1505

(4)
「SMASH」のオープニングは――無名の女優、「カレン」(キャサリン・マクフィー)がオーディションで、「虹の彼方に」を歌う。映画「オズの魔法使い」(1939年)でジュデイ・ガーランドが歌っていたテーマ曲。
このオープニング、時間としてはわずかに35秒。日本のドラマだとはるかに時間がかかるだろう。スピーデイーな展開で、この女優はオーディションに落ちる。

「カレン」の歌が「虹の彼方に」なので、まるで「ドロシー」のように、場違い(crude)、不慣れ(awkwardness)、不相応(unsuitable)、しかも、虹の彼方をめざしている「カレン」の子どもじみた(childish,immature)希望などがわかる。
(あとでわかるのだが)「カレン」は田舎の高校で「金のタマゴ」コンクールに優勝したこと、「ドロシー」がカンザスの田舎娘だったように、「カレン」がアイオワのカントリーガールなのだということを一瞬に理解する。
つぎに、オーディションを受ける女優は、おなじように無名の女優だが、実力派の「アイヴィー」(ミーガン・ヒルティー)。しかし、「アイヴィー」も落ちてしまう。この導入部(人物紹介)が1分10秒。
これだけで、「SMASH」のフォーカシング(焦点)がわかる。

「カレン」は、キャサリン・マクフィー。
すっきりした体型で美貌だが、いかにもカントリー・ガールというタイプ。
細おもての美女。顔の輪郭は、「お熱いのがお好き」の頃のマリリンに似ている。ほかのスターの誰にも似ていないのだが――私が思い浮かべたのは、サイレント映画のスターレット、ヴァレリー・ファニング(注)。

「アイヴィー」はミーガン・ヒルティー。
みるからにグラマラスでセクシイな女性。実際には、ブロードウェイで成功している有名女優。「SMASH」では、無名の女優でレヴューのアンサンブル(コーラスガール)。ミュージカルの主役(パート)をねらっているのだが、なかなかチャンスにめぐまれない。

ふたりは何から何まで対照的で、「カレン」の無邪気さ、純粋さ。「アイヴィー」は野心的で、「比類ない彼女」Uncomparable She というエロス、自分の前にあらわれた男に躊躇することなくからだを投げ出す女。
オーディションに合格した夜、「カレン」は、演出家「デレク」に呼び出される。「デレク」は演出だけでなくコレオグラファー(振り付け)。「カレン」は(誘惑しようとする)「デレク」から逃げるが、「アイヴィー」はおなじようにサシで稽古をつけようとする「デレク」と寝てしまう。

(注)VALERIE FANNING (below) was a typical silent starlet (though the term had not yet been coined) whose picture was taken in the hope that stardom was just around the corner. It wasn’t, and her name is nowhere to be found in reference books.

 

 

1504

(3)

「SMASH」は、スティーヴン・スピルバーグ制作・総指揮のTVドラマ。

スピルバーグが、ハリウッド女優、それもマリリン・モンローの生涯を描いた作品のプロデュースをしている。しかも、ミュージカルという。
私はマリリン・モンローの生涯を描いたミュージカルとばかり思って見たのだった。

「エビータ」はエバ・ペロンの伝記を舞台化したミュージカル。「ジーザス・クライスト・スーパースター」はイエスの生涯を舞台化したミュージカル。そういう意味では、「SMASH」はマリリン・モンローの生涯を描いたミュージカルではない。

マリリンとは関係なく――ブロードウェイのショー・ビジネス、そのインサイド・ストーリー、ないしはバックステージ・ドラマというべきもの。

「SMASH」は、すばらしい女優たちが出ている。
キャサリン・マクフィーと、ミーガン・ヒルティー。このふたりのコントラストが、そのまま葛藤(コンフリクト)になっている。

ストーリーは――女性作詞家、「ジュリア」(デブラ・メッシング)が、「マリリン・モンロー」を題材にしたミュージカルのアイディアをつかむ。「リディア」とチームを組んでいる作曲家、「トム」(クリスチャン・ボウル)が、作曲にとりかかる。その企画に、プロデューサー、「アイリーン」(アンジェリカ・ヒューストン)が関心をもつ。
ブロードウェイで上演される前段階のトライアルとして、ワークショップが進行する。

