている。

 私は思いがけず長寿にめぐまれている。長生きできたことは幸運としかいいようがないが、いのちをながらえたことがかならずしも幸福だとは考えられない。むろん、不幸とはいえないだろうけれど。

 長生きしたおかげで見えてきたこともある。
 しばらく前から、ある仕事にとりかかっているのだが――若くして亡くなった女たちに対するレクィエムになるだろう。

 私はペシミストなのだ。しかし、彼女のことを書こうとしているときは、はっきりオプティミストになる。

1017

 
    人の貧富は天なり命なり、よしや生涯 薪(たきぎ)を樵(こり)て世をわたるとも、心清くは、朱買臣(しゅばいしん)にも耻(はづ)べからず、死灰(しかい)の人に愛せられんは愛せられざるにしかず

 馬琴を読んでいて、こんな一節にぶつかった。(「三勝半七」)
 江戸時代の作家が「愛」ということばを使っていたことがわかる。

 もつとも私のように無教養なもの書きには、江戸時代の作家のものはなかなかにむずかしい。引用した部分でも、朱買臣(しゅばいしん)の話が出てくる。
 前漢の人。家が貧しいため、薪(たきぎ)を切って売ったが、いつもふところに本を入れて歩きながら読んだ。妻は愛想をつかして、去った。
 のちに、会稽の太守として、故郷の町を通ったとき、前妻はこれを見て恥じ、みずから縊れて死んだという。
 死灰(しかい)がわからない。簡野 道明先生の『字源』には、死灰復然(しくわいまたもゆ)が出ている。
 「韓長儒伝」に・・・
 蒙の獄吏、田甲が、安国をはずかしめた。安国はいう。「死灰ひとり、また燃えずや。」甲いわく、「燃ゆるは すなわちこれに溺る」と。

 江戸時代の読者にはこれでわかったのだろう。「然」は、「燃」の正字という。これも、はじめて知った。
 とにかく無教養な私は、馬琴先生の学識の深さはわかるけれど、「死灰(しかい)の人に愛せられんは」がよくわからない。

 ついでに、馬琴の書いたエロティックなシーンを。

    さてなん、淫婦(たおやめ)密夫(みそかお)は折を得て、終(つい)に膠漆(こうしつ)の思ひをなしぬ。     (「お旬傳兵衛」)

 これだけ。
 江戸時代に生まれなくてよかった。(笑)

1016

 
 水上 滝太郎の随筆を読む。

     大ざっぱな言方だが、吾々の父母の時代迄は、他を評しおのれを語ることをいやしみさげすむ風が強かった。それが何時の間にか、男も女も、老も若きも、地位職業の別無く、口を以て筆を以て、他を評しおのれを語るに暇なきが如き時代相を現出するに至った。よりて来るところの社会的原因の存することはいふ迄も無いが、狭く文筆の方面に限り、直接の誘引を求むれば、随筆の流行を数へることが出来る。彼(か)の自然主義の運動が現実暴露を引っ提唱し、平面描写を推奨し、やがて崩れて日本独得の心境小説の発達をみるに及んで、作家は各自日常身辺の雑事を綴ることになづみ、その傾向の赴くところ、随筆の流行を招来し、この文学の形式は、最も自由に手軽に他を評しおのれを語るに適するため、専門文学の士にあらざる人にも筆を執ることを容易ならしめた。

 むずかしい文章ではない。それに、こんなみじかい一節からも、大正から、昭和初年にかけての作家たちは、みんな早くから老成していたことがわかる。それは認めなければなるまいが、いまでは、やはり、読みにくい。
 たしかに、ネコもシャクシも、馬の骨も牛の糞も、随筆という表現形式になづむようになった。昭和初年には、森田 たまのような随筆専門のもの書きが登場する。

 久しぶりで、昭和初年から戦後にかけての森田 たまの随筆を読んでみたが、これはもう論外だった。
 日中戦争のさなかに、従軍作家として中国に行く。このときの「揚子江」、「支那服」、「一角二角」などという文章を読むと、戦前の日本の女のバカさかげんが、悲しくなる。(この「悲しくなる」は、森田 たまのお使いになることばのパロデイ。)

