1286

(つづき)

好きな女のところに通いつめたが、なにせ人にしられぬ恋路、犬までがあやしんで吠えかかって、毎晩、さわがしい。犬なんかいっそブッ殺してやりたい。手紙を出そうかとも思ったが、犬を手なづけたほうがいい、食べものをくれてやって、なんとか、シッポをふるところまでこぎつけた。この憎らしい関守に、ものを与えようなどと、心づかいをするのもひと苦労。女のほうは――誰とも知らない人が、いつもの時間ぴったりに、尺八を吹いて通って行く。今宵もあなたにあこがれてきています、という知らせでもあろうか。古歌にいう、シギ立つ沢の秋の夕暮れなどを連想して、やさしい殿方だよ、と思ってくれるかもしれない。

やがて、夜空の星が遠くかたぶき、空を吹きわたる風の音もさびしくなって、籬(まがき)のかたわらに立ちつくして、他人のいびきが聞こえてくる頃、女の寝所のに、しのびやかに、着物のすその音がして、ああ、ついにそのときは至れり、と胸がときめき、これまでどんなに長い時間待っていたか、と、たもとを引く手もふるえ、絹のような下腹部をさぐりさぐり、からだを横ざまにひそかに入って、音をたてないように迫り、声も出さずにため息したのも、心ときめくうれしさ。

からだをあわせようとして、枕を傾け、行灯(あんどん)を離すと、女の顔がほのかに見えて、さし向かいながら、床についているような気がしない。長い間、つれない仕打ちばかりだったと責めたり、心をつくしてお慕い申しておりましたのに、などと恨みも交えて語りあう。いつわりの多いおかたなど、相手にするつもりではなかったのに、いつかのお手紙から、あなたが好きになりました、と顔を赤くするのも、言葉多く語るよりもずっとまさっている。

 

まだまだ続くのだが、鬼貫の「戀愛論」はこれくらいにしておく。

鬼貫は、追悼の句を多く詠んでいるか、恋の句は少ない。

 

契不逢戀
油さし あぶらさしつつ 寝ぬ夜かな

さしていい句でもないが、ここにあげておく。
題は「ちぎりて、逢わざる恋」なのか。逢わざる恋をちぎりて、なのか。その読みかたで、私の想像はかなり違ってくる。
やや遅れて、「遇不逢戀」という狂歌があって、

 

うつり香の残りて としをふる小袖
今は身幅も あはできれぬる   於保久 旅人

きみに逢ふ 手蔓も切れて うき年を
ふる提灯の はりあひもなし   網破損 はりがね

こんなものより、鬼貫の句のほうがずっといい。

 

1285

 

鬼貫の俳論、『ひとりごと』に、「戀」というエッセイがある。
ただし、冒頭から――「心は法界にして、無量なる物ながら、一念まよふ所は、大河の水のわずかなる塵によどむがごとし」といった文章が切れめなくつづくので、すっきり頭に入りにくい。
エッセイ自体は、それほど長くないのだが、もう少しわかりやすく、現代語に訳してみよう。

 

逢ったこともないのに、どこどこの土地に美しい女がいると聞いただけで、もう忘れられなくなる。一度遊んだだけの遊女から、手紙が届いたりして、その筆づかいを見て、やさしい女心を思う。あるいは、茶屋の娘の接待する物腰のきよらかさがうわさになっているので、せめて水の一杯でも所望してその姿を見届けよう、ただ通りすがりに、窓格子からちらっと顔を見せたりすれば、近くの商店に立ち寄ってその店の品物の値段を聞くふりをして、さりげなくめあての女の家名を聞いたりする。

春、お花見の頃、あるいはお祭りやお寺参りの頃、魅力のある女たちが立ちあらわれる。そんな女たちに恋をしては、あわよくば首尾を遂げようとおもっていると、にわかにつよい雨ふりになって、傘をさしつさされつ、あるいはタバコの火を借りたり、ときには近くの道を教えたりする。そんなきっかけから、お互いの心のふれあいができたりする。そんな出会いのなかでも、女のうしろ姿がひとしお美しいのに心を惹かれて、すぐさまあとを追いかけ、足を早めて女の前に出て、後ろ姿に似あわぬブス、あまりのことに落胆するというのもおかしい。あるいは、ひとを恋しても自分から口に出さないまま、ふつうのつきあいをしてきて、いつか折りを見てうちあけようと思って、いつしか時間がたってしまった。この思いはいつかうちあけようと思っていると、何かのことばのはしはしから、相手もこちらの恋心を承知しているとわる。そのうれしさよ。

また、メモをもらって、いそいでふところに隠した。人目につかない隅っこで、紙の皺をのばして読もうとする風情は、まるめてポンと投げ捨てられるよりもずっといい。

 

 

鬼貫の「戀愛論」はもう少しつづく。
(つづく)

1284

 上島 鬼貫(1661―1738年)は、元禄の頃に登場した俳人だが、私はあまりくわしく知らない。
ただ、この人の句に、

 

   惜めども 寝たら起きたら 春である

 

 という句があって、驚いた。江戸時代に、すでに現代国語の格助詞、「である」を俳句に使った例「である」。「である」は、明治の言文一致からはじまったとばかり思っていたからである。
すっかりうれしくなった私は、さっそくこの句をパクって、

 

   我が輩は 寝ても起きても 猫である

 

という一句を詠んだ。去年から、私の飼っているネコを詠んだもの。
漱石先生のお叱りをいただきそうだが。

昨年の夏に、我が家の飼猫が他界したので、喪があけてから「動物愛護センター」にお願いして子ネコをもらってきた。
名前はチル。じつはこれもパクリで、ルイ・ジュヴェが飼っていた愛犬の名前を頂戴した。(ジュヴェだって、きっとメーテルリンクから頂戴したに違いない。)

