1902

最近、ジュリエット・グレコについて書いたせいで、若い頃、よくシャンソンを聞いていたことを思い出した。

ところが、シャンソンを聞いていたことは思い出したが、自分が好きだったシャンソニエの名前も曲名も忘れている。思い出そうとしても出てこない。愕然とした。いや、悄然とした。竦然としたといったほうがいい。
いくらボケがひどくなっているにしても、こうまでひどくなったとは。

そこで私なりの脳の活性化。

たとえば、作家、アンドレ・ジッドが亡くなったとき、その10日前、パリ、ピガールの安ホテルで、ひとり孤独な死を迎えた女がいる。フレェル。1891年7月、パリ生まれ。ジュヴェより4歳下。わずか5歳のときからシャンソンを歌いはじめる。カフ・コン(酒場で歌う芸人)からミュージック・ホールへ。酒と色恋沙汰にいろどられた人生は、エディト・ピアフやシュジー・ドレールと変わらない。

美貌のシャンソン歌手として人気があったが、大スターだったミスタンゲットに「恋人」のモーリス・シュヴァリエを奪われ、その痛手から恢復できず、酒に溺れ、声を失って、戦後の混乱のなかで亡くなった一人の女。
最後のシャンソンは、いみじくも「恋人たちはどこに行ったのかしら」(Où sont tous mes amants ?(1936年)だった。自分のシャンソン「疲れたひと」さながらアルコールに溺れ、落魄したフレェルは、自分の歌った「スズメのように」(1931年)のように、しがない人生を生きる。落魄もまた、ある芸術家にとって最後のぎりぎりの表現なのだ。       「ルイ・ジュヴェとその時代」第6部/p.621

そのフレェルのシャンソンを思い出そうとしても思い出せない。

ほかのシャンソニエたちの歌も忘れている。エディト・ピアフはどうだろう。
「愛の讃歌」、「バラ色の人生」、「パダン・パダン」は思い出せるが、「私の回転木馬」や「水に流して」などは忘れている。

ダミア。モーリス・シュヴァリエ。ほとんど、おぼえていない。

イヴ・モンタンは? 「枯れ葉」はおぼえているが、「毛皮のマリー」、「セーヌの花」は思い出せないなあ。「ガレリアン」は?

ダニエル・ダリューの「ラストダンスは私に」はおぼえている。しかし、ジルベール・ベコー、ティノ・ロッシ、シャルル・トレネ、イヴェット・ジロー。さあ、困った。

リュシエンヌ・ボワイエの「聞かせてよ愛の歌を」を思い出した。

「パリの屋根の下」、「パリの空の下」は、少しだけ思い出した。ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエの映画を何度も見たので。
そのうちに、「望郷」を見ることにしよう。アルジェ。迷路のような階段の町に逃げ込んだ「ペペ・ル・モコ」に、自分のレコードで自分のシャンソンを聞かせる初老の女がフレェル。

マリアンヌ・フェイスフル。いつだったか、宮 林太郎さんが贈ってくれたっけ。
パリが好きだった宮 林太郎さんが、あまりパリを知らない私を心配して、マリアンヌを聞きなさいといってくれたものだった。

フレエルの「青いジャバ」をかすかに思い出した。

しばらく考えているうちに、自分でも意外だったのは、はじめておぼえたシャンソンが、ティノ・ロッシの「マリネラ」だったこと。小学校3年の頃だった。

もう誰も知らないシャンソンを聞く。
シャンソンは時代・風俗を反映するが、それが歌われている時代・風俗に影響をおよぼす。そして、その時代が去ってしまえば、そのシャンソンを歌った人たちも消えてしまう。作詞の語感も、曲の音感も、時代とともに推移する。今、ジャン・サブロンの「パリはちっとも変わっていない」や、シュヴァリエの「パリは永遠に」を聞いたら、おそらく誰でもパリは「すっかり変わってしまった」とか「パリは永遠のパリではなくなった」という感想をもつだろう。
しかし、同時に、もの書きとしての私は、ある時期に、いつもちょうどいい程度のポップスやシャンソンを聞いてきたような気がする。

せめて、ゲンズブールとジェーン・バーキンを聞こうか。「ジュ・テーム・ノン・プリュ」を。いつだったか、翻訳家の神崎 朗子さんが贈ってくれたCD。

1901【向田邦子3】

向田 邦子について書いたエッセイは、「阿修羅のごとく」公演パンフレット(「芸術座」/平成16年7月)に掲載された。
私は、頼まれれば何でも書くことにしていたので、映画のパンフレット、劇場のパンフレットに原稿を書くことも多かった。向田 邦子について書いたエッセイも、芝居のパンフレットに書いた。当然ながら少数の人が読んだだけで、私の周囲の知人、友人も、こんなエッセイを読むことはなかったはずである。

「阿修羅のごとく」は、いい意味で日本のブールヴァール芝居と呼んでいいだろう。このまま、外国語に訳されて外国の劇場で上演されても観客に理解されると思う。少なくとも、日本の「戦後」屈指の風俗劇として関心をもたれるだろう。ただし、この場合は、サン・フランシスコあたりの劇場から出発しなければならないだろうけれど。
これが、もし練達の脚本家が、向田 邦子の原作に近いかたちで翻案して、その国のすぐれた女優たちを起用すれば、オフ・ブロードウェイの劇場で上演してもかならずヒットすると思われる。

ただし、その「翻案」でも、向田 邦子の「阿修羅のごとく」というタイトルは、すんなり受け入れられるとは思われないが。

私が、日本の「戦後」屈指の風俗劇と呼ぶのは、芝居として見た場合、「三婆」、「遊女夕霧」、「放浪記」、あるいは、谷崎 潤一郎原作の「細雪」などよりもずっと高級な芝居になっているからである。(小説については、まったく別だが。)

これまた、私の「妄想」なのだが。

「阿修羅のごとく」を見たときの印象ももはや薄れかけているが、中村メイコが母親役で、山本 陽子、中田 喜子、秋本 奈緒美、藤谷 美紀が四人姉妹で、それぞれの修羅をユーモアとぺーソスで押しつつんだ良質のブールヴァール・コメディだった。

私の印象では、長女役の山本 陽子は、自分の美貌をあまりにも恃み過ぎて、女優としての危機に気がついていないように思った。
夫の浮気を疑っている次女役の中田 喜子に注目した。その後、テレンス・ラティガンの芝居など、中田 喜子の舞台を何度か見つづけたが、やはりラティガンには向かない。女優としてのディグニティーがない。惜しいかな、これであたら名女優になれるチャンスを見逃したな、という気がした。
秋本 奈緒美と藤谷 美紀はこれからの人という感じだったが、藤谷 美紀ならさしづめウェデキントの「パンドラの箱」か、秋本 奈緒美ならラビッシュの「イタリアの麦ワラ帽子」あたり、みっちり稽古すればすぐれた女優になれるだろう、と思った。
舞台を見ながらそんなことを考えたことを思い出す。むろん、これもまた、私の「妄想」だったが。

