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8 

ヨーロッパに失望したゲルツェンは、ロシアの民衆に希望を見いだそうとする。そして、スラヴォフイルに接近する。やがて独特の、ロシア社会主義をとなえる。

かんたんにいえば――農村共同体を基盤に、ヨーロッパのような資本主義の段階をへずに、独自の社会主義を実現すべきだというもの。
チェルヌイシェフスキーとも共通する思想的な論点でもあった。
農奴たちの悲惨な生活、その災厄から救うためには、農村共同体の土地利用を考えるべきであるとした。
(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で、言及される。第三部では、チェルヌイシェフスキーの硬直した思想に、ゲルツェンもうんざりしているのだが。)
ゲルツェンは、このあたりからエンゲルスとは違ってくる。エンゲルスは――「ロシア農民の世界は、閉鎖性と魯鈍の世界だ。彼らは、自分の共同体のなかにだけ、生きて、行動している」と考える。(トカチョフ批判」)マルクスもエンゲルスと、同意見だったはずである。
マルクスがやはり狭隘な思想家にすぎないことをあらためて感じた。
やがて、この狭隘さが、後年のレーニン、スターリンという「怪物」にひきつがれる。

ゲルツェンは違う。
ロシアの「オプシチナ」、あるいは、「ミール」は、古代ロシアに発生した農村共同体の流れで、農民の自治組織である。この農村共同体は、1861年の農民解放の後で、約14万、全農民の80パーセントをカヴァーしていた。さらに後に、レーニン、スターリンは、この「ミール」をコルホーズ、ソフホーズに編成しようとする。

ドラマでは、オガリョーフが「土地と自由」という思想をとなえて、ひそかに同志を祖国に潜入させようとして、官憲に一網打尽にされる。
ゲルツェンが批判を浴びせる。(第三部、第二幕/12場)
オガリョーフが、発作を起こしたあとのこのシーン、石丸 幹二のやりとりは、終幕でのゲルツェン(阿部 寛)の苦い感慨の伏線として、無残なほどいたましい。

第三幕冒頭、ゲルツェンは「鐘」の出版に成功している。娘の「サーシャ」(20歳)に、自分とオガリョーフが、ロシアで最初の社会主義者だったことを語る。
「オガリョーフ」は酒に酔っている。ゲルツェンがオガリョーフの妻、「ナターシャ」と愛しあっていることを、「オガリョーフ」は知っている。
「ナターシャ」は、「オガリョーフ」とセックスしたと思うと、すぐに「ゲルツェン」をもとめる。三人が愛しあっている、と思いながら、妊娠したこともあって「ゲルツェン」との不倫に罪悪感を抱いて、自分は罰を受けている、と思う。
こういう「関係」のなかで、石丸 幹二の「オガリョーフ」は、すばらしい芝居を見せていた。
「きみが妊娠させなければよかったのだ」という。「ゲルツェン」は、皇帝(ツァーリ)が農奴制廃止の委員会を設置したというニューズに興奮して、その晩に「ナターシャ」を抱いたという。それを聞いた「オガリョーフ」の動揺や、あきらめ、さらには畏敬する友人の行動をそのまま承認しようとする、石丸 幹二はコキュの複雑な内面を、よく表現していた。そのことが、精神的な興奮から女体を征服する「ゲルツェン」の、いわば無神経なエゴイズムを感じさせる。
このとき、「オガリョーフ」の内面には、それまでの(この芝居でいえば、第一幕、第二幕の)さまざまな思い出や、その記憶やそれに重なる感動や、「ナターシャ」を奪われた、という思いが渦巻いたはずである。

そのときの「オガリョーフ」がウォッカをあおる芝居は、やがて「ゲルツェン」の内面の揺れにまで影響して、この幕の最後の「ゲルツェン」の孤独な内面まで際立たせるほどのものに見えた。これは、石丸 幹二のお手柄とみてよい。

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7  

『ユートピアの岸へ』は、いいドラマだった。
だが、戯曲、『ユートピアの岸へ』はそれほどすぐれているか。

ただ、戯曲そのものよりも、あくまで俳優たちの努力が、この芝居に大きな感動を喚び起したことを記憶しておこう。

この芝居、主役の阿部 寛はほんとうに運がいい。
役者というものは、ほんとうにやりたい芝居に、一生に一度か二度ぶつかれば運がいいという。この『ユートピアの岸へ』のゲルツェンほどの役には、めったに出会えるものではない。
これほどの役を演じる、ということは、その努力もなみたいていのものではない、ということになる。もともとカンのいい役者で、繊細な感受性、なによりも都会人らしい人ざわりのよさをもっている。最近のTVコマーシャルに出ている阿部 寛を見ているだけで、それがよくわかる。そんなコマーシャルに出ているだけで、すばらしい存在感があふれる。(「セキスイハイム」のコマーシャルなど。)
この芝居の阿部 寛は、たいへんな量の科白を記憶した。
このゲルツェンほどセリフの多い芝居は、さしづめオニールの『喪服の似合うエレクトラ』や、サルトルの『神と悪魔』などぐらいだろう。『ユートピアの岸へ』のゲルツェンのむずかしさほこれに劣らない。
セリフをおぼえるのは、なみたいていのことではない。阿部 寛はさぞたいへんだったろうと思われる。九月に見たときは、阿部 寛もあまりにセリフの多さに、おぼえるのがやっとといった状態で、いくぶん同情したほどだった。
しかし、千秋楽の阿部 寛はゆるぎなく勝村 政信に対抗する。この千秋楽、阿部 寛は最高のできだった。若い役者たちがこれくらい勢いよく、轡をならべてわたりあう舞台でなければ人気は立たない。
千秋楽では、ときには鬼気せまる演技さえ見せていた。

阿部 寛のゲルツェンはあたたかい人柄で、独特の輝きを見せている。私が「カンのいい役者」というのは、いくつかのTVコマーシャルを見ているせいだが。こうした「カン」、器量の大きさは誰もが身につけているわけではない。

ただし、『ユートピアの岸へ』の俳優でも、昔の書生芝居か「新協」の芝居にでも出てきそうな連中もいた。阿部 寛には、はじめからそんなことがない。これほど繊細な感受性、なによりも都会人らしい人ざわりのよさをもっている俳優は、やはり少ないだろう。
おなじことは、石丸 幹二についてもいえる。しばらく前までは、ただの美男、美声のミュージカル役者だったが、舞台経験をかさねることで、ぐっとほんもの(オーセンティック)の俳優になってきた。
役者の、こういう境地をどう説明していいかわからないが、石丸 幹二の根性のすわりかた、昔の歌舞伎でいう「世界さだめ」に近いもので、たとえば曽我の世界、上方なら傾城の世界を役者が自在に演じる、というようなものだろう。みごとに、「ゲルツェンの世界」を見定めて、詩人のオガリョーフを演じて、原作に対する観客の感興を助けようとしていた。近頃いい役者のひとり。(ほぼおなじ時期、NHKのドラマ、『白州次郎』で、ほんのちょっと「牛島」という若い秘書官で出てきた。まあ、しどころのない「役」だったが、石丸 幹二がなかなかの美男なので、主役を張っても通用するという気がした。)
ようするに、「ゲルツェンの世界」を現出できていたのは、勝村 政信、石丸 幹二だった。