このTVミュージカル・ドラマは、「マリリン・モンロー」という女優の伝記を舞台化するミュージカル――その制作の企画段階から、作詞、作曲、プロデューサーによる出演者の交渉、オーディション――とくに、主役の「マリリン・モンロー」をめぐる新人女優ふたりのはげしい競争、そして出演者たちのいりみだれる「関係」――舞台ミュージカルのテレビ・ドラマ――ということになる。

 

1503

(2)

私は、ブロードウェイを舞台にした映画をたくさん見てきたひとり。

20世紀はじめのブロードウェイ。若くて貧しい娘(ジェニファー・ジョーンズ)が、ニューヨークをめざして、シカゴから出てくる。彼女はブロードウェイの舞台で成功するが、その蔭で、彼女を愛した男(ローレンス・オリヴィエ)が失意の果てにホームレスに落ちぶれる。シアドー・ドライザーの「黄昏」。この映画は1953年の作品。

20年代。アメリカのトーキー草創期に公開された「レビュー時代」。
ジンジャー・ロジャースよりも、もっとみごとな肢体を見せていたエリナー・パウエルの「踊るブロードウェイ」、「踊る不夜城」。
ジンジャー・ロジャースよりも前に、フレッド・アステアがエリナー・パウエルを相手に「踊るニューヨーク」。

ブロードウェイをめざす無名の女優たちが寮のようなアパートに暮らしている。ジンジャー・ロジャースは、舞台に立つためならプロデューサーに身をまかせてもいいと考えている。アンドレア・リーズは、何度オーディションを受けても落ちてしまう。そこに、驕慢な、富豪の令嬢が入ってくる。キャサリン・ヘップバーン。キャサリンは成功するが、アンドレアは自殺する。1937年の「ステージ・ドア」。

ブロードウェイの絢爛たる光の洪水のなかで成功するアーティストたち。失意のどん底を這いずりまわる落伍者たち。
落ち目になった女芸人と、その娘。「喝采」(1929年)は、ルーベン・マムーリアンの処女作だった。主役は、美貌のヘレン・モーガン。

「戦後」の「喝采」(1954年)。アルコールに溺れて凋落したシンガー(ビング・クロスビー)と、彼をささえて立ち直らせようとする妻(グレイス・ケリー)、もう一度、舞台に立たせようとする演出家(ウィリアム・ホールデン)の物語。原作はクリフォード・オデッツ。この映画で、グレイス・ケリーがアカデミー賞を受けたっけ。

もっと近いところでは、ウデイ・アレンの「ブロードウェイのダニー・ローズ」。ブロードウェイにひしめく下積みの俳優たちの哀歓。おなじウデイ・アレンの「ブロードウェイの銃弾」(1994年)は、せっかくいい芝居を書いた劇作家が、落ち目の大女優のわがままや、マフィアの親分の可愛がっている女優にふりまわされる。
6部門にノミネートされながら、ウデイは何ももらえず、ダイアン・ウィーストが、ちゃっかり助演女優賞をもらった。

ブロードウェイ。
タイムズ・スクェアにあふれる絢爛たる光の洪水。
ショー・ビズネス。

私は、最近、「SMASH」(2013.4)を見た。

 

1502

(1)

ブロードウェイ。
タイムズ・スクェアにあふれる絢爛たる光の洪水。
その輝きのなかに、無数の挫折、栄光が渦巻いている。

2013年6月9日、アメリカ演劇界で最高の栄誉とされる「トニー賞」の発表と授賞式が行われた。
ドラマ部門とミュージカル部門に分かれているが、今年のミュージカルは「キンキーブーツ」が最優秀作品賞ほか、オリジナル作曲賞など、6部門を独占したという。
不況で倒産寸前の靴工場で、再建をめぐってのさまざまな人間模様を描いたコメディ。

オリジナル作曲賞は、シンディ・ローパー。

受賞したシンデイは、「私を受け入れてくれたブロードウェイに感謝したい」とスピーチした。このことばの重さは、シンディ・ローパーを知っている人にはすぐにわかるだろう。

この「キンキーブーツ」のプロデューサーの一人が日本人だという。ブロードウェイの輝きのなかに日本人の名が輝いたことに私は感慨を催した。日本の女優がミュージカル、「シカゴ」の舞台を1カ月つとめた程度のことではない。

このプロデューサーの胸にも「私を受け入れてくれたブロードウェイに感謝したい」という思いはあったに違いない。

1501

これを書いた時の私は、アフリカについてはもとより、シーア派についても、何も知らなかった。ただ、イザべル・エベラールという、文学的に夭折した作家を、あらためて読むことができる、そういう喜びを語りたかったにすぎない。