当時、まさか向田 邦子について何か書く機会がある、とは思っていなかった。私の書くものとは、およそミリューが違っていた。ただし、向田 邦子に関心がなかったわけではない。「日本きゃらばん」の庄司 肇さんが「向田 邦子論」のようなものを書いていたので、向田 邦子の著書はひとわたり読んでいた。

コロナ・ウイルスで、外出も自粛していた時期、雑誌や、自分の原稿などを整理したのだが、たまたま「阿修羅のごとく」の公演パンフレットが出てきた。

私のエッセイはそれなりにまじめに書いていると思う。劇場の観客向けに、できるだけわかりやすく書いていることがわかる。私のエッセイを読んで、「阿修羅のごとく」の印象が、やさしく、しかもいきいきとしたものになればいい。おそらく、そんなつもりで書いたらしい。

このエッセイを依頼してきたのは、当時「東宝」の演劇部にいた谷田 尚子だった。現在の谷田 尚子は、ある有名な俳優のエージェントになっているが、彼女のおかげで、いろいろな舞台を見ることができた。

タイトル、「庶民の哀歓を描いた作家~向田 邦子」は、私がつけたものではない。
谷田 尚子がつけてくれたものだろう。

あらためて、谷田さんに感謝している。

向田 邦子には一度だけ会ったことがある。井上 一夫(翻訳家)が紹介してくれたのだった。まだ、森繁 久弥のラジオコラムも書いていなかった頃だろう。つまり、まだ無名の向田 邦子に会っていることになる。
すぐにその才気煥発に驚かされた。
そのあと手紙をもらった。綺麗な字に彼女のまれに見る才気を見た。

残念ながら、その手紙は残っていない。

1900 【向田邦子2】

彼女が登場したのは――まだ戦争の記憶もなまなましい時代、一方で、朝鮮戦争があって、日本が不安な気分に見舞われていたころ。無名の向田 邦子は森繁 久弥のラジオコラム「重役読本」のレギュラー・ライターになりました。このコラムはなんと二千数百回もつづいています。
音だけの世界で、聴取者たちにおもしろい話題を聞かせる。語り口のおもしろさに興味を感じさせなければならない。こうした修行が、後年の向田 邦子の素地を作ったといっていいでしょう。
やがてテレビの脚本家として有名になります。
とりあげられる話題は、ほとんどが人生のささやかなことばかりでした。
向田 邦子は、こうしてポピュリスム(庶民派)の作家として頭角をあらわしてゆきます。「七人の孫」(昭和37年)で、たちまちお茶の間の人気をさらった。今でも「きんきらきん」や「寺内貫太郎一家」などを、なつかしく記憶している人は多いでしょう。
そこでくりひろげられる人間模様は、どこにでもいるような平凡な家族の、とりとめのない話ばかりでした。しかし、向田 邦子のさりげない細密描写には、いつも視聴者の胸をうつものがあった。心のうるおい。その生きかたのやさしさと深さ。庶民だからこそ共感できる感動があったのです。
当時はホームドラマとよばれていました。
向田 邦子の作品には「時間ですよ」、「だいこんの花」、「あ・うん」など、ホームドラマの名作がずらりと並んでいます。
「阿修羅のごとく」(昭和55年)は、まさに、テレビ作家から小説家に変身しようとしていた向田 邦子らしい作品でした。このドラマあたりから向田 邦子は作家になって「おもいでトランプ」の連作、「花の名前」、「かわうそ」、「犬小屋」の三作で直木賞を受けたのでした。

「阿修羅のごとく」がテレビで放映されたとき、それぞれの回数タイトルが、「女正月」、「三度豆」、「虞美人草」、「花いくさ」、「裏鬼門」、「じゃらん」、「お多福」といったものでしたが、なぜか、向田 邦子の人生観を反映していました。それは、愚かで、かなしい人間たちが、それゆえに、いとおしい、やさしさにみちた存在だったからでしょう。
映画監督の小津安二郎が小市民の生活をいきいきと描きつづけたのとにていますが、やはりどこか違います。小津安二郎は、生涯を通じて、老境にさしかかった夫婦や、父と娘の関係を描きつづけましたが、向田 邦子の描く世界は、もっと修羅にみちた、しかし、どこか純粋にドラマティックな世界だったといえるでしょう。

テレビの脚本だけではなく、小説家として多忙をきわめていた向田 邦子は、新しい作品のための取材に出かけるつもりでした。その構想は、台湾を皮切りに、韓国、中国、インド、さらには南フランスを旅行して、それぞれ旅行記を書く。6冊になる予定だったようです。いってみれば、あたらしいルポルタージュを書こうとしていたのでした。
昭和58年8月22日、台北から高雄に向けて飛びたった台湾/遠東航空のボーイング・ジェットが、午前10時10分、台北南西で墜落しました。日本人乗客18人が含まれていましたが、そのなかに向田 邦子が乗り合わせていたのです。

翌日の新聞各紙はいっせいにこのニューズをトップで報じましたが、「毎日」だけはニューズを落としています。日曜日だったので、台湾の航空機の事故などに注目しなかったのでしょう。向田 邦子が遭難したことにさえまるで気がつかなかったようです。「毎日」は翌日になってからやっと報道しています。
ところが、向田 邦子の悲報に私たちはおおきなショックに打たれました。
当時、向田 邦子の本は、「父の詫び状」、「あ・うん」、「無名仮名人物」、「思い出トランプ」、「眠る盃」、わずか5冊だけでしたが、たちまち売り切れて、出版社はいくら増刷しても足りないほどでした。たいへんな人気作家だっただけに、書店に立ち寄って著書を買い求める人が多かったのです。
こういう現象は、三島 由紀夫が自殺した昭和45年秋いらいのことでした。

最後の作品を書きあげる前の向田 邦子は乳ガンの手術をうけたあとでした。「死ぬ」という字が、その字だけ特別な活字に見える、といった毎日だったといいます。ガンには打ち勝ったが、旅客機の事故でなくなった。無意識に死を覚悟していたのかも知れません。
短編集「父の詫び状」のなかで、「誰に宛てるともつかない、のんきな遺言状を書いて置こうかな、という気持もどこかにあった」と向田 邦子は書いていました。なぜか、自分が死ぬことを予感していたのかもしれません。
読者たちは、誰しも、そんなことを考えあわせて、めいめいがこの作家の悲運を心から悼んだのでした。

私は向田 邦子の作品を読むとき、ときどき自分で声に出して読みます。短編でもエッセイでも。
「男どき女どき」のエッセイなどは、活字を追うだけでもほんの二、三分で読めます。しかし、声に出してみると、この作家の心の動き、息づかいまで感じられるのです。
みなさんも、できればほんの一節でいいから音読したほうがいい。自分で口に出して読んでみることです。ドラマのナレーターをやった岸本 加世子や、佐野 量子のように上手に朗読できなくてもいいのです。とにかく自分流に声に出してみる。そうすれば、そのシーンのみごとさが納得できるはずです。
声に出して読んでみると向田 邦子の描き出す人物の心の動きまで、自分にひきつけてわかってきます。
上手に朗読出来る人は、自分がまるで女優さんになったような気持になれるでしょう。こういう作家はやはりめずらしいのではないでしょうか。
そういう意味でも向田 邦子はすばらしい作家でした。