 水上 滝太郎の随筆には、おのれを持することのきびしい気骨が感じられるのだが、森田 たまの文章には大和撫子といった気韻などはない。生きながら死臭をあげているような感じで、読めたものではなかった。

 私が大嫌いな女もの書きは、森田 たま、芝木 好子のふたり。いや、まだほかにもいるのだが、いずれあとでとりあげるつもり。

1015

若いくせに年寄りじみたことをいう人間を見ると、片腹痛く思うが、年寄りのくせに若がっているのを見ても、しばしばキザに感じる。

 私の意見ではない。四十代になった水上 滝太郎が書いていた。(昭和8年)

      同じ四十代になってみると、いずれも頭髪は薄くなり、白髪もちらちらまじり、或者は持病に悩み、或者は下腹や頸の廻りに無用な脂肪の溜った年寄型となり切って、前途の夢は乏しくなり、……(後略)

 水上 滝太郎は年齢とともに、食物の嗜好がいちじるしく変わり、「西洋料理はつとにいやになり、支那料理さへも嬉しくなくなり、まぐろの刺身に箸が向かず、混合酒の技巧が鼻について来たが……」と書いて、文学の好みまでも変化してきたと書いている。

 作家はさらにつづける。
 年齢は人の性質をやわらげることもあるが、ときには、人を頑固にし、融通をきかなくさせる。多年努力して築きあげた自分の立場から、一歩も外に出たがらなくなる。個性の違いがはっきりしてきて、合唱がへたになり、人真似ができなくなる。

 私は水上 滝太郎を尊敬している。彼の意見におおむね賛成する。ただし、いささかの憫笑をもって見ているといわざるを得ない。(私は舞い舞いの古狐に魅いられた老いぼれの、しれ者。相手が水上 滝太郎だろうと何だろうと気にならない。)

 水上 滝太郎がこれを書いた当時、やっと40代の半ばだったはずである。
 「はなやかな夢想はけしとんだが、四十代には四十代の人生があり、活動があり、努力があり、文学があると思つている。感覚は鈍り、花火のやうな感激はなくなつたが、者を見る眼は深く広く、社会人事に関して総合的に考える力は加つた。人生を短編小説的見方では見ず、長編小説的に見る能力は、次第に恵まれて来るやうである。」
 やっぱり、大作家はいうことが違うなあ。(笑)
 いささか皮肉をこめて、こういう人生観、文学観で、社会人事に関して総合的に考える力をたくわえた作家を尊敬したくなる。
 私などは、アメリカの金融危機が日本の産業を直撃するなど、どう考えても理解できないことばかりだし、社会人事に関しても、大きく緩和された労働市場の規制、雇用の悪化、ハウジング・プアと呼ばれる人々があふれている現実を長編小説的に見る能力などまったくない。いじめ、不登校、自殺、そんな子どもたちの人生を長編小説的に見るどころか、短編小説的見方でも見られない。

 私ぐらいの年齢になれば、前途の夢どころではなくなるが、四十代になって頭髪が薄くなったり、白髪まじり、なかには持病に悩み、下腹はメタボといった中年になり切ってしまうのは早すぎる。そこのところだけ、水上 滝太郎に賛成。

1014

 
 去年の9月。ロシアが急速な経済発展をつづけ、まさに世界経済を牽引するとみられてきた時期。日本とロシア間に、光海底ケーブル(RJCN)が開通した。

 このRJCNは、新潟の直江津と、ロステレコムのナホトカをむすぶ大容量の光海底ケーブル。南北の2ルート。それぞれの長さ、約900キロメートル。伝送容量は、それぞれのルートが、640Gbpsという。

 これまで使われてきたインド洋経由、ないしはアメリカ経由のルートに較べて、新ルートでは、東京=ヨーロッパ間を最短ルートでむすぶことになる。

 光海底ケーブルについて何も知らない私がこんなことを記録しておくのは、なんともおかしいことに違いない。遠い将来、誰かがこれを読んで思うかも知れない。
 なんだ、21世紀の老作家はこんなことぐらいに驚いていたのか、と。

 私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』(第二部/第1章)で、1925年にルイ・ジュヴェが書いたエッセイをとりあげた。ほんの少し前の1923年という時代を、ジュヴェがどう見ていたか。
 その一節に・・・・