いまでも、心に深く残っているシーンがある。

外人部隊の兵士が、町でただ一軒のカフェ、石油缶を並べただけのベンチに腰をおろしている。
アルジェの強烈な日ざしにさらされて、まっくろに日灼けしているドイツ系のブロンドの兵士。
アラブ人になりきって男装しているイザベルと、たまたま話をする。

アラブ人の「男」が、たどたどしいがなんとかドイツ語を話すので驚く。まさか、砂漠の中の小さな町で、母国語を口にする機会があるとは信じられない。
この若い兵士は、人生をあたら蕩尽してしまったこと、世界じゅうを放浪して、最後にフランスの外人部隊にもぐり込んだことを語る。敗残の叙事詩を。

デュッセルドルフ生まれ。20歳のとき、旅と冒険へのやみがたい欲求に駆られて、ドイツ軍に志願して、清(中国)に送られた。
イザベルが兵士に会った時期は、おそらく1903年頃だろうから、この兵士は、義和団事件(1899年)の起きた時期に、清(中国)に送られたのだろう。

だが、この兵士は脱走した。中国の港で辻芸人をやったり、領事館につとめたり、水夫になって、世界をへめぐったあと、無一文になった。故郷を離れて5年、アルジェにたどり着いて、外人部隊に志願する。

イザベルは書いている。

彼の人生は台なしになった。それに間違いはない。だが、それでどうなのか。彼
は退屈しなかったし、世界を見届けて、今では人や物事をはっきり知りつくして
いる。

ある晩のこと、この兵士はイザベルにいう。
「ここでの不幸は、何も読むものがないことなんだ。新聞さえもない。獣のように暮らしていると、頭がボケてしまう。こんな時間に、コーヒーでも読みながら、いっしょに本が読めたら、しあわせなんだが」と。
イザベルをイスラム教徒と知って、いい出せなかったことだが、たった1冊、本をもっていると伝える。それは、聖書だった。
イザベルは、イスラム教と古いユダヤ教には血縁関係があって、どちらも、苛烈な一神教なのだと話す。兵士は、イザベルが、聖書を読むことを許してくれたと知って、いそいで、聖書をもってくる。

こんな話が、今の私を感動させる。

 

 

1500

1990年12月、私はこんな書評を書いた。

水が砂漠に吸い込まれるように、忘却の淵に沈んでしまった伝説的な女流作家がいる。その名は、イザべル・エベラール。

彼女の障害は波瀾(はらん)にみちたものだった。ロシアの革命家の娘として生まれ、数奇な運命に導かれて、単身、サハラ砂漠の奥深く潜入し、遊牧民の男を熱烈に愛した。イザべルは男装して、シーア派の一員として政治的な活動をつづけ、作家しても嘱望されていた。
だが、長編として書きつづけた原稿とともに、アフリカの大洪水にのみ込まれた。わずか27歳の若さだった。
あまりに早く人生を駆け抜けただけに、作家としての成熟は見られなかったが、その紀行文には、イザべル・エベラールの驚くべき行動力、ゆたかな感性、観察のするどさが至るところに認められる。

日本ではじめて翻訳された「砂漠の女」は、22歳でチュニジアに住みついたイザべルの、アルジェリアまでの旅、特にサハラ砂漠のマグレブ地方の観察記録である。彼女は、サハラを愛した。自らが語っているように、神秘的な、深い、説明しがたい愛にほかならない。それは、あくまで現実に根ざした愛であり、しかも不滅の愛だった。

原稿は、イザべルが亡くなってから整理されたもので、ときには断片的であり、さらには途中で異文(ヴァリアント)が挿入されているが、それがかえって、イザべルのいきいきとした息づかいを感じさせる。

ランボオやゴーギャンのような「脱出」の系譜に入れてもおかしくない作家だし、T・E・ロレンスに近い行動派の文学の先駆と見てもいい。アフリカのルポルタージュとして、ジッドの「コンゴ紀行」を予告するような部分がある。
いずれにせよ、この「砂漠の女」で、私たちはようやくイザべル・エベラールの全貌を知ることができるだろう。そういう意味で、私にとっては、「砂漠の女」は一つの文学的な事件なのである。

