北原 白秋の
ただ飛び跳ね 踊れ 踊り子 うつし身の 沓のつまさき 春暮れむとす
これはステージに立つ踊り子を詠んだものだろう。
当時、マック・セネットの「水着美人」が、日本男子のあこがれだった。
たとえば、笑うと、くっきりとえくぼが刻まれるフィリス・ヘイヴァー。メアリ・サーマン。
いつも額のうえに、ヘアーを巻きつけているルイーズ・ファゼンダ。セネットの「水着美人」を見慣れたファンの眼には、五月 信子の水着は、失望でしかなかった。胸の貧弱なこと! 筑波 雪子の笑いには、海辺で笑いころげるマリー・プレヴォの自然な美しさはなかった。
駒田 砂子の痩せこけた肉体は、そのまま当時の日本映画の貧弱さにほかならなかった。高島 愛子だけは、豊満な肉体をゴムまりのようにはずませて、海辺を走っていても見劣りはしない。「活劇などによく女が誘拐されるシインがある。あんな時の身悶えが、実に自然
で良い。女優が自分でも気がつかないところで、さすがに女らしくスカートに気
を取られたり、思わず知らず髪を撫でたりする所がある。ことにあの肥大な腰部
や長い太い足、肩などにある獅子の様に立派な肉塊、可愛らしい熟した棗のやう
な小さい女靴、さう云ふ所にはとても日本で見られないものがある。こう書いたのは室生 犀星。
彼は、どういう女優に関心をもっていたのか。そのなかに、マリー・プレヴォ、ハリエット・ハモンド、マートル・リンド、アネツト・ド・ガンティスといったマック・セネットの「水着美人」がいたとしても不思議ではない。北原 白秋の一首から、マック・セネットの「水着美人」まで連想する。
もはや誰も知らない女たちにひそかにあこがれるのも、私の悪徳の一つ。
投稿者: zion
1146
王朝末期から鎌倉にかけての頃、盗作など問題にならない。
だれかが新しい表現をもち込めば、ほかの歌人たちも、たちまち類型の作を披露するだろう。それは模倣とか流行とはかかわりがない。あたらしいモード、ファッションなのだから。
私は、折口先生の評釈を読んで、俊成卿女の作のみごとさを知ったが、折口先生の凄さは、じつは、もう少し先にあつた。
あはれなる――かうした語が先行して熟語を作る場合、或は結末の語となる
場合を考へると、其処に、王朝末期から鎌倉へかけての、文学意識の展開が思
はれる。つまり、文学者たちの特殊な用法で、同時に、どんな用語例にも、多
少なりとも小説的な内容を含んでゐるものと見なければならぬ。
凄い。ここにきて、私などは茫然としたどころではない。
いやぁ、そうですか。そうでしたか。先生のおっしゃる通り、そう見るべきですねえ。
折口先生の説を引用しておこう。
此語の中心意義は、言語・善悪を超越して、心の底から出て来るを言ふことに
なって来てゐるのである。其と同時に、千載・新古今に亘つて行はれ始めた所
の、作者を遊離した――言ひかへれば、其性別を超越した、中性の歌と見る
べきものが多くなつて来た。つまり、恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情
詩を作る様になつてゐたのである。だから、かうした「あはれなる」が、平気
で、用ゐられたのだ。つまり、特殊な内容を持つ文学用語であつた訳だ。
これほど明快な解説をうかがうと、大方の「もののあはれ」についての論議など笑止に見える。
俊成卿の女(むすめ)の一首は、「心ながい」ひと(女人)の、愛する人へのつよい執着を、自分のもの(恋)として表現しながら、しかも、それを他人の境遇を見るように見つめている、ということになるだろう。
折口先生の考えの凄さが、私にも見えるようだった。
「心ながさのゆくへ」は――いつまでも、愛する人を忘れず、捨てず、「あはれ」をつづけること。そういう生きかたのことになる。
1145
もともと教養がないので、和歌、短歌については、ほとんどふれなかった。和歌や短歌は、はじめから私などが立ち入るべき世界ではない。
さはさりながら、和歌や短歌をぼんやり考えるだけでもいい。そう思いはじめた。
俊成卿の女(むすめ)の一首について。
あはれなる心ながさのゆくへとも 見しよの夢を 誰かさだめむ
この歌について、ある評釈は――きはまれる幽玄のうたなり、という。
つまり、最高の傑作ということになる。へぇえ、これが、和歌史の最高の傑作なのか。
まず、評釈を見ておこう。
この歌は、このうえない幽玄の歌である。あの夜の……あの頃の、という気分
も含まれている――ふたりのあいだの隠しごと(秘事)は、あの人と自分以
外に誰も知らない。だから、その後また逢うことを心の底にもって、お互いに
心変わりもせずにまっていた。この気もちを、あの人が知っていてくれるとし
たら、あの当時の関係はきれいにあきらめて、夢ともかたをつけてしまおう。
