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 私は翻訳をなりわいとしていた時期がある。そのうちに、なんとなく作家になってしまった。
 翻訳をやめるつもりはなかったが、何かのテーマを見つけると、どうしてもそれにひきずられてしまうのだった。もともと有名な作家ではないので、小説や評論を書くかたわら、長い期間、教育という仕事にたずさわってきた。
 いろいろな機会にいろいろと教えてきた。その仕事の一つに翻訳の講座があった。新人翻訳家の育成を目的とした講義だったが、私のクラスから、すぐれた翻訳家が多数登場している。
 この間、翻訳の世界も大きく変貌してきた。

 優秀な翻訳家がぞくぞくと登場してきた。大半が女性の翻訳家で、私のクラスからも優秀な新人たちが巣立って行った。すでに一流の翻訳家として仕事をしている人も多い。ほかの分野でもそうだが、翻訳という仕事でも女性がそれだけ大きく評価されるようになったといえるだろう。

 翻訳史の上では、若松賤子、八木さわ子、松村みね子、村岡花子といったすぐれた女流翻訳家の仕事がある。翻訳も、近代の日本人が文学にもとめてきたものを基本的にかたちづくってきた作業という意味では、上田敏、永井荷風、中村白葉、米川良夫、堀口大学、鈴木信太郎、中野好夫など--「悪の華」や「地獄の季節」、「黒猫」から「シャーロック・ホームズ」まで、すぐれた翻訳はほとんど男性の手になるものばかりだった。
 現在の翻訳は新しい意味で時代の感性をかたちづくるものになってきて、むしろ女性にむいているのではないか、とさえ思われる。翻訳という作業には、鋭敏な注意力、綿密な検証、さらには、何よりも文学的な感覚が要求されるからである。知的な意味で女性こそこうした天性にめぐまれているのではないか。

 翻訳はかんたんにいって外国語を日本語に置き換える作業だが、それがどういうものなのか、実際に説明するとなるとなかなかむずかしい。しかも、日本語の大きな変化がつづいている時代なのだから。

 私はじつは新人たちに何かを教えたわけではない。いつも、新人たちを「発見」してきたのだと思う。
 おこがましいが、これが私の教育の基本的な姿勢だった。