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小川 茂久は、生涯にただ1冊の本しか残さなかった。
「小川町界隈」という200ページ足らずの雑文集だった。そのなかに「文芸科のころ」というエッセイがある。私の著作、「異端作家のアラベスク」の栞に寄せてくれたもので、若き日の交遊が語られている。

「小川町界隈」は、自分の生い立ち、明治の文科で、私、関口 功(後年、英米文学・教授)と知り合ったこと、フランス文学を専攻するようになったこと、そうした「よもやま話」が第一部。いろいろな会合で、小川はいつも裏方として支えていた。そうした集まりで、乾杯の音頭をとったり、(開会ではなく)閉会の挨拶をしたり。そうしたスピーチを集めてある。そして、親しい友人たちがつぎつぎに去って行く。有名な雑誌の編集者をやめて、画家をめざしてパリに行き、美しいフランスのマドモアゼルをつれて帰国し、個展も成功しながら、病にたおれた都城 範和。私たちより、1級上で、「東宝」のプロデューサーとして成功したが、急死した椎野 英之。
小川 茂久は、フランス文学の恩師だった斉藤 磯雄先生、竹村 猛先生、そして英文科の小野 二郎教授の追悼を書いている。それらの点鬼簿が第三部。

私は、日本文学科の講師だったので、諸先生とは口をきいたこともなかった。小野 二郎は、旗亭、「あくね」で小川が紹介してくれたので、酒を酌み交わしたが、小川のおかげで、いろいろな人と知り合うことができた。

小川の残した文章はいずれも短いが、ほんとうに心のこもったものだった。
フランス語に近いクラルテ(明晰さ)というか、しっかりした、単純な文体で、彼の語ることはいつも的確だった。
1996年6月21日、神保町の酒場、「あくね」が廃業することになって、最後の集まりが「日本出版クラブ」で行われた。常連客たちが、多数あつまったが、いろいろな人がお別れのスピーチをした。
最後に、小川が「閉会の辞」を述べた。その冒頭と結びを引用しておく。

私はのんべえ塾・酒場「あくね」の開設以来(1960年11月24日)、怠け怠けですが、通っている者です。その設立趣旨(あるとすれば)によると、卒業は認められていませんから、今日まで長々在籍して、美酒を嗜みながら多くの人と語らい多くの事を学び取りました。(中略)

これがオープニング。

私ごとで恐縮ですが、私は三十六年という長い歳月にわたり、塾長にお世話をかけっぱなしでした。この席をかりて、厚く御礼申し上げます。
「二次会」は場所を「あくね」に移して開きます。会費千円、食べ物は乾き物程度ですが、飲み物はふんだんにありますから、宜しかったらお立ち寄り下さい。
以上をもちまして、閉会の辞に代らせて頂きます。

これが、エンディング。いかにもありきたりの式辞だが、小川らしいユーモアがあって、なごやかな笑いが惜別の思いを包んでいる。

小川はどんな集まりでもけっして表面に出ず、裏にまわって力をつくす。そういう誠実な人物だった。他人の失敗を咎めることなく、誰にも気づかれないようにして、自分がカヴァーする。
私は彼の近くにいたから、彼のひそかな、しかも綿密な心遣いに気がついたが、小川はいつも、ケッケッケッとカラス天狗のように笑って何も語らなかった。

彼の残した「小川町界隈」を読む。小川と知りあえたことは、自分が生きていてよかったと思えるようなことの一つ。ここに集められた短いエッセイは、どれをとっても何冊かの本が書けそうなくらいの事柄だが、小川は何も書かなかった。
あらためて思う。小川は、私などよりもずっとりっぱな文章家だった、と。