この芝居の役者たちにしても、これほど大きな芝居に出られる機会はめったにあるものではない。
逆にいえば、今後しばらくは、まさか『ユートピアの岸へ』のような芝居に出ることはないだろう。しかし、主役クラスの俳優たちは、この芝居に出たことでひとまわりもふたまわりも大きくなった。少なくとも、そのきっかけにはなったはずである。
勝村 政信にしても、砲兵士官学校の若い生徒から、激烈な革命家まで、革命家、バクーニンをのびやかに演じていた。この前にシェイクスピアに出たときにも、ずいぶん芸熱心な俳優だなあ、と思ったが、この「バクーニン」は、勝村 政信にとっても、めったに出会えない大役だったはずである。
過激なバクーニンの、ブルジョアに対する憎しみは、ツァーリズムに対するおよそ和解の余地のない憎しみに根ざしていた。というよりも、よわい者が強い者に対して抱く、気位の高い侮蔑を、勝村 政信は見せていた。そして、長い歳月、おのれの期待にそむきそむかれて、いやというほど、辛酸を味わいつくしながら、会う人ごとに借金を申し込む、善良で愉快な人物。
私は勝村 政信の演技の幅に感心した。第三幕で、勝村 政信が笑いをさらっているあたりは、見ていてほんとうに楽しい。

この芝居、どうして大向こうから声がかからないのか。
ただし、声をかけるとして、さて、なんとしよう。勝村 政信には、ヨッ、大統領! ぐらいか。
二代目左団次は、小山内 薫と組んで、「自由劇場」でさかんに翻訳もの、新作ものを出した。その頃、左団次の意気に感じて、大向こうからしきりにヨッ、大統領! と声がかかったという。
時代は、世界大戦が終わったばかりで、アメリカのウィルソン大統領に当てた称賛だったという。(円地 文子先生が書いていた。)いまなら、さしづめオバマ大統領に当てて声をかけてもいい。
「コクーン」の観客から声がかかるはずもない。ただひたすらおとなしい。なんといっても、日本人はシャイなのである。
私としては、「第一部・第一幕」の終わりに近く、バクーニンの父親、瑳川 哲朗に声をかけてやりたかったが、プーチン大統領に当てて声をかけたと思われそうなので――黙っていた。(笑)

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ゲルツェンは、ヨーロッパの否定的な面に強く反応した。
1848年、パリ・コミューン。その悲惨な結末に衝撃をうける。拝金思想。物欲。ふつうの人々の平穏な生活。これに俗物性、凡庸さが重なってくる。
おまけに、この時代にはじつにさまざまな事件が頻発していた。ザイチェフスキーの「若きロシア」の革命的な宣言、ベテルスブルグに頻発した放火、やがてアレクサンドル二世の暗殺。そして、急激な政府の政策転換。
言論弾圧。
リベラル派、急進派に対する執拗な追求。
『ユートピアの岸へ』には、そうした背景のひとわたりがわかりやすく描かれている。
ゲルツェンはバクーニン、ベリンスキー、作家のツルゲーネフなどと親しかった。(『ユートピアの岸へ』、第一部)そして、マルクスは、ゲルツェンを疑いの眼で見ていた。それが、わかるだけでも、こういう芝居を見ている楽しさがある。

1852年から、ゲルツェンはロンドンに在住。(『ユートピアの岸へ』、第三部) 農奴制の廃止がもたらした改革運動が、じつは失敗だったという苦い幻滅は、「第三部」のツルゲーネフに現れている。

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         5  

『ユートピアの岸へ』は、まるでモーリス・ドリュオンの小説のように、つぎからつぎに人の集まり、人々のつながりを見せつけてくる。
ドラマとしては、多数の人間をいちどきに出してくるのだから、進行、展開がうまく行く。
ドラマのなかを流れる時間、場所、そこにかかわる人物は、たとえ資料や事実を踏まえていようと、あくまでフィクティシアスな存在だろう。ツルゲーネフふうにいえば、日は日をついで過ぎてゆく。あとかたもなく、単調に、かつ、すみやかに。ただし、極度に単純化されたステージと、紗幕による転換のせいで、(観客にとって)しばしば人物、場所の把握がそれほど明確には見えてこない。

『ユートピアの岸へ』は、いいドラマだった。
だが、戯曲、『ユートピアの岸へ』はそれほどすぐれているか。

このドラマに出てくる女優たちは、誰もがすばらしい女優なのに、あまり輝きを見せない、と書いた。
女には、二種類しかない。勇気のある女と、勇気のない女と。
女優にも、おなじことがいえるだろう。
勇気のある女優と、勇気のない女優と。
この芝居では、水野 美紀が、女優として勇気を見せていた。これは、どれほど称賛してもいいほどのものだった。
バクーニン家の次女、ヴァレンカをやった京野 ことみは、はじめての舞台出演で、頬に赤丸をつけた田舎娘をやって、観客を笑わせていたことを思い出す。このドラマでは、それこそ「しどころ」のない役だが、なんとか見られるものにしていた。それも、私にいわせれば、勇気のあらわれだった。
ところで、勇気のある女優として、私がすぐに思い出すのは――たとえば、作曲家、チャイコフスキーを主人公としたケン・ラッセルの「恋人たちの曲」のグレンダ・ジャクソンのように強烈な個性が必要かも知れない。
この『ユートピアの岸へ』を見たあと、「ドイツ映画祭」で上映された「ヒルデ」(カイ・ヴェッセル監督/2008年)を見た。戦後、ドイツ映画を代表する女優、ヒルデガルド・クネッフの半生を描いたもので、これがすばらしい映画だった。私が感動したのは――この映画に主演した女優が、まさに勇気のある女優だったからである。
戯曲そのものよりも、あくまで俳優たち、女優たちの努力が、この芝居に大きな感動を喚び起したことを記憶しておこう。

水野 美紀を見たとき、なんというべきか、妥協のないきびしさにつらぬかれて、この芝居の水野 美紀を見るためにきてよかったとおもった。

ブリュッセルで二月革命を知ったというバクーニン、マルクス、ツルゲーネフ。そして、カフェのテーブルで、自分の目撃した革命の状況の報告、これに「ラ・マルセイエーズ」の歌声がかぶさる。銃声。ゲルツェンのアパルトマンにディゾルヴする。このとき、乞食がひとり、舞台を動かない。
ドラマが、コントラストをねらっているのはよくわかるのだが、ここでも 話題はピアニストのリストに恋した伯爵夫人の話だったり。乞食がこの場に一種の異化作用として登場していることはわかるのだが、ただ、場面をつなぐだけの意味しかないような気がする。
ここで私がこんなトリヴィアルなことをとりあげておくのは、これが戯曲の混乱、矛盾といったものではなく、トム・ストッパードという劇作家のほんらいの資質や、このドラマの意図にかかわってくる事柄が、このあたりにひそんでいるのだろうと推測するからである。
なにしろ、「第一部」が23場。「第二部」が20場。「第三部」が25場。
しかも、「第三部」には、場面と場面のあいだの「つなぎ」が、二つ。このリンケージは、海辺の渓谷のシーンで、それまでの緊迫した場面とつぎの場面のコントラストになっているのだが、劇作家が、ドラマの弛緩を、このリンケージでカヴァーしているのかも知れない。荒涼たる風景である。むろん、「第三部」の副題が Salvage だから、こういうリンクが必要だったことはわかる。
ただ、それが作劇上、成功しているのかどうか、と考えるのだが。