さて、鬼貫のことに話を戻すことにしよう。
私の好きな句 を選んでみた。


春雨の 今日ばかりとて 降りにけり
くらがりの 松の木さへも 秋の風

遊女の絵に讃す

殿方を おもうてゐるぞ 閨の月

いつも見るものとは 違う 冬の月

雪に笑ひ 雨にもわらふ むかし哉

久しく交りける友の身まかりけるときこえはべりければ、

いとどさへ旅の寝覚は物うきを
木がらしの 音も似ぬ夜の おもひ哉

ほかのひとには、私の選句は気に入らないかも。鬼貫の句は、もう少しヴァライェティーに富んでいるからである。
(つづく)

 

 

1283

 1965年2月から3月にかけて、私はヴェトナムにいた。
そんなある日、母に手紙を書いた。ほんらいなら公表すべきものではないが、ある親子の間にかわされた、わずか一通の手紙なので、ここに公開する。

 

 

お母さん

毎日ぼくのことを考えていてくださるのでしょうね。無事に旅をつづけていますからご安心下さい。

サイゴンの印象は、やはりぼくにとって強烈なものでした。久しぶりで、自分がほんとうに生きているような実感がありました。それを小説に書いてみたいのですが、うまく行くかどうか。
ユエに行きましたが、ここでは一生忘れられない経験をしました。ユエの街はとても小さい町で、かつての王城のあとが、それこそ夏草のなかにむなしく残っているだけなのです。
ぼくは町を歩き、歩き疲れて、一軒の酒楼に入ってビールを飲みましたが(水のかわりです。水質がわるいので、その頃ひどい下痢にくるしみつづけでした。)人なつっこいおじいさんが寄ってきました。むろん話は通じません。すると、あと二人(おまわりさんと地方裁判所の書記ということがわかりました)中年の男たちが僕に寄ってくるではありませんか。
書記の人がフランス語を話すので、すっかり仲よしになりましたが、ぼくがビールをおごったら、その晩、六時におじいさんが家に招待するというのです。何しろ知らない土地ですし、聞けばユエの街ではなく、かなり離れているらしく、夜なのでこまったなと思いました。断ろうとしたのですが――その前に自分の家へきて泊まれというのを断ったものですから――どうにも理由がなく六時に会うことにしました。
六時に旗亭に行ってみると、おまわりさんがひとりいるだけです。この人はフランス語も英語もダメで、何が何だかわからないし、旅費としてかなりの金額をぼくは身につけています。危険な行動になるかも知れないと覚悟をしました。
ユエの街には大きな湖(ラツク)がありますが、もう日が暮れかかり、船も通らな
いのです。暗い水面を見つめながら、この湖の付近にもヴェトコンが出ると聞いたことを思い出したりして不安でした。
やがて村につきました。(トレガという貧しい村です。)貧しい村でした。ところがそこに、昼間のおじいさんが村の人を八人ばかり招んで待っていたのです。
お互いに言葉は通じませんが、いくらか安心しました。やがて書記の人がきてくれて、これが純粋にぼくを接待してくれる集まりだということがわかりました。

貧しい食事でしたが、ほんとうに心あたたまる思いをしました。十時近くまでいましたが、やがて最後におなじ席にいたおばさんが、私のためにヴェトナムの歌を歌ってくれました。ヘタな歌でしたし、意味も何もわからない歌ですが、それはそれは哀傷を帯びた歌で、黙って聞いているうちに、いろいろな感情がむねに迫ってきて思わず涙ぐんでしまいました。こんなに質朴な人たちが、ぼくのために集まってくれたこと、そして、こんなにやさしい人たちが、今、はてしない戦乱にくるしんでいるのだと思うと、その哀しみが自分に揺れ返ってきて、大きな感動が測測と迫ってきました。酒の酔いもあったのでしょうし、それまでの不安な思いが消えたこともあったのでしょう。旅先で孤独だったことの感傷もあったのでしょうが、涙がと
めどなく頬をつたわりました。
すると、おばさんも泣きながら歌いつづけたのです。

帰途は、若いヴェトナム兵が一人、ぼくを送ってくれましたが、彼は私の名を聞いて舟の上で即興で歌を歌ってくれました。これも意味はわかりませんが――ある日、私の村に見しらぬ日本人がきた。名はナカダという。彼のために、私たちは一席の宴を張り、XXおばさんが彼をもてなすために歌を歌ったが、ナカダは感動のあまり泣いた。日本人が私たちのために泣いてくれたのだ――そういう意味に間違いないと思います。これも切々たる哀調を帯びた歌でした。

この夜のことは一生忘れられない経験になるでしょう。おそらく、ぼくのことは、あの貧しい村では、いつまでも語りつがれて、いつか一つの伝説になるような気がします。

サイゴンや、バンコックや、香港のことはまたあとで書きます。さよなら。お元気で。

          中田 耕治

 

 

 

私にとって、ヴェトナムの印象は「強烈なもの」だった。しかし、この時期、私はヴェトナムに取材した小説を書くことはなかった。

はるか後年、ヴェトナムを舞台にした長編を書いたが、新聞に連載しただけで、そのまま出版することがなかった。

サイゴンの印象は、中編、「サイゴン」だけは、私の撰集(三一書房版)に収めた。

この手紙は、亡くなった母の遺品を整理していて文箱のなかから見つけた。焼き捨てるつもりだったが、私が母にあてて書いたわずか一通の手紙なので、ここに残しておく。

 

 

