1187

暇である。退屈しているわけではない。暇なときには俳句を読む。詠むのではない。ぼんやりと眺めているだけ。

あら尊(とお)と 青葉若葉の 日の光     芭蕉

 

こういう句は、いまどきの俳人に詠めるはずもない。

何とせん 五人に三つ 初茄子(なすび)    許六

 

これもおなじ。私たちの日常に、こういう情景がまるでなくなった――わけではないだろうが、俳句に詠むことはなくなっている。

我が家に 来さうにしたり くばり餅      一茶

 

今ではどんな荷物でも宅急便で届けられるし、配り餅などという習慣もなくなっているだろう。この俳句のさびしみ、おかしみなどはわからなくなっている。

思いたつ 吉野の人も 花見かな        野坡

 

もう桜も散ってしまったが、こんな俳句を眺めて、せめて江戸の情調をしのぶことにしようか。
ただし、のんびり俳句を読むといっても、

麸といふものあり 性 水を好んで氷に遊ぶ   杉風

 

あるいは、

流るる年の哀れ 世につくも髪さへ漱捨つ    其角

 

といった俳句はあまり気に入らない。杉風ははじめから好きではないから読まないが、其角にはときどき感心しながら、こんな句を読むとアホかと思う。    (つづく)

1186

エチオピアの大地。
俳優の高橋 克典が、ダロルという土地の異様な景色を歩いている。
植物の生育などまったく見られない。ただ、赤茶けた岩と、黄褐色の砂が広がっている。そのさきに、切り立った崖があって、その頂上に、巨大な岩盤を削って作った原始キリスト教の教会がある。そこにたどり着くには、牛の革をねじりあげたロープにすがりついて、断崖をよじ登らなければならない。
高橋 克典は、岩山をやっとのことで登りつめる。そして、これも、巨大な岩を削って作った十字架を見る。

高橋 克典がつぎに訪れたのは、おなじエチオピアの、エルタ・アレ火山。
これもまた異様な風景だった。ヘリコプターの空撮で、火山の噴火口をとらえている。眼下に巨大な火流がグツグツと煮えたぎっている。噴火口から噴煙をあげるのではなく、火口がひたすらすさまじい勢いで燃えつづけている。
クレーター(噴火口)の直径、150メートル。火山だから、外輪山ができているが、これがことごとく溶岩。つまり、有史いらい、爆発をくり返してきて、すさまじい溶岩の流れがいつしか外輪山になったものらしい。
その火口が現在もはげしい勢いで燃えつづけ、火の海、溶岩湖になっている。

ふと、岑参の詩を思い出した。この火山とは関係がないのに。

火山今始見   火山 いま はじめて見る
突兀蒲昌東   とっこつとして ほしょうの東
赤焔焼虜雲   せきえん りょうんを焼き
炎気蒸塞空   えんき さいくうを むす

私は、ここにきて、はじめて火焔山を見た。ごつごつした山で、西域、トルファンの東に位置する。真っ赤な焔が、はるかな異境の雲を焼いている。その火の熱気は、山をとざす空にさえぎられて、蒸し焼きにされるようだ。

西域、トルファンと、アフリカのエチオピアでは、まるで違うはずだが、エルタ・アレ火山の風景はうまく表現できないので、中国の詩人に応援をたのむしかない。
こういう風景を見れば、誰しもことばを失うだろう。

高橋 克典はこの風景に感動したようだった。まるで、地球の血管が脈うっているようだという。たしかに、そんなふうに見える。心に残る、いいドキュメントだった。

 

<10年3月15日(日)7.PM.「テレビ朝日」>

1185

鈴木 八郎は、一幕もの、『黛(まゆずみ)』を「新劇」に発表しただけで、劇作家としては挫折したが、一方で、クラブ雑誌と呼ばれる読みもの雑誌に、おもしろい時代小説をいくつも書いている。八郎の先輩だった、三好 一光は世をすねた作家として生きたが、鈴木 八郎は小説を書くのが楽しくて時代小説を書きつづけていた。
後年の私はクラブ雑誌にも通俗小説を書いたが、鈴木 八郎が、程度の低い書きなぐりの作品を書かなかったことを見てきたことも影響していたと思う。
その頃、純文学を志しながらクラブ雑誌などに書けば筆が荒れるという人がいた。それに、一流の雑誌の編集者は、一度でもクラブ雑誌などに書いた作家を相手にしない、ともいわれていた。
私はそんな連中を軽蔑していた。なんという狭量だろう。クラブ雑誌に書いて筆が荒れるようなやつは、どこに書こうといずれ筆は荒れるのだ。クラブ雑誌だろうと一流の雑誌だろうと、てめえの書く作品に変わりがあろうものか。
西島 大がテレビで「Gメン’75」や、「西部警察」の脚本を書いたからといって、劇作家としての評価が低くなるだろうか。そんなことはない。そんな了見で、競争のはげしい芝居の世界を生き抜いていけるはずもないのだ。

 

鈴木 八郎が不遇のまま亡くなったとき、私は若城 紀伊子といっしょに葬儀に出たが、そのあと、西島と三人で酒を酌みかわした。
彼は何を思ったか、私にむかって、
「お互いに偉くなれなかったなあ」
といった。
私は笑った。
「そうだねえ、ろくなもの書きになれなかったなあ」
すると、若城 紀伊子がにこにこしながら、
「何いってるの、西島さん。中田さんはルネッサンスの大家で、何冊もすごい本を出してるのよ。ほんとは偉いのよ、中田さんて」
といった。
「ふうん、そうかあ」
西島は、にやりとしてみせた。
ごめんな、きみの仕事のことを何も知らなくて、とでもいいたそうなその笑いは、不愉快なものではなかった。
当時、私は『ルイ・ジュヴェ』を書きつづけていたが、ジャーナリズムで仕事をすることがなくなっていた。だから、 「お互いに偉くなれなかったなあ」といわれても仕方がなかった。それに、お互いに仕事のジャンルが違うと、相手がどういう本を出しているのかさえもわからなくなる。それでもいいのだ。お互いに、しがないもの書きとして生きているのだから、偉くなろうと考えるほうがおかしい。
酒を飲んで、鈴木 八郎の思い出を語りながら、私たちが、一時期いっしょに悪場所に遊んだことさえも楽しく思い出されるのだった。そのあと西島は、イタリアで買ったブリューゲルの画集を私に贈るといい出した。
「おれ、イタリア語、読めないからもっててもしようがないんだ」
私は笑った。こういうかたちで、大は、私に対して気遣いを見せている。それが、うれしかった。

