1087

秋の夜更け、昔の芸談を読むのが好きである。
自分が見ることのできなかった名優の、在りし日を偲ぶには、残された芸談を読むしかない。わずかでも残されている芸談から見えてくるものは、意外に大きい。

鴈治郎は、高齢になってから、せがれの長三郎や、扇雀と、おなじ着付け、おなじ袴をあつらえて、親子三人どこにでも出かけたという。
狎妓(おうぎ)のひとりが、
「いっしょに来やはるのはええけど、これが別々やァったら、息子はんのん借りてやはるようで、いきまへんえ」
と皮肉をいった。
すかさず鴈治郎が、こういった。
「役者に年はおまへん」

鴈治郎はいつまでもわかくて、艶聞がたえなかった。

この話の成駒屋は、1935年(昭和10年)に他界しているので、私は見たことがない。私の知っている鴈治郎は(いまの鴈治郎の父に当たるわけだから)、この話の「扇雀」ということになるだろうか。

役者に年はない。しかし、作家には年がある。
作家が年齢を重ねて、やっと人生が少しわかりかけてきたとたんに、冥途からお呼びがかかる。オレみたいな作家がくたばったところで、「そんなもの、美学でも何でもなくて、ただ貧乏と依怙地をこじらせて死んでいくだけだぜ。」か。
アハハ、こいつァいいや。(笑)

 

 

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1086

この夏、女優の大原 麗子が急死した。(’09.8.5.)
遺体の状況から、死後、二週間が経過していると見られ、警察の調べでは病死の可能性が高いという。
これが大原 麗子ほど有名な女優の死でなかったら、ジャーナリズムの反応はどうだったろうか。
この女優の死を知ったとき、しばらく前に亡くなった夏目 雅子や、飯島 愛の病死を思い出した。それからそれとひとつらなりの連想で、ハリウッドのサイレント映画の女優だったマートル・ゴンザレスが、スペイン風邪で思わぬ死を遂げたこと、あるいは、これもサイレント映画の女優だったマリー・プレヴォが、トーキー以後まったく忘れられて、悲惨な孤独のうちに死んだことなどを思いうかべた。

私は、女優の大原 麗子をほとんど見ていない。私の知っている範囲では――テレビの大河ドラマで、「勝 海舟」、「獅子の時代」、「春日局」などを見ている。ただし、見ていたというだけで、この美人女優にほとんど関心がなかった。二、三年つづけて、テレビで好感度ナンバーワンに選ばれていた程度のことだった。
大原 麗子とは関係なく、ある芸能人のことばを思い出した。
まったくの無名か、ごくかぎられた仲間うちだけで知られている役者たちが、誰にも気づかれないままにひっそりと死んでゆく。別にめずらしいことではない。

浅草にいたときはサ、身を滅ぼして死んで行く芸人てノが、周りにもいっぱいいたけど、でもそれは、美学でも何でもなくて、ただ売れないから破滅していくんだからさ。

「てめェのやっていることが、どんどん時代の感覚に合わなくなって、どんどんおいてけ堀を食らっていってさ。時代が悪い、客が悪いってひとのせいにして、ついには当たるモンがねえから、てめぇのカミさんや子供に当たったりしてさ。
挙げ句の果てはアル中になって、誰も面倒を見る者がいなくなって、孤独に死んでいくという、そういうパターンの芸人がたしかにいたんだよ。そんなもの、美学でも何でもなくて、ただ貧乏と依怙地をこじらせて死んでいっただけだぜ。」

北野 たけしの「たけしくん・ハイ!」、「青春貧乏編」の前口上。

まさか大原 麗子が貧乏だったとか、女優の依怙地をこじらせて死んでいったはずはない。だが、難病というか、つらい病気をかかえていた。しかも、もはや若くない。ドラマに出演できる可能性もなくなっていたとすれば、いくら有名な女優であっても、みずからの運命のつたなさを考えなかったはずはない。
大原 麗子の急死は、私の内部に痛ましい思いを喚び起したのだった。戦前のルーペ・ベレスの死や、戦後のマリリン・モンローの死のような悲劇ではないにしても、自らは望まなかった死だったにちがいない。
マイケル・ジャクスンの死がいたましいものだったように、私は、大原 麗子という女優のいたましさに心を動かされたのだった。

合掌。

1085

こんな詩がある。
明代の短編集、『清平山堂話本』のうち、「合同文字記」の入話(オープニング)の詩を、私が勝手にパラフレーズしたもの。

食事には お塩と お酢をひかえめに
顔を出さずにすむ場所は うっかり出かけないように

人に知られたかったら 「学問のすすめ」でも書きとばす
人目につきたくなかったら せいぜい 何もしないこと

最後の一行は、漢の枚乗が、呉王をいさめたときのことば、「人に聞かれたくなければ言わぬこと、人に知られたくなくばなさぬこと」にもとずいているという。

おもしろい。
これからしばらく、暑さしのぎに中国詩の自由訳でも試みようか。

1084

若い頃一度見ただけで、それっきり見る機会のなかった映画がビデオになっている。
熱心に探していたわけでもない。掘り出しものといえるほどの作品でもない。それでも、見つけたときはうれしい。そういう経験は誰にもあるだろう。

少年時代に神田の「シネマパレス」で見た外国映画
を、いまここでDVDで見る。米、独、仏の名作映
画です。これは不思議きわまることだし、また大き
な楽しみでもある。

