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グレタ・ガルボについて。ガルボほど美しい女はめずらしい。

ガルボのように美貌で、非のうちどころのない美女だっていないわけではない。たとえば、ブリギッテ・ニールセンのように、おなじ北欧のブロンド。長身で、ほんとうの美貌、ととのい過ぎた女優をみると、なぜか笑いたくなる。
「クリスティナ女王」や「椿姫」のガルボを見ると、いつも美人として生きなければならない女優の不幸に感動する。
「ニノチカ」のガルボは違う。原作は、旧ソヴィエトの体制、官僚主義、どうしようもなく硬直したオブスキュランティスムを風刺したものだが、それまで笑ったことのないガルボが不意に笑い出すシーンがよかった。

ガルボは、コメディエンヌとしての素質を欠いていたわけではないが、ひたすら悲劇女優として生きた。やがて、ガルボは去ってしまった。映画だけでなく、アメリカという「現実」からも。

私が、はじめてガルボを見たのは、G・W・パプストの「喜びなき街」だった。第一次大戦の「戦後」の暗い世相を描いた映画だった。私は、太平洋戦争の「戦後」、1945年の夏にこの映画を見た。日本が、まさに「戦後」の悲惨な、暗い世相を見せはじめた時期で、それだけに「喜びなき街」は衝撃的な映画だった。
そして――「喜びなき街」は、私が「戦後」はじめてみた外国映画ではなかったか。

この映画のラスト・シーンに、まだまったく無名のマルレーネ・ディートリヒが出ていて、一瞬、ガルボとすれ違う。これを「発見」した私は、その後、何十年も、あれは、ほんとうにマルレーネ・ディートリヒだったのだろうか、と疑ってきた。
そして、ドイツ映画史のなかで、私の想定した通り、ガルボの「喜びなき街」に、エキストラとして無名のマルレーネ・ディートリヒが出ていたことをつきとめた。
今、考えても、信じられないような「現実」だった。