『ルイ・ジュヴェ』が出たとき、いちばん早くハガキで祝意をつたえてきたのは、西島だった。岑 参(しんじん)の詩を思い出した。

庭樹不知人去盡   庭樹は知らず 人 去りつくすを
春来還発舊時花   春 きたりて またひらく 旧時の花

庭の木々は、むかしの人がみんな死んでしまったのも知らないように、はるがくれば、また、おなじ花をつけて咲いている。

「青年座」の創立メンバーは、全員、あの世に疎開してしまった。今頃、西島は、東 恵美子や、山岡 久乃、初井 言栄たちと、いっしょに乾杯しているかも知れない。
大よ、おれもそのうち、そっちに行くさ。おれが着いたら、久しぶりにサシで一杯やろうじゃないか。

1184

西島自身は誰にも語らなかったが、戦時中は熱烈な愛国者で、敗戦の詔勅を聞いた日、悲憤のあまり皇居前に馳せ参じて、同志とともに自裁しようとした少年だった。
おそらく兄の影響もあったのではないかと私は想像する。彼の兄は、「日本浪漫派」の詩人として知られた田中 克己である。これも、西島は、けっして口外しなかった。
私は田中 克己の「楊貴妃伝」をすぐれた評伝として敬意をもって読んできた。おそらく、西島が劇作の道を選んだのは、兄と違った世界を選びたかったのではないか。少なくとも、兄の後塵を拝することを避けようとしたからではなかったかと推測していた。
彼がいずれ劇作家として成功することを私は疑わなかった。

戦後まもなく、西島 大とおなじように劇作家志望だった鈴木 八郎、若城 紀伊子たちと知りあった。この人たちが、戯曲専門の同人誌「フィガロ」を出すことになった。その中心にいたのが鈴木 八郎だった。
内村先生からはじめて紹介されたのだが、その後、いつも西島 大といっしょに頻繁に会うことになった。

鈴木 八郎も奇人といってよかった。正確な年齢はわからない。歯切れのいい江戸弁で、いつも和服に、すこぶる上品な草履、頭に宗匠頭巾。私よりも十歳以上も上だったはずである。「戦後」の猥雑な世界に、彼の周囲だけは、江戸の匂いがただよっていた。八郎の話を聞いていると、大正末期、または昭和初期に20代だったような気もする。しかも本人みずから男色者であることを隠さなかった。
ときどき私の母を相手に、六代目や、もっと前の沢村 源之助などの話をしていたから、年齢がわからない。たいへんなもの知りだった。

ほんとうなら軍隊にとられるはずもなかったのだが、戦局の悪化で、北方、キスカの守備隊に送られた。アッツ島の日本軍が玉砕して、キスカから転進(退却のこと)し、無事に内地に戻って終戦。その後は、ただひたすら劇作家を志望して、いつも戯曲を書きつづけていた。
鈴木 八郎は、多幕ものを書いては商業演劇の脚本の公募に出していた。
まともな学校教育を受けたわけではないのに、芝居に関して知らないことがないほどの大知識で、私などは新劇、歌舞伎の、役者のこと、劇団の内情、思いがけない秘話まで教えてもらった。外国の演劇についてもくわしかったが、私が読んでいた外国の戯曲の話をしきりに聞きたがった。
西島 大とは大の親友で、おなじ「フィガロ」の若城 紀伊子とも親しかった。(若城 紀伊子は、戯曲が専門だったが、のちに「源氏物語」の研究者として知られ、作家としては女流文学賞を受けている。)

「フィガロ」のグループのすぐ近くに、慶応系の梅田 春夫を中心にした山川 方夫のグループがいて、私はやがて、桂 芳久、田久保 英夫たちを知った。

西島 大の処女作は「フィガロ」に発表されたが、つぎの「メドゥサの首」は、山川 方夫の編集した「三田文学」に発表されている。それを私が演出したのだった。
(つづく)

1183

若い頃の私が西島 大ととくに縁が深かったのだが、それには理由がある。

文学上の 師弟関係というものは、はた目から見るほど単純なものではない。師匠にすれば、たいして才能に恵まれていない、どうしようもない弟子を見て、不甲斐ないと思うこともあるだろう。逆に、弟子が鬱勃たる野心に燃えているような場合に、師匠として弟子をうとましく思うこともあるだろう。
私は、内村さんが期待していたほどの才能がなかった。はっきりいって、内村さんのお書きになる芝居に関心がなかった。私は、ある時期まで小林 秀雄を相手に悪戦苦闘していたし、やがて、ヴァレリーやジッドから離れて、ヘミングウェイに夢中になった。
だから、戯曲を書くよりも、別の、違った分野をめざしたため、まるっきり内村先生の期待を裏切ったのだった。
私とは違った意味で、内村さんの後輩だった梅田 晴夫も、やはり先生の期待を裏切ったひとりではなかったか。

私は内村先生の連続ドラマ、「えり子とともに」のライターのひとりだった。日本で最初のアメリカン・スタイルのホームドラマで、これが成功すれば、長期間にわたって放送がロングランする。当時、内村先生は40代だったので、50代だった伊賀山 昌三、30代だった梅田 晴夫、20代だった私が脚本を書いたり、アィディアを出すグループに加わったのだった。
「えり子とともに」は、1949年10月にはじまって、127回の連続ドラマになった。(フィナーレは、1953年4月)。
なにしろ長いドラマになったため、途中で、音楽の担当が芥川 也寸志から中田 喜直に交代した。これが実質的に、ドラマの前半と後半の変わり目になったが、西島君は後半から、内村先生の原稿の口述を筆記することになった。