詩人の加島 祥造が書いていた。『老子までの道』(「幽霊坂の話」)

私も、神田の「シネマパレス」で外国映画を見たひとりだが、加島 祥造の書いていることが実感としてよくわかる。ただし、私が見た映画は、ほとんどDVD化されていないような気がする。残念なことだが。

戦後まもなく、(「シネマパレス」で見たわけではなかったが)「拳銃無宿」 Angel and the Badman(47年)を見た。主演、ジョン・ウェイン。共演は、ゲイル・ラッセル。

ジョン・ウェインは、いうまでもなく、西部劇の大スター。この「拳銃無宿」に出た当時は、まだ大スターではなかった。映画も「リパブリック」だったから、B級もいいところ。ただし、ジョン・ウェインはじめてのプロデュース作品。
まあ、そんなことより、ゲイル・ラッセルを見ただけで、私にとっては貴重な映画になった。

ゲイル・ラッセルは、戦後になってはじめて見た女優だった。この映画と前後して、「桃色の旅行鞄」Our Hearts Were Young and Gay(44年)を見たが、これで彼女にイカれた。
容貌はアイダ・ルピノに近い。美貌といっていいが、アイダのように「妖婦」的、ヴァンプ的なところがない。どこか、もろい(フラジャイル)ものを感じさせた。眼に特徴があって、ずっと後年のオルネラ・ムーテイが、ゲイルのまなざしに近かった。

おなじ時期に、ゲイル・ストームという新人が登場する。「五番街の出来事」という喜劇に出ていた。しかし、ゲイル・ストームの映画はほとんど見る機会がなかった。50年代後半から、TVのコメデイ・シリーズや「ゲイル・ストーム・アワー」などで人気があった。
わざわざ「五番街の出来事」のビデオを探して見直したが、私が好きだった女優はこういう女優だったのか、と思った。はっきりいえば失望したのだった。

そして、もうひとり。グローリア・デ・ヘヴン。
グローリアは映画にはほとんど出なかった。ブロードウェイの舞台から、やがて、ラス・ヴェガスなどのショーで成功する。だから、映画のグローリアをほとんど見ていない。後年、「ゴッドファーザー」で、アル・パチーノが、ヴェガスに乗り込むシーンに、グローリア・デ・ヘヴン出演の大きな看板が出ていて、なつかしい気がした。グローリアは、ラス・ヴェガスきっての大スターになっていた。

はるか後年、私はゲイル・ラッセルについて短いモノグラフィーを書いた。
ある日、虫明 亜呂無が私をつかまえて、
「ゲイル・ラッセルとは、なつかしいですねぇ」
といった。
私は、虫明 亜呂無が私の雑文を読んでくれたことがうれしかった。そして、私以外にもゲイル・ラッセルをおぼえている人がいたことが、何よりもうれしかった。
ゲイル・ラッセル、私の内部に暗い輝きを放っていた女。そして、彼女もみずから悲劇的な死を選んだスターのひとり。

1083

一度だけ、外科手術を受けたことがある。手術というほどのものではなく、わずか1センチ幅のオデキを切徐してもらっただけ。
医師が患部にメスを入れると、皮膚が綺麗にきれて、一瞬あとに、ひとしずくの血がもりあがってきた。部分麻酔の注射をしているので痛みはない。手術も、ほんの30秒くらいで終わった。手術が成功(!)して、うれしかった。

メスがじつによく切れる。こんなものを誰が「発明」したのだろうか。うっかり医師に質問しそうになったが、われながらアホウな質問に思えた。人類学者に誰がナイフを「発明」したのかと質問しても答えに窮するだろう。だから私は黙っていた。

ほどなく、この疑問はとけた。

メスを「発明」したのは、誰あろう、かのベンヴェヌート・チェッリーニである。

チェッリーニは、イタリア・ルネッサンスに登場した。ルネッサンスについて何か知る必要があれば、彼の『自伝』を読むといい。
『自伝』(46節)に、こんなエピソードが出てくる。

若者だったチェッリーニが、ある工房で働いていたとき、主人の娘が右手を傷めた。小指、薬指の二本の指の骨が腐るという病気だった。いまなら、指の傷からバイキンが入って炎症が化膿したと見ていいだろう。
ヤブ医者の診察では――娘は、右腕が麻痺するかもしれないが、それ以上は進行しない、という。父親は、腕のいい外科医に手術を依頼した。
この先生の診断は、右手はじゅうぶんに使えるようになる。ただし、右手の小指、薬指の二本は、いくらか弱くなるかも知れない。それでも日常生活に支障はきたさない、という。
数日後に、骨の腐った部分を少し削りとることになった。外科医の先生は、何やら大きな鉄の器具で手術をしたが、娘はものすごく痛がった。
見るに見かねたチェッリーニは、八分の一時間ばかり待ってくれないか、と頼んで、大急ぎで、工房に駆け込んだ。
そして、反りを打った、ひどく薄くて、小さな鉄の器具を作った。

外科の先生のところに戻ると、こんどは、とてもやさしく手術ができた。娘は少しも痛がらず、手術もじきに終わった。

これだけの話である。どうやら――ベンヴェヌート・チェッリーニが、メスを「発明」したのは、まず間違いがない。

ただし、こんなことをさも大発見か何かのように、れいれいしくブログに書いている私はアホウである。(笑)