1282

「午前十時の映画祭」で選ばれた「名作」50作品に、「風と共に去りぬ」や「ローマの休日」がはいっていなかった、というのも驚きだが、著作権、上映権などの問題がからんでいるにちがいない。
私が「あらたに選定した50作品」を選ぶとすれば、まるっきり別の名作をあげるだろう。なにしろ、徐 克(ツイ・ハーク)や、王 家衛(ウォン・カーウェイ)の映画のほうが、「2001年宇宙の旅」や、「小さな恋のメロディ」、「E.T.」よりも、よほど高級と見ている、つむじまがりだからね。

「午前十時の映画祭」なら、その日いちにち、うきうきして過ごせる映画のほうがいいと思う。そこで、私が企画するとしたら、

「ウォリアーズ」
「リリー」
「題名のない映画」(ドイツ映画)
「キャリー」
「ストリート・オブ・ファイアー」
「殺人幻想曲」
「ガルシアの首」
「ファウルプレイ」
「運命の饗宴」
「北京オペラブルース」(香港映画)

私にとっては――こういう映画のほうが「ニュー・シネマ・パラダイス」や、「フォロー・ミー」や、「スタンド・バイ・ミー」よりも、はるかにすぐれた名画なのである。

1281

「午前十時の映画祭」という催しがあるという。昨年の2月から1年かけて、50作品を上映してきたらしい。(私は、一度も見に行かなかった。)
今年も、あらたに選定した50作品を加えて、継続されるという。

1年目の観客党員数は、58万6838人。興行収入は、5億円を上まわった。

今年の目標は、観客の動員目標が、百万人、収入が100億円。

今年の上映リスト。一般投票の上位、10作品。

「ショーシャンクの空に」
「サウンド・オヴ・ミュージック」
「ニュー・シネマ・パラダイス」
「フォロー・ミー」
「風と共に去りぬ」
「ローマの休日」
「スタンド・バイ・ミー」
「2001年宇宙の旅」
「小さな恋のメロディ」
「E.T.」

たしかに、名作ばかりだから、若い人たちが、こういう映画を見に行くようになればいいと思う。
「風と共に去りぬ」については、批評めいたものを書いたが、「ローマの休日」、「スタンド・バイ・ミー」、「2001年宇宙の旅」については何も書かなかった。私が書くよりも別の批評家が書けばいい。
「E.T.」よりも「激突」や「ジョーズ」のほうがはるかにすばらしい。
「スタンド・バイ・ミー」や「小さな恋のメロディ」よりも、「ハックルベリ・フィン」や「にんじん」のほうがずっといい。
(つづく)

1280

 明暦の大火。
江戸市中が猛火につつまれ、数万の民衆が焼死するという惨事だったという。この災害の犠牲者のために、両国の回向院が建てられている。

このとき、焼け出された人が国許(くにもと)に送った手紙がある。読みやすくするために、平易に書き直してみよう。

近年、大身(たいしん)の人々はもとより、私ども、または下々の
者まで、皆、五十余年の大平(泰平)になれて、浮薄に流れ、
驕奢(きょうしゃ)に長じ、分に過ぎたる栄耀をこととしている。
したがって財宝足らざる故に、自然に、上(かみ)は民百姓に
むさぼり、下(しも)はたがいに相むさぼる、このたびの大変
(たいへん)はじつに天罰である。天道(てんどう)よりまことに
よき意見を受けたのである。
ついては人を翻然(ほんぜん)として、積年の非を悔いあらため、
まず真の士風俗(さむらいふうぞく)に復すことに、一統努力
するほかはなかろう。

江戸文化の研究家、三上 参次は、この手紙にふれて、

今日(こんにち)も明暦の昔とおなじように、感慨無量、長大息
する人が少なくないことと思う。この手きびしい意見、この峻烈な
る天罰を、七千万日本人の身代わりとして引受けられた幾万の同胞
に対して、深厚なる感謝の意を表したいというのはこの意味に
外(ほか)ならないのである。

という。
これを読んだとき、私は日本人の心性はまったく変わらないのだという感慨をもった。
じつは、私は東日本大震災が起きた瞬間に「このたびの大変はじつに天罰である」というふうに感じた。そして、私たちが「皆、五十余年の大平(泰平)になれて、浮薄に流れ、驕奢(きょうしゃ)に長じ、分に過ぎたる栄耀をこととして」きた代償として、大震災が起きたという意見を眼にした。
しかし、私としては――この災害を「天よりまことによき意見を受けた」などと考えない。もとより私たちの無数の誤謬、過失、失策の結果として、この惨状があると見て、ただ謙虚に、わるびれずに、この事態をわれとわが身に引きうけるべきだろう。

福島原発について、NHKのニュースは、いつも「深刻な事態に見舞われている福島原発」という形容をつけていた。これは、4月になってから、この形容はつけなくなったが、いつもおなじ形容、修飾語を重ねることで、かえってクリシェとして、空虚に響いたのではなかったか。

1279

福島原発のニュース。

死者、1万4001人。行方不明、1万3660人、避難者、13万6127人。(4月19日午後6時、警察庁調べ)
この大震災で、検視した死者、1万3195人のうち、津波による死者が、92.5パーセント。身元、年齢が判明した犠牲者の65パーセントが60歳以上。
つまり、高齢者の犠牲が大きい。
東京大空襲の記録では、60歳以上の高齢者は、自宅から150メートルの範囲で死亡していたという。若者では、自宅から4.5キロの距離まで逃げて、落命した例がある。

福島原発。2号機の汚染水、4月1日~6日の流出、総量、520トン。
放射性物質の量は、4700テラ・ベクレル(1テラは、1兆という)。
4月21日、このニューズを読んだとき、私は心の底から憤りをおぼえた。この事実を、東電や、原子力安全保安院は、なぜ今まで伏せていたのか。
4月1日から6日の時点で、この恐るべき事態はすでに判明していたはずである。それなのに、2週間もこの事実を伏せていた。
その間に、統一地方選挙があったから(その影響をおそれて)伏せたのではないか。