1899【向田邦子1】

向田 邦子について。短いエッセイを書いたことがある。
タイトルは、「庶民の哀歓を描いた作家~向田 邦子」。ただし、このタイトルは、私がつけたものではない。
以下、私のエッセイを載せておく。

向田 邦子

向田 邦子はすばらしい作家でした。短編作家としても、チェホフや、モーパッサン、キランドといった作家に負けないほどうまい作家です。
どういう短編でも、なんでもない描写のなかに、じつにみごとな冴えを、見せていました。たとえば――

  「こんなにつまらないお皿ひとつでもいろいろあってねえ。なかなか思い切って捨てられないものなのよ」
  テーブルの上のお皿をとりあげて、
  「ね、あんた、これ、覚えてる?」
  男は黙っています。
  「世田谷の……若林に住んでいた頃よ、縁日に行って、けんかして……ホラ……あのとき、夜店で値切った……」
  男は、チッと舌打ちをします。
  「何をつまらないことを……」
  「ほんと、どうしてあたしって、こうつまらないことしきゃ言えないのかしら」

「きんぎょの夢」

 これだけで、男と女の姿ばかりか、女の性格や内面までくっきりとみえてきます。

また別の短編では、結婚をひかえている二十四歳の女が、新婚旅行の打ち合わせに、残業をしている婚約者「達夫」のところを訪れます。おなじように残業をしている同僚の「波多野」が突然にいいます。

  「女は立派だなあ」
  笑おうとしているらしいが、口許はひきつっている。
  「知ってて知らん顔できるんだから」
  彼女は、親友にこの話をします。親友が聞き返します。
  「若しその人が、ぼくと結婚して下さいと言ったらどうする」
  「気持はうれしいけど断るわね。当たり前でしょ」 

「三角波」   

 すぐにも結婚をひかえた若い娘の微妙な心理、その内面の揺れが、何も説明されていないのにじんわりとつたわってきます。
このシーンだけでも声に出して読んでみると、それぞれの登場人物の表情や、姿勢、位置まで見えてくるようです。こうした心理的なレアリスムが向田作品の魅力ではないでしょうか。

向田 邦子はほんとうに才気煥発な作家でした。卓抜なエッセイストであり、作家でもあった。

1898

2020年8月20日、ロシアの反政権運動のリーダー、アレクセイ・ナワリヌイは、西シベリア、トムスクの空港で、ティーを飲んだあと、空路、モスクワに向かったが、機内で体調が急変した。ただちにオムスクの病院に搬送されたが、重体。
オムスクの病院は、「毒物の痕跡はない」と発表した。22日、ナワリヌイは、ドイツ、ベルリンの病院に移送された。24日、ベルリンの病院側は「毒物使用「を疑わせる物質を検出したと発表。
9月2日、ドイツのメルケル首相は、ドイツ連邦軍の研究所の検査の結果、ノビチョク系の毒物が使用されたと断定。
ロシア側は、例によってこれを否定。

8月28日。
安倍 晋三首相が、健康上の理由で辞任の意向を表明した。突然のことで、政界に大きな衝撃が走った。これから各派閥の後継者指名が問題になる。

誰にも会わない日々。

気になるニュース。昨年の出生数、86万5千人。過去、最低。これまで、年平均、約1万人ずつ減少し昨年は約5・3万人も減少した。原因の一つは、20代、30代の年齢層の女性が急激に減少しているため。社会保障・人口問題研究所の試算によれば、10年後には、出生数は70万人台になる。これも、亡国現象の一つ。

菅首相は就任後、最初の記者会見で少子化対策に力を入れると語ったが、どうせたいした対策も立てられないだろう。私が首相だったら、不妊治療などよりもまずシングル・マザーの奨励、社会的な保護、援助を実行するのだが。(笑)

映画「グラスハウス」2001年)を見た。両親を自動車事故で失ったため、セレブの里親に引き取られ美少女(リリイ・ソビエスキ)と幼い弟。彼女は、男親が勤務先の会社の金を横領したため、誰かに脅迫されていることに気がつく。亡くなった両親の遺産は400万ドル。莫大な遺産管理をめぐって自分の身辺に危険が迫っている。雨の闇夜、彼女は弟をつれて、養家から逃走をはかる。
ハリウッド映画のB級スリラー・ミステリー。リリイ・ソビエスキは、美少女。里親の夫婦。妻はもとは医師だったが、夫の悪事に手を貸したため、薬物におぼれ、急死する。
この母親をダイアン・レインがやっている。かつての美少女、ダイアン・レインは、やがて演技派の女優に転身するが、途中でこんなつまらないミステリーに出ている。
美少女、リリイ・ソビエスキは消えてしまった。うたた感慨なきにしもあらず。

TVニュース。女優、竹内 結子が自殺した。いい女優だったのに、自殺しなければならないほど煩悶していたのか。ちょうど、東山 千栄子のことをブログで書きはじめたところだったので、竹内 結子の訃報を知って暗然たる思いがあった。

20年9月29日。

朝、田栗 美奈子に電話。
思いがけない返事があった。母上が、今朝の未明に亡くなられたという。声を失った。

弔電。配達は、明日、午前中。

 

    白菊や みな忘れえぬことばかり  

1897

私は、あい変わらずキャサリン・マクフィーのファンである。ただし、キャサリンは、日本ではほとんど知られていない。残念ながら、このまま知られずに終わるかも知れない。
キャサリン・マクフィーはTVミュージカル、「SMASH」に主演して、「マリリン・モンロー」を演じた女優。このときから彼女に注目してきた。

たとえば、「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー」というジャズ・クラシックがある。
タイトルは「惚れっぽい私」と訳されていて、それなりにいい訳だと思う。

ジャズ・スタンダードだが、ふつうのシンガーが歌うと、いかにも「惚れっぽい私」といった蓮っぱな女の、けだるい、安っぽい女の歌になる。

キース・ジャレットがこの曲を演奏すると、そうしたいじましさが消えて、なんともいえない優雅さがあらわれて、しかも、「ついムキになるのよね、私って」とつぶやくようなおんなのあやしいムードが立ちこめてくる。

キース・ジャレットの「スタンダーズ」に選ばれている「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー」を、たまたまキャサリン・マクフィーが歌っている。

キャサリンを聞いたとき、おや、これは、と思った。

これを聞きながら、現実に恋多き女、キャサリン・マクフィーの人生を重ねてしまうのだが、しかし、キャサリンの「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー」は、キースの演奏に劣らない魅力があふれている。このことは、現在のキャサリンが、ついに「スタンダード」を歌う段階に達したことを意味する。image

