昭和8年(1933年)の夏休み、私は祖母のあいといっしょに塩釜(しおがま)で過ごした。
石巻(いしのまき)は仙台から電車で1時間ほどの小さな漁港で、松島の北西にあたる。当時、仙台の人口は、18万程度。石巻(いしのまき)の人口はざっと2万程度だったから、塩釜はおそらく1万にみたない小さな漁港だったと思われる。
町の中心部には、カフェや、居酒屋、食堂などの建ちならぶ歓楽街や活動写真の劇場もあって、けっこう賑やかな町だった。
ただ、プールの近くに、小さな芝居小屋、兼映画館があって、その映画館で上映される活動写真を見ることが多かった。
塩釜(しおがま)で過ごした頃のことは、ぼんやりとおぼえているだけだが、夏のあいだだけ営業するプールの管理人をやっていた祖母に預けられて、プールの部屋に住み込みで暮らしていたことを思い出す。
プールといっても、セメントを打っただけのもので、今の競技用のプールとは比較にならない。都会の小学校にもプールがなかった時代で、水産会社の生け簀を利用して、夏場の子どもたちのプールにしたのではなかったか。
私は、誰もいないプールの回りを歩いたり、透明な水の揺らぎを眺めていた。自分が、どうしてプールの管理人に預けられたのか、それも考えなかった。
祖母のあいは、この映画館の小さな売店をまかされていた。
どういう経緯があったのかわからないが、私の祖母、西浦 あいは、昼間はプールの管理人、夜は活動写真の劇場に雇われていた。つまり、両方の仕事のかけもちでアルバイトをやっていたことになる。
アルバイトをかけもちして働かなければならなかった。つまりは、それ程貧しかったのか。あるいは、別の事情があったのか。
幼い私がそんなことを考えたわけではない。ただ、「あい」が私の母、宇免の紹介で劇場の売店を引き受けて、観客にビール、サイダー、ラムネなどを売っていたことはまちがいない。
都会では、無声映画からトーキーに転換していたが、この劇場は、昼間は弁士が活動写真の説明をするが、夜は、ドサまわりの劇団が、芝居を打つ。ときには、浪曲師が浪花節をうなるといった大衆向けの芝居小屋だった。
ドサまわりの劇団のレパートリーは歌舞伎が多く、「近頃河原の達引」などを適当な長さにダイジェストしたものを見たのではないか。
子どもの私は、板敷の枡席かゴザか筵(ムシロ)のような古畳を敷いた桟敷に座って、芝居を見た。「お俊傳兵衛」が、母や兄に暇乞いをして、義太夫の
やつす姿のめおと連、名を絵草紙に、聖護院(しょうごいん)森をあてどに
たどりゆく
ぐらいは理解できた。さて、ふたりが森に着いて、いろいろの口説きや色模様の果てに、今にも相対死にという段になって、死なずにすむことになる。そればかりか、「お俊」も「傳兵衛」も夫婦になるので観客も大よろこび。そんな芝居をかすかにおぼえている。