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4 

『ユートピアの岸へ』第二部(「難破」)から、私たちはゲルツェンという特異な革命家の「運命」を目撃することになる。

ゲルツェンは、モスクワ大学でオガリョーフとともに、フランスの空想社会主義の思想家たち、サン・シモン、フーリエの著作に熱中する。(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で、言及されている。)
その後、警察に逮捕され、流刑。
第二幕は、主人公、ゲルツェンが中心というより、ゲルツェンとその妻、ナタリー(水野 美紀)、ナタリーの友人、ナターシャ・ツチコフ(栗山 千明)、ゲルツェンの親友、オガリョーフ(石丸 幹二)たち。この人たちがめまぐるしく演じる有為転変、さらには、革命の理念をめぐって、濃密な時を舞台に織りなすとりどりの運命。
かんたんにいえば、そういうことになる。

『ユートピアの岸へ』では、さまざまな人がパーティーに集まる。たとえば、「1835年 3月」(第一幕/第3場)のバイエル夫人の夜会。
「1843年 春」(第一幕/第22場)のパーティー。ここでは、「赤毛のネコ」が登場する。どういう仮装なのか、よくわからない。おそらく、皇帝直属の秘密警察「オフラナ」か何かなのだろう。
ベリンスキーが批評家として有名になりかける。たまたま、わかい詩人が、はじめての詩集を献呈する。ツルゲーネフ(別所 哲也)という青年である。
ツルゲーネフが去ったあと、ベリンスキーと「赤毛のネコ」が黙って、舞台に残される。お互いにじっと凝視している。ほんとうなら、ここで、異様な緊張、ないしは恐怖が走るはずだが、ベリンスキーが自分の名を告げても、「赤毛のネコ」は、パーティーにきた仮装の人物にしか見えない。
なんだ、あれは? わからなかった。これは、私の頭がわるいせいなのか。

とにかく、いろいろな人たちが、ゲルツェンを中心に集まってくる。
「1847年 7月」(第二幕/第2場)、ゲルツェンのアパルトマンというふうに。
ロシア人はお互いに自己紹介して、それぞれの考えに共鳴すると、昨日まで見ず知らずの人でも、たちまち旧知の友だちになってしまう。だから、友人の友人を心から迎え入れて歓待する。
1848年、バクーニンは、カール・マルクス(横田 栄司)に会う。マルクスは『共産党宣言』を書いたばかり。30歳。
ツルゲーネフが、マルクスから、『共産党宣言』を借りて、冒頭の一節を読む。
「幽霊がヨーロッパに出没している……共産主義という幽霊が!」
当時、ロシア・インテリゲンツィアの胸には、フランス革命の記憶が刻みつけられていることを、まざまざと見せつけられたような気分になった。
場所は、パリ。二月革命。
この「革命」が生んだもっとも急進的な動きは、バブーフの運動と見てよい。これは、ルイ・フィリップの時代に、秘密の革命的結社に受けつがれる。いわゆるブランキーズムである。私たちは「バクーニンの人生で、この頃がもっとも幸福な日々」だったことを知らされる。

1848年の革命の挫折。
ゲルツェンの期待は、失望にかわる。
友人で、詩人のヘルヴェーグ(松尾 敏伸)、その妻エマ(とよた 真帆)と共同生活をはじめる。
ゲルツェンの夫人、ナタリー(水野 美紀)は、ヘルヴェーグ相手の不倫に走る。

1848年は、どういう時代だったのか。芝居を見ながら、ぼんやりと、そんなことを考えていた。バルザックがハンスカ夫人に夢中になっていた時代。
バルザックは書いている。

女たちは、同性にモテる男には何かしら腹立たしさを感じさせられる。おかげで、かえってその男に関心をもってしまう。

ヘルヴェーグの妻エマも、そんな眼でみられていたのかも知れないな。気に入った芝居を見ると、きまっていろいろなことが頭にうかんでくる。私の悪癖のひとつ。
『フインランド駅へ』を連想しながら、『ユートピアの岸へ』を見るというのは、いささかあきれるけれど。

とよた 真帆は美貌の女優。そして、水野 美紀も。
美人の女優は自分では気がつかないかも知れないが、真剣な演技をしているときでも、自分の表情、語りくち、身のこなしに、どこか違ったところがあって、演出家には、やはりあらそわれない、はっきりしたフロウ(欠点)として見えることがある。

この場の、バクーニン(勝村 政信)、これがとてもいい。第一部で、士官学校をやめようとしている若者にもつよい印象をうけた。第三部で、しきりに「笑い」をとるバクーニンもおもしろいが、この第二部の勝村 政信は、終始、ゲルツェン(阿部 寛)と拮抗する。
勝村 政信を見ていて、バクーニンが、ここにきてプロレタリアの暴力革命によってブルジョアを打倒する可能性を見たことがよくわかった。

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3     

一連のドラマが起きて、多数の「群像」の織りなす運命がめまぐるしく交錯する「場」が、いきなり私たちの前に展開してゆく……。
ドラマは、「1833年夏」からはじまって、「1833年夏」(第二場)、「1833年秋」(第三場)というふうに、時制によって進行してゆく。
通しで見ると、9時間。役者もたいへんだが、見るほうもたいへんな芝居である。

はじめのうち、長さはべつに気にならない。
このドラマが、歴史劇として書かれていることはわかるけれど、だんだん、あとになって、こうした区分がうるさくなってくる。たとえば、第二幕は「1833年 3月」からはじまっているが、これが、デカブリスト反乱から9年後ということに気がつく観客がど
れだけいるのだろうか。

そんなことから、作者、トム・ストッパードのドラマトゥルギーに対するいくらかの疑問として、私の胸にきざしはじめる。……
『ユートピアの岸へ』第一部は、VOYAGE (船出)という副題をもつ。登場人物は、誰もが未知の「向こう」に向かって旅立とうとしている。
だが、未決定の「向こう」に旅立つというそれぞれの決意には、「心おきなく旅立つことのできるための物語」という要因も必要だったのではないか。
やがて、このドラマの中軸となるゲルツェンの親友、オガリョーフは、まだ、このドラマのはるかな地平にわずかに姿を見せるにすぎない。

3年後。「1836年 8月」(第五場)、ベリンスキー(池内 博之)が登場する。後年、「凶暴なヴィッサリオン」と形容されるロシア批評の先駆者も、ここではイヌに吠えられてころんだり、ドジばかりのヴォードビリアンにすぎない。
ストレートな舞台で、スラップスティックじみた芝居をするのは、それほどむずかしいことではない。(ほかにもおなじようなドタバタ喜劇を見せた役者がいる。)しかし、これが、「わが国には文学はない」とか、ロシアは自分の汚物にまみれた隷属と迷信の大陸などと、ご大層な熱弁をふるう若者であれば、話は別になる。池内 博之は、スラップスティックはあまりうまくないが、若者のロシア的な狂熱ぶりをよく出している。
つぎの場が、「1836年 秋」。夏の朝まだきから、あのロシアの蕭条たる秋にうつるのだが、舞台には美しい娘たちがでてくる。
リュボーフィ(紺野 まひる)、ヴァレンカ(京野 ことみ)、タチアーナ(美波)、アレクサンドラ(高橋 真唯)たちが。
リュボーフィは、やがて、ニコライ・スタンケヴィッチと、タチアーナは、イヴァン・ツルゲーネフと。だが、まだだれひとり、自分を待ち受けている運命を知らない。