キャサリンの前作、「ヒステリア」のラテン・テイストに、つい失望したことも影響している。

このアルバムを聞いたとき、キャサリンも、人並みにスタンダードを歌うようになったのか、という感慨があった。少し落ち目になったミュージシャンが、人気回復のために安易にスタンダードを取り上げ、簡単にCDをリリースすることが多い。
しかし、この「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー」は、キャサリンの場合、ジャズ・クラシックへの回帰が、そのまま、自分の「現在」を見つめることにつながっている。
あえていえば、女優として、ミュージシャンとして、さまざまに模索を繰り返してきたキャサリンが、いまや、スタンダードを歌うグレードに達している。

スタンダードを歌うのは、それなりにグレードの高い、品格の高いミュージシャンにしか許されないのだ。
私の考えは間違っているだろうか。

 

1896

コロナ・ウイルスで、外出も自粛していた時期、私は、ほとんど読書しなかった。理由はある。外出自粛で新刊書も買えなかったからである。それに、私の親しい友人たちの本が出版されなくなった。

仕方がない。前に読んだ本を見つけて読み返そう。

そうして読んだ本のなかに、あらためて感銘を受けた評伝がいくつかあった。

その一冊は、第一次世界大戦後のロシア革命と、その後のソヴィエト、ヨーロッパの裏面史を彩ったロシア貴族の女性の評伝だった。1981年出版。非常に優れた評伝で、日本では、1987年に翻訳が出版された。翻訳も信頼できるものだった。

訳者は、あとがきで、

私事で恐縮だが、大きな関心をもつ時代の歴史の裏側に埋もれていた興味ある事実が次々に明らかにされるので、私はこのしごとを実に楽しく進めることができた。この興味を広くみなさんと分ちあいたい思いでいっぱいである。なお調べが十分でなかったところもあるので、人名や地名の誤記については御教示を仰ぎたい。

という。

この翻訳を読みながら、人名の誤記の多さに驚いた。

    ル・サロメ                 ルー 
    クリストファー・イシェルウッド       イシャーウッド 
    マルガリータ・ゴーチェ           マルグリート  
    バークレイ・ド・トーリ           バルクレイ
    ボルジノ                  ボロジノ
    アルトゥール・ランソン           アーサー
    アルバート・トマ              アルベール
    セオドル・ルーズヴェルト          シアドー
    バジル・ザハロフ              ベイジル
    ラルッサ                  ラルース 
    クロード・ファーラー            ファーレル

 これで、半分。
私の記憶がおかしいのかも知れないが、原文が「ル・サロメ」とあっても、私なら「ルー・アンドレアス・サロメ」とするだろう。
クリストファー・イシェルウッドは「クリストファー・イシャーウッド」とする。

せっかくいい訳なのに、私の知っている人名が違っていると、どうしてもひっかかる。
この訳者はクロード・ファーレルの「海戦」を読んだことがないにしても、デュマ・フィスの「椿姫」も読んだことがないらしい。

「百科事典」のラルッサには驚かされた。

ドロップを舐めていて、ガリッと、砂利を噛んだような気分になる。

1895

(つづき)
宿帳に書いてくれた人たちの中には、のちに作家になったひと、翻訳家になったひと、残念なことに早世したひと、いろいろだが、今になってみると、それぞれ違った運命をひたむきに生きたといえるだろう。

なぜ一冊のノートにこんなものを書かせたのか。その目的はすでに述べたが、もっと違った理由もある。

翻訳家をめざす人たちは、当然ながら、外国語ができる。しかも、翻訳家を目指して勉強する意欲をもっている。外国語を理解して翻訳するということは誰にも許されることではない。つまり、それだけでも有用な資質だろう。

私は、この人たちにさまざまなジャンルの作品を読ませた。

純文学はもとより、ミステリー、ホラー、SF、ロマンス小説、ときにはポーノグラフィックな作品まで。フィクションを翻訳したいと希望する人でも、ノン・フィクションなどに取り組むことで、プロになる機会をつかむことが多い。

だいたい3週間~4週間で、一つのジャンルの短編を読むことにしていた。なるべく多様なジャンルの作品を読み、自分の「現在」の語学力で訳すことが新人の訳者には必要と考えたからである。大学の英文科、とくに女子大の英文科で、一流作家の作品を読んできたからといって、「ニューヨーカー」スタイルの短編を訳せるとはかぎらない。
おなじように、フォークナーを読んできたからといって、ダウン・イーストの喜劇的なヤンキーの伝統を描いた作品をうまく訳せるだろうか。

私以外の先生たちは、いずれも有名な教育者ばかりで、その講義もすぐれたものだったと思われる。ただし、その先生がたが教えたことは、ご自分が専門とするすぐれた作家の作品をテキストにして、講読を行うことに尽きていた。ある優れた先生は、ご専門のポオの作品をとりあげて、ポオの解釈を教えつづけられた。

私は、こうした講義に危惧をもっていた。それぞれのクラスの大半が出身大学のクラスでそういう講義を受けてきているだろう。私のクラスにしても、大半の受講者は女性だったが、大学の教室で、ブロンテ姉妹や、ディッケンズ、ブラウニングあたりから、レベッカ・ウェスト、カーソン・マッカラーズなどを読んでいる。なかにはイタリア・ルネサンスに関する専門的な本を読んでいて、私に著作を批判した才女もいた。
語学力のレベルだけでいえば、私のクラスの人たちは一流大学の学生以上のハイ・レベルだったといってよい。

しかし、女子大の英文科を優秀な成績で卒業したからといって、そのまますぐに翻訳家になれるだろうか。どこの出版社が、彼女の翻訳書を出してくれるだろうか。

私のクラスの生徒たちは、だいたいが語学的に優秀な人が多かった。しかし、実際に翻訳したものを拝見すると、それは女子大の優等生の翻訳に過ぎない程度のものが多かった。
私は、そういう訳をいつも「女子大優等生の翻訳」として褒めることにしていた。むろん、半分は皮肉で。

私の「宿帳」に書かれた字をみただけで、私はかなりの程度まで、その人の才能や、文学的な適応性、志向とか、好みまでわかる。これに関しては、かなり自信をもっている。
字の上手へたではない。
その人の精神上の事像を、そのなかに含めて文学的なプロダクティヴィテイー、さらには外国の小説、エッセイを読むことで、どこまで自分のクリエーティヴな天分がひらめいているか。
わずかな記述からも、その人の思考の明確さ、かなりの炯眼、透徹が見てとれる。