1499

モンテルランがこんなことを書いていた。

一人の芸術家が、冷静に、自分の知能と、魂と、創作力の発揮を、感覚が衰えて
いる老後の時期に賭ける。この事実には、ある種の偉大さがある。

だが、すぐにつづけてこうも言っている。

少なくとも、自分の天性によほど深い自信がないかぎり、ここまで長いあいだ、
眠らせておいた才能が、完全な姿で戻ってくるとは思えないはずだ。

アハハ。

老いぼれ作家が、いまさら人生に問いかけたところで、期待通りの返事が返ってくるわけがない。

 

1498

他人には何の意味もない日付けの羅列。

1月13日(木)/29日(月)/31日(月)
2月8日(火)/21日(月)/26日(月)
3月1日(火)/10日(木)/14日(月)/26日(木)
4月1日(金)/5日(火)/11日(月)/19日(月)
4月23日(土)/26日(火)
5月10日(火)/11日(月)/24日(火)/28日(土)/31日(火)
6月7日(火)/14日(火)/22日(火)/25日(土)/28日(火)
7月6日(水)/12日(火)/16日(土)/19日(火)/29日(金)
8月2日(火)/9日(火)/19日(火)/24日(水)/25日(木)/30日
9月6日(火)9日(金)/14日(水)/21日(水)
10月6日(木)/17日(月)/24日(月)
11月7日(月)/14日(月)/17日(月)/21日(月)
12月8日(木)/17日(月)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

戦後はじめてモンテルランの小説を読んだ。その登場人物が、このリストをいつも紙入れにいれて、ときどきとりだしては眺める。
気がむけば、いつでも反芻することができる楽しみ。

モンテルランの表現では――彼は自分の全集の目次を読み返す作家の満足感で、それを読み返した、とあった。ふーん、自分の全集が出るような作家は目次を読み返すときに満足感をおぼえるのか。
こんなことからモンテルランに興味をもった。

当時の私は、いつもきまって友人の小川 茂久と行きつけの酒場や居酒屋で飲むことにしていた。小川は、19世紀のフランス文学、とくに自然主義の作家を勉強していたのだが、私がモンテルランに興味をもちはじめたと知って、不思議そうな顔をした。

 

 

1497

人は、好んで自分の病気の話をする。自分の人生のなかで、いちばんおもしろくないことなのに。

チェホフのことば。私はチェホフを尊敬しているので自分の病気の話をしない。もし、私が自分の病気の話をするようになったら、ボケたせいだと思って聞き流してほしい。
え、もうとっくにボケているじゃないか、って? (笑)

 

1496

イタリアの有名なバレー選手で、ファッション・モデルとしても知られているフランチェスカ・ピッチニーニは、自室に、アンデイ・ウォーホルの版画「マリリン・モンロー」を飾っている。
(2012.12.11)夜8時20分、8channel 放送)

つまらないトリヴィアだが、記録しておく。

 

1495

フィルコの滞在中に、銀座の、ある画廊のパーティーに行った。
私は一介の批評家なので、美術批評の世界を知らなかった。このパーティーで、針生一郎が、私がフィルコの世話を見ていることに感謝のことばをかけてきた。針生 一郎は、「俳優座」の養成所の講師だったし、どういう風の吹きまわしか、「新日本文学」がやっていた文学講座に呼んでくれたことがあった。
針生 一郎まで、私がフィルコの世話を見ていることを知っている。これも、ちょっと驚いた。
この席で、私は、サム・フランシス、カール・アンドレなどに紹介された。

当時の私は、現代美術について何も知らなかった。今だって、ほとんど知らないのだから、お話にならないが、もう少し知識があったら、と残念に思う。
しかし、フィルコを知ったことで、いささかなりとも現代美術に対する眼が開かれたことも間違いない。

フィルコの帰国の日、私は、やはり私が紹介した女の子、能登 光代といっしょに横浜港まで送って行った。

それ以後、フィルコの消息を聞くことがなかった。

はるか後年、思想家、ジュリア・クリステヴァに会う機会があって、私はたまたまフィルコのことを話題にした。そのとき、意外なことを知らされた。
帰国後のフィルコがマリーアと離婚したという。
私の胸にかすかな傷みが走った。

 

