1939〈少年時代 25〉

「真福寺」は時宗(じしゅう)という浄土宗系の宗派で、一遍上人の開宗という。遊行宗(ゆぎょうしゅう)とも呼ばれる一派だが、この土地の菩提寺だったらしい。

当時のお寺の数、僧侶の数を調べてみると、天台宗のお寺が、4425。真言宗のお寺が、1万1922。浄土宗のお寺が、8254。
時宗のお寺は、494。
僧侶の数も、天台宗のお坊さんが、2892人。真言宗のお坊さんが、7933人。浄土宗のお坊さんが、6588人。
これに対して、時宗のお坊さんは、358人。(昭和8年現在)

当時の仙台でも、時宗の寺はめずらしかったにちがいない。「真福寺」はあくまで小さな寺で、境内もせまかった。道をへだてて、これも狭い墓地があった。私の家は、「真福寺」の寺領で、すぐうしろが墓地になっていた。
近くに住んでいる小学生たちは、朝早くから、和尚さんの読経(どきょう)と木魚の音を聞きながら登校するのだった。荒町尋常小学校からも近かった。
清水小路から、土樋に引っ越したのも、小学校からも近かったことが大きな理由だったに違いない。

幼い私はそんな事情を知るはずもない。私のお役目は、月に一度、「真福寺」に家賃を届けに行くことだった。

庫裏(くり)に声をかける。障子が開いて、作務衣に白足袋の、年老いた和尚さんが出てくる。数珠をつまぐりながら、家賃を受けとってくれる。そして、筆で通帳に納入を記載すると、いつもきまって、仏前に供えた和菓子、「らくがん」を一つか二つ、私にくれるのだった。
その落雁は、いつもお線香の匂いが移って、あまりおいしくなかった。

この老僧は、人格的に、りっぱな和尚さんで、私は、その後、いろいろな寺僧を見るたびに、「真福寺」の和尚さんを思い出した。それほどにも心に残るお人柄だった。

1938〈少年時代 24〉

昭和12年、それまで住んでいた清水小路から、土樋(つちどい」の家に引っ越した。土樋の家は、広瀬川に面した愛宕橋の袂の小さな一郭で、「真福寺」というお寺の斜め前、もともとは墓地にする予定の空き地、それも崖の上に建てられたものらしい。

前に広瀬川、後ろがすぐに墓地という家作だったから、借り手がいなかったのかも知れない。

私の家のすぐ右手、川に面した崖の一部に長方形の小さな池があって、その池(というより、2×1.5メートルばかりの水溜まり)が「首洗いの池」だった。笹と雑草が生い茂って、昼でも薄暗い池だが、私は毎日その池の横から、わずかな斜面を下りて、広瀬川のほとりで遊んだものだった。

ただ、愛宕橋の袂の土地で、浪人、梁川 庄八(やながわしょうはち)が、伊達藩の家老、茂庭 周防守(もにわすほうのかみ)を青葉城の門外で襲い、その首級を刎ねて、逃走し、愛宕橋まで首尾よくたどり着いて、討ち果たした恨敵の首を洗ったという。梁川 庄八は、戦前の講談では、けっこう有名なヒーローだったが、今はもう、誰も知らないだろう。
伊達騒動を描いた歌舞伎の「伽羅千代萩」は、大詰め、花道をのがれてくる外記とそれをおって揚げ幕から出てくる仁木の立ちまわりで知られているが、おなじ、奥州を舞台にした歌舞伎で、仙台の南にあたる白石城下に住む姉妹の仇討ちにもとずく「碁太平記白石噺(ごたいへいき・しろいしばなし)」は、それほど知られてはいない。
(安永9年・1780)に人形浄瑠璃として上演され、すぐに歌舞伎化された。梁川庄八の仇討ちは、やはり人気がなかったのかも知れない。「戦後」は、復讐をテーマにしているために、このものがたりは公演されなくなったばかりか、講談でも忘れられた。