1847年、ゲルツェンは妻子とともに、パリに亡命。(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で言及される。)
この舞台を見ながら、ふと、日本はどういう時代だったのかと考えてみた。おなじ時代に、為永 春水が筆禍に遭い、頼 山陽、柳亭 種彦が亡くなっている。そして、大塩 平八郎の乱が起きている。
日本もまた激動の時代を迎えようとしていた。……

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第一部には青春のみずみずしさが、みなぎっている。ロシアの青春も。とすれば、この芝居を青春の群像を描いたものと見てもおかしくない。このオープニングでは、バクーニンの勝村 政信がいい。(彼については、もっとあとでふれよう。)

アレクサンドル・ゲルツェンが出てくるのは、第二幕になってから。
ゲルツェンの友人のオガリョーフといっしょ。ゲルツェンの阿部 寛と、オガリョーフの石丸 幹二が出てくるので、この芝居がバクーニン、ゲルツェンの二極構造で展開してゆくらしいことに気がついた。
ゲルツェンは22歳。1812年、モスクワ生まれ。
父はゆたかな地主貴族、母はドイツ人女性。母が入籍されなかったため、アレクサンド
ルは、ドイツ系の姓名になる。
少年時代に、生涯の盟友、オガリョーフとともに――デカブリストの遺志をうけついで、農奴解放と、ロマノフ王朝の専制を打倒することに生涯をささげよう、と誓いあう。
そのくらいのことしか知らない。

阿部 寛と、石丸 幹二。この配役がよかった。いい芝居では、ほとんど互角の力量をもった役者たちが、互いに一歩もひかず、舞台のうえで火花を散らす。さしづめ、「布引」の三段目で、菊五郎、左団次が張りあう、といったおもむきのものだろう。

やがて、ゲルツェンと不倫な関係に入るナターシャ・オガリョーフ(栗山 千明)。この役の栗山 千明は、おそれげもなく美しかった。落ちついたドレスに肌が輝き、眼を奪うような漆黒の髪に、あっさりしたアクセサリが映えて。
そして、バクーニンの相手になるナタリー・バイエルの佐藤 江梨子。美貌では栗山 千明に劣らないのに、意外に平凡。もっとも、とよた 真帆のエマ・ヘルヴェークもおなじこと。女優がわるいわけではない。この戯曲では、どんな女優が出てもたいして光らない。
このドラマに出てくる女優たちは、誰もがすばらしい女優なのに、あまり輝きを見せない。この芝居が男たちの強烈なパーソナリティーがぶつかりあう芝居のせいだろう。(たとえば、作曲家、チャイコフスキーを主人公としたケン・ラッセルの「恋人たちの曲」のグレンダ・ジャクソンのように強烈な個性が必要かも知れない。)
私にとって、意外だったのは、ナタリー・バイエルをやった佐藤 江梨子。

尾羽うち枯らしたようなベリンスキーが、やっと雑誌の編集者の仕事にありつく。スタンケヴイッチ(ゲルツェンの娘婿)に報告するところに、ナタリーが登場する。スケート靴を脱がせてもらう。
ほんらいはずいぶん印象的なシーンなのだが、佐藤 江梨子はこの役を仕生(しい)かしていない。あれほど美貌なのに、このナタリーがほとんど印象に残らないのは、佐藤 江梨子がはじめからナタリーに向いていないのか。まるで気がなかったのか。「この役を仕生(しい)かさない」というのは、そういう意味なのだ。
『ユートピアの岸へ』という芝居は、女優にとっては、じつはいちばんむずかしい部類の芝居かも知れない。その「場」の自分が、ほかの俳優たちの魅力を消しているのではないか、ということをできるかぎり、自分の内部で確かめてみなければならないのだ。 なぜなのか。私の推測では――劇作家ははじめからあまり関心がないのではないか。

ほかの女優たち、水野 美紀、とよた 真帆にしても、なんとか芝居について行っているのに、佐藤 江梨子だけがあまり輝きを見せないというのは、残念だった。
私の好みからいえば、佐藤 江梨子は『野鴨』の「ヘドヴィグ」か、『令嬢ユリエ』でもやらせてみたい女優なのだか。

麻実 れいも、この芝居では、ごくふつうのロシアの貴夫人にすぎない。
私は、しばらく前に見たテレンス・ラティガンの芝居で、イギリスの上流夫人をやっていた中田 喜子を思い出した。中田 喜子は「芸術座」に出ているときと違ってまるで魅力がなかった。この『ユートピアの岸へ』の麻実 れいは、あのときの中田 喜子のレベルだった。どうしてなのか。

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「ユートピアの岸へ」

 

 

ある日、私は劇場に行く。渋谷の「シアター・コクーン」。開場の5分後には、客席についていた。

劇場のなかに舞台装置はない。客席で、舞台をぶっちぎった特設のセンターステージ。いわゆる、はだか舞台だから。カーテンもない。セットもない。
いまでは、こういうノー・カーテン、ノー・セットの舞台はめずらしくない。私は、コメデイー・フランセーズで見た『作者を探す六人の登場人物』(ジャン・メルキュール演出)を思い出した。ずいぶん昔のことである。
「コクーン」の舞台には、メークをすませた役者たち、まだ、扮装をしていない女優たちが思いの恰好でくつろいでいる。蜷川 幸雄の舞台では、見なれたシーンである。
観客たちは、セットのない仮設舞台にたむろしている役者たちを見ながら、三々五々、自分の席につく。日常的な時間が、ここではゆったりと交錯している。

5分遅れで、照明が消えて、いきなり暗黒になる。もう、俳優たちは舞台にはいない。が、つぎの瞬間、フラッドがあふれて、私たちはモスクワの北西部の土地にいる。
あざやかな導入部だった。
仮設のセンターステージが――大きな紗のカーテンを張りめぐらせることでフェイドイン、またはディソルヴする。これが「空間」になる。
このドラマは、1833年の夏から、ほとんど時間的なオーダーに従って展開してゆく。場面転換は、大きな紗のカーテンか、照明のブラックアウトによる。これだけで、演出家の思想がどういうものなのか納得させられる。

蜷川 幸雄演出、『ユートピアの岸へ』の開幕である。

 

 

 

 

モスクワ近郊。8月も終わりに近い季節。秋はもうそこまで来ている。
ツルゲーネフなら、書くだろう。太陽は西にかたむきかけている。不意におそってきた夕立は、つい、いましがた広い荒れ野を通りすぎたばかり、と。
1833年の夏。アレクサンドル・バクーニンの領地。

