(つづき)
野村先生はこの質問を三人の中国人俳優に投げかけてみたが、「ノー」と答えなかったのは秋 夢子だけだった。
「やめたいと思ったんです。もう使える物は全部使っちゃったという感じになって。これから充電しないとだめかなと思って……」
そこをどう乗り越えたのだろう。
「なんとなく乗り越えた気がする。そう、何となく乗り越えましたね」
自分に言い聞かせるように言った。
野村先生はいう。
彼女の『キャッツ』への出演は、すでに七百回を超えている。三百回から七百回へ至るまでのあいだに、新しい革袋にはいった新酒が徐々に発酵して行くような時が流れたのかもしれない。
さて、ここから私の「問題」になる。
舞台に立つ俳優にとってロングランとは何か。上演回数が、三百回に達したとき、秋 夢子は語っている。
「もう頭の中に何もなくなった」と思ったことがある、と。
俳優が、もう、やりたくなくなった、と思った舞台が、はたして観客にとって最高の舞台といえるかどうか。
ロングランの舞台に立つ俳優が、いつも安定した演技を見せる。これはすばらしいことだと思う。しかし、上演回数が三百回を越える舞台におなじ役で立ちつづけるというのは、かならずしもいい結果をもたらさない。
ルイ・ジュヴェは、ジロドゥーの『シャイヨの狂女』で大当たりをとったが、まだいくらでも続演できるのに、あえて打ち切った。ジュヴェはいう。
まだ当たっている最中だが、『シャイヨの狂女』を引っ込めるつもり。成功に溺れてはならないし、芝居は脚本(ほん)によって歪められてはならないと思う。それに、一年もおなじセリフをしゃべりつづけ、あえておなじ言葉を響かせる俳優というものを、どういったらいいのか。彼はどうなってしまうのか。それに、劇場はいつもおなじ芝居を演じるものなのか。それでは、<劇場>という一つの楽器であることをやめてしまう。
「劇団四季」の俳優、女優たちの交代を見ていると、その後の、それぞれの身のふりかたが気になる。
俳優、女優は、けっして expendable ではないのだ。