私は激怒している。まず、これを報じた大新聞について。
「読売」は、この記事を一面でとりあげている。ただし、下の4段目、わずか2段、32行という短いあつかいだった。その記事の末尾に――「深刻な数値」という見出しで、2面であつかっていることが出ている。

その2面の記事は、34行。2行の小見出しに――

「4700兆ベクレル」大気放出の尺度でレベル5から6相当

とある。(「読売」4月22日/朝刊)

大震災以後に書かれた無数の記事のなかで、日本のジャーナリズムがとった、もっとも陋劣(ろうれつ)で、もっとも「悪しき行動」の最たるものの一つ。
なるほど、この記事は事態の「深刻さ」をきちんと報道しているように見える。しかし、実際は、事態の「深刻さ」を国民の眼からそらすように工夫されている。
この2面の記事には、放射性物質による汚染の例として、1950年代から80年代にかけてのイギリス、セラフィールドの汚染水の海への放出(9000兆ベクレル)、また、1952年~92年におよぶ極東海域におけるロシアの汚染物質の日本海への投棄の事例もとりあげてある。

私は怒っている。「4700兆ベクレル」という記事は、1面のトップに出すべきだったといいたい。1面のトップに出したのは――20キロ圏「警戒区域」設定 一時帰宅 数日中に開始 という記事だった。もう一つは、「節電目標15パーセントに緩和 政府調整 大企業・家庭に一律」という記事だった。
いずれも重要な記事にはちがいない。しかし「20キロ圏」に「警戒区域」を設定しなければならない事態は、4月6日に判明していたのではないか。
それなのに、「さしあたって人体に影響をおよぼさない」と強弁しつづけたヤツがいたのではないか。
私が、かつての大本営(松村秀逸、平出孝雄両大佐)の発表を思い出していたのは、けっして偶然ではないのだ。彼らは、いつも陸海軍の被害にはふれなかったし、ふれたとしても「わが方の損害は軽微なり」として、頬かむりしつづけた。この連中を、日本人としてまったく恥を知らない最低の人間と見るように、私は、東電、および原子力安全保安院、さらに政府の当局者に侮蔑の眼をむけざるを得ない。
(つづく)

1278

4月21日。
この日が、私の内面に暗い翳りをもたらそうとは、まったく予想もしなかった。
私はこの日付を忘れることはないだろう。
この日、私は病後はじめてお茶の水に出たのだが――

3月11日から、私はほとんど本を読まなくなっていた。私が読んだ本は、ハ・ジンの短篇集『すばらしい墜落』(立石光子訳/白水社)。安部ねり著、『安部公房伝』(新潮社)、そしてアナイス・ニン。

「きみという女は、惜しみなく自分をあたえることを知らない」エドワルドがいう。
でも、ほんとうにそうかしら?(アナイスは考える)。

非のうちどころのないヒューゴーの人格は、心から尊敬しているし、ヘンリー・ミラーのセックスにも、エドワルドの美しさにも、アナイスは身を投げ出している。

ヘンリーはいう。
「きみはいつもポーズをつけてるなあ」

私もそんなふうにいってみたいと思う。
わるいことに、私は3月から何も書かなくなっている。書こうとしても書けないのだった。スランプというわけではない。今はもう誰も知らない女優、メェ・マレイについて、短い、とても短いエッセイを書いた。
とても短いエッセイを書いていると、なぜか散文詩を書いているような気になる。
大震災、津波、原発事故。こんな時期なのに、もの書きとしてはむしろ充実しているような気分があった。ハ・ジンを読んで、この作家の短篇のすばらしさに瞠目した。安部ねりを読んで、世界的な作家になった安部公房のことをあらためて尊敬した。
最近の私には、つらいことが重なってきている。
なんでもない一日なのに、忘れられない一日。
アナイスを読んで、アナイスのような女性とほんの一時期でも親しくなれたことのありがたさを思う。
(つづく)

1277

私の好きなことば。

私はたしかにここにいるが、私はすでに変化している。すでにほかの場所に
いるのだ。けっしておなじばしょにとどまってはいない。

ピカソのことば。

ピカソは、ひとりの女を愛していながら、同時に別の女を愛しはじめる、という錯綜した女性遍歴を重ねてきた。ピカソは、相手の女性が変わるたびに、作風までが変わってゆくという。
「青の時代」から「バラ色の時代」に移ったように。

私はピカソが好きなので、ピカソのことばをパラフレーズして――私も「ひとりの女を愛していながら、同時に別の女を愛しはじめる」といいたいところだが、現実の私にはそんなことはあり得なかった。
ただ、教育者としての私は、おなじようなことを考えてきた。ある時期、たしかにここにいるが、やがて変化する。気がついたときには、すでに変化している。すでにほかの場所にいるのだ。

私の大学で、ある先生がシャーウッド・アンダスンの短編を教えていた。不勉強な学生だったから、二、三度、このクラスに出ただけで、あとはサボッていた。
翌年、単位をとる必要があっておなじ先生のクラスに出た。
テキストは、おなじシャーウッド・アンダスンの短編だった。
たまたま二年つづけてこのクラスに出ていた学生はいなかったはずである。その教授は黒板に、おなじ箇所でおなじ訳を書き、おなじ冗談を聞かせてくれた。一年前の講義と、まったく変わっていない内容に私は驚いた。

はるか後年、私はおなじ大学で講義をつづけることになった。
一度でもおなじことをくり返すような講義をしないことだけを心がけた。

やがて私は、翻訳家の養成を目的としたクラスで、授業をはじめた。せいぜい、二年ぐらいのつもりだったが、20年以上も、この授業をつづけた。
おなじテキストをくり返して教えたのは、ギャビン・ランバート、アナイス・ニン、アーシュラ・ヒージなど数人の作家だけだったが、おなじテキストを読みつづけることが生徒にとって有効と信じたからだったし、くり返して読むことで自分の「読み」が深くなると思ったからである。