1082

ナタリー・ウッドは、(子役のときから、将来を期待されて、いくつもの試練に耐え抜いて、最後まで残った)スター女優だった。チャイルド・スターから、トップスターになったという意味で、ジュデイ・ガーランド、エリザベス・テイラーに似ている。
しかし、子役としてのキャリアーは、ジュデイや、エリザベスほど、恵まれていたとはいえない。

十代の彼女は、「理由なき反抗」(55年)でジミー・ディーンの相手役に抜擢されて、やっとスターレットとして認められたような印象がある。
それだけに、「初恋」(58年)のナタリーは、ひそかに期するところがあったに違いない。
原作は、当時、流行作家だったハーマン・ウォークのベストセラー小説、『マージョリー・モーニングスター』。

演劇志望の女子大生「マージョリー」は、友だちの「マーシャ」といっしょに旅行している。美しい湖畔で、演出家、作曲家の「ノエル」(ジーン・ケリー)と、アシスタントの「ウォーリー」(マーティ・ミルナー)と会う。
いかにも知的で、芸術家の「ノエル」に夢中になった「マージョリー」は、舞台の照明をてつだいながら、清純な慕情を育ててゆく。
しかし、「マージョリー」の想いを知りながら、「ノエル」は以外にも、冷たく突っ放す。はげしく傷ついた「ノエル」をいたわるのは、「ウォーリー」だった。……

大学を卒業した「マージョリー」の前に、また「ノエル」が戻ってきた。一方、「ウォーリー」は劇作家として輝かしく成功していた。以前にもまして心を寄せる「ウォーリー」に対して、何者でもない自分を恥じた「マージョリー」は姿を消す。

やがて、友だちの「マーシャ」は、富裕なプロデューサーと結婚する。その式場で、「ノエル」と再会した「マージョリー」は、「ノエル」がブロードウェイで失敗したことを知る。彼女は、「ノエル」を力づけ、またショーの演出にもどらせようとする。その初日がすんだら、彼と結婚しようと決心するのだが……。

ジーン・ケリーがミス・キャスト。ダンスの名手だったジーン・ケリーは、「錨を上げて」(45年)、「三銃士」(48年)、「私を野球に連れてって」(49年)、「巴里のアメリカ人」(51年)、「雨に唄えば」(52年)などの作品で、一流のスターだった。
これに対して、ナタリー・ウッドは、「三十四丁目の奇跡」(47年)の子役から、「理由なき反抗」のティーンネージャー、「捜索者」(56年)のインディアンに育てられる白人の少女といった役のあと、シャーリー・テンプルや、デイアナ・ダービンとおなじように、女優として成熟した女性の魅力を出せるかどうかという「問題」に直面していたように見える。
ナタリーは、「草原の輝き」まで、もうしばらく混迷をつづける。

1958年、日本では、「悲しみよこんにちは」が公開され、ジーン・セバーグのセシール・カットが流行した。小津 安二郎の「彼岸花」に、山本 富士子が出て、有馬 稲子、久我 美子と共演した。三島 由紀夫の『金閣寺』が市川 雷蔵の「炎上」として、映画化された。石原 慎太郎が「若い獣」を監督している。

1081

少年はいう。

「わかってくれるかい。今朝起きてみると、太陽が輝いていて、なにもかもがきらめいているみたいで、すっごく気もちがいいんだ。そして、いちばんはじめに会ったのが、きみなんだ。で、思ったのさ、今日は素晴らしい日になるぞ、きっと。こんな日は、思いっきり生きなきゃ。明日なんて、ないかも知れないから。
わかるだろ、オレは、すんでのところで、明日をフイにしちまうところだったんだよ。」

映画、「理由なき反抗」の、ジェームズ・ディーンのセリフ。チキン・レースのあと。
チキン・レースは、二台の車を並べて、同時に崖に向かって走らせる。断崖の近くまで疾走するのだが、おじけづいて、早く車から飛び下りたほうが負け。「チキン」は、臆病者という意味だろう。
映画では、競争相手が死んだあと、「ジム」(ジェームズ・ディーン)が「ジュデイ」(ナタリー・ウッド)にいう。
つぎの日の夜、ふたりは、荒れた廃屋の庭で会う。

ジュデイ 愛するって、こういうものかしら。
ジム  オレにもわからない。
ジュデイ 女って、どんな人をもとめると思う。
おだやかで、自分がやさしくしてあげ
られるひと。
こっちがもとめるときに、肩透かしを
くわせないひと。
ジム  オレたち、きみもぼくも、もうさびしがら
なくて、いいんだよな。
ジュデイ あたし、愛しているのよ。いつも、あたし、
愛してくれる人を探してたけど、いまは
あたしのほうから愛してる。
それが不思議なくらい。やさしくできるの。
なぜかしら。
ジム  オレ、わかんないよ。オレだって、そう
なんだもの。

ジェームズ・ディーン(1931-1955)は、戦後アメリカの伝説的なスターだった。彼の出た映画としては、「エデンの東」、「理由なき反抗」、「ジャイアンツ」の3本だけだが、この3本だけで映画史、映画スター史に残るだろう。
彼が登場した時代は、映画産業が圧倒的な優位に立っていた時代だが、TVが普及して、時代に変化があらわれはじめていた。かんたんに要約すれば、暴力、犯罪、ドラッグ、セックスなどに、絶大な関心が寄せられることになる。当時のスキャンダラスな世相は、当時のエクスプロイテーション・マガジンの驚異的な隆盛からも想像できるだろう。