が、しかし、あの人は忘れてしまっているので、かえってあきらめられぬ。そ
んなふうに解釈されているらしい。
これは凄い。私はしばし茫然とした。この評釈の評釈は、だれあろう、折口 信夫。
この歌は、じつは本歌どりという。権中納言、公経(きんつね)の作に、
あはれなる心の闇のゆかりとも 見し夜の夢を たれかさだめむ
という一首がある(そうな)。これも、折口先生に教えていただいた。凄いね。
しばし茫然とした。この凄さは――これほど完璧なパクリなのに、権中納言の作は、まあ、その時代の平均よりほんの少し上の作なのに、俊成卿女の作は、当代きっての幽玄の歌、という評価の違い。
これほど完璧なパクリでは、今なら盗作騒ぎで、俊成卿女は週刊誌に書き立てられるだろう。宮廷を中心にして、和歌の才能がいちばん重要な時代である。
俊成卿女はきっと美女だったに違いない。まさか顔の整形手術はしないだろうが、しばらく行方不明になるか。(笑)
1144
先日、このコラムに劇評めいたものを書いた。
トム・ストッパードの『ユートピアの岸へ』という芝居で、三部作、通しで9時間という長い芝居だった。
要領のいい私は座ぶとん(登山のビバーク用)を用意して行ったから、けっこう快適に見られた。
長い芝居といえば、オニールの『奇妙な幕間狂言』や、ノエル・カワードの『カヴァルケード』などを思い出す。
映画にも長い作品はある。ヴィスコンティの「ルードヴィヒ」や、旧ソヴィエト映画の「戦争と平和」など。
長い映画を作ろうとした映画監督は多い。エリッヒ・フォン・シュトロハイムは「グリード」を撮ったが、40巻、上映時間は10時間の予定だった。プロデューサーのアドルフ・ズーカーがふるえあがって、製作中止。
この映画はメタメタにカットされたあげく、2時間に短縮されて公開された。だから傑作になるはずだったが、平凡な愚作に化けてしまった。フォン・シュトロハイムは、映画が撮れなくなってしまった。誰も監督を頼まなくなったから。
私はアドルフ・ズーカーのような人間を心から軽蔑しているのだが。
テレビでは、ジェームズ・ミッチナーの長編、『センティネル』の放送。アメリカ独立記念番組として放映された。たしか、24時間、ぶっ通しのテレプレイだったはずである。このドラマを全部見た人は、ほとんどいなかったのではないか。
私はこの原作を読んで――というより斜め読みしたが、本の厚みが、12センチもあった。翻訳した場合、推定で5千枚。なにしろ分厚い本なので、昼寝の枕にちょうどいい厚みだった。
ミッチナーは『南太平洋』、『トコリの橋』のベストセラー作家だが、『センティネル』以後は何も書かなくなった。ひどい不評だったので作家を廃業したのかも知れない。
19世紀に長い芝居を書いた劇作家に、アレクサンドル・デュマ(父)がいる。
息子が『椿姫』を書いたとき、父は『女王マルゴ』を書いた。この芝居は、午後6時に開幕、朝の3時に終わるという大作。
デュマの友人、テオフィル・ゴーチェは、翌日の新聞に書いた。
アレクサンドル・デュマは、ぶっつづけで9時間、観客全員に食事もとらせず、桟敷にクギづけにするという奇跡をおこなった。
(中略)
将来は、はじめにプロローグ、終わりにエピローグつきの、15場の芝居を上演する場合は、ポスターに<お食事つき>と付けたす必要がある。
アレクサンドル・デュマはフランス演劇史に劇作家としての名声を残さなかった。
そのかわり、『モンテ・クリスト』や『三銃士』を書いて文学史に不朽の名をとどめたのだから、人生、何があるかわからない。
1143
女優、グレタ・ガルボは、孤独な生涯を過ごした。
彼女が自閉症に近い生きかたをつづけたのは、いろいろと理由が考えられるらしいが、ひとつには、少女時代に極端に人見知りがつよい、引っ込み思案の子どもだったことにかかわりがあるという。
ほんのひとにぎりの、おなじ年頃の少女たちとしか仲よしにならない。何かで気があったら、その瞬間からほんとうに気を許して、親友になった。そのときほかの人が入り込む余地はない。そんな子どもだったらしい。
ガルボのエピソードを読んで、すぐにバスター・キートンや、マリリン・モンローや、マイケル・ジャクスンたちを思いうかべる。
ガルボとおなじ精神圈に生きたスターたち。
一方で、シャーリー・テンプルや、エリザベス・テーラーや、ナタリー・ウッドや、ディアナ・ダービンや、あるいは、ジュデイ・ガーランド、マーガレット・オブライエンといった「チャイルド・ウーマン」たちを思い出す。
彼女たちは、いずれも強烈なパースナリテイーをもった女優だったが、お互いに共通するところはなかったと思われる。
もし、共通するところを一言で表現すれば――子どもっぽい、あまえ、あまったれが魅力だったのではないか。
逆に、高年齢の連中はどうだろう?
