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 以前もとりあげたが、私は多代さんのファンなのだ。桜が満開だった頃、ふと、多代さんに桜の句はないのだろうか、と思って調べてみた。ないはずはかい。

初花や 思ひも寄らず 神詣        多代
さむしろに 這ひ並ぶ子や 花の蔭
花の戸に 脱ぎもそろわぬ 草履かな
花少し散って晴れけり 朝曇り
ややあって 雲は切れたり 峯の花
花に月 どこからもれて 膝の上
花に暮れ さくらに明けて 日は遅し
木樵より 外に人なし 遅桜
晩鐘の さかひもなくて 花に月

注釈の必要のない平明な句ばかり。ただし、多代さんの句は、いかにも平明、平凡に見えるけれど、どうしてどうして、そんなものではない。たとえば、ほかの女性(にょしょう)たちの句と並べてみると、にわかに輝きをましてくる。

山桜 ちるや小川の 水くるま       智月尼
花さいて 近江の国の 機嫌かひ
逢坂や 花の梢の 車道
入相(いりあい)の鐘に痩せるか やま桜

智月尼は、芭蕉の弟子。大津の乙州の母。
それなりに姿のいい句だが、多代さんの句と読みくらべてのびやかさがない。
多代さんよりはるかに高名な、加賀の千代の

女子どし 押して登るや 山桜       千代
花戻り 見るなき里の 夕かな
晩鐘を 空におさゆる 桜かな
あしあとは 男なりけり はつ桜

こうした句と並べて、いささかも遜色がない。いや、それどころか、千代などとははじめから比較にならないほどに洗練された句ばかりだと思う。

多代さんだけを褒めるつもりはない。
ほかにも桜を詠んだ句は多いが、私の好きな句はあまりない。

管弦の灯のはしりこむ 桜かな       花讃
追い追いに 来る人ごとの 桜かな     園女
草臥(くたびれ)を花にあずけて 遠歩き  志宇
花にあかぬ 浮世男の憎さかな       千子
殿ばらと 袖すれ合うて 花見かな     りん
盃に影さす 夜の桜かな          可中
追ふ人や 追はるる人や 花の酔い     そめ女
うちにゐて 思ひにたへぬ 花曇り     はる

園女は芭蕉の弟子だったが、芭蕉亡きあと、其角についてまなんだ。志宇は、武家の妻女、和漢の書に親しみ、和歌もよくしたという。千子は、去来の妹。りんは、豊後の国の女性。可中については知らない。そめ女、はる、いずれも遊女ではないかと思われる。

春風駘蕩足る気分で、俳句を読む。

昔の女人の句。あまりにも遠く隔たった世界だが、かつて生きていた女たちの息づかいが艶冶に響いてくる。
(つづく)