当時、私と西島 大は、毎月、内村先生からポケットマネーを頂戴していた。
私はそれを学資にして、母校の英米文学科に戻ってアメリカ文学を勉強したが、フランス語を勉強するように申しわたされた西島君は、「お給料」をみんな飲んでしまった。
たまに、ふたりとも懐が暖かかったとき、いっしょに酒を飲んだあげく、吉原にくり込んで、翌朝、近所の一膳飯屋でお茶漬けを食らって、そのままに千葉の浜辺まで足をのばしたこともある。
このとき、たまたま浜辺で釣りをしていた竹田 博(編集者)と会った縁から、私は坂本 一亀と親しくなった。その後、「河出書房」でいろいろと仕事をしてきたが、今となっては、私にとっては、ありがたい出会いだったと思う。
やがて、私は「東宝」にいた友人、椎野 英之に西島 大を紹介した。「東宝」では西島といっしょにシナリオを書くようになった。
最近、「アバター」という映画が公開されて、3次元映画がさかんに作られるようになったが、私たちが「東宝」でシナリオを書きはじめた時期に、はじめて3次元映画が登場した。私たちも、3次元映画のためのシノプシスを提出したものだった。むろん、この時期の「東宝」では、一本、試作品ができただけでまともな成果は出せなかったのだが。
しかし、西島 大は、戦後、沈黙していた熊谷 久虎(映画監督)のために「狼煙は上海にあがる」を書いて、シナリオ作家としての道を歩きはじめた。
私は才能がなくてシナリオを断念したが、西島はつぎつぎにすぐれた脚本を書くようになった。このとき、いっしょだった仲間が、矢代 静一、八木 柊一郎、池田 一朗である。矢代も、八木も、はじめからシナリオ作家を志望したわけではなかった。後年、ふたりとも劇作家として大成する。池田 一朗は、後年、隆 慶一郎として一斉を風靡する時代ものの作家になる。

人と人の出会いの不思議を思う。そして、この時期が、私や西島にとってまさしく青春というものではなかったか、という思いがある。

1182

つい先日、私は書いたのだった。知人たちがつぎつきに鬼籍に入ってゆく、と。
女流作家、宇尾 房子さんが、昨年10月13日にガンで亡くなった、という。
最近まで知らなかったので、訃報に驚いた。

つづいて劇作家、西島 大の訃を知った。こちらは、新聞記事で知ったので、それほど驚いたわけではない。(’10,3.4,)
ただ、宇尾さんの訃を知ったばかりだったので、眩暈のようなものにおそわれた。

西島 大。本名、西嶋 大(ひろし)。友人たちは「ダイ」と呼んでいた。

3月3日、肝細胞ガンで死去。82歳。1954年、「青年座」創立メンバーのひとり。「昭和の子供」、「神々の死」などの戯曲のほか、映画、「嵐をよぶ男」や、テレビで「Gメン’75」の脚本をてがけた。

私は、まだ無名の西島が、内村 直也先生の口述を筆記していた頃に、先生に紹介されて親しくなった。
その頃、内村先生の周囲に集まっていたグループが、「フィガロ」という戯曲専門の同人雑誌を出すようになって、私も戯曲を書くようにいわれたのだが、戯曲を書くかわりにカットを描いたりした。
この「フィガロ」に、西島 大の処女作『光と風と夢』が発表された。ある小さなホールで、内村先生演出で上演されて、西島君の出世作になった。
内村先生も私に劇作を書くよう勧めてくださったが、私自身は演出を志望していたので、内村先生の期待を裏切ることになった。
それでも西島 大のおかげで、おなじように劇作家志望だった鈴木 八郎、若城 紀伊子たちと親しくなった。そのグループの近くに、慶応系の梅田 春夫を中心にした山川 方夫のグループがいて、私はさらに桂 芳久、田久保 英夫たちを知った。
私がはじめて演出したのは、青年座の芝居で西島 大の『メドゥサの首』という一幕ものだった。そのつぎも西島 大の『刻まれた像』だったから、当時の西島君とはよほど縁が深かったような気がする。
あえていえば、私は西島 大といっしょに青春の一時期を過ごした、という思いがある。とにかく、毎日のように会っていたのだった。

やがて、私は生活のために翻訳の仕事を中心にしなければならなくなって、「青年座」を離れた。私としては、外国の戯曲、それもアメリカの芝居を演出したかったのだが、創作劇を専門に上演していた「青年座」にいても演出できる状況がなかった。それに千葉に住むようになって、渋谷、さらには下北沢の稽古場に通うことがむずかしくなった。

西島 大と私はお互いに進む方向が違って、その後は疎遠になってしまった。

1181

助詞止めの句をいくつか挙げてみよう。

夢によく似たる夢かな 墓参り        嵐雪

啄木鳥(きつつき)の枯木さがすや 花の中  丈草

暁や 人は知らずも 桃の露         暁臺

お手打の夫婦なりしを 更衣         蕪村

さすがにいい句ばかりがそろっている。

山吹の露 菜の花のかこち顔なるや      芭蕉

春の雨 別れ別れに 見ゆるかな       鬼貫

物言はず 客と 亭主と 白菊と       蓼太

ここまでくると、私などはうっとりとするだけである。こうした一句を読んでいるだけで、いろいろな連想がはたらく。直接、その句にかかわりがないにしても、その句を口にのせてみるだけで、自分の内面にひたひたとひろがってくるものがある。