ジェームズ・ディーンの死は悲劇的だった。ナタリー・ウッド(1938-1981)の死もまた。

「理由なき反抗」は、それほどすぐれた映画ではない。しかし、それだけで時代を表現するセリフがあったればこそ、私たちの心に残った。
「ジム」と「ジュデイ」の、ちょっと舌ッ足らずな、愛のことばのやりとり、ヴァーバル・ウーイングが新鮮に聞こえた。ジェームズ・ディーンもナタリー・ウッドも、時代の一瞬の輝きとして、私たちの心に残ったということなのだ。

1080

岡場所。
江戸にあった官許の場所以外の、深川、築地、品川、新宿などの私娼窟をさす。
そのくらいは知っているのだが、なぜ「おか」なのか。いつから「おか」なのか。

古語の「おか」、つまり陸の連想はわかる。「岡へあがったカッパ」というふうに。
傍目八目のように、わき、横、はたから見る動き。これもわかる。

江戸でいう岡場所を大阪では「外町」といったらしい。あるいは、「島場所」とも。

このあたりにも、関東、関西の、トポス的な違いが見えてくる。「岡場所」と「島場所」、どちらでもいいが、吉原ではない私娼窟を「ほかの場所」としたのは、公娼を中心とした集娼制度に対する暗黙の異議申し立てではなかったろうか。
金一歩の揚げ代の「金見世」(かねみせ)、銭一貫文の「銭見世」(ぜにみせ)、さらに、昼六百、夜四百に切り売りする「四六見世」、それ以下の「六寸」、「五寸」、「四寸」と区別した江戸の庶民のふところ具合も「ほかの場所」というカテゴライズに見えるような気がする。

「島場所」は、私娼窟を別世界、何か極楽浄土に似た別の「島」として、とらえているような気がする。

江戸でいう、「じごく」は、当然ながら極楽浄土とはまったく反対のものだが、これとても、江戸の庶民が「地の女」の「極上」という意味で使っていたとすれば、やはり違った解釈が出てくる。

ほんとうは江戸の庶民の造語、暗喩、synthetic slang にも眼をむけるべきところだが、残念ながら、私にはその能力、学問がない。

1079

『聖アントワーヌの誘惑』を書いていた時期のフローベールは、さまざまな打撃と挫折に見舞われている。
自分のよき理解者だったサント・ブーヴ、デュプラン、ジュール・ド・ゴンクールといった友人たちがつぎつぎに亡くなって、ほとんど孤立無援といった状況に追い込まれる。
しかも、この時期に愛する母を失った。つらいことが重なって、さすがのフローベールも、しばらく立ち直れない。

当時、代表作の『感情教育』を出版したが、批評はかならずしも芳しくなかった。自分では圧倒的な自信があったのに、悪評も多かった。しかも、小説のモデルにされたということで、それまで親しかったボスケという女性から絶交をいいわたされる。
出版社と対立する。
作家としては八方ふさがりといっていい。

しかも、ここにきて普仏戦争が起きている。緒戦のフランス軍の弱体ぶりに落胆したが、それよりも国運が傾いていることに、フローベールの苦悩が重なってくる。もともとひどくペシミスティックな観念にとり憑かれていたせいもある。しょせん、この世はのっぺらぼうにひろがっている地獄に過ぎない。こういう思いが、彼の魂にひろがっている。

さまざまな苦難、困難に見舞われながら、少しづつ憂愁のいろを深めていった作家に私は関心をもつ。
ただし、フローベールは大作家で、クロワッセに隠棲していた。私は作家というより、ただのもの書き、pot boiler に過ぎない。はじめからクロワッセとは違う地獄で生きている。

1078

わざわざ映画館に行って映画を見る。そんなこともなくなってしまった。

映画が斜陽産業化した原因はいろいろとあるはずだが、いつ行っても映画が見られる場所ではなくなったことも観客の減少を招いたのではないか、と思う。
ちょっと時間ができた。どこかで時間をつぶす。そんなとき、近くの映画館に飛び込んで、もう始まっている映画の途中から見る。
途中から見るのだから、映画のストーリーもよくわからない。あれよあれよという間に、映画か終わって、休憩時間をおいてから、もう1度、最初から見直す。やっと映画の内容がわかってくる。頭のなかで、ストーリーをつなぎあわせて、けっこう満足して映画館を出る。もう、あたりはとっぷり暮れている。
そんな経験は誰にもあったはずである。

いまは、映画を見ようと思うと、上映時間前にチケットを買って、10分ばかり前から館内に入れられる。席がきめられているので、押しあいへしあいして席をとりあう必要はない。しかし、映画館で映画を見るときの、うきうきした気分はあまりない。
映画館ですわれるのはいいが、ガラガラにすいているのは哀れとしかいいようがない。

だから、映画言うものは、家族中で見に行ったものです。小僧さんたちは仕事が
あって行けない。八百屋さんもいかれないけれども、家をしめたら、九時から映
画見に行こうといったものですよ。お風呂へ行くみたいなつもりで。だからお風
呂屋のバケツを持って見にいきましたよね、「一本見られるでえ。今から」言う
て。それに九時からは割引きがあったんですね。バケツに手拭い入れて見にいき
ましたなァ。そのくらい、みんなに映画というものが親しかったんですね。