じつは、ある時期まで、ある劇団の俳優養成所で、若い俳優、女優志望者たちを相手に講義や演出をつづけてきた経験が役に立ったのかも知れない。

若い人の才能をいち早く発見して、育てる、その才能を誘掖することは、ただの教育の域を越えている。

1894

たいせつな宝物がある。「宿帳」という。ただし、私がいうのではない。
私のクラスに集まった、若い、優秀な女人たちがひそかに「宿帳」と呼んでいた。

ほとんど半世紀、一冊のノートを持ち歩いていた。当時、私は、東京の大学と相模原の女子大の先生をやっていたが、もう一つ、東京は神田にあった翻訳家養成を目的とする学校の講師をつとめていた。

神田の翻訳学校、私のクラスでは授業の最初の日にノートをさし出して、自分の氏名と、一行でもいいから何か書くことを「義務」とすることにしていた。

自分のクラスの生徒にいきなり「義務」を強制する先生はいないだろうと思う。たいていの生徒は驚いて、拒否反応を見せるのがつねだった。

ノートをスルーする生徒もいたが、それでも、これが教育者(エデュカテュール)としての私の「訓練」と判断して、しぶしぶながら私の要望に応えてくれる人もいた。

ほとんどの生徒たちは、一行から数行、何か書く。自分の名前をサインして、ノートを隣りの生徒にまわすのが習慣になった。

じつはこのノートには私なりの目的があった。できるだけ早く出席者の名前をおぼえること。
あわせてその筆跡をみて、その「生徒」の文学的な資質、ひいては性格や、適性、志向性などを判断すること。
あえていえば筆跡学のようなものでもあった。

手もとにある1冊をここにとりあげてみよう。ただし、筆者に無断で。

ジャーマン・ベーカリーで かもめのお話をしました。
’小説の解釈、劇の解釈は自由である’という言葉の重さを考えたく思います。(R.K.)

「かもめ」は、むろん、チェーホフのドラマ。何を話したのか内容はおぼえてもいない。

おそらくチェーホフの戯曲が話題になったのだろう。
このノートでは、タイトルにカギかっこがついていない。このことから、私は何を読んだのか。
ノートのはじめのぺージにこれを書いてくれたR.K.さんは、のちに評判になるTVシリーズのノベライズを手がけたり、有名な人形劇団で演出助手をつとめたりする。
優秀な劇作家になった。

第一章をお渡ししてしまいました。
書いているというか(ワープロを)打っていると、ああ、早く終わらないか……と今から思ってしまいます。 (M.N.)

 

最近、大学時代の先生のお宅にお邪魔を致しました。79才にして、ピアノのお稽古を始められ、震える指でシューベルトをきかせて頂き、私も生きる勇気がわいて参りました。 (T.T.)

 

このお店はいつもお客様がいませんねえ。
お仕事、頑張ってください。 (I.O.)

 

地方にいるころ、こんな先生に教えてもらえたら、と思っていた、その「先生」に、現実にお目にかかることができ、本当に夢みたいです。 (F.U.)

 

今朝4時に起きて、机に向かいました。苦しんでいた原稿の導入部が決まり産道がひらけました。
今は朝から小雨。昨年5月から続いた講義「ルネサンスを生きた女性たち」の最終日。お忙しいなかを本当にありがとうございました。 (N.T.)

 

山ノ上ホテルは、学校の先生のおめでたい結婚式でにぎわっております。先生をからかう生徒の笑顔。眼鏡の奥の、先生の幸福な瞳。春を感じるひとときです。(F.U.)

 

いつもお世話になるばかりで心苦しくおもっています。これからもどうぞよろしくおねがいします。 (Y.K.)

 

皮肉で楽しい御講義は、私の人生のたのしみです。末永くよろしく。(H.K)
成瀬 己喜男、観ました。
「メトロポリス」、観ました。
川島 雄三の「接吻泥棒」、観ました。
映画を観ているのが一番しいあわせ。 (M.N.)

 

いつも冷や汗をかいています。
自分の力のなさをいつもみせつけられ、素晴らしい刺激をうける毎週金曜日です。
これからもどうぞお見捨てなく。(R.M.)

 

翻訳の入口で迷っている私ですが、これからもどうぞよろしくお願いします。(F.I.)

 

もう4月だというのに、寒くて嫌なお天気です。
ひどいかぜをひいてしまいました。どうもさえない毎日です。
頭、スッキリ、気分、スッキリして新たに出発したいものです。
4月に入ったらすぐ私の本がでるのですね。だからといって、何も変わることはないし、はっきりいって自分が小説家といえるとは、まだ思っていません。
これをひとつの区切りにして気分一新してがんばろうと思うのです。(I.O)

 

これは「宿帳」の最初から数ぺージの引用である。名前は伏せた。

あえていえば、この「宿帳」は私の日記の代用品であった。私のノートは、いつごろからか「宿帳」と呼ばれることになった。
(つづく)

1893

コロナ・ウイルスがようやく艾安(がいあん)に向かいはじめた頃、ふと心をかすめる詩の一節があった。

獨往 路難盡   どくおう みち 尽きがたく
窮陰 人易傷   きゅういん 人は いたみやすし

唐の詩人、崔 署(さいしょ)詩の一節。以下、拙訳。

一人旅する よるべなさ
冬も終わるか 心身にしみる寒さよ

崔 署(さいしょ)については何も知らない。

たいして才能もないままにもの書きを志した蒙鈍(もうどん)の身にして、そろそろ決着がついてもおかしくない頃合い。おまけにコロナ・ウイルスなどという不吉な災いが時代を覆いつくしているとなれば、崔 署の思いがおのずから重なってきてもさして不思議ではない。

1892

 

男と女。

いろいろなことばがある。

 

ブロンドの女の汗は、おれたちの汗とは違うのだ。

ゴア・ヴィダル 1978年

純潔(貞淑)は、性的倒錯のもっとも不自然なもの。

オルダス・ハクスリー 1973年

女たちはたいていトラブルのもとだ。不感症だったりニンフォマニアだったり。スキゾだったり、アルコールにおぼれたり。どうかすると、その全部だったり。自分をきれいに包装した贈り物のように包んでみせる。ところが、中身は自家製の爆弾だったり、毒入りのケーキだったり。

 ロス・マクドナルド

日記をつけるのは、よき女である。わるい女にはそんな暇もない。

タルラ・バンクヘッド

セックスは、ディナーをとるようなものさ。出されたご馳走をジョークにしたり、ときにはおニクを一所懸命パクついたり。

ウディ・アレン 1965年

コロナ・ウイルスのおかげで、ほとんど本を読まなくなっている。そのかわり、私は、こんなことばをかき集めるようになった。

1891

作家の常盤 新平は、まだ無名の頃、私の家によく遊びにきた。
私が結婚したばかりの頃、三日も四日も泊まっていたことがある。これは、彼の「遠いアメリカ」に出てくる。

その常盤 新平は、やがて、早稲田に移り住むのだが、その前は、なんと埴谷 雄高さんの家の間借り人だった。
埴谷さんは、いうまでもなく戦後文学を代表する作家だが、「戦後」すぐに「死霊」を書きはじめた。この頃は、まだ「死霊」第一部(1946~48)の連載をはじめたばかりで、作家としては広く世に知られた存在ではなかった。
後年、埴谷さんは、安保闘争を中心に展開された政治論、スターリン批判などで、若い世代に思想的な影響を与えることになるが、「戦後」まもない時期には、生活のため、自宅の一部を学生の下宿に貸していたに違いない。