インドゥゲ・セニプス(年寄りのあまえ)が見られるのではないか。私の書くものも、みっともない例だが。
1142
お正月。かつては、一杯一杯復一杯と、ひたすら酒を飲みしこる私だったが、いまはわずかに口にふくむだけで、終日、酔うては頽然として臥して寝正月。
処世若大夢 胡為労其生
(しょせい 大夢のごとし なんすれぞ その生を労する)
などと寝言をいう。
覚めきたって、庭前をかえりみれば、一鳥、花間に鳴くことになる。詩人は考える。借問す、これ何の時ぞ。李白の詩、「春日酔起言志」である。
そこで・・・春風、流鶯は語る、ということになって、詩人は、これに感じて嘆息せんと欲す。また、酒を飲む。
對酒還自傾 浩歌待明月 曲盡巳忘情
(酒に対して また みずからかたむく 浩歌 明月をまち
曲つきて すでに じょうをわする)
思わず、李白の詩に感じて嘆息せんと欲す、という心境になる。
貝原 益軒先生も いわれたではないか。
口中に入るもの、すべて薬と心得よ。食しかり、酒またしかり、と。
ろくに酒も飲めないのだから、生きていておもしろいはずもない。
ただし、わが庭前、一鳥、花間に鳴くこともない。
そこで寝正月。
うつし身ははかなきものか 横向きになりて 寝(い)ぬらく 今日のうれしさ
古泉 千樫の歌。まさか寝正月を歌ったものではないが。
1141
明けましておめでとうございます。
今年が、みなさんにとってよい年でありますように。
新年を迎えて、今年こそはと思う。私も、毎年、人並みにそんなひそかな誓いを口にしてきた。しかし、もはやそんな愚にもつかぬことはくり返さない。
ひとつには――江戸の三文作家で、のちに出家して禅を説いた鈴木 正三(すずき しょうさん)に共感をおぼえるからである。
年月は重り候へども、楽みは無して、苦患は次第に多く積るに非や
(としつきはかさなりそうらえども たのしみはなくして、くげんは しだいにおおくつもるに あらずや)
私にしても、歳月とは降りつもる苦患の数々にほかならぬ。
さらにいえば、「人生の真実は寂寞の底に沈んで初めて之を見るであらう」とする荷風に共感する。「四月は残酷な月」ならば、五月も、六月も、夏も秋も、さらには冬もそれぞれに残酷な季節に変わりはない。それならば、おのれの修羅を生きなければならぬ。それが寂寞というものだろう。
さて、江戸の作家、鈴木 正三はいう。
人間の一生程、たはけたる物なし。
笑った。こいつはいいや。さすがに江戸の文人は、平成のもの書きと違って肚のすわりかたがちがう。
画家、谷 文晃の辞世を思い出す。
長き世をばけおおせたる古狸 尾さきな見せそ 山の端の月
正月早々、辞世などとは縁起でもないとお叱りをこうむりそうだが、ここにも人間の一生程、たはけたる物なし、と覚悟した男のみごとさがある。これをしも、めでたいと観じてどこがわるいか。
その私が、あらたまの年に、ひそかに心に刻みつける一首がある。
いきのをに思ひひそめてありしかば、逢ふこともなく人はなりつも
釈 超空。
1140
年の暮れ。
いまの日本の地方都市の駅前なんて「島全体火の消えたらんが如く寂寥を極むる」状態だよ。
市中一般の職業は歳の暮れともなれば夜さえ碌々寝(やす)む暇さえなきまでに繁忙を極むるが習いなるに、この島にてはこれに反してほとんど休業同様の姿となるなり。されば大道芸人らは本月十四、五日頃よりは全く稼ぎに出ること能わずいずれも一日千秋の思いをなして新玉の春を待てり。
これは、明治30年11月から12月にかけて「報知新聞」に連載されたルポルタージュ「昨今の貧民窟」(執筆者、不詳)の一節。(中川 清編『明治東京下層生活誌』岩波文庫/収載)
私は、戦前の東京の下層生活を見てきたので、芸人たちの暮らし向きが眼にうかぶようだった。
芸人たちは十二月十四、五日頃からは稼ぎに出かけることができない。
その間の困難は実に甚だしきものにてほとんど五月雨(さみだれ)の頃か時雨時の如くすべての芸道具を質入れして、わずかに兵営の残飯を粥となしたるを一、二度ずつ啜りて半月の露命を繋ぎおるに過ぎず。
この「シマ」は、芝、新網町というが、浅草、本所、深川、どこに行ったって、たいていて似たような暮らしだった。
古昔(むかし)は節分の年越しと称(とな)うるが年の内にあること多く、また「せきぞろ」と称(とな)うる袖乞いありしかば芸人の多くは「厄払い」または「せきぞろ」に出(い)でて鳥目(ちょうもく)あるいは餅などの貰い多かりしため正月の支度にもさして困難を感ぜざりしに……
「せきぞろ」は、節季に候。ただし、実物を見たことはない。
芸人が、二、三人、赤い絹で顔(おもて)をつつみ、「せきぞろでござれや」とはやしたてて、歌い、踊りながら、お正月の祝詞を述べて、米や銭をもらう。
しかし、明治も30年代になって、大道芸人もそんな悠長なことでは年も越せなくなったのだろう。
近来、「せきぞろ」は全く廃(すた)れ、「厄払い」は二月の頃となりぬれば、暮れの内には更に稼ぐべき道なく島全体火の消えたらんが如く寂寥を極むるなり。
さて、みんなで「せきぞろ」に出るか。
せきぞろの来れば 風雅も 師走かな 芭蕉
1139
江戸女の句を並べてみよう。
日の筋や 岩間離れて ならぶ鴛(おし) 多代
木々の冬 湯女(ゆな)いる温泉場(いでゆ)となりにけり きよ子
寒き夜や 戻らぬ人を待ちにける 壺中女
いずれも恋の句。壺中女とはめずらしい俳号だが、おそらく遊女なのだろう。おのが閨を壺中天と洒落た女の粋、または「あわれ」を見るべきだろう。
遊女の句では、一夜の交情のあと、「後朝(きぬぎぬ)の文に」、
別れ行く 身はあとさきの 寒さかな 幾代
私の好きな句。女のあわれが見えてくる。(さくしゃの名前がいい。)
京都、島原に、長門という遊女がいたという。日頃、花いかだの紋をつけていたが、この紋を初心なりとして、嘲笑した人がいた。(どこにでもこういう阿呆がいる。)
長門は答えた。
流れなる身に 似合(にあわ)しき 花いかだ
この一句、たちまち遊廓の女のかなしさ、ひいては美しさが眼に顕ってくる。
わが袖の蔦や 浮世の村時雨 薄雲
これは吉原の太夫の句。これは、すばらしい。
師走。江戸の女の句を読みつづける。
今年の師走も、そんなふうに女人の句を読んで過ごすことにしよう。私の年忘れ。
1138
加賀の千代女の句は好きになれない。どうして千代女が嫌いなのですか、と質問されて困った。
嫌いな理由を聞かれても答えられない。ハリウッドの女優なら、ノーマ・シャーラー、ジョーン・クローフォードが嫌いだが、なにしろ好きになれないから、嫌いなのです、と答えようか。
道くさの 草にはおもし(重し) 大根引 千代
水仙は 名さへ冷たう 覚えけり
船待の 笠にためたる落葉かな
春の夜の 夢見て咲くや 帰り花
折々の 日のあし跡や ふゆの梅
こんな俳句のどこがいいのだ?