『ユートピアの岸へ』第一部は、バクーニン家の物語として展開する。
モスクワの北西部の土地と説明されても実感はわかないが、私は、ザゴールスクや、ツァルスコエ・セロを思いうかべた。そして、チェホフの舞台も。
この開幕から、私はいろいろな芝居を連想した。チェホフから、マーガレット・ケネデイの「テッサ」まで。
同時に、特設舞台での紗幕の引き回しと、わずか十数本のシラカバの樹幹で、モスクワ近郊を暗示する中越 司の美術に関心した。あえていえば、簡略化された(機能重視の)仕込みであっても美しさがある。これまでの舞台がとらえなかった美しさといったほうがいい。
蜷川演出では、三島 由紀夫の『卒塔婆小町』で、椿の花が音を立てて落ちるオープニングを思い出す。美術、金森 馨。これはどうも感心しなかった。
オープニングに流した録音テープは、まったく無意味だったが、この『ユートピアの岸へ』の開幕は、中越 司の美術だけで緊張を生み出した。

バクーニン家。
かなり専制的な老貴族、アレクサンドル(瑳川 哲朗)とその夫人(麻実 れい)。ふたりの間に、4人の美しい娘たち。そして、イギリス人の家庭教師、ミス・チェンバレン(毬谷 友子)。この舞台に、ロシアというより、イギリスの伝統的な家庭劇を見るような気がした。

19歳のミハイル・バクーニン(勝村 政信)が登場する。軍の士官学校に進んだ若者は、わかわかしい声でしゃべりまくるが、ときおり、照れたように笑いながら、かなり辛辣な批評をしたりする。
彼の美しい四人姉妹たち。みんなおなじドレスを着た可愛いお嬢さんなので、はじめは誰が誰なのかわからない。いちばん上のリュボーフイ(紺野 まひる)が22歳。ヴァレンカ(京野 ことみ)、タチヤーナ(美波)とつづいて、いちばん下のアレクサンドラ(高橋 真唯)が17歳。みんな、そろって可愛らしい。

バクーニン家を訪問する、まだ無名のツルゲーネフ(別所 哲也)、23歳。
そして、のちに「凶暴な」ヴィサリオンと呼ばれる、文芸批評家、ベリンスキー(池内 博之)、25歳。
みんな、若い。そして若い女優が、一所懸命に舞台をつとめている姿はいいものだ。
この幕では、ベリンスキーの変人ぶりを、池内 博之が懸命にやっている。むずかしいセリフと、おかしなドジと。池内 博之が、もっと出てくればいいのだが、残念なことに、ベリンスキーは早く亡くなってしまう。ロシア文学史にとっても残念だが、この芝居にとっても残念なかぎり。

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いまでは死語だが、不良少年ということば。いまでいう非行少年である。

表通りから狭い路地に入ると、清水小路5番地。
へんにおかしな地形で、まるで巾着袋をしめるようなかたちの、狭い路地をぬける。
路地の先が、広場になっていた。昔の馬場の跡だろうか。
この広場の両側に普通の住宅が並んで、奥に大きな武家屋敷があった。まだ、どこかに江戸時代の名残が残っていた。
この広場が、子どもたちの遊び場だった。

もともと気風の荒い土地柄だったのか。近所に不良少年の兄弟がいた。
兄貴のほうは、トシタカさんといって、高等小学校を出たあと、まともな仕事につかず、不良仲間といっしょに盛り場をうろついたり、客を恐喝したり、地の者を相手にケンカをする。屈強な体格のトシタカさんは、群れをつくらず、いつもひとりでいるゴリラのように見えた。

弟はコウスケさん。近所の子どもたちのリーダー格だったが、彼も不良少年だった。中学4年で停学を食らった。兄のトシタカさんとは仲がわるかった。一度、幼い私の見ている前で、トシタカさんが弟をしたたかになぐりつけるのを見た。弟も抵抗したが、トシタカさんにビンタを食わされて、泣きながらあやまった。そのときから、ただでさえ仲のわるい兄弟はお互いに口もきかなくなった。
トシタカさんは家に寄りつかなくなった。

トシタカさんとコウスケさん。兄弟どうしなのに、ジャックナイフをかまえて、隙あらば相手のドテッ腹をえぐるようなケンカもめずらしくなかった。
兄弟喧嘩の理由はわからない。

兄弟の両親は、近所でも評判の働き者で、おだやかな夫婦だった。もともと下級の武士の出だったらしい。昭和初年の当時でも零細な小商人で、間口もせいぜい2間、土間からすぐに畳敷きの店先で、木箱に糸をならべて売っていた。

幼い私はこの兄弟のすさまじい確執を見て育った。

はるか後年、ロシアの小説を読みふけったが、ドストエフスキー、アンドレーエフ、アルツイバーシェフなどを読みながら、しばしばこの兄弟のことを思い出した。

幼い私はいつもコウスケさんにくっついて動いていた。子分のいちばん下っぱに入れてもらったわけである。
近くの原っぱで、チャンバラゴッコをやるとき、いつも斬られ役だった。コウスケさんはチャンバラ役者にくわしくて、バンツマ(板東 妻三郎)、アラカン(嵐 寛寿郎)、ウタエモン(市川 右太衛門)からはじまって、羅門 光三郎、大友 柳太郎、はては、田村 邦男、岸井 明といった役者の真似をやってみせるのだった。
私は、いつか、コウスケさんがまねてみせた役者たちの出てくる活動写真を見たいと思った。

トシタカさんは、後年、中国で戦死したというウワサをきいた。弟のコウスケさんの消息は知らない。

1118

 とにかく、徳川 家康のすべてが大嫌いである。

いまさら家康を論じる気はないが、天正八年の句にいわく、

うへて待つ 梅は久しき 宿の春

正岡 子規に読ませたら、どういう顔をするだろう。
また、天正十六年の聚落行には、

みどり立 松の葉ごとに此君の 千年の数を 契りてぞ見る

なんという偽善的な歌! いやらしい。おぞましい。ムカツクぜ。
文禄三年、秀吉にしたがって吉野の花見に行く。

待ちかぬる 花も色香をあらはして 咲くや吉野の春雨の音

詩人としての信玄や、謙信の清冽な気韻とは比較にならない。

こういう家康が格別に嫌いなのである。むろん。日光、久能山を訪れたうえで、家康を嫌っていることは申すまでもない。
山路 愛山、中村 孝也の伝記を、家康を書いた伝記として最高のもの、と認めたうえで、心から家康を嫌っているのである。近いところでは、山岡 壮八の『私の徳川家康』なども、私はくだらない自作へのアポロジーと見ている。

のみならず、家康を「大権現様」、「神君」などと称してあがめた連中。誰が書いたものとも知れぬ「国事昌坡問答」などというものを書いて、家康にオベンチャラを並べるようなヤツを私は軽蔑している。
白石、鳩巣、澹泊、そろいもそろって Cranky GGども。

1117

これまで嫌いなヤツのことを書かなかった。嫌いなヤツのことは、考えるだけで不愉快になる。ならば黙殺したほうがいい。だから、いつも興味がない顔をしてきたような気がする。
しかし、人生の終わりが見えてきているのに、嫌いなヤツのことを書かないというのも芸のない話だと思う。たまには、嫌いなヤツのことを思う存分こきおろすという趣向があってもいい。なんてったって、Cranky old man だからね。

歴史上の人物で、こいつのことを考えるだけで膚に粟を生じる、というヤツもいる。
まずは徳川 家康。

徳川 家康のすべてが大嫌い。人となり、外見、風貌、性格、女の趣味、歌、何から何まで反吐が出る。戦国武将のなかで、最低のクズだと思っている。
したがって、林 道春、金地院 崇伝などは、最低のクズに拝跪して恥じぬ下郎ども。ことごとく、侮蔑、唾棄すべき奴輩にすぎない。