私は、常盤 新平が、埴谷 雄高さんの間借り人だったと知って驚いた。

埴谷さんも、間借り人だった学生が、後年、直木賞をもらう作家になるなど想像もしていなかったに違いない。常盤 新平は、この時期の埴谷さんについて何も書いていないと思う。彼が、間借り人だった時期は半年ばかりだった。

もう一つ。やはり、今となっては、私以外の誰も知らないことを思い出した。

埴谷さんは、若い頃、左翼の機関紙「農民闘争」の編集をしたことが知られている。むろん、非合法活動もつづけていたが、治安維持法によって裁判を受け、一年半も服役した。出所後に、ドストエフスキーを読み、大きな影響を受けた。

この時期、埴谷さんは、当局の監視下に置かれていたが、当局の尾行をふり切って逃げた。このとき、埴谷さんを助けたのは、長谷川 泰子だったという。

長谷川 泰子といっても、もう誰も知らない。当時、若い詩人だった中原 中也の「恋人」だが、その女性を、親しい友人、小林 秀雄に奪われる。
小林 秀雄は、やがて泰子から去る。というより逃亡する。中也は、今ひとたび自分のもとに戻ってくるように願うのだが、泰子はそれを拒否する。

埴谷さんは、まさにそのとき、司直の追求をのがれようとして泰子に匿われたという。

こんな話も、もう、その時代の暗さ、緊迫した空気が想像できなくなっている私たちには、ほとんど意味もわからなくなっているのだが。

1890

メェ・ウエスト(1892年~1980年)、女優。

5歳でボードヴィルで初舞台。「ベイビー・ヴァンプとして知られた。1926年、ブロードウェイに進出、「SEX」という自作の戯曲を演出、上演。大スキャンダルを起こした。警察は、公然ワイセツの容疑で、10日間、拘束した。翌年、「ドラッグ」という芝居で同性愛を扱い、警察はブロードウェイ上演を禁止しようとした。

美人ではない。しかし、もっともエロティックなスターのひとり。巨乳で、むっちりした肥りじし、いつも男の心胆をふるえあがらせるようなセリフを浴びせる。

ハリウッドに移り、映画で強烈な存在感を見せはじめ、映画のセリフで、セックスや、恋愛について、するどい皮肉やジョークを連発して、検閲や、警察の取締りを揶揄したり、挑発した。セリフは全部、自分で書いた。シナリオも自分で書き直した。
大不況の時代の空気を反映して、メェ・ウエストのセリフは、アメリカじゅうに流布して、大衆に支持された。「ヒトに見られながらヤルより、自分で見ながらヤルほうがずっといいわ」。
「あたしの人生で男の数なんかどうでもいいのよ、あたしの男の人生であたしがどんだけってこと」。

メェ・ウエストは、30年代のセックス・シンボルだった。と同時に、セックス・シンボルとしての自分をパロディして見せる。いまでも残っている名セリフは、「ねえ、いつかあたしントコにきてよ」 Come up and see me sometime など。

1935年、メェ・ウエストはハリウッドで最高の出演料スターだった。

「戦後」、自分の映画のキャリアーが終わったとみて、ハリウッドから引退。
そのまま、ブロードウェイにもどり、ミュージカルの女王になった。出処進退を誤らなかった大スターのひとり。

1962年、マリリン・モンローが亡くなったとき、メェ・ウエストがいった。

女優というものは感じやすい楽器と思われている。アイザック・スターンは、自分のヴァイオリンを大切にあつかっているわ。みんなが寄ってたかって、そのヴァイオリンを足蹴にして、どうするのよ。

メェ・ウエストが、後輩のセックス・シンボルの死を悼んだことば。

 「ねえ、あんた、あたしは独身だよ。そんなふうに生まれついてきたからね。結婚なんか考えもしなかった。だって、自分の趣味をあきらめなきゃならないもの。大好きな趣味って――男だからね。」(1979年)

亡くなる1年前のことば。

1889

暑い日がつづいていた。

本を読む気になれない。暇つぶしに、短い格言めいたものを読むことにしよう。有名人のインタヴューから拾ったり、気になった片言隻句。

たとえば、アルフレッド・ヒチコック。

彼女たちは、ほんとうのレディに見える。なりゆき次第で、寝室ではタイガーになる。ブロンドの女は、いざとなったらいともおしとやかにやってのける。

私は、キム・ノヴァクや、ティッピィ・ヘドレンを思い出しながら、こんなことばを読む。ふたりとも、ヒチコックがきらいになって、映画から去って行った女優。

   娼婦はレディのように、レディは娼婦のようにあつかえ。

これはウィルソン・マイズナーのことば。(ヒチコックとは無関係だが。)

ヒチコックの演出にはいつもそんな態度が感じられたっけ。

1888

昨夏、女優のオリヴィア・デ・ハヴィランドが亡くなった。104歳。
東京生まれ。ハリウッドきっての美女だったが、あまり関心がなかった。妹のジョーン・フォンテーンのほうが、もう少し知っている。そのジョーン・フォンテーンとは不仲で、お互いに女優になってから、義絶状態でほとんど交渉もなかったらしい。

大正7年の新聞に、オリヴィア/ジョーンの母親のインタヴュー記事が載っていた。この女性も美人で、バレリーナ、音楽家だった。この記事を調べようと思ったが、コロナ・ウイルスの自粛で図書館にも入れないのであきらめた。

「風と共に去りぬ」、「女相続人」も見なかった。

1934年、女子大生の頃、マックス・ラインハルトの「真夏の夜の夢」で「ハーミア」の役に抜擢された。翌年、おなじ役でワーナーと契約。少女スターになった。(この映画に、ミッキー・ルーニーがいたずらっ児の妖精をやっている。)
ごく普通の美人女優だったから、エロール・フリンの海賊映画のヒロインばかりやらされていた。
「風と共に去りぬ」の「メラニー」をやって、ようやく大スターへの道を歩みはじめる。私たちがオリヴィアに注目したのは「戦後」の「蛇の穴」あたりから。日本で、あまり有名にならなかったのは、「戦後」イギリスの映画や、ヨーロッパ映画に出ることが多かったためだろう。

妹のジョーン・フォンテーンのほうも、はじめはB級映画ばかりに出ていたが、「断崖」あたりから、演技力のしっかりした女優として知られた。おとなしい姉さんと違って、自家用機のパイロット、気球のチャンピオン、マグロ釣り、全米ゴルフ、室内装飾の専門家といった「外向的」な活動で知られた。