    ドイツでは「カリガリ博士」、ロシアでは「戦艦ポチョムキン」。チャーリー・チャプリンは栄光のさなかにある。(中略)真空管ラジオを発明したマルコーニは無線電信網が世界をおおうと宣言し、あまり知られていない学者、ポール・ランジュヴァンの海底通信の研究。
    オランダのニールス・ボーアは核の構造についての研究でノーベル章を受けた。ジャーナリズムは、ツタンカーメンの発掘、ヴァルター・ラテナウの暗殺、レーニンの引退、ムッソリーニのローマ進軍の報道に忙殺されている。

 と書いている。

 ジュヴェが、こういうふうに「過去」を回想したことは一度もない。1923年、彼はコポオと別れ、自分の劇場で旗揚げをする。なんでもない事実の羅列に、じつはジュヴェの痛切な感慨、自負が秘められている(と、私は見たのだった。)
 私が光海底ケーブルについて書きとめておくのは、そんな意味はない。ただし、こんなことまでブログに書いておく。ある人への深い感謝の想いをこめて。

1013

 
 私の「宝塚」。
 淀 かほる、明石 照子、毬 るい子たち。もっともっとたくさんのスターたちをおぼえているけれど、名前だけははっきりおぼえていながら、顔や姿は記憶が薄れている。

 へんなことだが――春日野 八千代、越路 吹雪までさかのぼったほうが、かえって忘れていない。

久慈 あさみ、淡島 千景、南 悠子、寿美 花代あたりの時代になると(久慈、淡島、寿美の映画はおぼえているけれど)、どういうものか那智 わたる、深山 しのぶなどの舞台のほうが鮮明に思い出せる。
 いい舞台だったかどうかよりも、おそらくその頃に見た回数の多寡によるのだろう。

 されば――これより女護の島にわたりて、つかみどりの女を見せん、といきたいところだが。
 本城 珠喜は美女だったなあ。ああ、去年の雪、いまいずこ。
 ほかにもたくさんの美男美女がいた。……
 美山 しぐれ、緑 八千代、星空 ひかる、平 美千代、小文字 まり、大路 三千緒、都路 のぼる……
 桜も散るに嘆き、月はかぎりありて入佐山……
 名前が出てきても、それぞれがどんな女の子だったか、目鼻だちさえよく思い出せない。中村 光夫のセリフではないけれど、年はとりたくないものです。(笑)

 奥山は六区(浅草)のコメディアンたち、新派(新劇)の舞台役者ともなれば、まだしもおぼえている。おかしな話だが。

 かなりボケがきている作家がおかしなことを書いても、「コージートーク」の読者のみなさん、どうかお咎めなさいませんように。なにせ、認知症直前作家なのだからお見逃しあれ。(笑)

 テレビで宝塚音楽学校の入学式にのぞむ女の子たちを見た。たまたま、安蘭 けい、遠野 あすかの最後の公演を見て、この新入生たちから、やがては安蘭 けいや、遠野 あすかたちが出てくることを考えて、なんとなく感動した。
 つまり、私はそんなミーハーなのである。

1012

 
 つい最近、トウコさん(安蘭 けい)の退団公演、ミュージカル、「My dear New Orleans 愛するわが街」を見た。
 舞台に感動したばかりではなく、もはや二度とこのふたりを見ることがないと思うと、悲哀が胸に迫ってくる。

 安蘭 けいがすばらしかったのは当然だが、遠野 あすかは、この前の「スカーレット・ピンパーネル」よりもずっといい。もともと芸域のひろい女優さんだが、「マルグリート」が清純な役というだけでよかったのに、今回の「ルル」には、あだっぽさ、あえていえば、淪落の女といった翳りまで、みごとに演じてみせた。

 このミュージカルの台本と演出のレベルの高さ。そして、ショー「ア・ビアント」を見て、現在の「宝塚」が、どれほど大きく発展してきたか、あらためて感慨をおぼえた。

 おなじ、星組で思い出すのだが、明石 照子、淀 かおるたちと、安蘭 けい、柚希 礼音の違いの大きさを思う。(なにしろ、古いね。)

