暇である。退屈しているわけではない。暇なときには俳句を読む。詠むのではない。ぼんやりと眺めているだけ。
あら尊(とお)と 青葉若葉の 日の光 芭蕉
こういう句は、いまどきの俳人に詠めるはずもない。
何とせん 五人に三つ 初茄子(なすび) 許六
これもおなじ。私たちの日常に、こういう情景がまるでなくなった――わけではないだろうが、俳句に詠むことはなくなっている。
我が家に 来さうにしたり くばり餅 一茶
今ではどんな荷物でも宅急便で届けられるし、配り餅などという習慣もなくなっているだろう。この俳句のさびしみ、おかしみなどはわからなくなっている。
思いたつ 吉野の人も 花見かな 野坡
もう桜も散ってしまったが、こんな俳句を眺めて、せめて江戸の情調をしのぶことにしようか。
ただし、のんびり俳句を読むといっても、
麸といふものあり 性 水を好んで氷に遊ぶ 杉風
あるいは、
流るる年の哀れ 世につくも髪さへ漱捨つ 其角
といった俳句はあまり気に入らない。杉風ははじめから好きではないから読まないが、其角にはときどき感心しながら、こんな句を読むとアホかと思う。 (つづく)