落ち葉を詠んでも、良寛さんの――「焚くほどは 風がもてくる 落葉かな」のような飄逸な句がある。多代さんが落葉を見れば、「吹き上げて 風のはな(離)るる 落ち葉かな」となる。
知る人の家でありけり ふゆ椿 多代
さまでなき 山ふところや ふゆ椿
茶の花や 坂を登れば 日も昇る
吹き上げて 風のはな(離)るる 落ち葉かな
稲塚を さし出た枝や 冬の梅
ここに挙げた五句だけでも、多代女のほうが格段にすぐれている。
多代女の句には、千代さんの句のポピュラリティーはない。それほど残念な気はしない。
いつの時代でも、千代女のような人気作者の場合は、大衆の好みが変わらないかぎりそうした人気は消えることはない。多代女の句は誰も知らないが、それでいいのだ。どんなに人気があったところで、その作品がかならずすぐれているとはかぎらない。
1137
多代さんのことは、ほとんど知らない。ただし、私が知らないだけで、案外、世に知られている女性(にょしょう)なのかも知れない。
奥州岩瀬郡須賀村に生まれた。(これがわからない。どこだろう?)
市原氏。夫と死別したのは、三十一歳。女ざかりで、やもめになったという。
文政6年、江戸に出た。
亡くなったのは慶応元年(1865年)8月20日。享年、93歳。
自選の句集、『晴霞集』がある。
江戸に出てから幕末の物情騒然たる時代を生きて、当時としてはたいへんに長寿だった女性。そんな、多代さんの身の上、境遇をもう少し知りたい。
とりあえず多代さんの句をかきあつめて、紹介しておこう。
夕ばえや こころのひまに 帰り花 多代
木の間もる 日のはつはつや 八ツ手咲く
垣くぐる 日はつれなくも ツワブキに
水仙や 根はつつまれて 市へ出る
菰(こも)かけて 一夜越しけり 積大根(つみだいこ)
画讃、追悼句なども挙げておく。
少将のすがたは 雪に立つ かかし (画讃。深草の少将だろう)
どの坂も 小春ならざる木蔭なし
おもひ入 枯野を けふ(今日)の 障子こし
折からの しぐれも聞くや 板ひさし(庇)
目になれて 明け暮れもなし 枯すすき
だいたい自然詠がいい。ただし、「日はつれなくも」は、尊氏の名歌、芭蕉の名句があるだけに、むずかしいところ。「水仙」は下五が気に入らない。
もう少しきびしく見れば――「少将」の句の滑稽が「あはれ」にならないのが残念。
「どの坂も」は二重否定がうるさい。しかし、「枯すすき」など、このひとの落ちついた句境が偲ばれる。羨ましいねえ、こういう女性(にょしょう)は。
師走。江戸の女流の俳句を、二、三句づつあじわう。ほかに楽しみもない老残の身にしては風雅な趣き。エヘヘヘ。
1136
多代さんの句をいくつか挙げておく。
影澄むや 江越しに 行きの小松山 多代
黄昏や 馬屋出てゆく 雪の鹿
積雪や 門(かど)は月澄む 細ながれ
よい月の出て 果てもなし 雪の原
起きて先(まず) 雪にしばしや もの忘れ
一見おとなしい、平凡な句ばかり。わざとはぶいたのだが、多代さんには「雪降るや 小鳥がさつく 竹の奥」といった駄句もある。それでも、千代女の句、
初雪は 松の雫に 残りけり 千代
初雪や 鴉の色の 狂ふほど
初雪や 落葉拾へば 穴があく
初雪や 水へもわけず 橋の上
青き葉の 目にたつ比(ころ)や 竹の雪
といった句よりも、ずっとマシに見える。
これもわざとはぶいたのだが、「行く雲の 霰こぼして 月夜かな」という駄句があって、
逆しまに 傘さし出(いだ)す あられかな 多代
あるいは、また、
海越しに 木枯らし吹くや 磯の松 多代
木枯らしの中に走るや 使いの子
などのほうが、
木枯らしや すぐに落ちつく 水の月 千代
よりも、ずっといい。
(つづく)
1135
師走。
毎年のことだか、年の瀬はなにかと気忙しく、ろくに本も読めない。いまの私は、少しおかしなテーマで、少し長いものを書いているので、どうも心の余裕がない。
そういうときは、俳句を読む。まったく知らない人の句を。
三弦も 歌もへたなり 年忘れ 多代
こういう句はいい。人並みに三弦や歌を修行してきた。しかし、とても上手の域に達したとはいえない。そして、今年もいつしか年の瀬を迎えてしまった。
もっとも、たいして才能のない自分を悲しんでいるわけではない。むしろ、三弦や歌をつづけてきたという、女としての艶冶(えんや)な気分がある。いいなあ。
内蔵に 餅のこだまや 夜もすがら
