渡辺 世祐先生のことは、前に書いた。もう一度、書いておく。
少し前に、大河ドラマ「天地人」を見ていて、「石田三成」(小栗 旬)が、太閤秀吉(笹野 高史)の意を察して、関白秀次の制裁をひそかに決心するシーンが出てきた。それを見たとき、まるで関係のない渡辺 世祐先生のことを思い出した。
戦後、大学の授業が再開されたとき、世祐先生は定年で東大を退いて、明治に移られたばかりだった。私たちは「ヨスケ先生」と呼んでいた。
小柄で、痩せていらした先生は、いつも左手に分厚い本や資料をかかえて、本郷からお茶の水に出ていらした。風が吹くと吹き飛ばされそうなお姿は、いまでも私の眼に残っている。
ひどく細身で短い縞模様のズボンをツンツルテンにはいていらした。ズボンの裾から白い靴下が10センチ以上も見えていた。そんな恰好でせかせかと歩いていらした。
私は歴史学専攻の学生ではなかったが、先生を見かけると足をとめて頭をさげた。
先生は片手で頭の帽子のまんなかをつかむと、ヒョイっと上にあげる。そのまま、せかせかと歩きつづける。帽子をチョコンともとの位置にもどす。なんともユーモラスで、活動写真のスラップスティック喜劇を見るようだった。
ずっと後年、渡辺博士のご著書を読むようになった。
思ふに太閤、既に、秀次を失ふの意ありしかば、三成、その耳目となりて、巨細
となく、秀次の乱行を太閤に報告するが如きは、あり得べき事なれども、自ら進
んで秀次を陥ゐれんとせしが如き形跡は、終(つい)に認むる事能はず。吾人は
、この事件に就て、一般に三成をのみ非難して、秀次の行為に考へ及ばざるは、
未だ公平なる見解なりと信ずる能はざるなり。 (「稿本 石田三成」」)
秀次の死罪は大きな影響をおよぼした。
たとえば、菊亭 晴季(右大臣)は、越後に流されている。
大名の、最上 義光、伊達 政宗、浅野 幸長、細川 忠興なども譴責されている。
こうした武将が叱責されたのは、三成の讒言による、とする説が多い。しかし、世祐先生は、その説の根拠となった「松井家譜」、「浅野家譜」、「前田家譜」などは、すべて徳川時代に書かれたものなので、三成に関しては信じがたい、とする。
大河ドラマ「天地人」を見ていて、敗戦直後の荒れはてた大学の坂道でお見かけした老先生の姿を思い出したのは、自分でも意外だった。
私は、直接、渡辺 世祐先生の教えをうけたわけではない。しかし、『稿本 石田三成』を読んで、この武将に対する見方が一変した。その後、世祐先生の歴史学に傾倒したというわけではないが、先生のお仕事に少しでも近づきたいという思いがうまれた。
もの書きの人生には、しばしば先人との不思議な出会いがある。
私ごときが世祐先生の仕事に啓発された、というのは僣越だが、私がのちにルネッサンスの世界に向かって行ったのは、花田 清輝の『復興期の精神』を読んだからだった。が、一方で、世祐先生の本を読んだことが遠因になっている、といえるような気がする。
自分でも不思議な気がするのだが。