私の同級生に、この茂庭 周防守の直系の子孫にあたる茂庭君がいて、成績はごくふつうだったが、スポーツ万能で、後年、柔道5段、宮城県の柔道連盟の幹部になっている。

私は梁川 庄八のファンになったが、茂庭君に、茂庭 周防守について聞いたことはない。

ただ、仙台の市民には、伊達 政宗に対する深い忠誠、尊敬があった。私は、向山の伊達家の廟をよく訪れたり、真田 幸村の息女が嫁いだという伊達の重臣、片倉家について調べたりするようになった。
後年の私が時代小説を書くようになったのも、仙台に育ったことが遠因かも知れない。

 

 

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1937〈少年時代 23〉

荒町小学校では、ときどき名士を招いて、話を聞かせる行事があった。講演というより、小学生にもわかるような訓話といったものだったが。

ある日、土井 晩翠が全校の子どもたちに話をしてくれた。

土井 晩翠は仙台出身で、鍛冶町の生まれ。斉藤 秀三郎の仙台英語塾で英語を身につけ、やがて二高から東大に進んで、詩人、英文学者として知られる。

当時、土井 晩翠は、すでに詩壇から離れていたはずで、仙台二高の教授を退任したあと、ホメーロスの「イーリアス」、「オデュッセーア」のギリシャ語原典の研究に没頭していたと思われる。

土井 晩翠が「荒月の月」の作者ということは知っていたが、「荒月の月」がこのオジサンの作と聞いたとき、はじめて詩というものは作られるものなのかと驚いた。それまでは、自分が知っている歌が自然に私たちの環境にあって、それを作った人がいるなどとは考えもしなかった。

その時の土井 晩翠の話は、小学生にもわかるような講話だったはずだが、まったく心に残らなかった。そもそも話の内容がわからなかった。

土井 晩翠の英姿だけは心に残った。生まれてはじめて見た詩人であった。羽織、袴、和服姿の堂々たる風格で、子どもたちを前に、やさしい訓話をしてくれた。
この日、私は、詩人になることにきめた。詩がどういうものかわからなかったが、とにかく土井 晩翠のように、みんなが知っている歌のようなものを作ろうと思った。

おなじような催しで、久留島 武彦の話を聞いた。
この人の話はおもしろかったが、内容はよくわかっても、土井 晩翠の英姿を見たあとでは、あまり感銘しなかった。私は、すぐに久留島 武彦の話を忘れた。

ただ、こういう催しで、「偉い人」の話を聞くのは、けっして無益ではなかったと思う。
戦時中に、極度の紙不足で、雑誌の発行も難しくなった時期に、久保田 万太郎の公演を聞いたことがある。(有楽町の「朝日講堂」だったと思う。)聴衆は大人ばかりで中学生は一人もいなかった。
これも、講演の内容は忘れているが、「大寺学校」や「釣堀にて」の劇作家が、こういう風貌の人と知って、中学生の私は驚いたのだった。こういうオジサンが、あれほど繊細な戯曲を書くのか。私は、一種のショックをおぼえた。
しかし、久保田 万太郎に親しみをおぼえたことはたしかだった。なにしろ、私が生まれてはじめて見た劇作家だった。

この日、私は、芝居を書くことにきめた。芝居の台本はどういうふうに書けばいいものかわからなかったが、とにかく久保田 万太郎の芝居のように、みんなが見てくれるようなものを書こうと思った。

 

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1936〈少年時代 22〉

昌夫は、当時のアメリカのベスト・セラーをよく読んでいた。
ピットキンの「人生は40から」、ホグベンの「百万人の数学」といった本が書棚にならんでいた。外国の石油会社の仙台支店に勤めていたから、イギリスのベスト・セラーを読んでいても不思議ではないが、1930年代の仙台では外国のベスト・セラーを読んでいた会社員は珍しかったのではないか。

昌夫は趣味として絵を描いた。清六教諭が描いた絵のようにリアリズムの絵ではなかった。
昌夫の父は中田 長二郎。私の祖父。30代で早世したが、上野の美術学校の図案科を卒業して、「三越」の衣装部のデザインを担当したという。
父、昌夫は、仙台に転勤してから絵を描くようになったらしい。
母、宇免と結婚の記念に、黒い繻子の帯に、油絵で黒船を描いた。南蛮船だった。(これは1945年3月の空襲で焼けた。)