1180

あまり、好きではない句もあげておこう。

初雪や 門に橋あり 夕間暮      其角

情景も眼にうかぶ。いかにも其角らしいが、おのれの才気をたのむ衒気が見えるようだ。そこで、おなじ其角の

流るる年の哀れ 世につくも髪さへ漱捨つ

といった破調の句を軽蔑したくなる。

桟(かけはし)や あぶなげもなし 蝉の声  許六

これも、おなじ。

かかる夜の 月も見にけり 野辺送り  去来

これまた、おなじ。

よい声の つれはどうした ヒキガエル 一茶

以上、四句。用言の終止形でとめてある。いずれも、作者の力量はわかるけれど、あまり感心しない。
たとえば、

鶯(うぐいす)の かしこ過ぎたる 梅の花  蕪村

これも好きになれない。

1179

今更ながら――すぐれた俳句なり短歌なりを読むありがたさはどうだろうか。
短い詩形にどれほど豊かなものが盛り込まれているか。

たとえば、私の好きな句を選んでみようか。

一日の春を歩いてしまいけり      蕪村

ほかにも好きな蕪村の句はいくらでもあるが、こういう句は、一編の短編を読むほどにもすばらしい。むろん、こういう時間の過ごしかたは、今の私たちにはない。ということは、私たちには季節としての「春」もないということにならないか。

桐の葉は 落ちても 庭にひろごれり  鬼貫

これもやさしい平叙体の一句だが、私たちの書く作品には季節としての「秋」も失われてしまったような気がする。

道ばたの木槿は 馬に喰はれけり    芭蕉

これはもう、私たちが見ることのない風景だろう。俳句を読む。私にとっては、もはや見ることがないからこそ芭蕉の見た季節を見ようとすることにひとしい。
私がへんぺんたるメッセージを書く姿勢も、こういう俳句を詠む人々の姿勢に、それほど違ってはいない。ただ、私には才能がないだけの話だ。

1178

月に一度、小人数の寺小屋で英語のテキストを読んでいる。
生徒たちがテキストを訳して、私が指導するグループ。生徒たちは優秀だが、先生のほうは老いぼれGさんである。

この寺小屋は、だいたい八丁堀のちっぽけな区民館でつづけられている。

誰も知らないことだが、八丁堀には小林一茶の庵があった。

うめ咲くや くてうむこうに鳴く雀
梅さくや ちるや附たり 三日月
うめ咲くや 現金酒の 通帳
うめの花 家内安全と咲きにけり
梅が香や 知った天窓の 先月夜

よく調べたわけではないが、一茶は八丁堀でこうした句を詠んだらしい。どれも、あまり感心できない句ばかり。
私の好きな一茶の句は、もう少し違うものである。

生き残り 生き残りたる寒さかな
合点して居ても 寒いぞ 貧しいぞ
しんしんと しん底寒し 小行灯(こあんどん)

自分の姿を見て、

ひゐき目に見てさへ 寒き そぶりかな

東(関東)に下ろうとして途中まで出て、

椋鳥と 人に言はるる 寒さかな

箱根、六道の辻と題して、

寒そらに はなればなれや 菩薩たち

はなれ家や ずんずん別の寒の入り
雨の夜や しかも女の 寒念仏
降る雨の中にも 寒の入りにけり

一茶の辞世も紹介しておこう。

ああ ままよ 生きても亀の 百分一

ところで、私の八丁堀の私塾だが、私は何を教えているわけでもない。ほんとうは、心優しい生徒たちが、月に一度集まって耄碌Gさんの相手にしてくれる集まりなのである。

1177

 

 

アメリカ、ヴァ-ジニア州、フェアファックス・カウンテイ。
ここでは、小学校の授業の半分は英語以外の言語で授業がおこなわれている、という。

日本語教育も四つの小学校で行われている。
ふつうの日常会話などを勉強させるのではない。理科、算数、家庭科を、日本語で教え、幼い子どもたちに日本の文化を理解させる教育である。

20年前に、日本企業の駐在員たちの支援や、日本企業の後援があって、こうした教育がはじまったという。現在、26の学校で、500人の小学生が、日本語だけで、先生の授業をうけている。みんな日本語を達者に話したり、日本の童謡を歌っている。

ところが、アメリカの不況で、年間、1億3000万円(円換算)の経費がカウンテイに重荷になって、日本語教育が廃止か、継続か、存続があやぶまれている、という。(’10.1.20.「NHK/ニュース」7;35.am)

戦時中、アメリカは速成で日本語教育をひろめたが、その成果としてドナルド・キーン、サイデンステッカー、アイヴァン・モリスたちを生んだことを考えれば、フェアファックス・カウンテイの日本語教育がどれほど大きな可能性を秘めているか。

一方、中国は、アメリカの中、高校でも、中国語の普及を目的にぞくぞくと教室を開いている。中国語を教える学院数は、昨年末までに、88カ国の地域の554校に達している。
「事業仕分け」とやらで、科学教育研究費、とくにスーパー・コンピューターの開発にカミついた憐呆(れんぼう)などにこの問題の重さが見えるはずもないが。
いや、憐呆(れんぼう)どもはヒャクも承知で仕切ったか。

1176

ある生

朝起きると ああ生きているなと思う
きょうもまだ 頭は大丈夫なのだと思う
安心する反面 多少 情けなく思うことでもある
年取るにつれて得た これもまた
ある一つの生の あるひとこまなのだと思う

私の場合も、朝起きると、ああ生きているなと思う。ただし、以前のように、さわやか
な目覚めはない。今日もまだ、くたばっていないらしいと思う。安心などはないし、情け
ないかぎりとも思わない。
くそおもしろくもない現実に腹を立てても仕方がない。できることなら、いろいろな本
を読んで、知らない世界に遊んでいたい。
奄美大島の詩人、進 一男の詩。短い詩だが、おなじように老年の私には、素直に同感
できる。そして、進 一男の詩を読むことで、その日いちにち、心にかすかなぬくもりを
感じていられる。
もう一編、「その日まで」を引用しておこう。

