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ある年の夏、庭の紅葉がなぜか枯れ始めた。
丈の低い紅葉を1本だけ植えてあるのだが、すっかり元気がなくなったのである。

紅葉が弱ってしまった原因は、すぐにわかった。日頃、気にもとめなかったのだが、この紅葉の幹に大きな空洞ができている。地上から1メートルばかり、幹の先、枝が二本に別れている部分に、洞穴の入り口があった。ここに、アリがうごめいている。
アリが巣を作ったらしい。

入り口はせいぜい2センチほどの大きさだが、幹の内部はおそらく大きな空洞になっているらしい。少し観察すると、小さな、黒いアリが、無数にうごめいている。
私は、このアリどもを駆除することにした。

アリ駆除のクスリを地上、紅葉の根元にぐるりと散布する。直径、20センチ。幅は1センチ程度。オカルト映画に出てくる魔除けの円圜(えんかん)のように。
これで、まず、アリの退路を断つ。効果があった。外に出ていたアリどもは、紅葉の幹にもどれなくなって、悪魔のサークルのまわりをぐるぐる歩きまわっている。

いまや、これは「ベルリンの壁」であった。アリ遮断の壁。
私はベルリンの封鎖を命じたスターリンのように、冷酷無残な微笑をうかべて、周章狼狽するアリどもを睥睨したのであった。

つぎに、幹の空洞の入り口からクスリを降りそそいだのである。ジュータン爆撃のように。

巣から出た長いアリの列は、突然の障害物に遮断されて、たちまち算をみだして、大混乱になった。幹をつたって地上に下りたアリたちもおなじで、みるみるうちに、「壁」の内側と外側に、アリの大渋滞が起きた。

私はアリに対するおそろしいホロコーストを決行したのであった。

私がアリの巣めがけて注ぎ込んだのは、粉末のようなクスリだが、一つひとつが微細で透明な結晶体で、巣穴の周囲にみるみるうちに積みあがった。
まるで、北極の氷山のように。
アリたちは、不意に降りかかってきた大災厄にあわてふためき、われがちに巣から逃げようとしたり、触覚がクスリにふれると、急いで穴にもぐり込んだり。大混乱になった。

私は冷酷無残な殺戮者として、圧倒的多数のアリたちを睥睨している。
モスクワから雪崩を打って敗走するナポレオン軍を追尾して、これを殲滅しようとするクトゥゾフのようなまなざしをもって。

巣から飛び出してきたアリたちの大多数は、ただ右往左往するだけだった。
そのなかで、ほんのわずかな数のアリたちが、おそろしい事態を見て取って、穴の周囲に積みあげられた結晶の一粒をかかえあげ、穴の外に投げ落とそうとする。
愚かなヤツばらめ。
私は片頬に残忍な笑みを刻んだ。必死にクスリの結晶を排除しようとするアリどもの行動に軽蔑の眼を向けたのであった。
バカなことを。そんなことをしたところで、途方もない量のクスリの始末がつくはずもない。原発のメルトダウンに、右往左往する人間のように。

だが、その1匹が、必死にクスリを抱きかかえては、穴の外に投げ捨てるのを見て(?)、近くにいたアリが、おなじように、クスリをつかんでは外に投げ出しはじめた。
ほかの大多数は、ただうろうろ走りまわったり、逃げ場をうしなって、そのうちにクスリにやられて動かなくなるのだった。

私は、最初にクスリに挑みかかって、一個々々を、必死に運びだそうとしていたアリを見つづけていた。私はいつしか彼の働きに感動していた。
彼の努力にも係わらず、やっと十数個のクスリを外に投げ落としただけで、彼はあえなく崩れた。
おそらく神経をやられたらしく、穴の近くまで戻ったと思うと、最後の一個にすがりついて、キリキリ舞いをすると、そのまま紅葉の幹からまっさかさまに落ちて行った。彼にとっては千仞(せんじん)の谷にむかって。
このアリの行動は、壮烈、鬼神を哭(な)かしむる戦いぶりであった。私は、このアリの死を悼んだ。

私の戦果で、紅葉の木は元気をとり戻した。アリの巣になっていた樹幹内部のおおきな洞窟は、石膏をとかして流し込んだ。チォルノブイリの原発のように、要塞かトーチカのように固めて、二度と憎ッくきアリどもが潜入できないようにした。
この紅葉は、秋になると、もとのようにみごとに赤い葉を見せてくれた。

私は、ある年の夏――私に対して、最後まで必死に抵抗し、従容として死を選んだアリに哀憫(あいびん)の思いを禁じ得ないのである。