淀川 長治さんの少年時代。私の少年時代でもこれはおなじ。こうしたアンチミテは、もはやどこの映画館にもない。思えば、幸福な時代でしたナァ。(笑)

「エー、おせんにキャラメル。ラムネにイカはいかが」

1077

老人なのだから、ボケたことしか書かない。書けない。現実の動きについて行けなくなっているせい。

たとえば、GMが破産法の適用を申請した事態は、私の想像を越えていた。むろん、アメリカの産業の推移を見ていれば、1970年代から、テレビ、ビデオ、冷蔵庫といった家電メーカーが、つぎつぎに姿を消して行った。
ところが、80年代の日本がぐずぐずしているうちに、アメリカの、インターネット、パソコンを軸にして展開した情報技術産業が、世界を制覇した。日本は、これが「空白の10年」と重なって、惨憺たる状況に追い込まれた。アメリカは、これで世界経済の主導権をにぎったが、やがてIT産業はつまづいたし、金融、保険などの分野も、昨年の金融危機でおおきな打撃をうけた。

北朝鮮の核実験、さらには核攻撃の現実的な脅威、新型インフルエンザの登場、やがて冬季に於けるヴィールスの変化、どれひとつとして私などの理解できる現象ではない。
こうした「現実の動き」は、私などにとっては、ほとんど理解を越えている。

私に考えられるのは、それぞれが無関係な事象であっても、ここにきて、私たちはいやおうなく歴史的な曲がり角にさしかかっている、という認識が私の内部にも生まれつつある、ということ。

ある研究者の説くところでは――現在、あの世を信じる、または奇跡を信じる20代の若者が、2003年から8年間で、
あの世を信じる若者は、15パーセントから23パーセントに、
奇跡を信じる若者は、30パーセントから36パーセントに、
ふえたという調査結果を示している。
そして、若者は「脱呪術化」ではなく「再呪術化」されている、という。

この調査結果を見て、自分はどう答えるだろうか、と考える。

あの世を信じるか。私は信じたいと思う。しかし、信じうべき理由が見つからない。
私は奇跡を信じるか。これは、答えられない。どういう事象をもって、奇跡と見るべきなのか。具体的に語ることができないからだ。
さりとて、いまや、若者たちのあいだで、進歩、夢、未来といった価値観が融解している、などと見るわけはない。

私がボケたことしか書かないし、書けないことを少しも恥じてはいない。わからないことはわからないと見ているだけである。わからないことが多すぎるけれど。

1076

前から探していたものを偶然見つける。これはうれしい。古書なら、掘り出しものを見つけたとき。
つい最近、香港映画のビデオを見つけた。いまはもう誰も見ないようなビデオなので、掘り出しものといえるほどではない。作品もいわゆるB級、あまり自慢にはならないが、それでもこれを見つけて、内心ひそかに掀舞した。

かなり前に、神保町のアジア映画専門のビデオ屋で見つけたときは、じつに法外な値がついていた。驚きあきれたが、同時に怒りさえおぼえた。いらい、この店には二度と足を向けなかった。

たかが、古本1冊、古ビデオ1本、人の一生に何ほどのかかわりがあろうか。その1冊を読まなかったからといって、おのれの生きようが変わるはずもない。古ビデオ1本見たからといって、自分が見てきた映画に、どれほどのプラスになるだろうか。

だが、そう思う人はついに私の友ではない。

私が見つけた映画は、今はもう誰も知らない香港映画の1本。徐 克(ツイ・ハーク)の旧作、「刀馬旦」(1986年)。
主演は・・・「夢中人」、「恋する惑星」の林 青霞(ブリジット・リン)、「プロテクター」、「上海ブルース」の葉 倩文(サリー・イップ)、「五福星」のチェリー・チャン。
清国が崩壊して、軍閥政権がつぎつぎに交代するなかで、軍閥の将軍の娘の身ながら革命運動に身を挺する娘、革命さわぎに巻き込まれる京劇の一座の経営者の娘、何も考えずに北京に出てきて、予想もしなかった危険に見舞われる娘たち。

この香港映画を何度も見ている。香港映画が、奔放なエネルギーにあふれ、全編スピードとサスペンスで、あたらしい世界を切り開いた。若い女優たちも、キラキラした明るい声の光をスクリーンの中からふりまいていた。
私はこの映画で、林 青霞(ブリジット・リン)のファンになったのだった。

そういえば、この映画が作られて10年後、一条 さゆりが、この映画に出た林 青霞(ブリジット・リン)の妖しい魅力にふれていたことを思い出す。そのエッセイを読んでから、さらに10年がたっている。
そのブリジットも、もう引退している。

古ビデオ1本。またブリジット・リンにめぐりあえたような気がしてうれしかった。

1075

暑い日がつづく。げっそりする。どうしても食欲がなくなる。

ふと、蓼太の一句を思い出した。

冷飯に 夏大根のおろしかな         蓼太

大根は冬の季語だが、夏大根と断っているので、いくぶん小ぶりで、味のからい大根なのだろう。
冷飯に、大根おろしをかけて食べる。いかにも貧しい食事だが、食欲が進まないときでも、これなら食べられそうな気がする。