これは、中の「餅のこだま」が大仰て、あまりいい句ではない。しかし、もう年も押し迫って、夜もすがら餅をついて、さざめきあっている風情がいい。冬の句だけでも、
あら川の 音に添ひゆく 時雨かな 多代
吹きゆれし 木に鳩鳴くや 夕時雨
這出して 時雨にあふや 藪の蟾(ひき)
たぎる湯に 取りあふ竹の 時雨かな
リンドウのなりも崩さず はつ時雨
ききふるす 萩にまた聞く しぐれかな
いずれも自然詠ながら、女性らしい内面を想像させる句が多い。
加賀の千代の句と並べてみれば、多代の、気負いのない句のゆかしさが納得できよう。
日の脚に 追はるる雲や はつ時雨 千代
京へ出て 目にたつ雲や 初時雨
晴れてからおもひ付きけり 初時雨
千代女の句はどこかさかしげで、どうも好きになれない。
私はあまり好き嫌いのないほうだが、たとえば、森田 たまの随筆、芝木 好子の小説が大きらい。こんな連中よりは、千代女のほうがまだマシなのだが。
多代さんは加賀の千代ほど有名な俳人ではない。というより、まったく無名の俳人なのだろう。
(つづく)
1134
友人の井上 篤夫君が教えてくれた。
2006年、全米映画協会の発表したところでは、「アメリカ人が好きな映画」の1位は、フランク・キャプラの「素晴らしき哉 人生」だそうな。
へぇえ、知らなかったなあ。
私も自分の好きな映画を考えてみた。
まず、「ウォリアーズ」がくる。
そのあとは――「キャリー」。
つづいて、「運命の饗宴」。全部カットされたW・C・フィールズのエピソードをふくめて。
「パルプ・フィクション」。タランティーノはみんな好きだが、この映画、ボクサーのエピソードで、タクシー・ドライヴァーをやっているラテン・アメリカ系の女優がいい。
「人生模様」。むろん、新人女優のマリリン・モンローが、名優、チャールス・ロートンに、まっこうからぶつかっているから。
「ゼンダ城の虜」。ただし、レックス・イングラム監督作品ではなく、ジョン・クロムウェル監督作品。ロナルド・コールマン、デヴィッド・ニーヴン、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア。
「デブラ・ウィンガーを探して」。映画女優のロザンナ・アークェットが、おなじハリウッドの映画女優たちをインタヴューしたドキュメント。
「殺人狂想曲」。これは、プレストン・スタージェス。後年、ダドリー・ムーア、ナスターシャ・キンスキーでリメイクされたが、まるで問題にならない愚作だった。
番外に「ファウル・プレイ」。ゴールデイ・ホーンが可愛いので。
わざと三流映画ばかりをあげているつもりはない。私の好きな映画は、すべて一流の映画なのだ。むろん、こんな映画ばかりをあげるのは、われながらあまのじゃく、つむじまがりと承知している。最近のハリウッド映画は徹底的に無視している。
ただ残念なことに、私のリストの半分は、もう見られなくなっている。
映画も思い出せなくなったら、生きていてもつまンねぇやナ。
1133
ドイツ映画祭。
カイ・ヴェッセル監督の「ヒルデ」(’08年)を見た。すばらしい映画だった。
映画のヒロインは、戦後、ドイツ映画に登場した女優、ヒルデガルド・クネッフ。
戦時中にバーベルスベルク国立映画学校で学んで、ナチの有力者と恋愛し、映画女優としてデビューした。やがて、ソヴィエト軍がベルリンに侵攻したとき、前線で銃をとって戦ったが、捕虜になり、収容所に入れられたが脱走。
戦後、舞台女優として再起し、敗戦後のドイツ映画界を代表する女優になる。しかし、ナチスとの関係をうたがわれて、ドイツ映画界を去り、ハリウッドに移ったが、プロデューサー、セルズニックに冷遇される。
ふたたびドイツ映画に復帰し、やがてまたハリウッドで成功する。
私は、「題名のない映画」(47年)、「罪ある女」(51年)でヒルデガルド・クネッフを見たのだった。
映画のあとで、カイ・ヴェッセル監督がステージで、観客の質問をうけ、それに答えたが、その応答に監督の誠実な人柄がうかがえた。
このとき、私には質問したかったことが一つあった。
カイ・ヴェッセル監督は、映画女優、ヒルデガルド・クネッフの映画には、残念ながら、見るべきものがないと語ったのだった。(たとえば、ジャンヌ・モロー、アリダ・ヴァリ、マリア・シェルなどと比較して)私もそういう気がしないでもないのだが、それでも、「題名のない映画」、「キリマンジャロの雪」などのヒルデガルドにはつよい印象を受けた。カイ・ヴェッセルは、「題名のない映画」にまったく関心を見せないのだが、その理由はなぜなのか。