生徒は、私の教室にきている。たしかに教室にいるが、私のレクチュアをうけたときから、すでに変化している。すでにほかの場所にいるのだ。けっしておなじばしょにとどまってはいない。
おこがましいいいかただが、私の教育は、いつもその「場所」をたしかめることだったと思う。

私は翻訳を教えたのではない。それぞれのひとの才能を発見しただけなのだ。

1276

今では誰でも知っていることだが――イタリアのスター、マルチェロ・マストロヤンニは、フランスの名女優、カトリーヌ・ドヌーヴを愛していた。
ふたりの「不倫」が世界的な話題になったとき、マルチェロはいった。

私は妻を愛しているし尊敬している。
おなじように、カトリーヌ・ドヌーヴを
愛しているし尊敬している。

この発言で、ヨーロッパのジャーナリズムは、ふたりの「不倫」をとりあげなくなった。日本のジャーナリズムとは、やはり違うなあ。

1275

ジョージ・バーナード・ショーは、20世紀前半の大劇作家だが、痩せて、小柄な体格だった。世界的な舞踏家、イサドラ・ダンカンに言い寄られたとき、こう語った。

私の肉体と、きみの頭脳をもった子どもが生まれると困る。

はるか、後年、映画女優、ジーン・アーサーは、

あたしが、ジョージ・バーナード・ショーと結婚しなかったのは、実際に会って
ひどく失望したからよ。

笑った。

それにしても、ジュリー・アンドリュース、ジューン・アリソンだって、もう誰も知らないだろう。まして、ジョージ・バーナード・ショーや、イサドラ・ダンカンの名をあげたところで何の意味もない。
だから、ひとりでおもしろがっているのだが、私がおもしろがっていることを面白がってくれる人がいるかも知れない。
もう忘れられているハリウッド女優たちを、ときどき思い出して書いてみようか。
ゴシッブを書くのではない。ある時代に生きた一人の芸術家の、ひたむきな姿を忘れないために。

1274

 いきなり美しいアルプスの大自然が壮大な姿をあらわす。映画のフェイドイン。
映画史上はじめてといっていい空撮だった。思わず息をのむような山脈の流れがつづいて、山頂の高原にフォーカッシングする。その広大な原っぱに、美しい歌声が響いて……
主役の「マリア」(ジュリー・アンドリュース)のアップになる。
こうした空撮のフェイドインは、その後、「シャイニング」や、韓国ドラマの「オール・イン」、最近では、大河ドラマ「天地人」のオープニングまで、ごくふつうのものになっているが、「サウンド・オブ・ミュージック」のオープニングが見せた迫力は忘れられない。

この映画に主演したジュリー・アンドリュースは、ブロードウェイで、「マイ・フェア・レイディ」で空前の成功をおさめて、映画界入りをした。出演作品は、いがいなほど少ないが、ミュージカルだけでなく、ストレート・プレイでも成功した。

映画スターになったら、どうなのかって?
あたしは、しょっちゅう親指を吸ったものよ。

さすがに、大女優らしいことばだと思う。
なんでもないセリフだが、別な読みかたもできる。

ジュリーより少し前の映画女優、ジューン・アリソンのことば。

わたしは、いつも映画スターになりたかった。
有名になれるし、ベッドで朝食がいただけるから。
まさか、午前4時に起きなきゃいけないなんて知らなかった。

ジューン・アリソンは、戦時中から「戦後」にかけて、青春スターの代表といってよかった。ジュデイ・ガーランドと交代して、ミッキー・ルーニーのハイティーンの学園ものに出たり、やがて、ピーター・ローフォードなどを相手に、天真爛漫な女子大生をやっていた。
たくさんの映画に出ている。
しかし、ジュリー・アンドリュースと違って、代表作といえるものはない。おそらく「若草物語}(1949年)、「グレン・ミラー物語」(1954年)ぐらいだろうか。
ほとんど失敗作がなかった。誰からも愛されてそれでいて、一流のスターでいながら、代表作といえるほどの作品がない。スキャンダルも、なかった。
こういう女優さんの内面を想像することはむずかしい。

ただし、「まさか、午前4時に起きなきゃいけないなんて知らなかった。」ということばも、別な読みかたもできる。
午前4時に寝なきゃいけないなんて知らなかった、というふうに。

 

 

1273

 ヘミングウェイはプラード美術館に入ると、たくさんの絵に眼もくれず、特別な絵だけを見たという。
巨大なイタリア絵画ばかりが展示されているメイン・ホールから横に入ると、小品だけを飾った室内に、アンドレア・デル・サルトーの絵が二枚並んでいる。その一枚、「ある女の肖像」の前に立ったヘミングウェイは、いつまでもこの絵を眺めていたらしい。

私もこの絵が好きだった。大きな絵ではない。やっと8号ぐらいの絵だが、すずしい瞳を真っ直ぐに向けてくる若い娘。そのふくよかな胸もとが眼の前にあった。ロンバルディアの農家の娘だろうか。深いえりぐりのあわいに、乳房の谷間が刻み付けられている。その乳房のふくよかさと、純白の輝きは、ルネサンスの女の清純な美しさそのものといっていい。
若き日のピカソもこの絵は見たのではないだろうか。

私が大切にしている家宝がある。

ピカソのもっとも初期の、デッサンのノート。もっとも自分で買ったわけではない。作家の五木 寛之さんから頂いたものである。
この手帳は、1989年3月12日から22日にかけて、少年ピカソが、デッサンの練習のためにいろいろな対象を描き散らしたもの。手帳というより、メモ帖といったもので、タテが10cm、ヨコ12.5cm、表紙は手垢で薄汚れている。