関が原に敗れた石田 三成が、家康の面前に引き出されたとき、家康は三成に向かって、「良将なり、惜しい哉」と、嘆声を放った。そして、並みいる諸将に向かって、 「太閤(秀吉)恩顧の諸将、あまたありしなかに、三成ひとり、奮然たって大軍をおこしたるは忠士というべきか」と問いかけた。
これは「国事昌坡問答」という書物(宝暦三年/1753年)にある。

これほど鉄面皮、偽善な発言はない。
自分の前に引きすえた敵将をほめそやす。殊勝と見える。じつはおのれの勝ちを誇り、おのれに従った諸将に、みずからの寛仁をアピールする。そして、縲絏(るいせつ)の辱(はず)かしめを三成に思い知らせる。
かつて三成の同輩だった「太閤(秀吉)恩顧の諸将」に向かって、わざわざ、故太閤(秀吉)恩顧を語って、おのれの戦争責任を正当化してみせながら、「三成ひとり、奮然たって大軍をおこしたるは忠士というべきか」と恫喝する。そして、この「問い」に、「これ是なり」と、自問自答してみせた。
手のこんだやりくちである。これほど、巧妙、卑劣な手口があろうか。
家康の心事のいやしさ、醜陋、厚顔無恥は、断然、他の追随をゆるさない。

考えてみると、徳川 家康こそいちばんの Cranky old man だね。
嫌いな日本人の代表として、まずもって徳川 家康を眼前にひき据えよう。
(つづく)

1116

渡辺 世祐先生のことは、前に書いた。もう一度、書いておく。
少し前に、大河ドラマ「天地人」を見ていて、「石田三成」(小栗 旬)が、太閤秀吉(笹野 高史)の意を察して、関白秀次の制裁をひそかに決心するシーンが出てきた。それを見たとき、まるで関係のない渡辺 世祐先生のことを思い出した。

戦後、大学の授業が再開されたとき、世祐先生は定年で東大を退いて、明治に移られたばかりだった。私たちは「ヨスケ先生」と呼んでいた。
小柄で、痩せていらした先生は、いつも左手に分厚い本や資料をかかえて、本郷からお茶の水に出ていらした。風が吹くと吹き飛ばされそうなお姿は、いまでも私の眼に残っている。
ひどく細身で短い縞模様のズボンをツンツルテンにはいていらした。ズボンの裾から白い靴下が10センチ以上も見えていた。そんな恰好でせかせかと歩いていらした。

私は歴史学専攻の学生ではなかったが、先生を見かけると足をとめて頭をさげた。
先生は片手で頭の帽子のまんなかをつかむと、ヒョイっと上にあげる。そのまま、せかせかと歩きつづける。帽子をチョコンともとの位置にもどす。なんともユーモラスで、活動写真のスラップスティック喜劇を見るようだった。

ずっと後年、渡辺博士のご著書を読むようになった。

思ふに太閤、既に、秀次を失ふの意ありしかば、三成、その耳目となりて、巨細
となく、秀次の乱行を太閤に報告するが如きは、あり得べき事なれども、自ら進
んで秀次を陥ゐれんとせしが如き形跡は、終(つい)に認むる事能はず。吾人は
、この事件に就て、一般に三成をのみ非難して、秀次の行為に考へ及ばざるは、
未だ公平なる見解なりと信ずる能はざるなり。 (「稿本 石田三成」」)

秀次の死罪は大きな影響をおよぼした。
たとえば、菊亭 晴季(右大臣)は、越後に流されている。
大名の、最上 義光、伊達 政宗、浅野 幸長、細川 忠興なども譴責されている。
こうした武将が叱責されたのは、三成の讒言による、とする説が多い。しかし、世祐先生は、その説の根拠となった「松井家譜」、「浅野家譜」、「前田家譜」などは、すべて徳川時代に書かれたものなので、三成に関しては信じがたい、とする。

大河ドラマ「天地人」を見ていて、敗戦直後の荒れはてた大学の坂道でお見かけした老先生の姿を思い出したのは、自分でも意外だった。

私は、直接、渡辺 世祐先生の教えをうけたわけではない。しかし、『稿本 石田三成』を読んで、この武将に対する見方が一変した。その後、世祐先生の歴史学に傾倒したというわけではないが、先生のお仕事に少しでも近づきたいという思いがうまれた。

もの書きの人生には、しばしば先人との不思議な出会いがある。
私ごときが世祐先生の仕事に啓発された、というのは僣越だが、私がのちにルネッサンスの世界に向かって行ったのは、花田 清輝の『復興期の精神』を読んだからだった。が、一方で、世祐先生の本を読んだことが遠因になっている、といえるような気がする。

自分でも不思議な気がするのだが。

1115

私は、戦時中に、明治大学の文科文芸科に入学した。

文芸科では、いろいろな先生の授業を受けた。それまで何も知らなかった私は、おびただしい知識を身につけるだけで、せいいっぱいだったと思う。
しかし、教授たちのなかに、軍国主義的な言説を説く人はいなかった。

音楽について田辺 尚雄先生が教えてくれたのだが、ジャズについて語った。むろん、初歩的な知識だったが、先生は教室にポータブルをもち込んで、ジャズのレコードをかけてくれた。戦争のまっ最中に、ジャズが大学の教室から流れるというのは、それこそ破天荒なことだったに違いない。そのとき私が耳にした曲は、「アリグザンダー・ラグタイム・バンド」だった。
はじめに、アメリカのジャズバンドの一枚、つづいて芸者が三味線でひいた一枚。赤坂の「美ち奴」の演奏だったと記憶している。
飯島 正先生は、教室にいた私たちにむかって、
「現在、こういう内容の講義をすることは禁止されていますが、きみたちに必要な知識として、ここでとりあげておきます」
と断って、1920年当時のロシア映画、とくにプドフキン、エイゼンシュタインなどついて、わかりやすく解説してくれた。まだ、ビデオもDVDもない時代だから、映画を見るわけにはいかなかったが、分厚な研究書に出ている写真を見せてくれた。
もし学生の誰かが警察に密告すれば、田辺先生も、飯島先生も、ただちに検挙されたはずである。私は、大学にはこういう勇気のある先生がいるのだ、ということを知った。
後年の私は、ジャズ、ロック、はてはアジアポップスまで聞くようになったが、その原点に、田辺先生の講義があったと思っている。後年の私は継続的に映画批評を書くようになったが、試写室で飯島さんと会うことがあると、かならず挨拶をするようになった。植草 甚一さん、双葉 十三郎さんといった先輩の映画評論家に紹介してくださったのも飯島さんだった。
植草 甚一さんから、アメリカの小説のことをいろいろ教えていただいたが、飯島さんからは、ハンガリーの作家、ラヨシュ・ジラヒをはじめ、いろいろな作家のことをうかがうことができた。

私は、いろいろな先生の教えを受けたことに感謝している。たとえば、小林秀雄の教えを直接に受けた最後の学生のひとりだった。このことは未決定の将来に向かって歩き出したばかりの私に大きな影響をあたえた。