今のこの事は
近い時が片づけてくれるでしょう
焼けつく暑い日々が過ぎて
せめて一輪のコスモスを見るまで
思いを内に秘めて
ともかく生きて行きましょう

この詩が私の心にまっすぐ届くのは、生きているうちに語っておくべきことをごく自然
につぶやいているからである。

進 一男については、以前にも紹介したことがある。
年にほぼ1冊のペースで、詩集を出しつづけている。

詩集「小さな私の上の小さな星たち」  非売品
〒894-0027鹿児島県奄美市名瀬末広町10-1  進 一男

1175

恐竜が絶滅したのは何千万年も昔のことらしい。
私の頭脳はトカゲなみの容量しかないので、「らしい」としかいえないのだが――絶滅の原因は、メキシコ・ユカタン半島に、巨大な隕石が落下、地球に衝突したためという。私は、その隕石がどこから飛んできたのか知らないし、メキシコ・ユカタン半島を歩いたこともないので、これが事実かどうか知らない。

ただ、東北大をはじめ、世界の12の研究機関が合同で、さまざまな分野の研究者が、各地の地層、クレーターなどを調査し、この隕石衝突説を詳細に分析したという。

このチームの研究で――直径、約10キロから15キロの巨大な隕石が、秒速、20キロの速さで、当時、浅い海だった地表に衝突した。
そのエネルギーは、ヒロシマに投下された原子爆弾の約10億倍。

隕石が衝突してできたクレーターの直径は約180キロ。

この衝突で、大気中に飛散した膨大なチリが、太陽光を遮断した。
光合成をおこなう植物などが死滅したため、恐竜などが絶滅に追いやられた、という。

これまでに、隕石の衝突説は、地質学や、古生物学など、個々の分野の研究で追求されてきたが、全世界的な研究で、恐竜絶滅の原因がつきとめられたことになる。

今後、人間が何千万年にもわたって生きつづけるかどうか私は知らない。
かりに生きつづけるとして――巨大な隕石が落ちてこないように祈るしかない。
それでも、今、隕石が落ちてくると予知されたら、どうしようか。

さっそく、スティーヴン・スピルバーグか、「アバター」の監督、ジェームズ・キャメロンにドキュメントを撮らせたい。ただし、スピルバーグやキャメロンの映画が完成しても、誰ひとりそんな映画を見る観客はいないだろうけれど。

オバマ氏と、メドベージェフ、プーチン氏たちにお願いして、それぞれ保有している原爆、水爆を全部、宇宙空間にむけて発射していただく。
少しは、命中するだろう。この作業専任の部隊には、「ハート・ロッカー」(キャスリン・ビグロー監督)に出てくるジェレミー・レナーのような人物を選ぶことにしよう。むろん、巨大隕石相手に、小人数の爆発物処理班で対抗できるかどうか知らない。

6千650万年の空間に、いつか地球に衝突するかも知れない隕石があって、時々刻々に、地球に向かっている、と考えると……

こんなアホらしい宇宙的虚無感が、私にはけっこう楽しい。

1174

ある日、新聞でカメラの広告を見た。(’10.3.5.)

不景気な時代のなかで、デジタル・カメラの激戦がつづいている。
画質のよさと、ハンディーなところがうけて、軽量で小型の一眼デジタル・カメラは人気が高い。
そのなかで、キャノン、ニコンが、圧倒的なつよさを見せている。
だが、3月に入って、パナソニック、オリンパスが新型カメラを登場させているし、ソニーも、ただちに満を持して参入してきた。(’10.3.9.)

私の見た新聞広告は、キャノンの新製品 EOS KISS X4 {イオス キス エクス フォー}の広告だった。
7ページにわたって、各ページの下の4段をぶち抜きの大きな広告である。

いちばん最初の広告のキャプションは――「うちの子は、世界一 カワイイ」。
写真は――「ドラキュラ伯爵」か、「アダムズ・ファミリー」のお父さんのような、中年の吸血鬼がカメラを片手に、可愛らしい男の子を抱きあげている。

つぎのページには、大きな帽子をかぶった魔女の母子。「ドラキュラ伯爵」の父子とコントラスト。女の子は小学校の低学年だろうか。こちらのキャプションは――「うちの子は、世界一 才能がある」。
そのつぎは、モジャモジャの髪の毛、頬も口のまわりもヒゲモジャの親子。狼男だろうか。父親は、サイレント映画のベラ・ルゴシに似ている。
キャプションは――「うちの子は、世界一 元気だ」。

つぎの写真は、どうやらハンナ・バーべラのテレビ・アニメのパロディーらしい。
原始人の家族たちだが、父親に、子どもが3人。母親不在というのは、なにやら意味深長。キャプションは――「うちの子は、世界一 たくましい。」

こんなふうに、あと三つがつづく。
この新聞広告が出たのと同時に、テレビで、おなじメンバーのコマーシャルが流れている。気がついた人もいるかも知れない。
テレビのCMは、むろん動画だから、新聞の広告は、テレビCMの1シーンを使っているのかも知れない。ただし、大型カメラで同時にスティル写真を撮影して、それを使っているのかも知れない。いずれにせよかなり費用をかけているだろう。

この広告を見た私の感想は――
じつはたいへんに感心した。これまで、無数にコマーシャル・フォトを見てきた。しかし、ほんの一瞬でも心に残るようなものは極めて少ない。広告を担当した商業フォトグラファーだって、スポンサー側の要求にこたえる「現ニコ写真」を撮れば、それでいい。 もともと「現ニコ写真」にそれ以上を期待する会社はないだろう。
「現ニコ写真」というのは、広告する現物を手にとって、モデルがニコニコしているフォト。たいていの場合は、若い女優やタレントが商品をもって、ニコニコしている。
こういう写真が心に残るようなことはない。
「うちの子は、世界一」シリーズだって、つぎに新製品が出れば忘れられるだろう。