大切にしまってあるので、めったに眼にすることはないが、これを手にするたびに、私は五木 寛之の友情に感謝している。

1272

私は、西島 大の芝居の演出に失敗した。

この失敗もあって、私はやがて「青年座」から離れた。その後、西島 大は映画のシナリオで成功した。一方、私はほかの劇団でいろいろと演出したが、やがて「鷹の会」という小劇団を作った。この時期から悪戦苦闘がつづいた。
お互いの「環境」(ミリュー)が、ひどく違ってしまったのだから、私たちが疎遠になったのも当然だったろう。

私は、その後、小説を書いたり、やがてイタリア・ルネサンスの世界に足を踏み入れることになった。
私は自分の世界を築くことしか考えなかった。
だから、劇作家としての西島 大がどういう仕事をしているか、まったく関心をもたなかった。

長い歳月をへだてて、西島 大と再会したのは、かつて共通の友人だった鈴木 八郎(劇作家)が亡くなって、そのお通夜の席だった。
鈴木 八郎はついに無名の劇作家でおわったが、女流劇作家、若城 希伊子と親しかった。私は若城さんの芝居を演出したこともあって、ずっと親しくしていた。これも共通の友人だった鈴木 八郎が亡くなったので、若城さんといっしょにお通夜に行った。その席で西島 大と再会したのだった。
その晩、西島 大、若城 希伊子とつれだって、近くの居酒屋で酒を酌み交わしたのだが、鈴木 八郎が無名の劇作家でおわったことから、西島はしみじみと、
「中田もおれも、えらくなれなかったなあ」
といった。
「うん、お互いにえらくなれなかったなあ」
当時の私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書くために悪戦苦闘していた。
「あら、西島さん、知らないの? 中田さんは、ルネサンスの本を出したりして、えらいのよ」
若城さんはいった。
「へえ、そうかあ」
そのあと西島は、テレビの仕事で、ローマに行ったことを話した。たまたま、書店でブリューゲルの画集を買った。むろんイタリア語なので解説は読めない。
「中田君にあげるよ」
しばらくして、ブリューゲルの画集が送られてきた。

さらに後年。ある時期から、西島 大、若城 希伊子、私の三人が、もちまわりで内村 直也先生の誕生日をお祝いする集まりをもつことになった。
その年の幹事が、会場、ゲストをきめて、内村さんを囲み、一夕、楽しく歓談するという集まりだった。けっこう、いろいろな趣向をこらして、内村さんをよろこばせた。

西島 大が幹事の年は、赤坂の料亭で、女優の富士 真奈美がきてくれたこともある。
西島が声をかければ、「青年座」の女優たちもよろこんできてくれたと思うが、私が「青年座」をやめているだけに西島 大が遠慮したのではないだろうか。
若城さんが幹事の年には、慶応関係の人たちが招かれた。内村さんが、慶応の出身だからだった。
私が幹事の年には、内村さんに私のクラスの女の子たちを紹介した。後年、一流の翻訳家になった羽田 詩津子、成田 朱美、早川 麻百合、大久保 庸子、作家になった長井 裕美子、バレリーナになった尾崎 梓、シャーロッキアンの籠味 縁たち。
内村さんは、若い女の子に囲まれて、すこぶる上機嫌だった。

1979年、内村先生が亡くなられて、この集まりは自然消滅した。

若城 希伊子は、1999年、私の『ルイ・ジュヴェ』の出版の直前に亡くなっている
西島は『ルイ・ジュヴェ』を、おもしろく読んだというハガキをくれた。
その西島 大は昨年(2010年)に亡くなっている。
後年、作家になった長井 裕美子も、2008年に亡くなっている。

ジャン・コクトオのことばをかりていえば――こうして私の生きる航路の船のブリッジから、しだいに人影が消えてゆく。

1271

西島と私は思わず顔を見合わせていた。
ひょっとして、新手のストリート・ガールだろうか。一瞬、私は思った。
「どうしたの?」
西島が訊いた。
「家に帰れなくなったんです」
「遊びすぎたのか」
「そうじゃなくて、家に帰りたいんだけど、お金が足りなくなっちゃって……」

「おれたち、これからどこかに行こうかと相談してたとこなんだ。きみたち、ついてくるかい」
すかさず、美少女がコックリした。
「どうする?」
西島に聞かれて、私はひるんだ。へんなことにまき込まれやしないか、と警戒心が先に立った。
「ねえ、いいじゃない」
美少女がつれの事務員のような女の子にいった。私はその娘をみた。眼と眼があった。一重まぶたのぼってりした眼をして、その眼に何か切迫したものがあった。
「お兄さんたちも帰りの電車、ないんじゃないの?」
美少女がいった。
あらためて顔を見た。やはり美少女だった。目鼻だちのととのった、可愛い顔をしている。当時、西島が好きだったのは、小柄で、動作のキビキビした、お侠なタイプ、たとえばヴェラ・エレンのような女優だった。西島はこういう美少女が好きなのだった。

1時間後に、私たちは道玄坂の奥の和風旅館にいた。
隣りの部屋に西島が美少女と、私は事務員ふうの女の子といっしょに泊まった。私は、芝居のことが頭から離れなかったので、女の子を抱く気分ではなかった。
となりの部屋であの女の子がせつなげな声をあげはじめた。すると、私の隣りに寝ている女の子が、黙って私の上にのしかかってきた。

My wicked、wicked days.
何十年もたった現在、まるで夢のなかのできごとのようにこの夜のことを思い出す。
(つづく)