この姉妹の仲のわるさはジャーナリズムの話題になったが、おそらく少女時代に両親が離婚したためではないか、と思う。
家族の愛情などというものは、一種の形式的な義務のようなものだ。そんなものを無視してはじめて、そんなものがあることに気がつく。少女時代に両親が離婚したときから、オリヴィアは父に同情し、ジョーンは母親に親しみをおぼえるようになったのかも知れない。

私は、残念ながら、オリヴィア・デ・ハヴィランドのような女優に関心がなかったし、ジョーン・フォンテーンにも女優としての魅力を感じなかった。ただ、オリヴィア・デ・ハヴィランドが、100歳を越える長寿をまっとうしたことに感動した。

1887

デカルトのことば。

コギト・エルゴ・スム。

これは誰でも知っている。

ヴァレリーは、これをいい変えた。

ときに、私は考える。ゆえに、ときに私は在る、と。(「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の補注)

あの謹厳なヴァレリーが、まじめな顔をしてこんなことをいったのだろうか。ヴァレリーの真意をはかりかねたが、あとあと、思わず笑いだした。
そのときから、デカルトのことばを思い出すと、いつもにやにやしたものだ。やっぱり、ヴァレリーはすごい。

これを、「ときどき、私は考える。ゆえに、ときどき、私は在る」、と訳したらどうだろうか。

今の私は、「たまには、私も考える。ゆえに、たまに、私は在るだろう」と考える。

これを読んだ誰かが、あとあと、思い出してはにんまりしてくれるといいのだが。

1886 マルセル・マルソー 3

私はすぐに教室にもどった。学生に本日の授業は中止して、フランスのマルセル・マルソーという役者の公演を「見学」に行く。希望者はこれから私といっしょにすぐに劇場にむかうこと。
学生たちのなかには、そのまま帰ってしまったものもいた。
こうして、私たちはゾロゾロそろって校外に出た。駿河台下から丸の内まで、歩いてもたいした距離ではない。まるで、小学校生徒の遠足のようにうきうきした気分で歩いて行った。

予想した通り、劇場は――多目的ホールといった程度で、小規模のピアノ・リサイタル、あるいは、小編成の管弦楽団の公演などに使われる規模のものだった。

キャパシティーは300。観客席はやっと三分の一程度、閑散とした雰囲気だった。

こんな小さなコヤも埋まらないのか。
私たちが席についてから、しばらくして、女子大生らしい集団がやってきた。おそらく主催者側が、急遽、手配をしたらしい。劇場に華やかな雰囲気がひろがってきた。
この劇場に近い大学、たとえば、共立女子大、文化学院あたりの教務課に連絡したものだろうと私は想像した。劇場は、開演5分前にほとんど埋まった。

こうして、マルセル・マルソーを見たのだった。

イタリア中世のコメディア・デッラルテ以来の伝統芸を身につけた創造的なマイム、ミミックリーだった。この日の私は、スタンダップ・コメディアンではなく、俳優のマイムという肉体表現がどれほど創造的であるかを見届けた。それは、まさにテアトラリザシォンの基本ともいうべきものだった。

どちらが優れているか、という技術上の問題はさておいて、ジャン・ルイ・バローが、夫人、マドレーヌ・ルノーと、一緒に舞台の名優として知られているのに対して、マルセル・マルソーは、いつも単身、ひたすらマイムだけで、人間の残酷さ、冷たさ、おかしさ、笑いを描きだす。

私はそれまで一度も見たことのない「芸」を見たのだった。

チャプリンと、バローの、中間に立っている。フランスのエスプリ。
チャーリーのようにすばらしい喜劇役者のもつ動きと、熱、すばやい反射作用、躍動するトーン。そのなかに、対象とする「ダビデ」と「ゴリアテ」のコントラスト。
私は、その一つひとつに笑いながら、マルセル・マルソーが、笑っているわたくしたちに対する適度なシニスムを感じたのだった。マイムを演じることは、一瞬々々に、その瞬間の自分自身を発見すること。

現在の大型サーフボードほどのボード1枚を立てるだけで、右に「ゴリアテ」、左に「ダビデ」。そのボードに身を隠す。つぎの一瞬に「ダビデ」と「ゴリアテ」が、マルソーの内部において置換する。まるで、吉原の幇間が見せる「芸」のようだ。

しかも、マルソーの内部には、多数の登場人物がいる。
カロの描く絵の女たち、クリシーやその近郊のパリ・ミュゼット。犬を散歩させるブルジョアの奥さん。カーパと短剣で牛に立ち向かってゆく闘牛士。

私は、それまで一度も見たことのない「芸」を見たのだった。サイレント映画とおなじようにことばはない。しかし、まったく無言(ムエット)なのに、その「芸」は、はるかに雄弁だった。
私は、マルセル・マルソーのマイムに感動した。

舞台が終わって、カーテンコールがつづく。
マルソーは、声を出すことはない。しかし、アンコールもマイムで――東京での初日が成功に終わったことに、心からの感謝を表現していた。
観客は心からマルセル・マルソーに称賛の拍手を送った。マルセル・マルソー自身も、東京の初日が想像以上の成功裡に終わったことに感激していたと思う。何度も何度も、拍手にうながされて、最後には満面の笑顔で舞台ハナに出てきて、即興のマイムで観客に挨拶を送った。

おそらくマルセル・マルソーは、東京の初日、無料で招待された観客がほとんどだったことは知らなかったに違いない。むろん、これは私の推量、忖度(そんたく)にすぎないが、主催者側は、前売りのチケットが売れず、思わぬ不入りをマルセル・マルソーに知られまいとして、いわばラスト・リゾートとして、劇場にちかい距離の大学をさがして、観客をかき集めるという苦肉の策に出たものだろう。

当然、このことはマルセル・マルソーにも伏せたのではないかと思う。

後年、ブロードウェイで毎晩のように芝居を見たが、しばしば劇場の前でティケットを売っている若い男女をみかけた。「フリンジ」(オフ・ブロードウェイ)の芝居で、自分たちも舞台に出ている役者たちだったのだろう。
そういう光景を見たとき、私はマルセル・マルソーの東京初日を思い出した。

その後のマルセル・マルソーは、日本でもひろく知られるようになって、二・三度、東京で公演している。私はチケットを買って見に行った。このときのマルセル・マルソーは、世界的に有名なマイム役者になっていた。いつも満員で、劇場が観客を無料で動員することもなかったはずである。

マルセル・マルソーの東京初演のことなど、このブログで書かないほうがいいと思った。しかし、こうして書いておけば、「戦後」の私たちのフランス演劇に対する無知がいくらかでも想像できるかも知れない。
私たちの「戦後」にこんな風景があったことも。

