1958 〈少年時代 44〉

私の母、宇免の友人にIさんというオバサマがいた。三味線の稽古で、知り合ったらしい。若い頃は、さぞ可愛い芸者さんだったに違いない。
祖母のあいが、塩釜の芝居小屋(活動写真館)の小さな売店をまかされていたことに、このIさんというオバサマがどうやらかかわりがあったらしい。

このオバサマは芸者あがりだったが、さる実業家に落籍(ひか)されて、当時、最新の映画館の経営をまかされていた。この実業家は、もとは活動の弁士だったという。チョビ髭をたくわえた中年の紳士で、堂々たる押し出しだった。

活動写真の弁士についても、今の人には説明が必要だろう。

映画の発達史のなかで、外国の無声映画(活動写真)が輸入されるようになって、観客に内容を説明する必要が生まれた。その説明者が、活動写真の弁士である。
弁士は、日本だけではなく、東南アジア、朝鮮、中国などにもあらわれたが、当時の観客の識字率が低かったためといわれる。
日本では、かなり特徴的な発達を見せた。弁士は、それ自体がプロの職業として成立して、全国各地を巡業するようになった。つまり、弁士の一人ひとりがいわばスターとして人気を博することになった。たとえば、駒田 好洋(こうよう)は、舞台に立ってスクリーンを見ながら、「すこぶる非常に」というフレーズを頻発して、日本じゅうの人気を得た。
映画が活動写真と呼ばれていた時代。映画は、2巻ものから4巻ものの短編映画が普通だった。しかし、1920年代に入って、世界大戦後の好景気、観客層の拡大、風俗の変化によって、活動写真は8巻ものから10巻の長尺もの(長編)もめずらしくなくなる。

やがて、劇映画が登場する。そうなると、弁士も、登場人物のセリフを演じわけなければならなくなる。さらには、それぞれの登場人物のセリフを分担して声色(こわいろ)で演じわけるような弁士も出てくる。
映画会社のほうでも、弁士の要望に添った内容の活動写真を作るようなこともあった。

ハリウッド映画が、映画のテーマや、ストーリーや、登場人物の心理を字幕で説明するようになって、日本の弁士も、声色(こわいろ)ではなく、それぞれの個性によって映画説明をするようになった。こうして生駒 雷遊(いこま・らいゆう)から、徳川 夢聲(とくがわ・むせい)、喜劇なら大辻 司郎(おおつじ・しろう)といった人気弁士がぞくぞくとあらわれる。現在の声優、アニメの声優たちの先駆者といっていい。

サイレント映画(活動写真)では、ドラマの設定や、登場人物のセリフなどは、字幕(スポークン・タイトル)で説明されるのが普通だった。そして、各地の映画館に、映画音楽を伴奏する楽士が常駐して、そのシーンをもりあげる。当時はその映画のために作曲された曲ではなく、サスペンスのシーンになると、決まってオッフェンバックの「天国と地獄」の一節、甘美なシーンになると、「トロイメライ」、「青きドナウ」の一節といった音楽が奏でられる。日本の活動写真で、殺陣(チャンバラ)のシーンにはきまって長唄の「越後獅子」などが使われた。

日本でも、映画ファンは増大したが、外国映画の字幕(スポークン・タイトル)が読める観客はほとんどいなかった。そこで、興行師の駒田 好陽は、映画の内容を観客に説明する弁士として、観客の前に立った。これが、大当たりで、その後、生駒 雷遊から徳川 夢声といったスターが登場する。有名な弁士は、映画のストーリーを説明するだけでなく、登場人物の内面までを感情ゆたかに表現する。だから、当時の観客は、それぞれ贔屓の弁士の口演を聞くために、映画館に押し寄せた。

しかし、トーキーの出現で、活動の弁士たちは、失職して、寄席芸人になったり、ドサまわりの役者になったり、子どもむけの紙芝居屋さんになった。