1270

一年前に友人の劇作家、西島 大が亡くなった(2010年3月3日)。

彼の訃報を新聞で知ったのだが――

肝細胞ガン。享年、82歳。1954年、劇団「青年座」創立メンバーの一人。
「昭和の子供たち」、「神々の死」などのほか、映画「嵐を呼ぶ男」、テレビ・
ドラマ「Gメン’75」の脚本を手がけた。

20代のはじめの頃からの友人で、一時は親友といっていいほどだった。
西島 大は伏せていたが、「日本浪漫派」の詩人、田中 克己の実弟だった。敗戦の日に皇居前で自決しようとしたほどの憂国少年だったという。
私は、内村先生の「えり子とともに」のスタッフだったが、西島 大は内村先生の口述筆記をしていた。そんなことから、親しくなったのだが、当時の西島 大のことは、私の『おお 季節よ城よ』のなかにチラッと出てくる。

私がはじめて舞台の演出を手がけたのは、発足してまもない「青年座」の公演で、西島 大の「メドゥサの首」という一幕ものだった。
この芝居に東 恵美子、山岡 久乃たちが出たためか、「芸術新潮」に劇評が掲載された。「芸術新潮」に劇評がでるのはめずらしいことだった。いくらか世間の注目を浴びたのかも知れない。
私は「青年座」で、西島 大の「刻まれた像」という一幕ものを演出したが、これは失敗だった。戯曲のできがよくなかったというより、私の演出がひどかったせいだろう。

私は、芝居を終わったあと、出演者たち一人ひとりにダメ出しをしたり、部分的に稽古をやり直して、明日にそなえた。終演後の手直しだったから、11時を過ぎていた。

楽屋口を出たところに、西島が待っていた。
失敗した芝居の劇作家と、その演出家の気分がどういうものか想像できるだろうか。
まして、お互いに友人で、お互いにそれなりの自信をもって初日を迎えたはずだった。
西島が私を心配して劇場に戻ってきたとき、私が芝居の稽古をしてきたことはすぐにわかったはずだった。
お互いに何もいわなかった。

まっすぐに、西島が行きつけの酒場に行った。

私はあまり酒を飲む気分ではなかった。芝居のことが頭から離れなかった。どこがわるいのか。台本のできがよくないのか。もし、そうなら作者にどう書き直してもらえばいいのか。私の演出はどこで間違ってしまったのか。
俳優や女優たちがよくなかったとして、どういう指示をあたえればいいのか。その指示がまちがっていたらどうなるのか。
無数の疑問が心のなかにわきあがってくる。
じつは、この芝居の娘役に、私が教えていた俳優養成所の女の子を起用していた。本人も、私の抜擢にこたえて、いい芝居をしていたが、ベテランたちのなかでは、どうしても見劣りがする。私は、それをカヴァーするために、いろいろと工夫をしていた。それがあまり効果がなかったのかも知れない。
私は、芝居のことなど、少しも気にしていないふりをして酒を飲みつづけた。西島も、自分の芝居のことなど、まったく口にしなかった。

もう、終電車はなくなっていた。
西島といっしょに渋谷の坂を歩きはじめたとき、私はすっかり酔っていた。まだ、人通りが多く、ネオンサインがきらめいている。若い女たち、ホステスたちが嬌声をあげていた。タクシー乗り場に長い列ができていた。
私たちの前に、若い娘がふたり、歩いていた。
思いがけないことに、西島がその一人に声をかけた。

「ぼくたちといっしょに飲まないか」

ふり向いた顔に、いたずらっぽい表情があった。美少女だった。
もうひとりはごくふつうの娘で、不動産の会社か何かの事務員といった感じだった。
(つづく)

1269


ジェーン・ラッセルとマリリンには、どこか共通するところがある。

無名の頃、ジェーン・ラッセルは、ロシア出身の女優、マリーア・ウスペンスカヤの指導を受けている。やはり無名の頃のマリリンは、これもロシア出身の演出家、マイケル・チェーコフ(劇作家、チェーホフの甥)の指導を受けている。
それほど重い意味があるはずはないが、ジェーンとマリリンの「役作り」にはおそらく共通するものがあったのではないかと私は見ている。

ジェーンは無名の頃、舞台女優として演技を勉強していたこと。
彼女が指導を受けたのは、マリーア・ウスペンスカヤ。この名前から、マリーアの芝居を思い出すひとは、もういないだろう。

マリーア・ウスペンスカヤは、1923年、「モスクワ芸術座」のアメリカ巡演に参加したが、ソヴィエトの革命をきらってそのままアメリカに亡命した。私たちが、マリーアを見ることができるのは、DVDの「孔雀夫人」(ウィリアム・ワイラー監督)ぐらいなものだろうか。この映画で、マリーアは、アカデミー賞、助演女優賞にノミネートされている。
小柄で、上品な、おばあさんといった役で、よく映画に出ていた。題名を忘れたが、フランソワーズ・ロゼーが出たハリウッド映画に、マリーア・ウスペンスカヤがロゼーの義母の役ででていたのを覚えている。

女優の評価はむずかしい。
生前は、マリリンを圧倒するほどの人気があったジェーン・ラッセルでさえ、今では、ただ一度マリリンと共演しただけの女優といったあつかいなのだから。

昔、映画、「黄昏」が公開された頃、作家の中井 英夫が書いていた。

キャサリン・ヘップバーンはいいが、ヘンリー・フォンダの方は、痛ましいほど老いすぎて、映画を見る気になれない。たしか、そんなことを書いていた。
スターという存在は、男女を問わず、老いるはずがない、という信仰がある、という。

 「レッズ」のウォーレン・ビーティーだっていずれ似たようなことになるのだろ
  うが、こちらはまだ保(も)ちそうだとかなにとか、スクリーンの外側でやき
  もきするうち時間はダリの絵さながら柔らかく腐蝕されてゆく。老いの砂。も
  ろく崩れて流れ出すそれに、観客もまた巻き込まれずにいない。