入学して間もなく、教室での授業はすべて廃止され、川崎の「三菱石油」の工場で労働させられたが。当時、学部長だった作家の山本 有三先生が、おびただしい蔵書を工場に寄贈してくださった。そればかりか、豊島 与志雄先生、小林 秀雄先生を工場に派遣して下さった。工場側と折衝して事務室を借りて、応急の教室で先生が学生たちの質問に直接答えるという授業をなさった。
ヨーロッパ戦線ではドイツが最後にアルデンヌで、連合軍に反撃していた時期だった。学生のひとりが、ドイツはどうなるのでしょうか、と訊いた。小林先生は、言下に、
「ドイツは負けるだろう」
といい放った。それを聞いた私は、ほんとうにふるえたといってよい。
このときの小林先生の話は、私の内面にしっかり刻みつけられた。

1114 Revised

ある日の私は気ままな旅をつづけている。
明治初年の日本人労働者の苦闘をしのばせるケニヨン・ロードを通って、バギオに着いたのは夕方だった。人口、五、六万の小さな都会で、標高1500メートルの高原にあるだけに、日本の秋に似て、少し肌寒いほどの季節だった。

バギオに着いてから、自分の迂闊さに気がついた。マニラからノン・ストップの高速バスに乗ったのだが、その日遅く着いたので、マニラに戻る手段がなかった。
当時のフィリッピンは、マルコス大統領の緊急立法によって、深夜12時から朝まで、外出禁止時間(カーフュウ・タイム)がきめられている。悪いことに、私はマニラのホテルにパスポートを預けたままで、気まぐれにバスに飛び乗ってしまったのだった。

夕闇がひろがっている。
かすかな不安をおぼえながら、とりあえずホテルをさがそうと思った。見知らぬ町で、ホテルをさがす私は、おのれの孤独と寄り添うような姿だったにちがいない。

バーナム公園の近くで、ふたりの少年に会った。
ひとりは、まるで中南米の黒人を思わせる顔つき、肌の色で、もうひとりは、華僑のような少年だった。私はこの少年たちをつかまえて、しばらく話をした。
黒人に似た少年は、アートゥロ、13歳。もう一人は、ジェリー、11歳。意外なことに、ふたりは従兄弟どうしだという。
ジェリーははしっこい感じで、少し話しただけで、利発な少年だとわかった。
私は、少年たちと話をしているうちに、「パインズ・ホテル」という
「どこでもいい、落ちついた、上品なホテルにつれて行ってくれないか」
と頼んだ。

少年たちがつれて行ってくれたのは、どう見ても、けばけばしくていかがわしい雰囲気の安ホテルだった。というより、娼家(ボルデッロ)だった。

少年たちには、この娼家(ボルデッロ)が、いちばんいいホテルに見えたのだろう。あるいは、異国人の私を見て、あてどもなくさまよう旅人とみたか。
まだ、反日感情がつよく残っていた時期のこと。

私は、その夜、バギオ高原の山の中で、タクシーをひろった。外出禁止時間(カーフュウ・タイム)を過ぎていたから、タクシーをひろったのはまったくの偶然だった。
老人の運転手が、自宅につれて行ってくれた。妻に先立たれ、ひとり暮らしで、タクシーの運転手をやっているという。60代の後半か、70代になっていたか。

老人は、私が空腹と見て、パンとバタ、紅茶を出してくれた。

その夜、私は、マニラから脱出して北方に敗走した旧日本軍の惨状と、追撃するアメリカ軍の話を聞いた。
夜がしらじら明けてから、私は誰も歩いていないバギオの町を歩いて、少年たちが案内してくれたボルデッロに戻った。
ボーイが眠そうに眼をこすりながら、ドアを開けてくれた。

1113

歌舞伎の大名題が先人の名を継ぐのはわかるのだが、俳人が、先人とおなじ名を継ぐのはいかがなものか。
たとえば、天野 桃隣の様な例がある。

初代の桃隣は、元禄四年、芭蕉に入門したらしい。その後、三十年におよんで、俳句を詠んだ。

三日月や はや手にさわる草の露
白桃や 雫も落ちず 水の色
昼舟に 乗るや 伏見の 桃の花

などが佳句とされる。

宵に、ふと三日月を見ている。むろん、満月の趣きはない。しかし、その月のかけを見ていれば、いつしか、つぎの満月を待ち望む心も生まれよう。気がついてみると、手にふれた草も露を置いているではないか。
しっとりと落ちついた句だが、中、「はや」が小さい。前の切れ字「や」と重ねたのも趣向と見るべきだろうが、私にはあざとく見える。

「白桃」の句はいい。芭蕉も褒めたという。

「昼舟」は一幅の絵を見るようで、私の好きな句。

桃隣の、芭蕉追憶の句も、先師に対する思いがうかがえる。

真直(まっすぐ)に霜を分ケたり 長慶寺

これは、芭蕉三回忌の作。

初秋や 庵 覗けば 風の音

これは、元禄八年の作。

片庇 師の絵を掛けて 月の秋

これは、元禄九年の作。

ただし、桃隣の句は、これ以外、あまり見るべきものがない。

ななくさや ついでにたたく鳥の骨
七癖や ひとつもなくて 美人草
盂蘭盆や 蜘(くも)と鼠の 巣にあぐむ

どうして、こうもつまらない句ばかり詠むことになったのだろう?
考えられることは・・・桃隣は、芭蕉を失ったあと、蕉門の人々とも交渉がなくなったのではないか、ということ。
あるいは自分の資質をあやまって、談林派の人々のあいだに身を投じたのではないか、ということ。
桃隣は、途中で「桃翁」と称する。これもややこしい名前で、元禄に別人の「桃翁」がいて、享保にも、これまた別人の「桃翁」がいる。だから、私がここにとりあげた桃隣の句も、ほんとうは誰の句なのかわからない。

いずれにせよ、俳句を読んでいるうちに思いがけない人とめぐり会う。私にとっては、桃隣との出会いも楽しいのである。

1112

若い頃に読んだ本を読み返している。
私は何を理解したつもりでいたのか。苦い思いがこみあげてくる。
たとえば、モンテーニュ。

はじめてモンテーニュを読んだのは戦後すぐだったが、当時の私は何も理解しなかったはずである。はじめから理解できなかった。まるで、おもしろくなかった。

ひとりごとをいうことが気違いの態度でなければ白状するが、私は自分に向かって、「このバカやろう」とどならない日は一日だってない。けれども、これが私を定義するなどというつもりはない。

今の私なら、自分に向かって、青二才のくせにモンテーニュを読んで、おもしろくなかったなどとホザきやがって「このバカやろう」とどなってもいいところだが。
40代になってから、もう一度、モンテーニュを読みはじめた。
ほんのわずかだが、モンテーニュのいうことがわかりそうな気がしてきた。

今頃になって読み返してみると、モンテーニュの偉大さが、昔よりもずっとよくわかってくる。
中田 耕治なんて、まったくどうしようもないアホウだなあ。

神様は、われわれに引っ越しの用意をする暇をお与えくださっているのだから、
その準備をしよう。早くから友人たちに別れを告げておこう。

いつの日にかこんなことばが、ごく自然にいえるようになりたいと思う。

1111

ある人生相談。

テレビタレントになりたくて養成所に通っているのに、舞台の台本を読まされたり、発表会で舞台に出なくてはなりません。先生もテレビの人ではなく舞台の人です。出なくてはいけないのでしょうか。
――プロダクション系養成所 18歳 女