デジタル・キャメラの市場は、キャノン、ニコンが、圧倒的なつよさを見せているというが、それをささえている現場の優秀さが、このシリーズからも想像できるような気がする。
私の心に残ったCMは、雨のそぼ降る古い町並みを小犬が、一所懸命に駆け抜けてゆく「サントリー」の名作。おなじ「サントリー」でも、ウーロン茶で、中国の老爺ふたりが、中国語でスキャットするCM。すっとぼけていて、とてもよかった。ドアにかけたダーツでジェームズ・コバーンが遊んでいる。矢を投げようとする瞬間にドアが開く。と、そこに可愛い少女が立っている、というサム・ペキンパー演出の一本。地方局のCMだったが、美少女が田舎の温泉につかっている。入浴シーンだから、両肩をあらわに見せている。なんと、この美少女がアニタ・ユンだった。私は、陶然としてアニタの艶姿を見たものだった。まだ、ほかにもすばらしい作品があったことを、私は忘れない。
そのなかで、キャノン、EOS KISS のCMは出色のものだと思う。
このシリーズを企画した宣伝部や、コピー・ライターや、キャスティング・スタッフ、現場のディレクターたちが、真剣にとりくんでいるシーンを想像した。むろん、みんなで楽しく笑いあいながら、撮影がつづけられたのではないか。そんなことまで考えた。

1173

(つづき)
宮 林太郎の最後の長編、『サクラン坊とイチゴ』は、マリリン・モンローに会いに行くという口実で、死んだ有名人のパーティーに出席する宮さんの姿がえがかれている。そのお供を仰せつかった、ウスラバカの作家「中田耕治」が登場してくる。
ほかの作家がそんなイタズラを仕掛けたら、温厚な私といえどもただちに反撃するだろう。しかし、宮さんがそんなイタズラをしても、別に不快な気分はなかった。
私がヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーを尊敬し、コクトォについても、宮さんと語りあえる程度の理解をもっていたことから、私に対して親近感を寄せてくださったものと思われる。
晩年の宮さんは、「無縫庵日録」と題して、膨大な日記を書きつづけていた。そのなかに、私も登場してくる。

久し振りに中田耕治さんからお便りをいただいた。中田さんの笑顔が目にうかびます。そのご返事を書いた。

ぼくにとって現在愛する友人はみんな死んでしまってあの世ゆき、中田さんだけが愛する一人になりました。つまり、心の通う友ということです。こんなことを言って申し訳がありませんが、今やあなた一人が尊敬する心の友です。とても寂しいです。ぼくは八十九歳です。もう死んでも文句の言えない限界に達しています。(後略)

「無縫庵日録」第八巻 平成12年(2000年)3月22日。

現在の私は、当時の宮さんの孤独がいくぶんでも理解できる年齢になっている。老年の宮さんの孤独も。
月並みな感慨だが、劉 廷之の詩の一節を思い出す。

年年歳歳花相似    年々歳々 花はあい似たり
歳歳年年人不同    歳々年々 人はおなじからず

宮さんが細いボールペンで、びっしり書きつけたメモを、古雑誌のなかに、しかも私自身のエッセイのページに挟んであるのを見つけた。そのとき、無数の想念のなかに、そんな感慨が胸をかすめたとしても、不自然ではない。

現在の私は少し長いものを書きつづけている。例によって、なかなか進捗しない。
たまたま、まったく偶然に、自分の書いた作品の掲載された古雑誌をみつけた。これとてめずらしいことではない。
しかし、そのなかに、思いがけず、宮 林太郎が私にあてた手紙の下書きが入っていた。それを「発見」したとき、私がどんなに驚いたことか。それだけではない。故人に対するなつかしさ、たまたま人生の途上で知りあうことのできたありがたさ。この古雑誌が私の手もとに戻ってきたことに、いいようのないよろこびを経験したのだった。
因縁とまではいわないにしても、すでに亡くなった人の呼び声を聞き届けたような気がした。一瞬、夢を見ているような気がした。だから雑誌に挟まれていたメモを、ひそかなメッセージとして読んだとしてもおかしくないだろう。
世の中には不思議なこともあるものだなあ、という思いがあった。

春夢随我心      春夢 我が心にしたがって
悠揚逐君去      悠揚として 君を追って去らん

春の夢かもしれないが、私の心のままに、別れを惜しみ、在りし日のあなたのことを考えながら、ゆめのなかであなたを思いうかべよう。包 融の詩の一節である。
冥界におわします宮 林太郎は、私がぐずぐずして、いつまでも新作を出さないのに業を煮やして、こういう形で激励してくれたのかも知れない。

宮さん、ありがとう。
私の近作はもうすぐ完成します。あまり期待されても困りますが、そのうちにご報告できるかと思います。

1172

(つづき)
宮さんのメモは、細いボールペンで、一字々々、丹念に書きつけてある。ただし、ところどころ判読できない。赤ペンの大きなバッテンで消してある部分もある。

これはとてもすばらしい作品です。これについては書かずばなるまい。それにオペラについて勉強が出来ました。
中田さんがオペラについてこんなに詳しいとは知りませんでした。
メルバを知っているのかなと思っていると、メルバもちゃんと (以下 欠)

別のメモには、

中田さんのお作、まずびっくりしたのは、イサドラ・ダンカン、コポオ、テトラッチーニ、ガリ・クルチ、フアーラー。今では誰もその名を知らない存在のハンランです。しかし、まだ、メルバ、カラスなら知っている人はいるかも知れない。消えていった女たちよ、その面影、その踊り、 (以下 欠)

さらにもう1枚のメモには、

自分だけで愛していると思っていたのは、人に横取りされたような気持ち、そうなるとぼくは自分の愛人をとられたような、いや、自分の愛している女が、タレントで、有名になりすぎて、僕の手から離れてゆくような、そういう女はもう愛せません。ぼくの力ではどうすることも出来ません。そんなのいやです。しかし、テトラッチーニは忘れ去られた女、それから僕は昔、トチ・ダルモンテというプリマドンナを愛しました。これも忘れられた女です。自分ひとりで愛せるような女が好きです。

