最近、ジュリエット・グレコについて書いたせいで、若い頃、よくシャンソンを聞いていたことを思い出した。
ところが、シャンソンを聞いていたことは思い出したが、自分が好きだったシャンソニエの名前も曲名も忘れている。思い出そうとしても出てこない。愕然とした。いや、悄然とした。竦然としたといったほうがいい。
いくらボケがひどくなっているにしても、こうまでひどくなったとは。
そこで私なりの脳の活性化。
たとえば、作家、アンドレ・ジッドが亡くなったとき、その10日前、パリ、ピガールの安ホテルで、ひとり孤独な死を迎えた女がいる。フレェル。1891年7月、パリ生まれ。ジュヴェより4歳下。わずか5歳のときからシャンソンを歌いはじめる。カフ・コン(酒場で歌う芸人)からミュージック・ホールへ。酒と色恋沙汰にいろどられた人生は、エディト・ピアフやシュジー・ドレールと変わらない。
美貌のシャンソン歌手として人気があったが、大スターだったミスタンゲットに「恋人」のモーリス・シュヴァリエを奪われ、その痛手から恢復できず、酒に溺れ、声を失って、戦後の混乱のなかで亡くなった一人の女。
最後のシャンソンは、いみじくも「恋人たちはどこに行ったのかしら」(Où sont tous mes amants ?(1936年)だった。自分のシャンソン「疲れたひと」さながらアルコールに溺れ、落魄したフレェルは、自分の歌った「スズメのように」(1931年)のように、しがない人生を生きる。落魄もまた、ある芸術家にとって最後のぎりぎりの表現なのだ。 「ルイ・ジュヴェとその時代」第6部/p.621
そのフレェルのシャンソンを思い出そうとしても思い出せない。
ほかのシャンソニエたちの歌も忘れている。エディト・ピアフはどうだろう。
「愛の讃歌」、「バラ色の人生」、「パダン・パダン」は思い出せるが、「私の回転木馬」や「水に流して」などは忘れている。
ダミア。モーリス・シュヴァリエ。ほとんど、おぼえていない。
イヴ・モンタンは? 「枯れ葉」はおぼえているが、「毛皮のマリー」、「セーヌの花」は思い出せないなあ。「ガレリアン」は?
ダニエル・ダリューの「ラストダンスは私に」はおぼえている。しかし、ジルベール・ベコー、ティノ・ロッシ、シャルル・トレネ、イヴェット・ジロー。さあ、困った。
リュシエンヌ・ボワイエの「聞かせてよ愛の歌を」を思い出した。
「パリの屋根の下」、「パリの空の下」は、少しだけ思い出した。ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエの映画を何度も見たので。
そのうちに、「望郷」を見ることにしよう。アルジェ。迷路のような階段の町に逃げ込んだ「ペペ・ル・モコ」に、自分のレコードで自分のシャンソンを聞かせる初老の女がフレェル。
マリアンヌ・フェイスフル。いつだったか、宮 林太郎さんが贈ってくれたっけ。
パリが好きだった宮 林太郎さんが、あまりパリを知らない私を心配して、マリアンヌを聞きなさいといってくれたものだった。
フレエルの「青いジャバ」をかすかに思い出した。
しばらく考えているうちに、自分でも意外だったのは、はじめておぼえたシャンソンが、ティノ・ロッシの「マリネラ」だったこと。小学校3年の頃だった。
もう誰も知らないシャンソンを聞く。
シャンソンは時代・風俗を反映するが、それが歌われている時代・風俗に影響をおよぼす。そして、その時代が去ってしまえば、そのシャンソンを歌った人たちも消えてしまう。作詞の語感も、曲の音感も、時代とともに推移する。今、ジャン・サブロンの「パリはちっとも変わっていない」や、シュヴァリエの「パリは永遠に」を聞いたら、おそらく誰でもパリは「すっかり変わってしまった」とか「パリは永遠のパリではなくなった」という感想をもつだろう。
しかし、同時に、もの書きとしての私は、ある時期に、いつもちょうどいい程度のポップスやシャンソンを聞いてきたような気がする。
せめて、ゲンズブールとジェーン・バーキンを聞こうか。「ジュ・テーム・ノン・プリュ」を。いつだったか、翻訳家の神崎 朗子さんが贈ってくれたCD。