ところで、ふと、という言葉は外国語にはないらしい。冷飯に、大根おろしをかけて食べる、などという趣向も外人にわかるはずないヨナ、と、ふと考える。

1074

向井 去来(1651-1704)は、まじめな人だった。芭蕉門下でも、君子人として知られている。
元禄4年、野沢 凡兆とともに『猿蓑』の編纂にあたった。

あるとき、去来が一句を詠んだ。

戀すてふ おもへば年の敵かな        去来

この句の意味は――恋愛をしてしまった。ところが、自分はもういい年なので、恋愛沙汰などというのは、どう考えても、身命にかかわる、年甲斐もないことなのだなあ。
そんな心境を詠んだものらしい。ただし、あまりいい句ではない。

初五の「戀すてふ」が、どうもすわりがわるい。
「恋をするということ」は、という意味が、「年の敵かな」にうまく対応していない。もっとよくないのは、この句には「季」がない。
つまりは、俳句ではない、ということになる。まじめな去来は、自分でも、どういうふうにしていいのかわからなくなってしまった。

たまたま、大先輩の俳人、伊藤 信徳に見てもらった。信徳は、この初五を変えた。

戀さくら おもへば年の敵かな

信徳は「花は騒人のおもふ事切なり」という。ようするに、桜は、昔から詩人たちが美しいと愛でてきた。戀もおなじことで、年齢を忘れて人を恋うることの、切なさ、やるせなさも「さくら」をひきあいに出せるのではないだろうか。
去来は、信徳の手直しにしたがわなかった。

元禄3年、芭蕉は、長旅を終えて、京に戻ってきた。去来は、芭蕉にこの句を見せた。

芭蕉は答えた。「戀すてふ」を「戀さくら」に変えたところで、別にいい句になったわけでもない。「そこらは信徳程度の俳人が知るところにあらず」と。

その後、野沢 凡兆が、この句の初五を変えて、

大歳を おもへバ年の敵かな        凡兆

「大歳」は、大晦日。つまり、一年が過ぎようとしている。いよいよ、大つごもり。考えてみると、こうして年の瀬を過ごしていると、ほんとうに過ぎこしかた、行く末を思う、自分の年齢にはかたきのようなものだなあ。
芭蕉は、「まことにこの一日、千年の敵なり。いしくも(いみじくも)置きたるものかなと、大笑し給ひけり」と、いった。

私も凡兆の改作をよしとする。しかし、凡兆の手直しに、去来としては不本意だったのではないか、と思う。
「そこらは信徳程度の俳人が知るところにあらず」というあたりに、芭蕉の大きさをみていいが、芭蕉が大笑いしたのは、どういじっても、いい句にならないのに、こだわりつづけた去来をあわれんでのことではなかったか、と思う。
だが、私はこの芭蕉にあえて異を唱える。

去来が詠みたかったのは、自分はもういい年なのに、恋愛沙汰などを考えている。そういう年甲斐もないことにかかずらうおのれの卑小、つたなさではなかったか。

大歳をおもへバ としの敵哉       凡兆

などという感慨は、この去来にはかかわりがない。
私にいわせれば、芭蕉には去来のみじめさが見えていないのだ。俳句としても、この句ははじめから無季でいい。この句にふれた人が、それぞれの季節を心において読めばこの句の情趣は成立する。それでいいではないか。この芭蕉をわたしはひそかに憐れむ。
去来は気まじめな人だったが、ときには、

稲妻や どの傾城と かり枕

といった洒脱な句を詠んだほどの人ではなかったか。

1073

一茶の『おらが春』を読む。
文政2年(1819年)、一茶、57歳の句文集。

一茶は、東北地方に旅行をしようと思い立って、わが家を出る。乞食袋を首にかけ、小風呂敷をせなかにかけた恰好は、西行法師に似て殊勝だが、ほんとうは似ても似つかぬ心境で旅立っている。
二、三里も歩いてから、一茶は考える。

久しく寝馴れたる庵をうしろになして二三里も歩みしころ、細杖をつくづく思ふに、おのれすでに六十の坂登りつめたれば、一期の月も西山にかたぶく命又ながらへて帰らんことも、白川の関をはるばる越る身なれば……

もう、わが家に戻れないのではないか、と心細くなってくる。鶏が時をつげる鳴き声を聞いても、帰ったほうがいい、と呼んでいるように聞こえる。麦畑にそよぐ風も、戻っておいで、とさしまねく。また歩き出しても、あまり先に進まない。

とある木陰に休らひて痩脛(やせすね)さすりつつ詠るに柏原はあの山の外、雲のかかれる下あたりなどおしはかられて、何となく名残おしさに、
思ふまじ見まじとすれど我家哉  一茶

私は一茶の句に親しんできたわけではない。しかし、文政2年、この年が一茶にとっては苦しみのはじまりだったことを思えば、一茶の哀しみは、私にもよくわかるような気がする。

1072

敗戦直後の日々。日本人が、どのように敗戦の痛苦をうけとめたか。もはや、思い出すこともむずかしい。
敗戦から一年。まだ、日本は惨憺たる状況にあった。食糧難が、生活をおびやかしていた。当時の短歌を読んでみた。
その優劣を問わず、いくつかをここにあげてみよう。すべて、1946年夏までに詠まれたもの。