私の担任が、画家としても知られていた佐藤 清六先生になったため、昌夫は、自分の描いた絵を見て批評をしてもらいたいと思った。佐藤先生を自宅に招いたとき、先生は昌夫の絵を見て、すぐに才能がないことに気がついたらしい。

佐藤 清六先生の授業では、最初からクレオンを使ったが、日の丸や、富士山を描く生徒たちが多かった。佐藤 清六先生のクラスにかぎらず、どの教室でもこれが普通だったのではないか。
当時の小学校の美術教育は、教科書に出ている画家の絵を見て、それを模写するだけのものだった。今の私にいわせれば、むしろスケッチを中心にしたほうがよかったように思われる。鉛筆で、しっかりデッサンするだけでいい。
しかし、そんなことは小学校では教えてもらえなかった。
今なら、デッサンなりクロッキーなどの練習だけでなく、自由な発想で、生徒自身が好きに絵を描くことが奨励されるだろう。しかし、昭和初期の当時の図画(ずが)教育は、写生と、教科書の絵を上手に模写することに重点がおかれていた。私は、この教育で、寺内 万治郎という画家の名前をおぼえた。

私が佐藤 清六先生の授業をまったくおぼえていないのは当然だった。

 

 

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1935〈少年時代 21〉

この日のことはほとんどおぼえていない。同席したお嬢さんの同級生がいたが、この女学生のことも何もおぼえていない。
ただ、応接間で、紅茶にカステラが出されたことをおぼえている。

このティー・タイムの途中で、私は尿意をおぼえた。よその家でオシッコするなど、考えてもいなかった。
私がモジモジしているのを見た彼女は、
「ぼうや、どうしたの?」
私は黙っていた。
「あ、ごめんね。気がつかなくて」
彼女は、私の手をひいて、廊下の奥の厠所につれて行ってくれた。
ドアをあけると、アサガオがあった。私は、はじめて陶器の洋風便器を見たことに驚いたのだが、もっと驚いたことに、チビの私の身長では届かない高さにあった。
彼女は私のひるんだようすに気がついたようだった。
「ついててあげる。大丈夫よ」
私を抱きあげて半ズボンのサスペンダーをはずした。バンツをずり落として、うしろから抱きかかえるようにして、オシッコをさせてくれた。私は、はじめて羞恥をおぼえた。

綺麗なお姉さんにオシッコをさせてもらうのは恥ずかしかった。なによりも恥ずかしかったのは、彼女のほっそりした指が小さなペニスをつまむようにしてオシッコさせてくれたことだった。

後は、何ひとつおぼえていない。彼女の名前さえ知らない。

それからしばらくして、彼女のことが新聞に出たらしい。私はその記事を読んでいなかった。というより、新聞を読んだことがなかった。
ずっとたってから、母に訊いてみた。
「あのお嬢さんは、どうしていなくなったの?」
母の宇免は、私が何をいいだすのかといった顔で、
「あのお嬢さんは、男の人と一緒に死んじゃったのよ」

近所のうわさでは、彼女は、なにかいたましい事件の末、愛人と心中したという。
心中という言葉を聞いたのも、はじめてだった。

さらにあとになって、少し詳しい事情がわかってきた。
彼女は、女学校を卒業する前から、ある大学生と交際していたが、やがて妊娠したため、親にも相談できずに、悩みぬいたあげく、相手の男性と短い旅行をして、その宿で、無理心中をしたらしい、という。

この事件は、私の内部に何か暗い印象を残したといってよい。

「戦後」になって、「心中天編島」や、「鳥辺山心中」などを見るたびに、芝居とは何の関係もないのに、清水小路のお邸で綺麗な女子大生にオシッコをさせてもらったことを思い出した。彼女の綺麗な指が小さなペニスをつまむようにしてオシッコさせてくれたことを思い出した。この思い出が、戦前の時代の暗さを物語っているようだった。愛し合う若い男女がなぜ死を選んだのか。私にはわからない壁が立ちはだかったような気がした。

戦後の私はやがて私は歌舞伎を見なくなった。

 

 

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