1494

意外なことに、フィルコは毎日チェコ大使館に出頭しなければならなかった。
ずっとあとで知って驚いたのだが、前日の行動を詳細に報告しなければならなかったらしい。その一方で、大使館は、フィルコの滞在先、中田 耕治についても調査したらしい。
ある日、東京から戻ってきたフィルコが、私をつかまえて、
「君は作家なんだねえ」
といった。
「有名じゃないけど、自分では作家と称しているよ。それが何か……?」
「大使館が教えてくれた」
私は笑った。私は「文芸年鑑」程度のものにやっと出ている。調べたって仕方がないだろうに。
共産圏の大使館は、自国を代表する芸術家の行動、とくに交遊関係にまで目を光らせているのか。もっと驚いたのは、フィルコ夫妻の滞在に対して、経済的な援助なしだったことを知った。この日から、食事も私たちとおなじものにすることにした。むろん、対価をいただくわけではない。

東京を案内することにした。マリーアは妻といっしょに行動させた。その間に、ストリップ劇場に案内したこともある。フィルコは、アメリカ映画はチェコでは絶対に見られないので、ぜひ見たい、という。私は映画の批評を書いていたので、試写室につれて行った。二、三本見たはずだが、バート・ランカスターの「大空港」、フランス映画ではジョルジュ・フェイドーの喜劇しかおぼえていない。見終わったあと、フィルコは何もいわなかった。
私は、明日の大使館詣では、何もいわないだろうな、と思った。 (つづく)

 

1493

フィルコは、大阪万博に作品を展示するため夫人マリーアといっしょに来日した。
滞在期間は1週間。4月初旬には帰国する予定だった。
しかし、フィルコ夫妻は、せっかく来日したのだから、東京の美術展を見て歩きたい、と思った。ふつうの旅行者なら、そう思うのも当然だろう。だが、東西の冷戦構造のなかで、外国旅行が許可されない共産圏から例外として出国を許された芸術家だった。
フィルコは、大使館に出頭して、滞在延期を申請した。

フィルコは、海外でも知られていた芸術家だった。たまたま、アメリカの彫刻家を知っていた。この彫刻家に連絡したらしい。その彫刻家は、自分の知っている日本の彫刻家、高橋 清を紹介したのだった。

高橋 清は、日本よりもメキシコで著名な芸術家だった。メキシコ・オリンピックが開催されたとき、マラソン・コースの沿道に、世界的な彫刻家、十数名が彫刻を建てたが、日本人として高橋 清が選ばれている。
フィルコは、高橋 清の家に泊めてもらえないかと相談したのだった。だが、この70年当時、高橋 清はメキシコから帰国したばかりで、アトリエを新築中だった。フィルコの希望に添える状況ではなかった。
そこで、高橋 清は、私に事情をつたえて、フィルコ夫妻を泊めてやってほしい、とつたえてきた。

私はよろこんでひき受けた。

こうして、思いがけないことから、フィルコ夫妻を自宅でもてなすことになった。

マリーアは、あとで知ったのだがハンガリー人で、カトリック教徒だった。夫のフィルコの才能を信じて、いわば内助の功を身につけたような女性だった。いつもひかえめで、夫を立てようとしている。育ちのよさがそのまま人柄のよさに重なっている。
フィルコは、英語をしゃべらないので、私はもっぱらフランス語でしゃべった。マリーアは、英語を少ししゃべったが、フランス語はしゃべらない。
我が家の言語体系はときならぬ大混乱に落ち入った。

このときから、毎日、コメデイの連続だった。    (つづく)

1492

1970年、大阪で万博が開催された。

個人的に外国の作家や芸術家と接触したことは多くない。
こちらがまったく無名の作家だったからだが、それでも、ごくわずかな数の芸術家と知り合う機会があった。
例えば、スタノ・フィルコ。

フィルコは、チェコスロヴァキアの芸術家で、大阪万博に新設された現代美術館に、チェコの代表として作品を展示した。このとき、世界じゅうから約20名の芸術家が選ばれて出品しているが、そのなかに、フォンタナ、ヘンリー・ムーアなどが含まれていた。当時の共産圏の、チェコスロヴァキアからスタニスラフ・フィルコだけが選ばれているが、ソヴィエトには社会主義リアリズムの美術しか存在せず、「現代美術」などはじめからあり得なかったから、スタノ・フィルコが選ばれたのは異例だったに違いない。