山峡にひそと棲みつつ国々に散りたる友をおもふ今宵も    橋本 徳寿

幾度か防空壕に出入りせし去年の夜半の想ひたへ難し     瀬頭 聡子

戦いの激しかりし世に生きあひてわれは十九の命つなげり   南 晴彦

荒地野菊たけて荒れたる疎開跡終戦の日に此処は毀たれぬ   小川 初枝

ほしいままに草たけし原に木製の戦車の残骸見るに堪へなく  伊東 良平

友に逢ひて話すは友の事なりき彼の友も亦彼の友も亦無駄死をしき 松本 清

爆破されし工場の細部映りゆくかく見る既に感傷もなく    小暮 政次

ためらはず兵器毀つに明治三十七八年の鹵獲銃もあり     大久保福太郎

陸にありて米国製レーション海にして英国船レーションに命つなぎき 新海 五郎

つつがなく食ひて生きゆく事の外今の我は何も考へず     吉田 正三

乏しきに堪へむと思へど幾日かも主食の糧はつきはててけり  岡田 花明

サイゴンの米を食ひたり復員の伯父が持ち来し細長き米    南 一郎

四年ぶり復員したる吾が兄は父の墓辺に黙し立ちたる     大野 文也

闇市に偶然遇ひし我が友は戦闘帽かぶり古靴を売る      加藤 信夫

石鹸を並べし下の大き箱に紙幣うずたかし反故のごとくに   茅上 史郎

難民とはかくの如きか犇めきて人はここにも列車に迫る    町山 正利

満員の電車の中に横ざまになりたるままに終点に来ぬ     高橋 治純

焼跡に残る家居のくろぐろとひとくぎりあり麦は生ひ立つ   新田 澄子

土手外の一劃焼けず残りたり映画館ありて人の群がる     斉藤 広一

焼け跡の日でりの中を歩み来て映画にいたく昂りて居り    増方 作次良

東京の女の身なり派手なるを見つつぞおもふ何食ひてゐむ   大石 逸策

兵舎跡に学ぶ女医専生徒らは下駄ばきのまま授業受けおり   国崎 行夫

新しき教に障る書物焼きぬ汗ばむ胸に焔迫りて        市毛 豊備

あまりにも貧しき装幀を打ち見つつ敗れし国のうつつをぞ識る  橋本 堯

焼けし町焼け残る町つらぬきて広き舗道の夕映え明し     斉藤 正二

中庭に麦のみのりし昼過ぎの日比谷公園に我は来て見つ    御船 昭

戦の終りたる日の近づきて暑き日暮に蜩なくも        渡辺 清

敗戦後、一年の凄まじい様相が、こうした短歌からいくらか想像できる。

現在の私にしても、これらの短歌を読んでさまざまなことに気がつく。たとえば、原爆に関して誰ひとり言及していないこと。これは、おそらく、検閲による。なぜなら、このテーマ(原爆)は、アメリカ占領軍がもっとも警戒して問題だったはずである。
そしてまた、思想上の論点としての、核の廃絶など、まったく歌詠む人たちの意識になかったこと。
少なくとも、敗戦直後に、清瀬 一郎が原爆投下を人倫上の戦争犯罪と見た視点などは、これらの戦後詠にはまったく存在していない。

ついでにふれておくが――これらの名もなき民草の短歌は、『昭和万葉集』なるものに一首も収録されていない。

1071

1921年、ルイ・ジュヴェは、恩師のジャツク・コポオと対立したため劇団内部で孤立、舞台に立つことが許されず、もっぱら裏方にまわり、髀肉の嘆をかこっていた。ようするに、師にうとまれて冷遇されたのである。
師弟対立の原因はいろいろあるのだが、劇団の創立メンバーでありながら、経済的に恵まれなかったことも遠因と見ていい。

そのへんのことは評伝『ルイ・ジュヴェ』で暗示しておいた。ただし、評伝を書く場合、調べてわかったことを全部並べても意味はない。私の『ルイ・ジュヴェ』はなにしろ長い評伝だったし、この時期のフランスの小劇団の財政状態など、くわしくとりあげる余裕がなかった。

けっきょく、出版にあたってカットしたし、原稿も全部焼き捨てた。

その頃の日本の俳優の収入はどういうものだったのか。こちらの資料だけが残っている。焼き捨ててもいいのだが、何かの参考になるかも知れない。

歌舞伎の大名題の月給は、7円80銭。6円80銭。5円80銭。
少しさがって、中堅から、3円20銭。2円20銭。90銭。
「帝劇」の座付きが、6円、5円80銭。3円80銭。1円50銭。60銭。
「明治座」の左団次が、4円50銭。3円80銭。3円30銭。1円90銭。
1円90銭。1円50銭。60銭。
「市村座」が、4円80銭。4円40銭。3円60銭。2円20銭。1円90銭。1円70銭。1円60銭。1円10銭。90銭。
これに、権十郎、小団次などの小芝居がならぶ。

その頃の物価を比較すれば、なんとなく当時の俳優の生活が見えてくる。

1070

藤田 嗣治の「私の夢」(1947年)を見た。
「日本の美術館 名品展」に出品されていたが、画面いっぱいに、片腕を頭にあげて、まどろむ美女の裸身。そのベッドをとり囲むように、ネコ、オオカミ、ウサギ、サルなどが十数尾。半分ばかりは、人間そっくりの衣装をつけている。

美しい女のヌードと、鳥獣戯画の組み合わせだが、フジタはどうしてこんな絵を描いたのか。

1947年、この画家は、はげしい攻撃にさらされていた。戦争画を描いて、戦争に協力したという理由だった。

戦後のフジタは、まったく沈黙していたが、この「私の夢」が、戦後の最初の作品になった。その後、フジタは、日本を去って、フランスに永住し、レオナール・フジタと改名して生き、フランス人として死ぬ。