むろん、私は質問をしなかった。素晴らしい映画をみたという感動のほうが大きかったからである。
そういえば――カイ・ヴェッセルさんは、若い世代の監督だから、たぶんご存じないだろうと思う。戦前の日本で、「題名のない映画」という映画が公開されたことを。
ドイツ/トービス映画。監督はカール・フレーリヒ。シナリオは、女流脚本家のテア・フォン・ハルボウ。主演は、アドルフ・ウォールブリュック。相手の女優は、新人のマリールイーゼ・クラウディウスだった。
私の読者のなかには――アドルフ・ウォールブリュックの名に聞きおぼえがある人もいるだろう。この1937年、ドイツ/シネ・アリアンツ映画で、ウィリー・フォルスト監督の「ひめごと」Allotria に主演している。女優は、レナーテ・ミューラー、ヒルデ・ヒルデブラント。この映画にはウィーンの濃密なエロティシズムがみなぎっていた。
アドルフ・ウォールブリュックは、はるかな戦後、マックス・オフュールスの映画、「輪舞」の狂言まわし、「赤い靴」でモイラ・シャーラーが所属するバレエ団をひきいる団長を演じたアントン・ウォールブルックである。
彼は、ヒトラーと同名であることを恥じて、アントンと改名したのだった。
今でも思い出す。ウィリー・フォルスト監督の映画、「題名のない映画」はまったく評判にならずに消えてしまった。なにしろ、おなじ時期に、日本ではジャック・フェーデルの「鎧なき騎士」、ジュリアン・デュヴィヴィエの「舞踏会の手帳」、アメリカ映画でも、チャップリンの「モダン・タイムス」、ディアナ・ダービンの「オーケストラの少女」などがいっせいに公開されようとしていた時期である。
もはや、だれの記憶にも残っていないトリヴィアだが。
1132
1916年。ヨーロッパでは、連合国とドイツ帝国が死闘をつづけている。
メァリ・ピックフォードという美少女が、「農場のレベッカ」や「小公女」に出た。それまでただの「リトル・メアリー」だったメァリ・ピックフォードはアメリカの恋人になる。
この年、ノーベル文学賞を受けたのは、ロマン・ロランだった。
作家は、その賞金をそっくり赤十字に寄付した。
詩人、ライナー・マリア・リルケは、遺作になった原稿をパリに残していた。この原稿が散逸しないために、ロマン・ロランはフランスの文学者たちに呼びかけた。ジャック・コポーがこれに応じて、ロマン・ロランに協力した。
私たちが、現在、ライナー・マリア・リルケの、かなり多量の作品を読めるのは、このときのロマン・ロラン、ジャック・コポーたちのおかげなのである。
戦時中に敵国の文学者の原稿を守ろうとした人々がいたことを知って、私はこれが戦時中の日本だったらどうだろう、と考えた。
私が、心から憎悪するのは、大衆のマス・ヒステリアである。
1131
歌舞伎の大名題が先人の名を継ぐのはわかるのだが、俳人が、先人とおなじ名を継ぐのはいかがなものか。
たとえば、天野 桃隣という俳人がいた。
初代の桃隣は、元禄四年、芭蕉に入門したらしい。その後、三十年におよんで俳句を詠んだ。
三日月や はや手にさわる草の露
白桃や 雫も落ちず 水の色
昼舟に 乗るや 伏見の 桃の花
などが佳句とされる。
月のかけを見て、いつしか、つぎの満月を待ち望む心も生まれよう。気がついてみると、手にふれた草も露を置いているではないか。
どうってことのない句だが、蕉門の人らしい、しっとりと落ちつきがある。中、「はや」が小さい。前の切れ字「や」と重ねたのも趣向と見るべきだろうが、私にはなんとなくあざとく見える。
「白桃」の句はいい。芭蕉も褒めたという。
「昼舟」は一幅の絵を見るようで、私の好きな句。
桃隣の、芭蕉追憶の句も、先師に対する思いがうかがえる。
真直(まっすぐ)に霜を分ケたり 長慶寺
これは、芭蕉三回忌の作。
初秋や 庵 覗けば 風の音
これは、元禄八年の作。
片庇 師の絵を掛けて 月の秋
これは、元禄九年の作。
ただし、桃隣の句は、これ以外、あまり見るべきものがない。
ななくさや ついでにたたく鳥の骨
七癖や ひとつもなくて 美人草
盂蘭盆や 蜘(くも)と鼠の 巣にあぐむ
どうして、こうもつまらない句ばかり詠むことになったのだろう?