私は、スタノ・フィルコについて何も知らなかった。

1年後に「朝日」がフィルコを紹介している。

チェコのブラチスラバに住む異色芸術家スタノ・フィルコが、数年前の活動をまとめた作品集を出した。
フィルコの初期作品は、バロックの祭壇を思わせるガラクタのよせあつめだったが、一九六五年以来”Happsoc”(ハプソク)と名づけて、環境芸術とハプニングを総合する方向に向かった。たとえば、六六年の「普遍的環境」と題した作品は、木のわくとナイロン・レースのカーテンにしきられた空間で、床と壁には鏡がはめこまれ、頭上から三つのシャンデリアが三色の光を放射し、カーテンには女のシルエットが映しだされる。観客はテーブルに置かれたチェスをやったり、女の描かれた空気ベッドにすわったりしながら、現実と幻影との交錯にひきこまれる。
このように光、映像、音、物体、文字などを動員しながら、動的な情報環境に観客をじかに参加させるのが、フィルコの作品の特色である。一昨年のパリ・ビエンナーレには、球体のテントの内部に鏡をはりつめた空間を作り、宇宙探検への関心をつよく示した。
近年は、コンセプチュアル・アート(概念美術)の方向に近づいている。昨年の万国博にも参加し、来日した。フランスの批評家ピエール・レスタニーが、文明社会の日常性をそのまま作品化する点で、マルセル・デュシャンの直系と書いたように、西側でも注目されている。  (71年5月15日)

私が見たのは、この「普遍的環境」で、ほとんど観客のいない「現代美術館」の一室で見たのだった。小さなのぞき窓から見るようになっている。その意味では、マルセル・デュシャンのアイディアを踏襲しているにちがいない。
私は、上からほのかに放射される三色の光のなかに、淡い色で女のシルエットが揺れているのを見て、「現在」の東ヨーロッパの「エロス」を感じた。性的な事象に対して、きわめて禁遏的な共産圏では、女の「エロス」の表現はこれが限界なのだろう。

逆にいえば――性的な表現がまったく存在しない場所で、どういうかたちであれ、若い女性の裸身を表現することに、ひそかな「抵抗」がある。私はそう感じた。
フィルコのヌードは、かすかな空気のなかで、たえず揺れている。それはたえず変化し、いわば浄化されてゆく。これは何かのメタファーなのか。

大阪でフィルコを見たとき、この芸術家と知り合うなど考えもしなかった。
(つづく)

1491

幼年時代に、はじめて出会った本が何だったのか、現在の私には想像もつかない。
亡くなった母、宇免から聞いたことがあるのだが、巌谷 小波の童話の絵本が好きだったという。その童話に出てくる犬が好きで、その犬を飼ってくれとせがんだらしい。その童話がどういう内容だったか、おぼえていない。
私の年代の人なら、たいてい「幼年クラブ」か「少年倶楽部」の読者で、吉川 英治や、高垣 眸、南 洋一郎といった作家の連載に夢中になった記憶があるに違いない。私の場合はやはり乱読で、山中 峯太郎から佐々木 邦まで、手あたり次第に読みふけった。

はじめて買った本なら、よくおぼえている。つまり、自分のおこづかいをためて買った本で、両親が買ってくれた本ではなく、自分が読みたくて買った本である。むろん、高い値段の本を買ったわけではない。
キップリングの「ジャングル・ブック」だった。じつは、いっしょに「ロビンソン・クルーソー」を買ったのだが、小学生にはひどくむずかしい本だった。そのため、デフォーは読まずに、キップリングを読んだ。
私は、密林に住んでいる少年の冒険に胸をおどらせた。こんなに面白い本を読んだことがなかった。

キップリングはそれほど好きな作家ではないが、私は、今でも自分が、昂揚と挫折にみちた人生の密林に生きているような気がしている。

これは、「子どものとき、この本に出会った」(鳥越 信・編/1992年12月刊)に書いた短いエッセイ。
もともとは、「子どもの本」という雑誌の巻頭の随筆で、私のほかに111名の人が、幼い日に出会った本のことを書いている。
「ジャングル・ブック」をあげていたのは、さだ・まさし、動物園の中川 志郎。
「ロビンソン・クルーソー」をあげていたのは、作家の庄野 潤三、坪田 譲治、将棋の内藤 国雄の三人。

それぞれのエッセイに、編者の注がついていた。

中田さんがはじめて買われた本は、価格の面から考えても春陽堂少年文庫69巻の「ジャングル・ブック」(小島 政二郎訳 1933年)ではないかと思われますが、モーグリの話三編を合わせた「狼少年」の他に、マングースの話「リッキ・チッキ・テビー」、海を舞台にし「しろあざらし」が収められています。