宮さんは「星座」という同人誌を主催していた。戦前の「星座」では、石川 達三、評論家の矢崎 弾などと親しかった。戦後すぐの時期には、カストリ雑誌にまで短編を書いていた。長編は10冊を越えるし、90歳を越えても小説や詩を書きつづけたが、自分の周囲にいる文学仲間を集めて「全作家」という雑誌を出していた。
宮さんはパリを愛し、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーに私淑し、コクトォを尊敬していた作家だった。自宅の壁には、アイズピリの油絵や、フランスの画家のエッチング、デッサンがずらりと並んでいた。            (つづく)

1171

(つづき)
宮 林太郎は一部では知られた作家だったが、本業は医師で、祐天寺では誰知らぬものもない名医だった。
新築のマンションの壁面に、パリ市内で見かけるものとおなじ青いプレートで、Rue Hemingway という看板を掲げていた。
私にあてた手紙の住所表記も、すべて「ヘミングウェイ通り」となっている。私も、冗談で、一時、「ヘミングウェイ通り」を僭称したことがあった。(このいたずらは千葉の中央郵便局のお気に召さなかったらしく、フランスから送られた雑誌が返送されたと知って、私は、このアドレスを抹消したが、宮さんは、東京の「ヘミングウェイ通り」を押し通していた。)
石川 達三の回想記、『心に残る人々』(「文芸春秋」昭和43年)のなかに、宮さんとの交遊が語られている。

彼と私との交遊は三十五年ぐらいになる。いまでも彼は、(文学を離れて卜の人生は無いです)と言う。それほど好きなのだ。しかし作家として著名でないことを、あまり苦にしてはいないらしい。こういう人が却って本当に文学をたのしんで居るのかも知れない。また逆にいえば、文学はこういう人によって最もその価値をみとめられるのだとも考えられる。

石川 達三と宮さんの交遊が三十五年というのだから、逆算すれば昭和8年(1933年)だが、この年、宮さんは故郷の淡路島から上京したらしい。
石川 達三が亡くなったのは、昭和60年(1985年)だが、この作家の最後も、宮さんが見とったのではないかと想像する。
私が親しくしていただいたのは、宮さんの晩年、1994年あたりからだった。
「フリッツイ・シェッフ」が載った「SPIEL」6号を宮さんに送ったのは、1995年7月12日だった。
なぜ、そんなことがわかるかというと、私の送ったハガキがこの雑誌に挟んであった。
その裏に、宮さんがメモのようなものを書いているのだった!

中田さんがこんなにオペラにくわしいとは知らなかった。わが身が恥ずかしい。ぼくはフリッツイのことをまったく知りません。それは当たり前で僕の生まれる前の話です。テトラチーニ、ファーラー前の歌手です。しかし、中田さんの文を読んで、大いに興味をそそられました。
こんな歌姫がいたのかという驚きです。それにしても中田さんの筆はこの女を生かしていますね。目の前にいるようです。
曲は残っても歌った本人はいない。その歌は別な新人歌手によって歌われる。しかもそれは現代ではデジタルでキャッチされる。例のメルバのレコードをぼくはもっていますが、蚊の鳴くような音で雑音の中から彼女の声が聞こえてくるのです。蚊の鳴くようなオーストラリアの鶯。

これを読んで驚きは深まるばかりだった。
(つづく)

1170

(つづき)
私の「フリッツイ・シェッフ」が掲載された雑誌、「SPIEL」6号(1995/7)のページをめくったとき、これを読んだ人のメモが見つかった。

「SPIEL」をありがとうございました。大変シックな雑誌でスカッとしています。中田さんのお作「まぼろしの恋人」にはびっくり仰天、言葉も出ぬくらい感動しました。
それについては、ゆっくり感想を書かせていただきます。
それから、この雑誌の編集者、福島礼子さんの知性にも驚きました。「未来のイヴ」は大変な知的産物です。
女というのは、大抵はバカが多いのですが、この人は違います。中田さんのお許しを得て、その人にお手紙を差し上げたいと思っております。この人の書いたものをもっと読みたいのです。ぼくはどうもアケスケとものを書くので、人にいろいろいわれます。おゆるしください。
それにしても、中田さんのオペラ通には目を丸くして、肝を冷やしました。この作品、傑作で心に残ります。

これを書いたのは、作家の宮 林太郎さんである。

 

私が驚いたのは当然だろう。生前の宮さんが私にあてた手紙が、ゆくりなくも14年後に私の手に届いたのだから。
こういうこともあるのか、と、しばし茫然とした。

私にあてた手紙だということは間違いない。私が宮さんにあてたハガキが入っていたからである。
宮さんは手紙を書く前に、メモをとる習慣があったらしい。
つまり、これとおなじ内容の礼状を清書して、私に送ってくださったのではないかと思う。
メモは、ほかに3枚あって、その1枚も、手紙の下書きらしい。
話の順序として、私が宮さんに送ったハガキの内容を掲げておく。

宮 林太郎様
こんなものを書きました。お読み頂ければ幸甚です。
去年から書きはじめた評伝は、やっと三分の一、七百枚になりました。もう少し頑張ろうかと思っています。
暑くなりそうです。
どうかお元気で。

日付は、1995年7月12日。
「去年から書きはじめた評伝」は、『ルイ・ジュヴェ』だが、これを書いていた時期の私は、それこそ悪戦苦闘していたのだった。
(つづく)

1169

このブログを書く。アクセス数が5万をこえたので、何かおもしろいことでも書きたいと思っている。

おもしろいこと。
つい最近、おもしろいことにぶつかった。もっとも、私以外の人にとっては意味もないことなのだが。
みなさんに聞いてもらうほどのことではないが、私にしてはめったに経験したことがないので、ここに書きとめておく。