考えられることは――桃隣は、芭蕉を失ったあと、蕉門の人々ともあまり交渉がなくなったのではないか、ということ。
あるいは自分の資質をあやまって、談林派の人々のあいだに身を投じたのではないか、とも見える。
桃隣は、途中で「桃翁」と称する。これもややこしい名前で、元禄に別人の「桃翁」がいて、享保にも、これまた別人の「桃翁」がいる。だから、私がここにとりあげた桃隣の句も、ほんとうは誰の句なのかわからない。
いずれにせよ、俳句を読んでいるうちに思いがけない人とめぐり会う。私にとっては、桃隣との出会いも、それなりに楽しい。
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『ユートピアの岸へ』は、久しぶりに見ごたえのあるいいドラマだった。
第三部。劇場をうずめつくした観客は、男も女も水を打ったように息をこらし、固唾をのんで、舞台を見つめている。だれしもが、ゲルツェン、バクーニン、オガリョーフたちは、「船出」Voyage しながら、「難破」Shipwreck して、ついに「漂着」Salvage したことを見届ける。
幕切れ、居眠りからさめたゲルツェンはオガリョーフにいう。
前へ進むこと。楽園の岸に上陸することはないのだと知ること。それでも前へ進むこと。
苦い幻滅というべきか。あるいは、おそるべきオプティミズムというか。
終幕は、リーザが切れたロープをもって走り寄る。ゲルツェンが、「キスしてくれ」と
いう。リーザがキスをする。
ナターリア 嵐がやってくる。
作者の「トガキ」では――夏の稲妻……反応して驚き、はしゃぐ……そして、雷鳴、さらなる反応……すばやい熔暗。
このナターリアのつぶやき――「嵐がやってくる」というセリフは、はたしてゲルツェンの暗澹たる心情を暗示しているのか。
蜷川演出は、この稲妻と雷鳴を、極度に大きなものにする。それまでの(とくに、リーザ、ゲルツェンのキス、幕切れの、ナターリアのセリフ)の印象を打ち消すように。
蜷川 幸雄は、ときにエゴサントリックな演出を観客に強いる場合がある。よくいえば、一種のテレと見るべきかも知れない。
この前、三島 由紀夫の『弱法師』の幕切れで、それまでのドラマの感動を断ち切るように、テープの録音をかぶせた。これが何の録音なのか、観客の大多数には理解できなかったに違いない。三島 由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して、割腹自殺を遂げる直前のテープの録音だった。
私は、このドラマ、『ユートピアの岸へ』で、蜷川 幸雄がこの録音テープを最後にながす必然性も、妥当性もないと思ったが、『ユートピアの岸へ』のラストには、蜷川 幸雄の昂揚を見る。
まったく個人的なことを書いておく。
旧ソヴィエトが崩壊し、みるみるうちに解体しようとしているさなかに、偶然ながら旧ソヴィエト最後の芝居を見たことがある。
カタンガ劇場がレーニンの最後の日々をドラマ化したものだった。テーマは――ロシア革命はあくまで正しいものだった、ゆえにロシアはレーニンに戻れ、というドラマだったが、現実にソヴィエト体制がミシミシ音をあげて崩壊している時期だっただけに、このドラマを見たとき、ロシアの運命にかかわる暗澹たる感動が私の胸にあった。
その暗澹たる感動が『ユートピアの岸へ』と重なってきた。
まさしく「嵐がやってくる」のだ。1868年のロシアに。
そして、2009年のロシアにも。
このドラマを見ながら、しばし私の頭を離れなかったのは、ユートピアとは何か、ということだった。あるいは、『ユートピアの岸へ』における「ユートピア」とは何だったのか。私の答えは――すでに書いたはずである。
さて、私の劇評めいた感想も、このへんで終わりにしよう。はじめから劇評を書くつもりではなかったのだから。私としては、つぎつぎに心をかすめる思いを書いてきただけのことなのだ。
これを読んでくださった皆さんに心から感謝しよう。
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『ユートピアの岸へ』は、第一部でバクーニン家の物語として展開しながら、第二部からはゲルツェンを中心にシフトしてゆく。つぎからつぎに人の集まり、人々のつながりを見せつけてくる。
むしろ、もっと凝縮した構成の戯曲にできなかったものか、と思う。もっとも、この戯曲があの浩瀚な『回想と思索』の脚色と見れば――「1833年夏」からはじまって、「1849年1月」(第三場)、「1850年9月」、「1850年11月」という単調な場割りがつづいて、最後の最後に「1846年 夏」(第三幕)のソコロヴォ、つまり第二幕のラストにつなげる、というバックワード・タクティックス(「過去」にもどるというドラマトゥルギー)は、蜷川演出によって救われただけで、実際には(戯曲として)効果はなかったのではないかという気がする。
あるいは、観客に重い感動をつたえるためにこういう終わりかたが必要だったというのだろうか。
第三部、第二幕、(1860年8月)いよいよ芝居の大団円という幕に、大作家になったツルゲーネフが姿をみせる。
この第三部、第二幕、で、ツルゲーネフの前に、医者があらわれる。この医者は、ニヒリストとして、ツルゲーネフと論争する。むろん、ツルゲーネフは、この論争では分がわるい。なにしろ、徹底的にプラグマティックな人物で、その論理の科学性に、文学者として思想的に彷徨とつづけてきたツルゲーネフがかなうはずがない。
そして、医者は、この時代に、実用性以外に信じるに足るものはない。進歩も、道徳も、芸術も信じない、
最後に、ツルゲーネフは問いかける。「私は、きみをどうよべばいいのか」と。
相手は答える。「どうぞ、バゾーロフ」と。
この「意味」がわかった観客は、ほとんどいないのではないだろうか。あえていえば、トム・ストッパードは、わかってもらえなくてもいい、として、この場面を書いたのではないか、と想像する。
そういう意味では、この戯曲は、個々の人物を描いているというより、それぞれの人物たちがあるムードのなかで動きまわる群像劇と見ていい。
