1931

《アーカイブより》

 

ジェーン・フォンダ

中田 耕治   

 恋をするとき、ひたむきな恋をする女性は美しい。
ジェーン・フォンダは、いつもひたむきな恋愛をしてきた。そして、ジェーン・フォンダは女として美しいだけでなく、「恋する女」として美しい。

私たちの前に、いろいろなジェーンがいる。
たとえば、ベトナム戦争のころ反戦運動家だったジェーン・フォンダ。最近では美しいボディ・ラインをつくるエアロビックスの専門家としてのジェーン。
この映画スターは、いつも人生に対して、果敢に挑戦してゆく積極的な女性というイメージを見せている。
映画「帰郷」のなかで、ベトナム戦争で負傷したため、下半身がマヒしてしまった夫がいう。
「怒ったときのきみって、すばらしいね」
たしかに、ジェーン・フォンダは、ある時期まで「怒れるジェーン」だった。しかし、ほんとうのジェーンは、むしろ、恋するジェーンなのである。

ジェーン・フォンダは一九三八年に生まれている。ヒトラーがヨーロッパを戦争にひきずりこもうとしていた時期である。
ジェーンの父、ヘンリー・フォンダはまさにアメリカ映画を代表する大スターだった。彼は、資産家の令嬢だったフランセス・シーモア・ブロコウと再婚した。フランセスはジェーン・フォンダ、ピーター・フォンダの姉弟を生んだが、この結婚はおそろしい悲劇に終わった。
「不思議な雰囲気の女性だったわ。とにかく美しい人で、ひどく病身だったの」
ジェーンが十二歳のとき、フランセスは自殺したのだった。この悲劇は、幼いジェーンには伏せられていた。
「だけど、ママが死んだことはうすうす察していたわ。友だちが教えてくれたもの。だけど、ママがどんな死にかたをしたか知ったのは、ずっとあとになって。友だちが、学校で映画雑誌を見せてくれたときだった」
フランセスはノイローゼ気味で、夫が浮気をしているものと思い込み、咽喉をかき切って自殺したのだった。これは、ハリウッドじゅうのスキャンダルになった。

ジェーンは、アメリカきっての名門女子大、ヴァッサー大に入学する。
「十八歳だったわ。自分では不幸だと思っていながら、どうして不幸なのか理由もわからない年頃ね。大学に入ったのは、自分が住んでいる環境が変われば、人生も変わるだろう、なんて思ったからなの」
しかし、ジェーンは二年で中退してしまった。そのまま、フランスに行って、パリで暮らすようになった。この頃のジェーンはなかなか発展家だったらしい。
人生で失敗した「恋愛」は、どれもこれもおなじ顔をしている。それは、当然なのだ。どの失敗も、みんなおなじ原因からきているのだから。ジェーンは、むなしく男性遍歴を重ねていたが、ある日、まだ無名のロジェ・ヴァディムに会っている。エッチで、さもしくて、憎ッたらしい男というのが、最初の印象だった。
やがて、ジェーンの運命を一変させるような出会いがやってくる。
アメリカ演劇、最高の演出家だったリー・ストラスバーグに出会った。このリー・ストラスバーグは、映画女優マリリン・モンローの先生だった。マリリンとおなじように、ジェーンも彼の教えで演技に開眼する。
「あたしは、あくまで女優になりたかったし、どんな役でも演じられるように何でもやってきたわ」
はじめて映画に出たときはドジばかりして、デビューとしてはひどい失敗だった。映画のできもよくなかったし、ジェーンもさんざんだった。
それから二年、演技から遠ざかる。
そして、フランスで、世界的に注目されている映画監督、ロジェ・ヴァディムの「輪舞」に出た。
ロジェ・ヴァディムは、これも世界的に有名になった肉体派の女優、ブリジット・バルドーと離婚してから、アネット・ストロイベルクと結婚した。しかも、この時期、女優、カトリーヌ・ドヌーヴが「愛人」で、結婚というかたちはとらなかったが、ふたりの間には、男の子が生まれていた。
ジェーンは、この映画に出て、ロジェ・ヴァディムと同棲する。
「あたしは恋をすると、相手のためにどんなことでもしてあげたくなるの。ロジェは、あたしがいなかったら、まったく違った人生を歩んだかもしれない。あたしが彼によって、それまでと違った人生を歩んだように」
パリ郊外の小さな農場には、八匹の犬、十匹のネコ、アヒル、ニワトリ、ウサギに子馬が同居していた。
「あたし、ロジェ・ヴァディムとは結婚したくなかった。二年間、いっしょに同棲していたし、そのままのかたちをつづけて行きたかった。つまり、こうなのよ。ふたりの人間が、それぞれの余生をずっといっしょに過ごすなんて、かなり不自然なことだわ。でも、けっきょく、ロジェ・ヴァディムと結婚しちゃったけど」
ある意味でジェーンの行動は、どうかすると現実から遊離して見える。気分も変わりやすく、はげしい怒りを見せたかと思うと、すぐにけろっと忘れてしまう。
ジェーンの出演作品は、「キャット・バルー」(一九六五年)、(「獲物の分け前」(一九六六年)、「バーバレラ」(一九六八年)と、成功作がつづいた。当時、映画一本の出演料が二十五万ドルの超売れっ子スターだった。ところが、自分が出たいヨーロッパ映画には、週給百ドルでも出演したのだった。

一九六〇年代はベトナム戦争がどろ沼化していた。戦争を拒否する学生たち。ドロップアウトしたヒッピーたち。差別反対の人権運動。ウーマン・リブ。
そして、アメリカの国論はふたつに割れて、右翼のナショナリズムと、左翼の反戦運動が、まっこうから対立していた。
そのなかで、ニクソン大統領を失脚させたウォーターゲート事件が起きている。
ジェーン・フォンダは、この一九六〇年代をせいいっぱい、わるびれずに生きた女優だった。一九六八年、娘のヴァネッサを産んだ彼女は、ロジェ・ヴァディムと別離。
だが、どうして一つの愛は終わってしまうのだろうか。
愛の終わりは、恋をしている人にもわからない。なぜか、不意に終わってしまう。「恋人」が消えてしまう。ときには、恋愛から友情に移ってゆく。
いずれにしても、終わってしまった愛は、それまでの軌道からそれて別の惑星に飛んで行ってしまった宇宙ロケットのようなものなのだ。
ジェーン・フォンダの「恋愛」は、いつも、突然に終わって、あたらしい「恋人」があらわれてくる。
というより、ジェーン・フォンダは、一つの「愛」が消えたときから、ひたすら「愛」を探しもとめる。彼女の愛は、ひたすら努力して、さらに遠くへ行く。
誰かを愛していないときのジェーンは、みたされていない。しかし、彼女の「愛」はけっして死なないのである。

(なかだ こうじ 作家 女子美大教授)

 

 

 

imageimageimage