この絵をよく見ると、ベッドの下側にネコが3匹いて、サル2匹と争っている。左のネコは、サルの攻撃をふせいだらしく、サルはホエ面をかいて、となりのウスノロのトリにしがみついている。画面中央のネコは、赤い衣裳のサルに襲われて、思わずシリモチをついたかっこう。
一方、ベッドの上側には、イヌ、オオカミが、何やらよからぬ相談をしている。中央の3匹はタヌキかもしれない。

この絵が何を寓意しているか、忖度できないが、この動物たちが、いずれ魑魅魍魎のたぐいと見ていいだろう。
フジタは、そのなかでネコだけは、最後まで信頼していたと見ていい。

1069

8月6日、広島で、原爆犠牲者追悼の催しが行われる。

私もまた、この日、かならず黙祷をささげる。

別して、ある人びとに心からの哀悼を捧げる。ここに、そのひとりの女性を偲んで、ありし日の写真を掲げておく。

生きる時代を異にしたため、私はわずかに彼女の映画を1本見ることを得ただけで、ついに舞台を見ることがなかった。しかし、彼女のおもざしは私の内面に深く刻みつけられている。

園井 恵子という女優である。戦争末期、移動演劇の一隊に属して、広島に巡演して、原爆死を遂げた。ここにかかげるのは、まだ、戦禍を知るよしもなかった「宝塚」在籍中の写真である。

 

合掌。

 

 

 

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1068

マリリン・モンローの初期作品、「ふるさと物語」(アーサー・ピアソン監督/1951年)は日本では公開されなかった。
DVDで出ているので、はじめて見た。愚作。

カヴァーに――マリリン・モンロー出演、日本未公開作品! と出ている。

ストーリーを紹介するのもバカバカしいが――州議会選挙に敗れて上院議員をやめた「ブレイク」は、故郷の小さな町に戻ってくる。婚約者は、小学校の先生をやっている。
「ブレイク」は、彼女の伯父がやっていた小さな新聞「ヘラルド」の編集長になる。

故郷の町では、軍需産業で成功した地元企業が、廃水を川にたれ流しているため、汚染がひろがっている。「ブレイク」は新聞に書きたてて、企業の責任を追求しはじめる。
たまたま、小学校の先生に引率されてこの企業の銅山の廃坑を見学に行った「ブレイク」の幼い妹が、落盤事故にぶつかって・・

主演のジェフリー・リンは、戦前に登場したB級スターで、「すべてこの世も天国も」(40年)、戦後は「三人の妻への手紙」(49年)などに出ている。タイプとしては、フランチョット・トーンにちょっと似ているし、レイ・ミランドにもなんとなく似ている。しかし、この映画のジェフリーはまるで冴えない。
婚約者になる女優さんはジーナ・ローランズ・タイプ。むろん、ジーナほどの迫力も演技力もない。
地元企業の経営者は、ドナルド・クリスプ。「我が谷は緑なりき」(41年)、「ナショナル・ヴェルヴェット」(44年)などで、私たちにも知られている。この映画でもさすがにクリスプらしい味は見せているが、それでもたいした映画ではない。

さて、マリリン・モンローだが、この映画のマリリンもまるで魅力がない。
出ているシーンは5カット。
マリリンになぜ魅力がないのか。それは、監督がマリリンの、特徴にまったく気がついていないため。マリリンに何ひとつ芝居をさせなかった。セリフもあるにはあるのだが、田舎の新聞社につとめている女の子というだけで、何ひとつ「しどころ」がない。ようするに、演出家が凡庸で、マリリンをただ平凡にしか見せていない。つまり、この監督は何ひとつ見ていないのだ。

この時期のマリリンは、すでに「アスファルト・ジャングル」(50年/ジョン・ヒューストン監督)に出ている。映画監督は(検閲をたくみにかわしながら)マリリンに初老の実業家の「情婦」を演じさせていた。そして「イヴの総て」(50年)のマリリンは、まるっきり才能のない女優を演じていた。この2本のマリリンは、若い女優らしい香気(フレグランス)を放っているが、「ふるさと物語」のマリリンは、ただの平凡な女の子にしか見えない。
才能のない映画監督に使われる女優ほどかわいそうなものはない。

この映画に出たあとのマリリンは、「夜のうずき」(52年)、「人生模様」(52年)、「モンキー・ビジネス」(52年)、「ノックは無用」(52年)などに出ている。
マリリンは、チャールズ・ロートンを相手に娼婦を演じた「人生模様」がもっとも美しいが、全体としては、「ナイアガラ」(52年)までの、さまざまなトライヤル、試練の年だったはずである。

ある女優にとって、まだ無名の頃に出た映画はどういう意味をもつものなのか。無名のマレーネ・ディートリヒは、グレタ・ガルボのはじめての主演映画、「喜びなき街」にガヤとして出たことに終生ふれなかった。だが、私はこの「喜びなき街」に出た無名のディートリヒの姿をけっして忘れない。

「ふるさと物語」の映画監督、出演者、スタッフのだれひとり、わずか5ケ所のシーンに出ただけの女優が、1年後に世界的なスターへの道を歩みはじめるとは思っても見なかったにちがいない。

このへんに、当の女優たちもまともに考えなかった問題があるのではないだろうか。