失礼ですが、きみがテレビタレントになれる可能性は絶無といっていいでしょう。
一日も早くその養成所をやめて、別の仕事(アルバイト)でもさがしたほうがいい。

テレビタレントになりたくて養成所に通っているのに、舞台の台本を読まされた、とこぼしているきみは、まったく不適格です。テレビタレント志望者に読ませるテレビ台本など、あるはずがない。バラエテイの構成台本など、いくら読んでもテレビタレントにはなれないのです。

発表会などの舞台に出ても仕方がない、と考えるだけで、きみがテレビタレントになれないことがわかります。どんなに小さな役でも、舞台を見ているひとには、きみの容姿、歩きかた、息づかい、手のつかいかた、ファッション・センス、健康、生理、きみに魅力があるかどうか、すべて一瞬で見届けるのです。
指導する先生がテレビ関係者ではなく舞台の人だそうですね。
現役のテレビの演出家が、そんな養成所できみたちを指導することなど考えられないでしょう。現場のADか何かがきみたちを指導するとして、何を指導するのでしょうか。

きみはどんな養成所に通ったところで、けっしてテレビタレントにはなれない。
もしタレントになれるとすれば、インチキな芸能プロダクションの「面接」をうけて、あられもないシーンを撮影されて、AVの女優になることぐらいでしょう。
こういう女の子を、ギョーカイではバッタというようですが。

もし私が相談を受けたら、こんなふうに答えるだろうな。

1110

(つづき)
荒唐無稽なデマがながれる。
ソ連兵が新潟に上陸、農業倉庫をさしおさえた。日本の女たちは慰安婦にされ、男たちは全員が去勢される。無数のデマがひろがったため、笑えない喜劇が全国で起きた。どうせ接収されてしまうのなら、という理由で、各地の倉庫の品物を分配した村々。
アメリカ兵は肉食だから、という理由で、飼育している家畜をみんなで食べてしまった村々。中国兵がニンニクやタマネギを好む、という理由で、貯蔵してある野菜をすべて放出したり、焼き捨てたり。
混乱のなかで、各地の航空隊から、残存した戦闘機が飛来してビラをまいた。戦争継続を訴えるためだった。すさまじい爆音が都民を威圧したが、もう戦争気分は消えていた。

一方、戦争が終わって、また戦前の暮らしに戻れるというので温泉に出かけたり、のんびり木曽の御嶽さんに登る連中もいた。

灯火管制が正式に解除されたのは八月二十日からだが、敗戦の当日の夜の街も住宅もいっせいに明るさをとり戻しはじめていた。
映画館も、22日に再開されたが、実際には敗戦の三日後には、それまで上映していた映画のかわりに、どこからか見つけてきた戦前のフィルムや、無声映画を上映した映画館が出てきた。とにかくアナーキーな、やけのヤンパチといった気分が渦巻いていた。

虚脱感。絶望感。怒り。やけっぱちのなかで、バカバカしさを笑いとばすような、あっけらかんとした明るさ。敗戦直後からの1週間のバカバカしさってなかった。
たちまち、戦後のすさまじい荒廃がつづいてゆくのだが。

「週刊朝日」(1945年3月18日号)。おなじく「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。
現在の私は、偶然に入手した週刊誌を手にして、東京大空襲と、敗戦後のてんやわんや、やっさもっさを思い起こしている。

1109

(つづき)
敗戦直後の「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。
まず興味をもったのは、織田 作之助のエッセイ、「永遠の新人 大阪人は灰の中より」というエッセイだった。
なぜか。
この1945年3月14日に、大阪が大空襲をうけた。織田 作之助は、(私がとりあげた)「3月18日号」のつぎの号に、戦災の体験を発表している。そして、この合併号に執筆を依頼されたのは、敗戦直後の8月17日。

既に大阪には新しい灯(ひ)が煌々と輝き初めたではないか。旧人よ去れ。親に似ぬ子は鬼子といふが、新人はつねに旧人に似ぬ鬼子だ。

という。織田 作之助の気概を思うべきだろう。
この作家は、戦後、流行作家として知られたが、1947年1月に死去。

敗戦直後の「週刊朝日」に、周 作人の「明治文学の追憶」というエッセイが掲載されている。これもまた、私には驚きがあった。(ここではふれない。)
前号(つまり、戦争終結)まで続いた岩田 豊雄の『女将覚書』が完結した。日露戦争の時代に、横須賀で艶名をとどろかせた料亭の女将の半生記。海軍の話なので、急遽、打ち切られたのだろう。
岩田 豊雄は『海軍』を書いたため、戦後、公職追放処分をうけたが、獅子 文六の名で、『てんやわんや』、『自由学校』、『やっさもっさ』などを書く。
岩田にかわって、阿部 知二の『新浪人伝』の連載が予告されている。(私はこの作品を知らなかった。)

この号の定価、六十銭。敗戦直後のインフレーションの最初のあらわれ。
そして、デマが流れ、すさまじい食料難がおそいかかってくる。
敗戦の翌日には、有楽町、新橋の焼け跡に、闇屋がひしめき、あやしげな蒸しパン、雑炊、ふかしたサツマイモの切れっぱしが並んだ。飢えた人たちが、そんな食いものに押し寄せる。
(つづく)

1108

最近、見つけた「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。A4判、32ページ。定価、六十銭。(3月18日号)が、20銭だったのに、この号は60銭にあがっている。敗戦直後から、狂乱物価が庶民の生活を直撃する。

表紙は、佐藤 敬。何かの植物を背にして、ワンピースを着た女性。それほど若くはない。バスケットをかかえている。表情はうつろ。バスケットの中にはリンゴが数個並んでいる。「リンゴは何にもいわないけれど、リンゴの気もちはよくわかる」ということなのか。
この号が、9月2日/9日の合併号になっていることからも、敗戦後の混乱が読みとれる。アメリカ軍の第一次進駐部隊の一番機が、厚木基地に着陸し、マッカーサー元帥が日本本土に降り立ったのを見届けて――緊急に編集会議が開かれて、それまでの戦時色を一掃する編集方針がきまったのだろう。
巻頭論文は、第一高等学校校長、安倍 能成の「日本の出発」。

一億玉砕といふ恐ろしい詞がつい今しがたまで軽易に繰返された。併し日本は敗れて敵の申出を受諾した。それも屈辱を極めた受諾であった。

という書き出し。安倍 能成は、これより後、「平和日本」の出発にかかわってゆく。

つぎのぺージは、「この悲劇乗り越えん」と題した社説のごとき文章。

終戦議会――我々国民が嘗て夢想だにしなかった運命的な日はやってきた。

という書き出し。
清瀬 一郎のエッセイは、

わが国は新しき政治に進発しなければなりませぬ。しかもそれは極めて根本的の出直しであることが必要であります。

なぜ敗戦したか、まずふかく反省せよ、という論旨。そして、このなかで、原子爆弾の使用は戦争犯罪なり、とする。このエッセイを書いた清瀬 一郎は、やがて日本の戦争指導者をさばく東京裁判で弁護人をつとめる。
(つづく)