 ショー「ア・ビアント」は、あくまで安蘭 けいの「さよなら」仕様のショーに仕立てられているが、かつてのグランド・レヴュー「シャンソン・ダムール」(高木 史郎/構成・演出)とは、やはり比較にならないほど高度の洗練を見せている。
 演出上、かつての「シャンソン・ダムール」には、宝塚に独特のスペキュタキュラーな要素や、戦前のノスタルジックなレリッシュ(風味)があった。シャンソンにしても、「サ・セ・パリ」、「シャンソン・ダムール」、「パレレ・モア・ダムール」あたり。
 ところが「ア・ビアント」では、たとえピアフや、「パダム・パダム」などがメロディーとしてちりばめられていても、かつてのパリ、たとえばモンマルトルを連想させない。
 私などが知っているシャンソンは、音楽的なレリック(遺物)にすぎない。
 ここにあるものは、まったくあたらしい感覚の音楽なのである。

 時代は「宝塚」においても、はげしい変貌を迫っているのだ。

 このミュージカルを見た数日後、たまたまテレビで宝塚音楽学校の入学式を見た。(’09・4・18)
 なんといっても宝塚の入学式なので、若くて可愛い女の子たちがたくさん出てきた。97期生。40人。27倍の難関を突破した選り抜きの才媛ばかり。
 グレイの真新しい制服もまぶしいばかり。

 彼女たちの姿に――かつて私の胸をときめかせた美女たち、美少女たち――星空 ひかる、畷 克美、南城 明美、槇 克己といった遠い日の美しいカップルズ、さらには、本城 珠喜や、天城 月江たちのまぼろしが重なってくるようだった。

 いつの日にか、97期生たちのなかから、安蘭 けい、遠野 あすかたちが、そのときのファンの心をときめかせ、そのイメージは朽ちることなく、ファンの内面に棲みつくだろう。

 やがて人々の熱狂的な支持をえるはずの人も、今はまだ誰にも知られずに、ようやく地平の彼方に姿あらわしている。
 私はそのことに感動していた。

1011

 ある政治家のことば。

 1981年、日本の首相が、アメリカの議会で演説をした。

    日本は吠えるライオンであるよりも、ハリネズミであるべきだと思います。

 まだ冷戦が続いていた時代、日本の覇権主義といったものを、中国などがしきりに気にしていた。これに対して、日本はもっぱら専守防衛の姿勢をとっていた。
 そこで、この首相は「吠えるライオンであるよりも、ハリネズミ」という政治的信条を表明したのだろう。

 なぜ、ハリネズミなのか。この当時、政治学者、アイザイア・バーリンの著作、『キツネとハリネズミ』が読まれていたため、外務官僚の誰かが「ライオンとハリネズミ」という比喩を思いついたのではないか。私はそんなことを想像した。
 演説の原稿を棒読みにした首相が、まさかアイザイア・バーリンを読んだとは考えられなかった。

 ここからファルスになる。
 通訳が「ハリネズミ」を「賢いネズミ」と訳したという。
 ネズミは誰でも知っている動物だが・・・ハリネズミはあまり一般によく知られている動物ではない。「ミッキー・マウス」は可愛いネズミだが、ふつう、アメリカ人のネズミに対する観念は、薄汚い、狡猾な、いやしい動物であって、あまりいい印象をもっていない。スラングでも、ネズミといえば、密告者とか裏切りを意味する。
 (ジェームズ・キャグニーのギャング映画でつかわれていた。ネズミに対する反感は、ウデイ・アレンの映画、「ギター弾きの恋」を見ればわかるだろう。)

 せっかくの演説も、こんな誤訳のおかげで、列席のアメリカ人に驚き、あるいは不快感をあたえた。もっとも本人は何も気がつかなかったらしい。
 この首相のお名前は、鈴木 善幸という。
 われらが世紀末、「失われた10年」のかぎりなく無能に近い宰相のおひとり。

1010

 作家のことば。

     恋には二つのことしかない。からだとことば。

 ジョイス・キャロル・オーツ。
 いいことば。Bodies と Words は複数。

     まったく知らないヤツがキスしてくれるなんていいわねえ。まったく知らないヤツなら。

 ウン?
 こういうノも、うっかりすると意味がよくわからない。ただし、こっちの頭がわるくても、シチュエーションはわかるような気がする。(笑)
 さすが、メエ・ウェスト。

