もう一つ、私の心に残ったことがある。
それは、ある時点で、何かの現象をかなりの確度、ないしは精度をもって総括することの困難さである。
フランス演劇について、原 千代海が書いている。その一節に、
すでにしてジロォドゥは病没し、その遺作「シャイヨの狂女」がジューヴェによって脚光をあびたのは一九四五年であるが、間もなくコポオが死し、デュランが去ると、その後の劇壇に唯一の希望として法灯を掲げていたジューヴェその人さえ、今秋、思いがけなく去って行った。ばてぃは、戦後田舎に引退して、ずっと沈黙を守っている。
原さんがこの原稿を書いたのが、1952年だったことがわかる。
私は、やがて「俳優座」の俳優養成所の講師になった。これも、内村先生のおかげで、おもにアメリカ演劇を勉強しはじめるのだが、自分では演出家になるつもりだった。
しかし、この志は果たせず、もの書きとして生きてきたので、結果として私の目標は大きく変わってしまった。
戦後演劇の小冊子だが、この「新劇手帖」は、 私にとっては、なつかしい本だった。
いろいろなことをかんがえることができた。
たとえば、野崎 韶夫(ロシア演劇研究家)はいう。
ひとりドラマに限らず、オペラ、バレー、オペレッタ、児童のための演劇(中略)、こうした劇場の繁栄は営利や採算に拘束される資本主義社会では決して見られない現象であろう。(中略)劇場が国家・社会の理想と目的に心から同感し、その達成に協同するとき、そして国家・社会が劇場の成立と活動のあらゆる条件を保証するとき、真に高い思想性と芸術性をもつ演劇の開花することを、現代のソヴェート劇場は証明している。
こういう文章を読むと、胸が痛む。
ソヴィエト崩壊後に、ソヴィエト最高のバレリーナ、プリセツカヤは――「私たちは、70年間、きょうふのうちに生きてきました」と語ったが、この声の前に、野崎 韶夫の文章は一瞬にして意味を失うだろうから。
これとは別に私の考えたことの一つ。
現在ではかつてのブルクハルトや、ホイジンガのような文化史を越える様な研究は、いくらでも見つかる。文化という広大な分野を一身にひきうけて、そのうえで、私たちの理解をいっきょにくつがえす研究や、ごく狭い領域に限定して、その研究が、その時代の全貌をあきらかにする、といった研究もめずらしくない。
私は、ここでル・ロワ・ラデュリの仕事を思い浮かべているのだが――それでも、なぜか、ブルクハルトや、ホイジンガのもっていた魅力は少ないように思う。
へんぺんたる小冊子だが、はるかな時代をへだてて、もはや残り少ない私自身の仕事のありようまで考えさせられたのだった。