1937〈少年時代 23〉

荒町小学校では、ときどき名士を招いて、話を聞かせる行事があった。講演というより、小学生にもわかるような訓話といったものだったが。

ある日、土井 晩翠が全校の子どもたちに話をしてくれた。

土井 晩翠は仙台出身で、鍛冶町の生まれ。斉藤 秀三郎の仙台英語塾で英語を身につけ、やがて二高から東大に進んで、詩人、英文学者として知られる。

当時、土井 晩翠は、すでに詩壇から離れていたはずで、仙台二高の教授を退任したあと、ホメーロスの「イーリアス」、「オデュッセーア」のギリシャ語原典の研究に没頭していたと思われる。

土井 晩翠が「荒月の月」の作者ということは知っていたが、「荒月の月」がこのオジサンの作と聞いたとき、はじめて詩というものは作られるものなのかと驚いた。それまでは、自分が知っている歌が自然に私たちの環境にあって、それを作った人がいるなどとは考えもしなかった。

その時の土井 晩翠の話は、小学生にもわかるような講話だったはずだが、まったく心に残らなかった。そもそも話の内容がわからなかった。

土井 晩翠の英姿だけは心に残った。生まれてはじめて見た詩人であった。羽織、袴、和服姿の堂々たる風格で、子どもたちを前に、やさしい訓話をしてくれた。
この日、私は、詩人になることにきめた。詩がどういうものかわからなかったが、とにかく土井 晩翠のように、みんなが知っている歌のようなものを作ろうと思った。

おなじような催しで、久留島 武彦の話を聞いた。
この人の話はおもしろかったが、内容はよくわかっても、土井 晩翠の英姿を見たあとでは、あまり感銘しなかった。私は、すぐに久留島 武彦の話を忘れた。

ただ、こういう催しで、「偉い人」の話を聞くのは、けっして無益ではなかったと思う。
戦時中に、極度の紙不足で、雑誌の発行も難しくなった時期に、久保田 万太郎の公演を聞いたことがある。(有楽町の「朝日講堂」だったと思う。)聴衆は大人ばかりで中学生は一人もいなかった。
これも、講演の内容は忘れているが、「大寺学校」や「釣堀にて」の劇作家が、こういう風貌の人と知って、中学生の私は驚いたのだった。こういうオジサンが、あれほど繊細な戯曲を書くのか。私は、一種のショックをおぼえた。
しかし、久保田 万太郎に親しみをおぼえたことはたしかだった。なにしろ、私が生まれてはじめて見た劇作家だった。

この日、私は、芝居を書くことにきめた。芝居の台本はどういうふうに書けばいいものかわからなかったが、とにかく久保田 万太郎の芝居のように、みんなが見てくれるようなものを書こうと思った。

 

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