1009

 
 ときどき、誰かのことばを読む。たいしたことばでなくても、読んだときに、何かしら考える。たいていはそのまま忘れてしまうけれど。

    本当のエレガンスというものは、あくまで内面のものです。もし、それが身につけば、あとはそこからつづくのです。

 ダイアナ・ヴリーランド。どういう女性なのか知らない。
 いいことばだよね。しかし、よくよく考えると、少しわからなくなってくる。「本当のエレガンスというものは、あくまで内面のものです」といわれても、内面からにじみ出てくるエレガンスなんて、なかなか見えるものではない。まして、かんたんに身につくものでもないだろう。
 文学上の鍛練(ディシプリン)とおなじで、あくまで内面のものだが、それが身につくまでがたいへんで、鍛練したあとはそこから書けるといわれても得心できない。

    優しさはハートの優雅さです。スタイルがマインドの優雅さであるように……

 これはメイ・サートンのことば。
 これもいいことばだが、ほんとうは意味がよくわからない。なんとなくわかるような気はするのだが。こっちの頭がわるいせいだろう。(笑)

1008

 
(つづき)
 当時の女優たちのアンケート。テーマは「私淑する俳優」。これもおもしろい。

 浦辺 粂子 → 尾上 菊五郎、中村 翫右衛門、フランソワズ・ロゼエ、アドルフ・マンジュウ。
 霧立 のぼる → ゲーリー・クーパー、ジーン・アーサー、クローデット・コルベール。
 高山 広子 → 田中 絹代、徳大寺 伸、佐分利 信、飯田 蝶子、浅香 新八郎。
 椿 澄枝  → 小杉 勇、三宅 邦子、ミリアム・ホプキンス、ベット・ディヴィス、アナベラ、ハーバート・マーシャル。ツアラ・レアンダー。
 真山 くみ子 → マーナ・ロイ。
 三浦 光子 → 田中 絹代、ジーン・アーサー。
 水戸 光子 → クローデット・コルベール。
 三宅 邦子 → シャルル・ポワイエ、ポール・ムニ、マルセル・シャンタル、シルヴィア・シドニー、ベッテイ・ディヴィス。
 村田 知英子 → 小杉 勇、三宅 邦子、ベット・ディヴィス、ハーバート・マーシャル。
 山田 五十鈴 → 尾上 菊五郎、中村 翫右衛門、田中 絹代、吉川 満子。
 山路 ふみ子 → 岡田 時彦。
 森川 まさみ → エリザベート・ベルクナー、クローデット・コルベール、マーゴ。
 若原 春江 → ベット・ディヴィス。

 高山 広子、三浦 光子、山田 五十鈴が、田中 絹代をあげている。
 田中 絹代は「マダムと女房」、「花ある雑草」、「愛染かつら」から、戦後、「不死鳥」で失敗したあと、「好色一代女」、「サンダカン八番娼館」まで、長いキャリアーを積み重ねて行った名女優だった。
 日本の女優たちが「私淑」したハリウッドの俳優、女優たち。ベット・ディヴィス、クローデット・コルベールのふたりがリーディング・レイデイだったらしい。
 クローデットは、アカデミー賞の「或る夜の出来事」の余波だけではなく、「淑女と拳骨」が公開されたせいたろう。
 椿 澄枝がツアラ・レアンダーを、三宅 邦子がマルセル・シャンタルを、森川 まさみが、エリザベート・ベルクナー、マーゴをあげていることに驚かされる。

 日米戦争はまだ少し先のことだが、外国のスターたちの誰が人気があったのか。なぜ、人気があったのか。その理由は何だったのか。そんなことを考えながら、このリストを見ていると、もう誰も知らない俳優、女優たちの顔や姿があざやかに浮かんでくる。
 当時、フランス映画「格子なき牢獄」が公開されようとしていた。雑誌の表紙に、美しいコリンヌ・リュシェールの写真が出ている。
 その裏は「光と影」の宣伝。島津 保次郎/「東宝」入社第一回作品。原 節子、佐分利 信の写真が出ている。
 1939年。数年後に日本が壊滅するとは誰ひとり考えもしなかった時代。