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ヨーロッパに失望したゲルツェンは、ロシアの民衆に希望を見いだそうとする。そして、スラヴォフイルに接近する。やがて独特の、ロシア社会主義をとなえる。
かんたんにいえば――農村共同体を基盤に、ヨーロッパのような資本主義の段階をへずに、独自の社会主義を実現すべきだというもの。
チェルヌイシェフスキーとも共通する思想的な論点でもあった。
農奴たちの悲惨な生活、その災厄から救うためには、農村共同体の土地利用を考えるべきであるとした。
(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で、言及される。第三部では、チェルヌイシェフスキーの硬直した思想に、ゲルツェンもうんざりしているのだが。)
ゲルツェンは、このあたりからエンゲルスとは違ってくる。エンゲルスは――「ロシア農民の世界は、閉鎖性と魯鈍の世界だ。彼らは、自分の共同体のなかにだけ、生きて、行動している」と考える。(トカチョフ批判」)マルクスもエンゲルスと、同意見だったはずである。
マルクスがやはり狭隘な思想家にすぎないことをあらためて感じた。
やがて、この狭隘さが、後年のレーニン、スターリンという「怪物」にひきつがれる。
ゲルツェンは違う。
ロシアの「オプシチナ」、あるいは、「ミール」は、古代ロシアに発生した農村共同体の流れで、農民の自治組織である。この農村共同体は、1861年の農民解放の後で、約14万、全農民の80パーセントをカヴァーしていた。さらに後に、レーニン、スターリンは、この「ミール」をコルホーズ、ソフホーズに編成しようとする。
ドラマでは、オガリョーフが「土地と自由」という思想をとなえて、ひそかに同志を祖国に潜入させようとして、官憲に一網打尽にされる。
ゲルツェンが批判を浴びせる。(第三部、第二幕/12場)
オガリョーフが、発作を起こしたあとのこのシーン、石丸 幹二のやりとりは、終幕でのゲルツェン(阿部 寛)の苦い感慨の伏線として、無残なほどいたましい。
※
第三幕冒頭、ゲルツェンは「鐘」の出版に成功している。娘の「サーシャ」(20歳)に、自分とオガリョーフが、ロシアで最初の社会主義者だったことを語る。
「オガリョーフ」は酒に酔っている。ゲルツェンがオガリョーフの妻、「ナターシャ」と愛しあっていることを、「オガリョーフ」は知っている。
「ナターシャ」は、「オガリョーフ」とセックスしたと思うと、すぐに「ゲルツェン」をもとめる。三人が愛しあっている、と思いながら、妊娠したこともあって「ゲルツェン」との不倫に罪悪感を抱いて、自分は罰を受けている、と思う。
こういう「関係」のなかで、石丸 幹二の「オガリョーフ」は、すばらしい芝居を見せていた。
「きみが妊娠させなければよかったのだ」という。「ゲルツェン」は、皇帝(ツァーリ)が農奴制廃止の委員会を設置したというニューズに興奮して、その晩に「ナターシャ」を抱いたという。それを聞いた「オガリョーフ」の動揺や、あきらめ、さらには畏敬する友人の行動をそのまま承認しようとする、石丸 幹二はコキュの複雑な内面を、よく表現していた。そのことが、精神的な興奮から女体を征服する「ゲルツェン」の、いわば無神経なエゴイズムを感じさせる。
このとき、「オガリョーフ」の内面には、それまでの(この芝居でいえば、第一幕、第二幕の)さまざまな思い出や、その記憶やそれに重なる感動や、「ナターシャ」を奪われた、という思いが渦巻いたはずである。
そのときの「オガリョーフ」がウォッカをあおる芝居は、やがて「ゲルツェン」の内面の揺れにまで影響して、この幕の最後の「ゲルツェン」の孤独な内面まで際立たせるほどのものに見えた。これは、石丸 幹二のお手柄とみてよい。