 とあった。

私が読んだのは、残念ながら小島 政二郎訳ではなかった。
岩波文庫から出た中村 為治訳(1937年)である。
もう少しあとになって――沢田 謙治の「エジソン伝」(新潮文庫)を買ってきた。この本もおもしろかった。とくに少年時代のエジソンにあこがれた。それと同時に、小説ではないジャンルにはじめて関心をもった。
後年の私が翻訳をしたり評伝を書くようになった遠因は、少年時代にこの本を読んだおかげかも知れない。

1490

小川 茂久は、生涯にただ1冊の本しか残さなかった。
「小川町界隈」という200ページ足らずの雑文集だった。そのなかに「文芸科のころ」というエッセイがある。私の著作、「異端作家のアラベスク」の栞に寄せてくれたもので、若き日の交遊が語られている。

「小川町界隈」は、自分の生い立ち、明治の文科で、私、関口 功(後年、英米文学・教授)と知り合ったこと、フランス文学を専攻するようになったこと、そうした「よもやま話」が第一部。いろいろな会合で、小川はいつも裏方として支えていた。そうした集まりで、乾杯の音頭をとったり、(開会ではなく)閉会の挨拶をしたり。そうしたスピーチを集めてある。そして、親しい友人たちがつぎつぎに去って行く。有名な雑誌の編集者をやめて、画家をめざしてパリに行き、美しいフランスのマドモアゼルをつれて帰国し、個展も成功しながら、病にたおれた都城 範和。私たちより、1級上で、「東宝」のプロデューサーとして成功したが、急死した椎野 英之。
小川 茂久は、フランス文学の恩師だった斉藤 磯雄先生、竹村 猛先生、そして英文科の小野 二郎教授の追悼を書いている。それらの点鬼簿が第三部。

私は、日本文学科の講師だったので、諸先生とは口をきいたこともなかった。小野 二郎は、旗亭、「あくね」で小川が紹介してくれたので、酒を酌み交わしたが、小川のおかげで、いろいろな人と知り合うことができた。

小川の残した文章はいずれも短いが、ほんとうに心のこもったものだった。
フランス語に近いクラルテ(明晰さ)というか、しっかりした、単純な文体で、彼の語ることはいつも的確だった。
1996年6月21日、神保町の酒場、「あくね」が廃業することになって、最後の集まりが「日本出版クラブ」で行われた。常連客たちが、多数あつまったが、いろいろな人がお別れのスピーチをした。
最後に、小川が「閉会の辞」を述べた。その冒頭と結びを引用しておく。

私はのんべえ塾・酒場「あくね」の開設以来(1960年11月24日)、怠け怠けですが、通っている者です。その設立趣旨(あるとすれば)によると、卒業は認められていませんから、今日まで長々在籍して、美酒を嗜みながら多くの人と語らい多くの事を学び取りました。(中略)

これがオープニング。

私ごとで恐縮ですが、私は三十六年という長い歳月にわたり、塾長にお世話をかけっぱなしでした。この席をかりて、厚く御礼申し上げます。
「二次会」は場所を「あくね」に移して開きます。会費千円、食べ物は乾き物程度ですが、飲み物はふんだんにありますから、宜しかったらお立ち寄り下さい。
以上をもちまして、閉会の辞に代らせて頂きます。

これが、エンディング。いかにもありきたりの式辞だが、小川らしいユーモアがあって、なごやかな笑いが惜別の思いを包んでいる。

小川はどんな集まりでもけっして表面に出ず、裏にまわって力をつくす。そういう誠実な人物だった。他人の失敗を咎めることなく、誰にも気づかれないようにして、自分がカヴァーする。
私は彼の近くにいたから、彼のひそかな、しかも綿密な心遣いに気がついたが、小川はいつも、ケッケッケッとカラス天狗のように笑って何も語らなかった。

彼の残した「小川町界隈」を読む。小川と知りあえたことは、自分が生きていてよかったと思えるようなことの一つ。ここに集められた短いエッセイは、どれをとっても何冊かの本が書けそうなくらいの事柄だが、小川は何も書かなかった。
あらためて思う。小川は、私などよりもずっとりっぱな文章家だった、と。

 

 

