1918〈少年時代 12〉

仙台は関東大震災の影響を受けたわけではなかったが、それでも古い町並みに少しずつ新築の家や、商店などが見られるようになった。連坊小路から、荒町にかけて、カラタチの新垣をめぐらせた新建ての家も見かけるようになっていた。

今は市電も廃止されて、小さな清水小路のように、江戸時代そのままに馬場のような空間がひろがっていたことは想像できない。マンションやビルなどの近代的な建築が立っていて、ほとほと往時を追懐するよすがもない。

私の住む家は、短い路地を抜けて、すぐに小さな広場になっていた。
近所の子どもたちの遊び場になった。
右隣りは、中村さんというミシン屋で、当時、ようやくひろまってきた家庭の主婦相手に蛇の眼ミシンの販売をはじめていた。ミシン専門の販売店は、仙台市内でもめずらしかった。
母はこの店からミシンを買った。(1945年3月、東京の下町が、アメリカ空軍の爆撃で壊滅したとき、気丈な母は、このミシンだけを毛布にくるんで猛火の中を逃げた。「戦後」、このミシンで、シャツや肌着を作って、闇市場で売りさばいて、一家の生活費を稼いだ。)

中村さんの家には、私より一歳年下の、アキコさんという女の子がいた。
政子ちゃんの次に仲良くなった女の子だった。

表通りに、江戸時代の裏店(うらだな)といった古い作りの糸屋があった。昼間でも薄暗い店で、零細な家業で、老夫婦が店を守っていたが、客が入っていることは見なかった。

この老夫婦には孫が二人いた。ひとりは、トシタカさんという。名うてのワルだった。高等小学校に進んだが、この近所では知らぬ者もいない不良だった。柔道の心得があって、この界隈の暴れ者だった。まるで、ゴリラのような歩きかたをしていた。
いつも一人で、この界隈の同年輩の不良を相手に喧嘩を吹ッかける。相手に怪我をさせる。警察沙汰も起こしたことがあって、子どもたちもおそれていた。どんよりした目で、見るからに凶暴な性格だった。
その弟は、タカシという名だったが、中学にすすんだ。ただし、これも不良少年のひとりで、子分が10人ばかりいた。
トシタカさんのような暴力的な不良ではなく、軟派というウワサだった。タカシさんは、いつも兄貴のトシタカさんを恐れていた。
ふたりの兄弟喧嘩を観たことがある。何が原因だったのか。タカシさんはトシタカさんに組みしかれて、たてつづけに殴られた。ほとばしる鼻血で、顔を真っ赤にしたタカシさんが泣きだすのをはじめて見た。
それからは、タカシさんはトシタカさんをおそれて、トシタカさんの姿を見たとたんに姿を消すようになった。

幼い私は、タカシさんのグループの仲間と遊んだ。
メンコ(私たちはパッタとよんでいた)の一枚や、ベエゴマ、エンピツをけずったり、消しゴムを切るときにつかう肥後守(ヒゴノカミ=コガタナ)など、どこにでもあるオモチャには、自分で生気をあたえなければならない度合いが大きければ大きいほど、その物体から受け取る生命感も大きくなると信じていた。それが幼年時代というものだろう。

子どもの頃の遊び、鬼っごっこや隠れンボ、ケンダマ、駄菓子屋のラムネやアンコだま。こうしたすべてを、私はタカシさんとそのグループからおしえられた。

私の家の左隣りは、佐藤さんという家だった。あとで知ったのだが、母親と二人でひっそりと暮らしていた。この子は、私と同歳だったが、学校を休んでいる佐藤くんと遊んだ。
佐藤君は、だれも遊び相手がいなかったらしい。皮膚病がひどかった。
この皮膚病が、どういう病気だったのか。全身にひどい発疹(ほっしん)が出て、それが血疹や、膿疱(のうほう)が出るようだった。いつも頭にぐるぐると包帯を巻いていたので、ほかの子どもたちはそばに寄らなかった。

佐藤君は小学校も休んでいた。いつも消毒薬の匂いがした。

私は、佐藤君と遊んだ。いつも頭に潰瘍が出て、白い包帯をグルグル巻きにしていたが、この吹き出もののカサブタが崩れて、血のまじったリンパ液がにじみ出していた。佐藤君は、子どもの頃の遊び、鬼っごっこや隠れンボ、ケンダマ、駄菓子屋のラムネやアンコだまなども知らなかったのではないか。

佐藤君の母親は、芸者あがりだったという。いっしょに遊んでくれる男の子が誰もいなかったので、私が遊びに行くと、いつもよろこんで、お菓子を暮れるのだった。
私はそのお菓子を食べなかった。佐藤君とおなじ病気になるのがいやだった。

そして、ある日、佐藤君母子はどこかに引っ越していった。

当時、満州事変がおきて、中国では、蒋 介石の政権が無力化しつつあった。中国の民族主義的な抗日運動と、それを阻止しようとしていた時期。
不況にあえぐ日本は,軍部の強硬な姿勢によって、急速な「準戦時体制」に編成替えが行われつつあった。
むろん、幼い私は何も知らない。