1115

私は、戦時中に、明治大学の文科文芸科に入学した。

文芸科では、いろいろな先生の授業を受けた。それまで何も知らなかった私は、おびただしい知識を身につけるだけで、せいいっぱいだったと思う。
しかし、教授たちのなかに、軍国主義的な言説を説く人はいなかった。

音楽について田辺 尚雄先生が教えてくれたのだが、ジャズについて語った。むろん、初歩的な知識だったが、先生は教室にポータブルをもち込んで、ジャズのレコードをかけてくれた。戦争のまっ最中に、ジャズが大学の教室から流れるというのは、それこそ破天荒なことだったに違いない。そのとき私が耳にした曲は、「アリグザンダー・ラグタイム・バンド」だった。
はじめに、アメリカのジャズバンドの一枚、つづいて芸者が三味線でひいた一枚。赤坂の「美ち奴」の演奏だったと記憶している。
飯島 正先生は、教室にいた私たちにむかって、
「現在、こういう内容の講義をすることは禁止されていますが、きみたちに必要な知識として、ここでとりあげておきます」
と断って、1920年当時のロシア映画、とくにプドフキン、エイゼンシュタインなどついて、わかりやすく解説してくれた。まだ、ビデオもDVDもない時代だから、映画を見るわけにはいかなかったが、分厚な研究書に出ている写真を見せてくれた。
もし学生の誰かが警察に密告すれば、田辺先生も、飯島先生も、ただちに検挙されたはずである。私は、大学にはこういう勇気のある先生がいるのだ、ということを知った。
後年の私は、ジャズ、ロック、はてはアジアポップスまで聞くようになったが、その原点に、田辺先生の講義があったと思っている。後年の私は継続的に映画批評を書くようになったが、試写室で飯島さんと会うことがあると、かならず挨拶をするようになった。植草 甚一さん、双葉 十三郎さんといった先輩の映画評論家に紹介してくださったのも飯島さんだった。
植草 甚一さんから、アメリカの小説のことをいろいろ教えていただいたが、飯島さんからは、ハンガリーの作家、ラヨシュ・ジラヒをはじめ、いろいろな作家のことをうかがうことができた。

私は、いろいろな先生の教えを受けたことに感謝している。たとえば、小林秀雄の教えを直接に受けた最後の学生のひとりだった。このことは未決定の将来に向かって歩き出したばかりの私に大きな影響をあたえた。

入学して間もなく、教室での授業はすべて廃止され、川崎の「三菱石油」の工場で労働させられたが。当時、学部長だった作家の山本 有三先生が、おびただしい蔵書を工場に寄贈してくださった。そればかりか、豊島 与志雄先生、小林 秀雄先生を工場に派遣して下さった。工場側と折衝して事務室を借りて、応急の教室で先生が学生たちの質問に直接答えるという授業をなさった。
ヨーロッパ戦線ではドイツが最後にアルデンヌで、連合軍に反撃していた時期だった。学生のひとりが、ドイツはどうなるのでしょうか、と訊いた。小林先生は、言下に、
「ドイツは負けるだろう」
といい放った。それを聞いた私は、ほんとうにふるえたといってよい。
このときの小林先生の話は、私の内面にしっかり刻みつけられた。