2010年の冬季オリンピック。日本がイギリスを11-4で圧勝したカーリングの第4戦を見たあと、外出した。私の場合は古本屋めぐりの散歩である。私の住んでいる都会は古本屋らしい店も激減していて、近郊の小さな町まで、私鉄に乗って出かけることも多い。この日、私が行ったのは、電車で20分、ある私立大学のキャンパスがある町の古書店だった。映画関係の本が多いので、ときどき立ち寄ってみることにしていた。

表通りに面して、雑書や、文庫などの棚が並べてある。値段もだいたい100円どまり。雑書の背中を見て、少しでもおもしろそうなものは手にとってみる。ざっと本の内容をたしかめて、棚に戻す。
ふと、1冊の古雑誌が眼についた。おや、と思った。見おぼえのある雑誌だった。

「SPIEL」6号(1995/7)。
三重県鈴鹿市の福島 礼子さんが編集して出していた個人雑誌だった。発行部数は、おそらく、きわめて少なかったと思われる。

福島 礼子さんは、同志社大卒。三重県文学新人賞(評論部門)を受賞した女性で、著書に『文学のトポロジー』、『化粧パレット』、『都市のモルフェ』、『セクシュアリティーの臨界へ』などがある。
私は、斉藤緑雨賞という文学賞の審査にあたったことがあって、そのとき、福島 礼子さんの面識を得た。そんな縁で、福島さんの「SPIEL」に、「フリッツイ・シェッフ」というエッセイを発表した。
「SPIEL」6号(1995/7)に、それが掲載されている。

私は驚いた。「SPIEL」のような、へんぺんたる雑誌(失礼!)を、千葉県の片田舎の古本屋の店先で見つけた。これか、最初の驚きだった。
さらには、ひょっとして、私のエッセイを読んだ人がいるかも知れない。
そのころ、私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書きつづけていたが、まったく先が見えず、悪戦苦闘していた。福島さんから「SPIEL」に何か原稿を書いてほしいと依頼されて、ルイ・ジュヴェと関係のないオペラ歌手、フリッツイ・シェッフのことを書いたのは、いわば気分転換のつもりもあった。
斉藤緑雨賞でお世話になっている方からの依頼なので、私としては、そのときの自分の最高の作品を提供した。「まぼろしの恋人」と題した「フリッツイ・シェッフ論」は、今でも、私の代表作のつもりである。

その「フリッツイ・シェッフ」の掲載された雑誌を見つけた。すぐに買った。100円だった。
驚きはあとからやってきた。
(つづく)

1168

いろいろな人の訃報を聞いた。
たとえば、東 恵美子。劇団「青年座」の創立メンバーのひとり。彼女は、私が演出した芝居に出てくれたし、当時、私はラジオドラマなど、放送の仕事をしていたので、何度か出てもらった。
つづいて、これはイギリスの女優、ジーン・シモンズが亡くなった。つづいて、双葉 十三郎さんの訃報を知った。私は、ただ面識があったていどだか、双葉さんのお書きになるものにはいつも敬意を払ってきた。さらに、映画評論家の登川 直樹さん、作家の立松 和平の訃報を聞いた。
私の知っていた人たちが、つぎつぎに鬼籍に入った。
そして、宇尾 房子の訃報を聞いた。昨年10月にガンで亡くなった。
私は、つい最近まで知らなかったので、この知らせに驚いた。
宇尾 房子さんの死を知った翌日、劇作家、西島 大の訃を知った。こちらは、新聞のオービチュアリで知ったので、それほど驚いたわけではない。(’10,3.4)
しかし、私にとっては、ひとつらなりの訃報であった。私の知っている人たちがつぎからつぎに鬼籍に入った。無常迅速の思いがある。

「朝」の中心にいた竹内 紀吉が亡くなって、もう4年になる。
宇尾 房子さんを紹介してくれたのは、竹内君だった。いつか、宇尾さんのことを書くつもりだが、たまたま最近届いた「朝」28号は、同人の古瀬 美和子さんの追悼がならんでいた。
そのなかに、病中、古瀬さんの死を知った宇尾さんが、追悼の辞を口述したことが出てくる。千田 佳代さんの記録による。

宇尾さんは、千田さんに、「古瀬さんの、追、悼号のね、原稿、書きたいけど」という。おそらく、途切れとぎれにいったのだろう。そして小さく咳をする。
千田さんは、いそいで筆記するのだが、宇尾さんの口にしたことばは、
「ながいこと、あり、がとう」
というものだった。けっきょく、

三人は無言で、宇尾さんを見つめた。唇がすこし荒れている。はるか遠くをのぞむ目が、そらされると、再び咳。
「たくさん、書くつもり、だったけど……」
そこで、彼女は目を閉じると、
「心から、心より、ごめい福を、お祈り、します」

このくだりを読んで、私は感動した。
作家を志して、ただひとすじに美しく生きたひとが、おなじように小説を書きつづけてきた人の死を聞いた。そのとき、宇尾さんの内面に何があったか、私などに忖度できるものではない。
途切れとぎれのことばに、千万無量の思いがこめられていたにちがいない。
そのとき、彼女を見舞った三人の仲間に、やはり、「ながいこと、あり、がとう」と語りかけていたにちがいない。

いろいろな人の訃報を聞いた。
3月8日の新聞で、寺田 博の訃を知った。元「文芸」の編集者で、さらに「海燕」の編集長だった。享年、78歳。
宇尾 房子さんが、追悼のことばを述べた古瀬 美和子さんの弟にあたる。

いろいろな人の訃報を聞いて、私の胸に去来するのは、月並みな感慨だが、

春夢随我心    春の夢 我が心にしたがって
悠揚逐君去    悠揚として 君を追って 去らん

春の夢かも知れないが、心のままに別れを惜しみ、夢のなかで在りし日のあなたのことを思いうかべて別れよう。包 融の詩の一節である。
私も、おなじことばをささげよう。

宇尾 房子さん、「ながいこと、あり、がとう、と。