こう書いた中井 英夫も、もうこの世の人ではない。

大きな時代の変化が私たちに迫っている。それをひしひしと感じながら――福島の原発の大事故を知らずに、この世を去った作家や、女優たちのことを考える。
これも、私の内部で、柔らかく腐蝕されてゆく。

1268

ジェーンの出演作品は、「ならずもの」以外は、「腰抜け二挺拳銃」(48年)、「犯罪都市」The Las Vegas Story(52年)、「紳士は金髪がお好き」(53年)、「紳士はブリュネットと結婚する」(55年)など。

マリリンが、現在でも、多数の人々に記憶されているのに対して、ジェーンはただ肉体派のスターとして、知る人ぞ知るといった存在にすぎない。

ジェーンの登場後に、ハリウッド映画は、女優のディスヌーダがつぎつぎに登場する。1953年12月に、ヒュー・ヘフナーが、「プレイボーイ」の創刊号に、マリリン・モンローのヌードを掲載した。
マリリンが、朝鮮戦争の最前線に、軍の慰問に出かけたように、新人女優のテリー・ムーアも、朝鮮戦線の軍の慰問に出かけたが、純白の貂の毛皮の水着を脱いで、ストリップ・ショーを見せた。これは、日本では報道されなかった。
ダイスターのマルレーネ・ディートリヒは、ラス・ヴェガスのショーで、乳房の部分を透明なラミネートですっぽり蔽っているだけ、ノーブラのガウンで登場した。
そうした動きが、すべてジェーンの登場の作用的結果とはいえないだろうが、ジェーンのエロティシズムはそうした流れの先頭を切っていたと、私は見ている。

ジェーン・ラッセルとマリリンには、どこか共通するところがある。

ジェーン・ラッセルが、ずっと後輩のマリリンに対して、親身につきあってやったのも、その時代の「セックス・シンボル」として生きなければならなかった(利点は大きかったが)つらさ、ジェーンとハワード・ヒューズとの関係、マリリンとハリー・コーンとの関係、監督、ハワード・ホークスに対する距離のとりかた、といった点で、共通するところがおおかったと見てよい。

映画監督、ハワード・ホークスは、ジェーン・ラッセルとマリリンについて――

  「紳士は金髪がお好き」をつくるときは、ジェーン・ラッセルとの助力が大きか
  った。この映画を取るのはとても楽しかったが、何度も中止しようと思ったこと
  がある。ジェーン・ラッセルがいうんだ。「ちょっとこっちを向いてよ――監
  督さんは、それだけやってほしいのよ」すると、マリリンは、「あら、そんなら
  そうといってくれればいいのに」とさ。だけど、後年、マリリンと仕事をした監
  督に較べたら、ずっと楽だったね。後にマリリンがエラい女優になると、ますま
  す、ビビリはじめて、カメラの前で演じるのを拒みはじめたからね。何も演技が
  できないと思うようになっちゃって。

私はジェーン・ラッセル追悼のつもりで、「紳士は金髪がお好き」を見た。
(つづく)

1267

3月23日にエリザベス・テーラーが亡くなった。
彼女については、いずれあとで書く。

同じ3月に、ジェーン・ラッセルが亡くなっている。享年、89歳。

新聞に短い訃報(オービチュアリ)が出たか、「紳士は金髪がお好き」で、マリリン・モンローと共演したという記述がある程度だった。
あれほど有名だった映画女優でも、この程度にしかあつかわれない。さすがに感慨があった。

ジェーン・ラッセルは、マリリン・モンロー以前の「セックス・シンボル」だった。はじめてスクリーンに登場したのは、ハワード・ヒューズの「アウトロー」(1943年)だが、ジェーンの野性的な魅力は、たちまち保守的な階層からはげしい非難を浴びせられた。この攻撃のすさまじさは、その後のイングリッド・バーグマンに対する非難の嵐を思わせるものだった。
アメリカにかぎらない。どこの国にも「良識」という名の、はげしいフィリピックスは見られるが、ジェーンは、それを逆手にとって、したたかにハリウッドで生きのびた。

映画「ならずもの」Outlaw(42年)は、当時としては、大胆な露出で、上映中止になった。1941年に、ごく一部で公開されたままオクラ入りになり、戦後の1950年になって、ようやく公開された。
ジェーンは、一躍、有名になったが、映画としては、ハワード・ヒューズの「お遊び」で、ほとんど取り柄がない。

後年、ジェーンは語っている。
「私は戦った。ズタズタにされ、議論の的にされた。ダンスで、私に着せようとした衣裳のことで、つらい時期を過ごした。ほんとうにひどい衣裳で――何も着ていみたいな衣裳だったわ。」
ところが、ヒューズは、この衣裳が気に入っていた。ダンスも気に入っていたし、ジェーンの胴体(トルソ)も気に入った。
なによりも、撮影スタッフの眼をよろこばせたのは、大きな、褐色に日灼けした乳房だった。スタッフはジェーンに「チェスナッツ」(クリちゃん)というアダ名をたてまつった。
映画は公開されなかったが――ジェーン・ラッセルは、巨乳女優として、世間の耳目を衝動させた。

私たちは、戦後すぐにボブ・ホープの喜劇、「腰抜け二挺拳銃」で、ジェーン・ラッセルを知ったが――ジェーンの登場で、ハリウッドの「乳房崇拝」(ブレストカルト)が決定的なものになったと考えている。バストラインは38インチ。「巨乳女優」ジェーンの存在はそれほどにも大きかったと見ていい。
(つづく)

↓「フレンチ・ライン」のジェーン・ラッセル

image