1489

たくさんの人を見てきた。いろいろな国を訪れた。気に入らない仕事もやってきた。女も知った。さて、生きていてよかったと思えるような光景にもぶつかったし、何冊かの本が書けそうなくらいの事柄も心に残っている。
ここに小川 茂久という男がいる。私と同期で、明治大学でフランス文学の教授をやっている。
若い頃の小川は、佐藤 正彰先生、斉藤 磯雄先生の知遇を得た。作家の中村 真一郎さんと親しかった。私の長編「おお 季節よ城よ」には、少年の日の小川が登場してくる。
私は17歳のとき、二歳年長の小川を知った。お互いにドストエフスキー、小林 秀雄に私淑していた。戦争末期、小川が召集されたとき以外は、殆ど毎日のように会って、じつに半世紀近くも過ごしてきた。口論したことは一度もない。こっちが叱られたことはあったが。
酒豪である。東京・神田神保町の酒場「あくね」につれて行ってくれたのも小川だった。いろいろな作家や評論家がとぐろを巻いていたがやがて私も酒徒行伝に名をつらねることになった。
今の私は環境(ミリュー)が違うせいで、あまり会うこともなくなっている。たまに会っても、いまさら文学論をたたかわすこともない。お互いに顔を見ただけで何を考えているか、だいたいはわかっている。
お互いに私生活の話をするでもない。それでいて、以心伝心というか、何でもわかってくれる。おのれの生きかたを他人の考えでなぞって見る必要のない間柄なのである。
こういう男こそ親友といえるだろう。戦時中から戦後、そして現在まで、おなじように生きてきた友人のことを考えれば、いまさら年をとったなどと、驚かずにすむ。

以上は、「日経」(1990年11月23日)に掲載された短いエッセイ。担当は、文化部にいた、吉沢 正英だった。

小川が亡くなって10年。すでに吉沢 正英も亡くなっている。ここに拙文を再録しておくのも、かつての交遊が私の心裡に染みて、忘るることのなきが故である。

 

1488

グレタ・ガルボについて。ガルボほど美しい女はめずらしい。

ガルボのように美貌で、非のうちどころのない美女だっていないわけではない。たとえば、ブリギッテ・ニールセンのように、おなじ北欧のブロンド。長身で、ほんとうの美貌、ととのい過ぎた女優をみると、なぜか笑いたくなる。
「クリスティナ女王」や「椿姫」のガルボを見ると、いつも美人として生きなければならない女優の不幸に感動する。
「ニノチカ」のガルボは違う。原作は、旧ソヴィエトの体制、官僚主義、どうしようもなく硬直したオブスキュランティスムを風刺したものだが、それまで笑ったことのないガルボが不意に笑い出すシーンがよかった。

ガルボは、コメディエンヌとしての素質を欠いていたわけではないが、ひたすら悲劇女優として生きた。やがて、ガルボは去ってしまった。映画だけでなく、アメリカという「現実」からも。

私が、はじめてガルボを見たのは、G・W・パプストの「喜びなき街」だった。第一次大戦の「戦後」の暗い世相を描いた映画だった。私は、太平洋戦争の「戦後」、1945年の夏にこの映画を見た。日本が、まさに「戦後」の悲惨な、暗い世相を見せはじめた時期で、それだけに「喜びなき街」は衝撃的な映画だった。
そして――「喜びなき街」は、私が「戦後」はじめてみた外国映画ではなかったか。

この映画のラスト・シーンに、まだまったく無名のマルレーネ・ディートリヒが出ていて、一瞬、ガルボとすれ違う。これを「発見」した私は、その後、何十年も、あれは、ほんとうにマルレーネ・ディートリヒだったのだろうか、と疑ってきた。
そして、ドイツ映画史のなかで、私の想定した通り、ガルボの「喜びなき街」に、エキストラとして無名のマルレーネ・ディートリヒが出ていたことをつきとめた。
今、考えても、信じられないような「現実」だった。

 

1487


女について考えなくなっている。


    女の三つの義務。第一に美しくあること。第二に、よいジェスト(身のこなし)
    をすること。第三に、さからわないこと。


サマセット・モーム、22歳のノート。

 女は美しくなくてもいい。よいジェスト(身のこなし)を見せる女優さえ少なく
    なっている。最後に、男は女にさからわないこと。


中田 耕治、85歳のノート。

1486

最近の私のブログは長い。長すぎる。
本が読めるようになったせいだろう。

 

    読書は人を聡明にしない。ただ教養ある者にするだけだ。

 サマセット・モーム、18歳のノート。

 

    読書は人を聡明にしない。ただ教養ある者にするだけだ。
    いくら本を読んでも、身につかない教養もある。

 中田 耕治、85歳のノート。