1885 マルセル・マルソー2

ある時期から私は明治大学の文学部の講師をつとめていた。
プレゼミと「小説研究」というクラスで、私としては、アメリカの大学にある「創作コース」Creative writing course のような講義をめざしていた。
まだ全国の大学で学園紛争が起きるようなことはなく、私のクラスは、いつも4、50人の学生が出席していた。
当時の私は、生活のために翻訳を続けていたが、一方で、「俳優座」養成所でアメリカの劇作家を中心に講義をつづけ、やがて演出家をめざしていた。したがって、「小説研究」と称して、学生たちに小説創作を中心にした講義をしようというプランは、あながち不自然なものではなかった。
ただし、この企ては私の能力の及ぶところではなく結果としては失敗に終わった。

ある日、教務課から急に連絡があった。
日頃、教務課から呼び出されることなどなかったので、さては自分の行状に落ち度でもあったか、学生たちがなんらかの理由で私の講義をボイコットしようとしているのか、などと心配しながら教務課に急いだ。

思いがけない話があった。
当日、ある劇場で、マルセル・マルソーというフランスの役者が公演するのだが、チケットの売れ残りがあるので、劇場側から大学生を無料で招待したいと打診してきた、という。ただし、開幕まで時間が迫っておりまして。
この話はほかの教室、法学部、経済学部や、商科の学生ではなく、文学部、それも私の「小説研究」に話があったという。

大学側としては、変則な授業の一環として、見学というかたちでこの提案を受けるかどうか、中田先生は「俳優座」の講師もなさっているお方なので、ご相談もうしあげます。
先生のご判断によりますが、その日の講義を中止して、クラス全員で劇場に行っていただけないか、という。

私はマルセル・マルソーという俳優を知らなかった。
パントマイムの役者という。マルセル・マルソーは、はっきりいって、日本ではまったく知られていない。

思いがけない話を聞いて驚いたが、私はすぐに承諾した。

チケットが売れなかった理由は――マルセル・マルソーの知名度が低かったこともあるが、会場の地理的な場所のせいもあった、と思われる。
公演といっても、現在の「三菱一号館美術館」の近くのビルなどではなく、財界人の講演や、規模の小さいシンポジウムなどが行われるようなコヤだった。

 

1884 マルセル・マルソー1

 

 

たくさんの舞台を見てきた。

ある舞台に、それなりに忘れられない、強い感動がある。だが、舞台で演じられた「芸」に感動したこととは、べつの感動があって、忘れられないものになった舞台もある。

マルセル・マルソー。

おそらくは、もう誰もおぼえていないフランスのパントマイム役者。

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パントマイムについて語ろうというわけではない。

ただ、マルセル・マルソーは、エチエンヌ・ドクルー、ジャン・ルイ・バロー、ジャック・タティと並んで、コトバに頼らない純粋のマイム、ミミックリーで、優美なドラマを現出した役者だったことだけでいい。
サーカスの道化だって、パントマイムで観客を笑わせるぐらいの「芸」を身につけている。

ジャン・ルイ・バローのマイムは、映画、「天井屋敷の人々」で見せたように、マイムでひとつの物語をみせる。これに対して、マルセル・マルソーは、先輩のマイム役者の資質の、ある若干のものを、おのれの内部に発展させたひとり。
バローのマイムが、優美な情景を描くのに対して、マルソーは短いが、もう少し起承転結をもった寸劇を展開する。たとえば「ダビデとゴリアテ」のようなレパートリーで。

私がマルセル・マルソーを見たのは、まったく偶然だった。

画像:ウィキペディア マルセル・マルソー より

1883(rev)

2020年は、おそらく歴史的に大きな転形期、社会的な激変の時代、気候の変化もふくめて文明の危機さえ予想される時代のはじまりとなる。

この年(令和2年)、私は何をしていたのか。

20年1月25日、メモをとっていた。

中国、武漢市の新型コロナ・ウィルスのニューズ。武漢市は交通が遮断され、封鎖都市に指定されて、「ペスト」並の厳戒体制がとられている。今後、各地で、感染が急速に拡大すると懸念されている。すでに韓国でも感染者が出たし、日本でもついに2例の感染症患者が出た。
中国、「人民日報」は、コロナ・ウィルスによる新型肺炎の感染が、1287人とつたえた。もっとも深刻な武漢市では、24日に15人が死亡し、国内の死者は計41人。新型肺炎は、ついにアメリカ、フランス、ネパールに波及した。フランスの感染者は3名。アメリカ、シカゴで感染確認、2名。

それから、10カ月。悪夢のようなコロナ・ウィルス禍はつづいている。このメモを見
ると、まさか、これほどの災厄になるなどと予想もしていなかったことに気がつく。

この頃、コッポラの「地獄の黙示録」(完全版)を見た。

日本で公開されたヴァージョンでは前線の兵士慰問に派遣された「プレイボーイ」のバニーガールのシークェンス後半、レイプ・シーン、フランス人のゴム農園の家族のヴェトナム戦争批判のシークェンスがカットされていた。私は、そんなことも知らなかった。この映画をめぐって、いろいろな批評が出たが、大岡 昇平が、私の批評をとりあげてくれたことを思い出す。

今、あらためて見直すと、完全版のカットが、「地獄の黙示録」批評に大きな歪みを与えたことがわかる。少なくとも、私の評価に影響を及ぼした。

もう一つ、この映画のマーロン・ブランドの演技は、アカデミー賞(最優秀男優賞)に値しないという感じをもった。
マーロン・ブランドは、「波止場」(54年)でアカデミー賞(最優秀男優賞)をもらっているし、「ゴッドファーザー」(72年)でもアカデミ賞(最優秀男優賞)を受けたが、彼は受賞を拒否した。「地獄の黙示録」では、アメリカ最高の俳優と評判になった。
しかし、私は、やはり「ゴッドファーザー」の「ドン・コルネオーネ」のほうがずっといいと思う。

そういえば、敗戦後の日本で、「運命の饗宴」(デュヴィヴィエ監督)が公開されたとき、W・C・フィールズの出たエピソードが全部カットされて公開されたことを思い出す。むろん、当時の日本人は誰ひとりそんなことを知らないまま見たことになる。
だが、こんなことにも当時のアメリカの対日占領政策の裏が見えてくる。

私が、このことを知ったのは、ずっと後年になってからだったが、検閲は現在のフェイクニューズとおなじなのだ。
この20年2月、クロード・ルルーシュの新作、「男と女 人生最良の日々」が公開される。「男と女」(1966年)、「続 男と女」の完結編という。

老齢の「ジャン・ルイ」(ジャン・ルイ・トランティニアン)は、養護施設で余生を送っているが、かつての記憶も薄れはじめている。彼の息子のたっての頼みで、「恋人」だった「アンヌ」(アヌーク・エイメ)が訪問する。長い歳月を経て、再会した男と女に、かつての相手への思いがしずかによみがえってくる。
撮影当時、トランティニアンもアヌーク・エイメも、もう80歳を越えていた。このふたりの映画を今の私が見たら、どんな感慨を催すだろうか。

クロード・ルルーシュは、私よりちょうど10歳下だから、こういう映画を撮ることもできる。今の私は映画批評も書かなくなっている。つまりは、かつての「女たち」の思い出をなつかしむだけしかできない。