はじめから思想劇などと見ないほうがいい。
最後になって――それまで思想や、革命に対する戦術、戦略がことなってきたバクーニンに痛烈に批判される。
バクーニンは、マルクスとは違う。マルクスの思想は「自由のないは共産主義」と見なした。その果てにくるものは、隷属であり、とどまることを知らない野獣主義と見ていた。
ロシアの共産党政権は、70年にわたって何をめざし、何を果たしたか。
ロシアの共産党政権が追求したものは、人民の「隷従」、そして、スターリンの「独裁」という野獣性だった。
1921年から22年にかけて、餓死した人は、少なくとも500万に達する。
1928年、独裁者、スターリンの命令で、1000万戸の富農を抹殺したが、中農、貧農までまき添えを食った。850万から900万の人々が追放され、その半数が1年以内に死亡した。
1936年から大粛清がはじまる。そして大量処刑。
芸術の世界でも、粛清の嵐が吹き荒れる。1934年の作家会議に出席した約700人のうち、スターリンの死の直後まで生き残ったのは、50人といわれる。
演出家、メイエルホリド、詩人、マンデリシュタム、作家、ビリニャーク、バーベリなど多数が獄死、または銃殺された。
共産主義体制下で、150万人から200万人が亡命した。粛清の犠牲者の総数は不明だが、2000万人から6000万人という諸説がある。
帝政という怪物を倒したかわりに、スターリンというはるかに強大な「怪物」を生み出したロシアは、恐怖におののきつづけた。
イデオロギーとしての共産主義の崩壊と、ソヴィエトの解体は、けっして小さな事件ではなかった。『ユートピアの岸へ』を見おわったとき、私の胸に去来したのは、そういう思いだった。
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「第三部」で、ゲルツェンは、盟友、バクーニンに痛烈な批判を浴びせる。
こういうバカげた秘密の旅行も、暗号も、偽名も あぶり出しの手紙もみんな子どものお遊びだ。きみに疑いをもたない人間は、リーザひとりだ。無理もない。
きみは暗号の手紙を送りながら、相手がそれをよめるように暗号表を同封している。
バクーニンは反撃する。
君の同盟なら参加できると思ったが、そうやって偉そうに、恩きせがましく、いったい誰にむかってそんな口をきくのか。
出て行くバクーニンを、オガリョーフは追うが、もはや、バクーニンは戻らない。ドラマは、ここから最後のデヌーマンに向かいはじめる。
ツルゲーネフも出てゆく。少女のタータも、ゲルツェンから去ろうとしている。
惑乱したゲルツェンは、ナターシャを抱きしめようとする。だが、このとき、ナターシャの内部に大きな変異が起きる。彼女もまた、ゲルツェンに痛烈なことばを浴びせる。
こうしてロシアの前途に横たわる絶望、苦い幻滅は、ゲルツェンの胸にもたちこめている。
それまでの「オガリョーフ」は、それほど大きな「役」ではない。ところが、第三幕の石丸 幹二は、じつにみごとに阿部 寛に拮抗している。前に見た「イノック・アーデン」に、私は失望していたので、あらためて石丸 幹二の資質に感心したのだった。
つづいて、ツルゲーネフ(別所 哲也)が登場してくる。
ツルゲーネフは、チェルヌイシェフスキーや、ドブロリューボフに毛嫌いされていることを語る。自作の主人公が、ただのリベラリストに過ぎないという理由で。
このあたり、ロシア文学の理想と現実を知らないと、どうしてもわかりづらい。
別所 哲也は、ここでは(この芝居では)ごく普通の出来だった。おそらく理由があるだろう。阿部 寛がますます力をましてきているし、第三幕は「バクーニン」(勝村 政信)がこの場をさらって、客を魅了しているため、別所 哲也が輝きを見せてもあまり印象に残らない。(『レ・ミゼラブル』の別所 哲也ならもう少し違うだろう。)
第三幕、[1861年12月]の場で、ツルゲーネフはいう。「私は裏ぎり者と呼ばれている。左派と、右派の両方から」。
ツルゲーネフはゲルツェンに向かっていう。きみの〈カマトトぶり〉は、オールドミスも真っ青だ。きみとオガリョーフは、自分のスカートをやたらにまくって、秘所をご開帳している、と。
ゲルツェンは怒る。
ロシアの社会主義者は、みずからの封建性や、専制とは無縁の、(ヨーロッパの)体制と対比して、後進性と同時に、ロシアの優位を説いてきた。ヨーロッパと同じ発展の道を行くことはない。どうせ、行く末はわかっている、と。
だが、やがて「ゲルツェン」たちの後継者として、レーニン、スターリンのソヴィエトがあらわれる。
私たちは、スターリンのやったことが、帝政ロシアの暴政の、拡大再生産だったことを見せつけられてきた。ソヴィエト崩壊後の現在だって、プーチンは、スターリンのソヴィエトと、自分たちをひき較べて、自分たちの体制がいかに優れているかを誇示している。
なるほど、社会主義の計画性や、指令システムは、電力、鉄鋼その他の基幹産業では、うまく機能していたかに見えた。さらにいえば、世界戦略に対応するための兵器産業の部門でも。(私が、日露戦争を思い出していたことはいうまでもない。)
『ユートピア』(第三部)、ゲルツェンがチェルヌイシェフスキーと論争する。
チェルヌイシェフスキーの論点は、やがてレーニン、スターリンの恐怖の論理になる。ゲルツェンは、「狼の大群がロシアの街を勝手に歩きまわることになる」という。
私たちは、ゲルツェンの孤立と、ロシアの理想の「サルヴェージ」の意味を予感する。
共産主義国家の政策は、人民のためなどということは絵空事にすぎなかった。「アリ塚のユートピア」なのだ。たとえば農業、農産物のマーケティングひとつとってみても、社会主義システムはまったくの失敗に終わった。
『ユートピアの岸へ』におけるゲルツェンの「旅」Voyage は、Wreck であり、ついに「ユートピアの岸」に「漂着」Salvage することに終わった。
私は「第三部」の阿部 寛を見ながら、「ゲルツェン」の孤独を感じて、ほとんど暗然としたほどだった。